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瀬戸内移住トレーダーは潮風のなかで相場を張る  作者: まる助
第3章「勝てば終わりのはずだった」
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一歩、出てしまった

七月の下旬に入っていた。梅雨明けの暑さが本格化している。朝から空気が重い。窓を開けても風が弱く、六畳間に熱が溜まる。


前場を見ていた。IVは低い。板は薄い。ストラングルのセータが効いている。触る必要のない日だった。


十時過ぎ、近江が来た。


「南里さん」


引き戸の向こうから声がした。いつもの声だが、少しだけ調子が違った。早い。


「はい」


「ちょっと来てくれん? 裏の近藤さんとこで水が出んようになったんよ」


「水、ですか」


「台所の水道が出んくなったんよ。近藤さん一人じゃけえ、見てくれる人がおらんのよ」


「それは水道屋さんに」


「呼んどるよ。でも今日は来れんて。明日の午前じゃて。それまで水が出んのよ」


南里は画面を見た。板は動いていない。近江の声は待っている。


「僕が見ても分かるかどうか」


「見てくれるだけでもええけえ」


南里は立ち上がった。スニーカーを履いて外に出た。


近江について裏の道を歩いた。二軒隣。小さな平屋。近藤という表札。玄関が開いていた。


中に入ると、年配の女性がいた。八十代だろうか。小柄で、腰が曲がっている。台所の前に立っていた。


「ああ、来てくれたん。ごめんねえ」


「近藤さん、こちらが南里さん」


「はじめまして」


南里は台所を見た。蛇口をひねった。出ない。水圧がない。


「いつからですか」


「朝からよ。朝は少し出とったんじゃけど、だんだん弱くなって、十時くらいから出んくなった」


南里はシンクの下を開けた。配管を見る。古い鉄管。止水栓がある。バルブをひねってみた。動く。全開になっている。


「外の元栓はどこですか」


「分からんのよ」


南里は外に出た。家の周りを見た。メーターボックスを探す。家の横の地面に蓋がある。開けた。メーターがある。元栓も見える。バルブを確認した。開いている。メーターの針は動いていない。水が流れていない。


配管のどこかで詰まっているか、あるいは管のどこかから漏れている。南里に直せる範囲ではなかった。


だが、一つだけ気づいた。メーターボックスの横に、もう一つ古い配管の接続点がある。庭の水栓。そちらの蛇口をひねってみた。


水が出た。


勢いは弱いが、出ている。台所への配管が詰まっているだけで、庭の水栓は生きていた。


南里は家の中に戻った。


「台所の方は配管が詰まっているか、途中で何か起きていると思います。水道屋さんに見てもらうしかないです。ただ、庭の水栓は出ます。明日まではそちらを使えば水は確保できます」


近藤は安堵した顔をした。


「ほうね。庭のがあったんね。忘れとったわ」


「バケツか何かで台所に運べば、煮炊きはできると思います」


近江が頷いた。


「そうじゃね。バケツ持ってくるわ。南里さん、ありがとう」


南里は「いえ」とだけ言った。


近江が近藤の家に残り、南里は古家に戻った。前場はまだ続いていた。板を見る。動いていない。十分ほどの外出だった。


---


昼、片岡の店で食事を取った。食べながら、さっきのことを考えていた。


考えるほどのことではなかった。メーターボックスを開けて、蛇口をひねっただけだ。構造を見て、原因を切り分けて、使える経路を探した。トレーダーの思考と変わらない。ポジションが一つ死んでいるなら、別の経路を探す。メインの配管がだめなら、庭の水栓を使う。ヘッジが効かなくなったら、別のストライクで建て直す。それだけだった。


だが、なぜ自分が行ったのか。


近江に言われたからだ。言われなければ行っていない。隣の家の水道が止まっていても、知らなければ知らないままだった。


知ってしまった。見てしまった。見たら、構造が見えてしまった。見えたら、使える経路を言ってしまった。


それだけのことだった。それだけのことのはずだった。


食べ終えて、店を出た。


---


後場を見た。動きはなかった。十五時十五分、引けた。微増。


振り返りをして、ノートを閉じた。


窓の外を見た。暑い午後だった。近藤の家の方から、水を運ぶ音が聞こえた気がした。気のせいかもしれない。


十七時頃、近江が来た。


「南里さん、近藤さんが喜んどったよ。庭の水でお茶も沸かせたて」


「よかったです」


「明日、水道屋さんが来るけえ。直ると思うよ」


「そうですか」


近江はそれだけ言って帰った。大げさな感謝ではなかった。報告だった。「あなたが手を貸してくれたから、その後こうなった」という事実の報告。それだけだった。


南里は画面に戻った。夜間立会の準備を軽く確認する。米国市場の指標発表予定をチェックする。明日は消費者物価指数の発表がある。数字次第でIVが動くかもしれない。


やることをやっていた。いつも通りだった。


だが、頭の隅に、メーターボックスの蓋を開けたときの感覚が残っていた。地面に膝をつけて、古い配管を覗き込んだ。手が土で汚れた。あの感覚は、排水溝を掃除したときと似ていた。


相場の判断とは関係のない、物理的な手応え。自分の手で触って、見て、判断して、結果が目の前で出る。画面の数字とは違う。数字は遅延する。板の向こうに人はいるが、顔は見えない。


近藤の顔は見えた。安堵した顔だった。それだけのことだった。


南里は椅子にもたれた。


関わるつもりはなかった。この島の人の水道が止まろうが、自分には関係がない。家賃を払って、静かに相場を張って、一億を積み上げる。それが計画だった。


だが、二軒隣で水が出なくなったとき、呼ばれたら行った。行って、見て、蛇口をひねった。


善意ではなかった。義務でもなかった。ただ、構造が見えてしまう人間が、見える場所にいた。それだけだった。


それだけのことが、外部者のままでいるには、一歩出すぎていた。

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