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瀬戸内移住トレーダーは潮風のなかで相場を張る  作者: まる助
第3章「勝てば終わりのはずだった」
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勝てば終わり、ではなくなった

八月が近づいていた。七月の末日。朝五時に起きた。


窓を開けると、空気がすでに暑い。夜の間に冷えきらなかった熱が、朝から残っている。蝉が鳴いている。七月の後半から本格的に始まった。六畳間の窓を開けていると、蝉の声が途切れない。


PCを起動し、米国市場を確認した。小幅安。VIXは微増。特に動く材料はない。


スプレッドシートを開いた。資産の推移を見る。


四月に向島へ来てから、四ヶ月目に入る。損益曲線は緩やかに右肩上がり。大きな勝ちはない。大きな負けもない。セータの積み重ねで、少しずつ増えている。毎月のプレミアム収入が生活費を上回っている。計画通りだった。向島の低い固定費が、この戦略を支えている。


一億までの距離を見る。遠い。遠いが、四月よりは近い。四ヶ月分だけ近づいている。


この数字を見るとき、南里の指はトラックパッドの端を触る。考え込むときの癖だった。


一億に届けば、ここを離れる。そういう計画だった。


ここは再起のための拠点であって、住む場所ではない。固定費が低いから選んだ。静かだから選んだ。余計なものがないから選んだ。用が済めば、出ていく。


そのはずだった。


南里はスプレッドシートを閉じた。コーヒーを淹れた。台所の窓から外が見える。隣の家の屋根。その向こうの空。蝉の声。


近江の家の方から、戸が開く音がした。近江の朝は早い。南里より少し遅い。六時前に起きて、庭の水遣りをして、洗濯物を干す。その音を、南里はもう覚えていた。


覚えるつもりはなかった。聞こえるから覚えた。耳が勝手に覚えていた。


前場の準備を始めた。指数オプションの板を見る。原指数はほぼ横ばい。IVは低い。今日も待つだけの日になりそうだった。


九時、前場が始まった。板を見る。薄い。動かない。


画面を見ながら、昨日のことを考えていた。考えないようにしていたが、浮かんでくる。


近藤の家の水道。メーターボックスの蓋。庭の蛇口から水が出たときの、近藤の顔。近江の「ありがとう」。


先週の片岡の言葉。「また来るなら、それで十分です」。


先々週の森脇の軽トラ。瓦を戻して、樋のゴミを掻き出して、「いいです」と言って帰った男。


どれも大したことではなかった。どれも南里の相場には関係なかった。


だが、頭に残っている。


消そうとすれば消せる。意識の外に押し出せば、板の数字に集中できる。南里はそうしてきた。余計なものを入れない。ノイズを排除する。それがトレーダーの基本だった。


排除できていた。四月は。五月も。六月の途中までは。


七月の終わりに来て、排除がうまくいかなくなっていた。


---


十一時半、前場が引けた。片岡の店へ行った。


日替わりは白身魚の煮つけだった。食べた。味が染みていた。小鉢はなすの煮浸しとポテトサラダ。夏の惣菜だった。


食べ終えて、会計をしようとしたとき、片岡が言った。


「来月、三日間くらい休むかもしれないです」


「盆ですか」


「いえ、仕入れ先の都合で。魚が入らん日が続きそうなんで」


「そうですか」


「張り紙は出しますけど、一応言っとこうと思って」


南里は頷いた。


片岡はレジを打ちながら、続けた。


「来る前に分かった方がええなら、店の番号、渡しときます」


南里は一瞬だけ止まった。


「……そこまでしてもらわなくても」


「大したことじゃないです。休みの日に来てもらっても悪いんで。こっちから分かった時点で電話もできますし、番号だけ書いといてもらえますか」


片岡はレジ横のメモ帳を一枚ちぎって、番号を書いた。


「出られんときもありますけど、朝ならだいたい店におるんで」


南里は紙を受け取った。片岡の手元を一度見てから、空いたところに自分の番号を書いた。


「分かりました」


片岡はその紙を受け取った。すぐには伝票の下に入れず、書かれた番号を一度だけ見てから、静かに挟んだ。



店を出た。車に乗った。


一応言っておく。それだけでも、南里が来る前提で言っている。来なければ言う必要がない。そこに番号まで加わった。休みの連絡のための段取りだった。それ以上の意味はないはずだった。


片岡は、南里が来ることを前提にしていた。それは客として当然のことだった。常連に休みを伝える。無駄足を踏ませないために番号を預かる。それだけのことだった。


それだけのことが、少し引っかかった。


---


古家に戻り、後場を見た。指数は微動。IVは横ばい。ポジションに変化なし。セータが効いている。


十五時十五分、引けた。損益は微増。


ノートに振り返りを書いた。書きながら、ペンが止まった。


勝てば終わり。


それがこの島に来たときの前提だった。一億に届けば、ここを離れる。離れて、次の場所を探す。もう少し環境のいい場所。もう少し回線の速い場所。あるいは東京に戻るかもしれない。


その計画は変わっていない。一億への執着も消えていない。毎朝スプレッドシートを開いて、距離を確認している。


だが、勝ったらここを離れる、ということを想像したとき、前より少し引っかかるものがあった。


近江の家の戸の音。森脇の軽トラのエンジン音。片岡の「日替わりですか」。近藤の安堵した顔。排水溝の泥。屋根の瓦。回覧板の順番。


切ればいい。ポジションを閉じるように、ここでの接点を閉じればいい。用が済んだら引き払う。それだけだ。


だが、ポジションを閉じるのは画面上の操作だった。ここでの接点を閉じるのは、顔の見える相手との話だった。


蛇口をひねる手と、エンターキーを押す手は、同じ手だった。だが閉じるときの手応えは、たぶん違う。


南里はノートを閉じた。


まだ何も決めていない。一億にはまだ遠い。ここを離れる日は来ていない。今の段階で考える必要はない。


必要はない。だが、前なら考えもしなかった。勝ったら出ていく。それだけだった。それ以外のことは想像する必要がなかった。


今は少しだけ、想像してしまう。その分だけ、前提が揺らいでいる。


窓の外は暮れかけていた。七月の終わりの夕方は、まだ明るい。空が赤くならないまま、ゆっくり暗くなっていく。蝉が鳴いている。夜になれば止む。明日の朝、また鳴り始める。


南里はまだここにいる。明日もここにいる。それだけは確かだった。


去れば済む場所のはずなのに、少しだけ切りにくくなっていた。

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