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瀬戸内移住トレーダーは潮風のなかで相場を張る  作者: まる助
第3章「勝てば終わりのはずだった」
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13/25

また来るなら、それで十分です

七月の半ば。梅雨が明けた。


朝から空が広い。雲が少ない。窓を開けると、湿気はあるが風が通る。蝉はまだ本格的には鳴いていない。もう少し暑くなれば始まるだろう。


前場はいつも通りだった。IVは低水準。板は薄い。ポジションに変化はない。ストラングルの売りはセータが毎日少しずつ効いている。プレミアムが一日分ずつ減っていく。触る必要のない日が続いている。こういう日が続くのが、一番安定して利益が出る。だが一番退屈でもあった。


十一時半、前場が引けた。南里は財布を取り、車に乗った。


片岡の店へ向かった。何回目かは数えていない。数えなくなっていた。


店に着いた。暖簾が出ている。今日はやっている。入った。


カウンターに先客が一人。年配の女性。見覚えがあった。前にも同じ席にいた気がする。常連だろう。


南里はカウンターの端に座った。片岡は厨房にいた。目が合った。


「日替わりですか」


「はい」


「今日は鰺のフライです」


注文のやり取りが短くなっている。最初の頃は片岡が品書きを確認していた。今は「日替わりですか」の一言で済む。南里がそれ以外を頼んだことがないからだった。


待っている間、カウンター越しに厨房を見ていた。片岡は鰺を揚げている。油の音がする。隣の鍋で味噌汁が温まっている。小鉢はバットに並んでいる。今日はきんぴらと酢の物。


先客の女性が会計をした。片岡と短い会話をしている。


「今日もおいしかったよ」


「ありがとうございます」


「夕方にまた惣菜取りに来るけえね」


「はい、切り干し大根とひじき、取っときます」


女性が出ていった。店内に南里だけが残った。


定食が出てきた。鰺のフライ、赤出汁の味噌汁、きんぴら、酢の物、白飯。いつもの形だった。いつもの量だった。


食べ始めた。鰺は揚げたてで、衣が軽い。中の身がふっくらしている。付け合わせのキャベツは水にさらしてあるのだろう、歯触りがいい。


「忙しそうですね」


片岡が言った。南里の方を見ていた。


「忙しい、というのとは少し違います」


「そうですか」


「忙しいというより、外したくないだけです」


「何をです」


南里は少し間を置いた。


「……いろいろです」


片岡はそれ以上聞かなかった。カウンターを拭いている。南里は食べ続けた。


食べ終えて、味噌汁を飲み干した。箸を置いた。


「ごちそうさまでした」


会計をしている間に、南里はまた余計なことを言いそうになった。この店の定食が、生活のリズムの中に入っていること。昼にここへ来ることが、前場と後場の間の区切りになっていること。


言わなかった。言う必要がなかった。


片岡が釣りを渡しながら言った。


「また来るなら、それで十分です」


南里は一瞬止まった。


片岡は笑っていなかった。営業の言葉でもなかった。ただそう言っただけだった。


「はい」


南里はそれだけ返して、店を出た。


---


車に乗った。エンジンをかけた。動かなかった。


片岡の言葉が頭に残っていた。


また来るなら、それで十分です。


何が十分なのか。客として来ることが十分ということだろう。それ以上の意味はないはずだった。常連が通う、店が開いている。その反復が店を支えている。片岡が前に言っていたことと同じだった。


だが、受け取り方が少し変わっていた。


東京にいた頃、通う店はなかった。昼は社食かコンビニで、夜はコンビニ弁当か冷凍食品で済ませていた。外食はしたが、通う場所はなかった。行く場所はあっても、顔を覚えられる場所はなかった。相場が閉じれば一日が終わり、相場が開けば一日が始まる。食事はその合間の燃料補給でしかなかった。


向島に来て三ヶ月近く。片岡の店に何度来たか。十回は超えている。入れば「日替わりですか」と聞かれる。名前は呼ばれないが、顔は覚えられている。注文を確認されなくなっている。


それは、反復だった。


反復は、南里の言葉に置き換えれば、ポジションの継続だった。一度組んだポジションを維持し続ける。毎日セータが効く。大きな動きがなくても、時間が味方になる。その積み重ねで利益を取る。


だが、店に通うことの反復は、ポジションの維持とは違った。ポジションはいつでも閉じられる。利確も損切りもできる。だが、顔を覚えられた店を切るのは、ポジションを閉じるのとは少し違う。


違うとは思いたくなかった。


車を出した。古家へ戻った。後場の準備をする。


---


後場はいつも通りだった。指数は小動き。IVは横ばい。ポジションに変化なし。


十五時十五分、引けた。微増。何も起きない日の積み重ね。


振り返りをノートに書いた。損益、ポジションの状態、IVの推移。いつもと同じフォーマット。いつもと同じ量。


ノートを閉じた。


台所で水を飲んだ。窓の外は明るい。七月の日は長い。十八時を過ぎてもまだ光が残っている。


明日も前場を見て、昼に片岡の店へ行くだろう。行かない理由がない。あの店は安くて、近くて、味がいい。効率の問題だった。


効率の問題だった。そのはずだった。


だが効率だけで説明するなら、弁当を買って帰る方が早い。車で往復する時間がいらない。待つ時間もいらない。食べる場所も選ばなくていい。


それでも店へ行く。座って、出されたものを食べて、会計をして、出る。そのことに、効率とは別の何かが少しだけ混じり始めている。


認めたくはなかった。


効率だけで説明できるはずなのに、少しだけ消えない残りものがあった。

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