梯子を降りた森脇の手
晴れ間が出た。梅雨明けはまだだが、雲の切れ目から光が落ちて、地面が白く乾いていく。
午前中に森脇から電話があった。
「先日の瓦の件、今日見に行けるんですけど、よろしいですか。一時間くらいで済むと思います」
「何時ですか」
「十時半くらいから」
前場の途中だった。だがIVは低水準で、今日は動く気配がない。板を見ているだけの日だった。
「分かりました」
十時二十分、森脇の軽トラが止まった。荷台に梯子と工具箱。助手席にブルーシートの束。
南里は玄関に出た。森脇は荷台から道具を降ろしている。動きに無駄がなかった。何をどこに置くか、体が覚えている。
「前回コーキングしたところ、雨でどうでしたか」
「漏ってはいないです」
「ほうですか。じゃあ持っとりますね。今日は隣の瓦を確認して、ずれとったら戻します」
森脇が梯子を立てた。南里は六畳間に戻った。板を見る。動いていない。屋根の上で瓦を動かす音がする。
十五分ほどで、森脇が降りてきた。靴を脱いで上がり、写真を見せた。スマホの画面に瓦の接写。
「ここ、少しずれとったんで戻しました。釘が効いとるんで、大丈夫です。ただ、この列の端の方がもう一枚怪しいんで、次に来たとき見ます」
「ありがとうございます」
「あと、樋のところにゴミが溜まっとりました。掻き出しときました」
「すみません、気づいてなかったです」
「屋根の上は見えんですけえ。気にせんでください」
森脇が道具を片づけている間、南里は麦茶を出した。前回と同じだった。森脇は立ったまま飲んだ。
「今日はこのあと、どこか行くんですか」
聞くつもりはなかった。出た。
「ええ。向かいの中田さんのとこの給湯器がちょっと調子悪くて。それと、午後は因島の方で外壁の下見があります」
「毎日そういう感じですか」
「だいたい。暇な日はないですね。梅雨の時期は特に」
森脇は淡々と言った。自慢ではなかった。事実だった。
「この辺は古い家が多いんで、どこかしら何かあるんです。大きい工事は業者に回しますけど、小さいのは僕が見る方が早いんで」
「一人でやっているんですか」
「ええ。一人です。人を入れるほどの仕事量じゃないですし、一人の方が段取りが楽なんです」
南里は頷いた。一人で回す。段取りで効率を出す。規模を大きくしない。片岡の店と同じ理屈だった。
森脇が麦茶を飲み終え、コップを返した。
「じゃあ、行きます。何かあったら連絡ください」
「はい。今日はいくらですか」
「今日は瓦を戻しただけなんで、いいです。前回の続きみたいなもんですけえ」
森脇は軽トラに乗り、走っていった。
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南里は六畳間に戻った。板を見る。何も動いていない。前場の残りはあと三十分。
椅子にもたれた。森脇のことを考えていた。考えるつもりはなかったが、頭に残っていた。
森脇は三十代半ばだと聞いた。南里と同世代か、少し下。大きく稼いでいるわけではないだろう。軽トラ一台と道具箱。仕事場は他人の家の屋根や壁や給湯器。派手さはない。
だが、森脇には回す場所があった。
この島で、あの男は機能している。中田さんの給湯器を見て、因島の外壁を下見して、南里の屋根の瓦を直す。どれも小さい。どれも地味だ。だが全部合わさると、森脇はこの土地の中に自分の位置を持っている。
位置。
南里は自分の位置を考えた。六畳間に一人。モニター二台。板を見ている。ポジションはある。損益はある。だが、誰の何を回しているわけでもない。自分の資産を動かしているだけだった。
会社にいた頃は、位置があった。部署があり、役割があり、隣にアナリストがいて、上に上司がいた。判断の結果は部署の成績に反映された。良くも悪くも、組織の中に自分がいた。
辞めた。位置は消えた。
向島に来た。新しい位置を作りに来たわけではない。安い場所で、静かに、一億を積み上げるために来た。位置など要らなかった。
要らないはずだった。
だが森脇を見ていると、妙なものが引っかかった。あの男が持っているものの形が、南里の中で輪郭を持ってしまった。
技術。段取り。顔の見える仕事。呼ばれれば行く場所がある。終われば次がある。一つひとつは小さいが、途切れない。途切れないから、あの男の生活はあの男の足元にある。
南里の生活は、足元にあるだろうか。
六畳間はある。PCはある。回線はある。ポジションはある。だがそれは、どこにでも持っていけるものだった。向島でなくてもいい。別の安い場所があれば、そこでもいい。この家にいる理由は、家賃と回線と静けさであって、この土地との結びつきではない。
結びつきがないことが強みだと思っていた。身軽であること。縛られないこと。いつでも切れること。
だが「いつでも切れる」は、裏を返せば「どこにも繋がっていない」だった。
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昼、片岡の店へ行った。日替わりは鶏の照り焼きだった。食べながら、さっきの思考を振り払おうとした。
比べてどうする。森脇は森脇で、自分は自分だ。仕事の形が違う。生活の形が違う。比較して出てくるものに意味はない。
トレーダーは比較しない。自分のポジションを管理する。他人のポジションは関係ない。市場で他人が何を持っているかは、自分の損益に影響しない。
だが、ここは市場ではなかった。
食べ終えて、会計をした。片岡は忙しそうだった。「ごちそうさまでした」とだけ言って出た。
車に乗り、古家へ戻った。後場の準備をする。板を開く。指数は微動。IVは低い。ストラングルのセータが今日も少しだけ削っている。時間が味方になっている。
時間が味方になっている。そのはずだった。
だが時間が経つということは、この場所にいる時間も長くなるということだった。長くいれば、見えるものが増える。見えるものが増えれば、比べてしまう。比べたくなくても。
後場が引けた。損益は微増。問題のない一日だった。
ノートを閉じた。窓の外を見た。七月の午後の光は長い。まだ明るい。
森脇は今頃、因島の外壁を見ているのだろうか。あるいはもう終えて、軽トラで帰っているのだろうか。どちらでもいいことだった。どちらでもいいはずだった。
あの男は大きく勝っているわけではないのに、何かをちゃんと持っていた。




