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猿寺の凍れる夏  作者: 孔雀丸


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第5話 追えない背中

第4話では、斬牙が檀家の老人・蔵田を襲い、慎悟たちの前から山奥へと姿を消しました。


追いたくても追えない。刀を握れても、振るえる身体ではない。


第5話は、そんな慎悟の「もどかしさ」から始まります。


負傷という現実、仲間の言葉、そして老猿が見つめ続ける無縁墓――。


前へ出られない主人公が、それでも見なければならないものとは何か。


どうぞ最後までお付き合いください。

 慎悟(しんご)は、握った拳をほどく代わりに、地面を蹴っていた。

 考えるより先に、身体が動いていた。

 山道の奥で、木の枝が大きく揺れた。

 夏草を薙ぎ倒すような足音が遠ざかっていく。斬牙(ざんが)の逃げた方向だ。

「待て、慎悟!」

 蓮(れん)の声が背中に飛んだが、慎悟は止まらない。脇腹の傷が鈍く痛む。それでも足を止める理由にはならなかった。

 夕暮れの山道は、木々の隙間から差し込む赤い西日で斑模様に染まっている。踏み荒らされた下草。折れた枝。斬牙が通った痕跡は、まだはっきりと残っていた。

「折れた枝、まだ新しい。追いつける」

 蓮が息を切らしながら追いついてくる。翼(つばさ)と友紀(ゆき)、南海(みなみ)も後に続いた。斬牙の姿は見えないが、遠くでまだ枝が揺れている。距離はそう開いていない。

 慎悟は前を見据えたまま、頭の中で算段を組み立てていた。

 俺と友紀と蓮、それに翔一(しょういち)が来れば、追い詰められる。

 今なら――。

「俺が追う。友紀と蓮、それから翔一が来てくれれば――」

 翔一が上空から位置を把握する。蓮が地形を読む。友紀が前へ出て、自分が本命の一撃を放つ。

 悪くない布陣だ。

「いけません」

 背後から、押し殺した声が割り込んだ。

 振り返ると、寿蒙(じゅもう)が息を切らしながら立っていた。蔵田(くらた)の容体が落ち着いたのを見届け、歩美(あゆみ)と莉奈(りな)に後を任せて追ってきたのだろう。感情的な響きはない。ただ事実を並べるように、住職は続けた。

「西の空を見てください」

 赤く染まった空は、すでに橙から紫へ移り変わろうとしている。山の中はすでに影が濃く、木々の間には夜の気配が忍び寄っていた。

「この山は、昼でも足場が悪いのです。夜になれば、土地勘のある者でも迷います」

 慎悟は反論しようとした。だが寿蒙はそれを制するように、言葉を続けた。

「それに、斬牙が単純に逃げているとは限りません」

「……待ち伏せ、ですか」

「ええ」

 寿蒙は、蔵田を斬った鉤爪の傷を思い出すように、目を伏せた。

「あの鉤爪です。木々に隠れ、視界の悪い場所で待ち構えられれば、こちらが先に気づけるとは限りません」

 蓮も同意するように頷いた。

「地形を選べるのは向こうだ。こっちは後追いになる。暗くなれば、痕跡も読めなくなる」

 蓮の声には焦りがない。ただ状況を淡々と積み上げているだけだった。だからこそ、その言葉には重みがあった。

 慎悟はそれでも、山の奥から目を離さなかった。

「だったら、俺だけでも行く」

 その一言に、友紀の表情が変わった。

 慎悟は一歩踏み出そうとした。だがその瞬間、脇腹に鋭い痛みが走った。

 まるで、焼けた鉄線を肉の内側から引き抜かれるような感覚だった。悪路漢(あくろかん)の刀――松影(まつかげ)によって刻まれた古傷。表面は塞がっているはずなのに、内側には今も鬼気が絡みついている。

 慎悟は膝をついた。

「慎悟くん!」

 南海がすぐに支える。友紀も駆け寄り、兄の肩を掴んだ。

「平気だ……これくらい」

 そう言って立ち上がろうとする。だが、傷がそれを許さなかった。膝が震え、身体が言うことを聞かない。

 友紀の声が、低く硬くなった。

「いい加減にしてよ、兄ちゃん」

「友紀……」

「兄ちゃんは、自分が動けないと全部終わると思ってる」

 慎悟は口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。

「思ってるよ」

 友紀は間を置かず言い切った。

「自分が斬牙を追わなきゃ駄目。自分が前に出なきゃ駄目。自分が戦わなきゃ、みんなが負ける。ずっとそう思ってる」

「……そんなこと」

「じゃあ、なんでそんな身体でも立とうとするの?」

 慎悟は答えられなかった。

 友紀は唇を一度固く結び、それからゆっくりと開いた。握った拳の先が、わずかに震えている。兄を睨む目は強かったが、それだけではなかった。視線の奥に、もう一つ別の色が沈んでいる。

 南海が慎悟の肩を支えたまま、静かに言った。

「慎悟くん」

 その声には、友紀のような鋭さはない。ただ、まっすぐに問いかける響きがあった。

「慎悟くんが倒れたら、その後を誰が指揮するの?」

 慎悟は答えない。

「斬牙を追いかけて、それで慎悟くんが動けなくなったら……次に斬牙が寺を襲ってきた時は?」

 沈黙が落ちる。蝉の声だけが、山に響いていた。

「私たちは、慎悟くんが戦えないと何もできないの?」

 その一言に、慎悟は喉の奥が詰まるのを感じた。

 すぐには言葉が出てこない。友紀を見る。南海を見る。少し離れた場所で成り行きを見守っている蓮や翼を見る。これまで自分が守ろうとしてきた仲間たち。同時に、何度も並んで戦ってきた仲間たちでもある。

「……違う」

 ようやく絞り出した声は、かすれていた。

「じゃあ、私たちを信じて」

 南海の言葉に、慎悟は何も返せなかった。

 頭では分かっている。理屈は正しい。自分が無理をして倒れれば、次の襲撃に対応できる者がいなくなる。

 それでも、拳を握る手のひらに爪が食い込んでいた。今、この瞬間に斬牙を止めなければ、また誰かが傷つく気がする。その感覚は、理屈で消えるものではなかった。

 慎悟は、脇腹を押さえたまま、ただ小さく頷いた。

 その間にも、蓮は冷静に動いていた。斬牙が逃げた方向へ視線を向け、痕跡を目で追う。

「北西方向だな」

 手帳を取り出し、素早く記す。

「沢沿いを登ってる。途中から尾根側へ変えてる」

 今すぐ追わなくても、明日以降にたどれるよう痕跡を記録しておく。それが蓮のやり方だった。

 翼も動いていた。数枚の御札を取り出し、山道、沢、尾根の三方向へ向かって放つ。札は木の幹に貼りつき、淡い光を纏って沈黙した。

「強い鬼気が近づけば、これが反応します」

 翼は眼鏡の位置を直しながら、慎悟の方を見た。

「追跡を止めることと、何もしないことは、同じではありません」

 その言葉は、慎悟に向けられたものだった。戦う以外にもできることがある。慎悟はそれを、頭の芯で理解し始めていた。

 友紀が、兄へ手を差し出した。

「帰るよ、兄ちゃん」

 慎悟はすぐには取らなかった。もう一度、山の奥へ目をやる。木々は静まり返り、斬牙の気配はどこにも感じられない。

 風が吹き抜け、蝉の声がわずかに途切れる。夕暮れの色が、いよいよ濃くなっていた。

 慎悟は拳を握った。

「……分かった」

 追跡を断念する。だが、その声に力はなかった。胸に残るのは、逃がしたという感覚だけだ。もし自分が万全な身体だったら。もっと早くこの山へ来ていたら。蔵田が斬られる前に、この場所へ辿り着けていたら。

 考えても仕方のないことを、慎悟はいつまでも頭の中で繰り返していた。それが良い癖なのか悪い癖なのか、本人にもまだ分からない。

 友紀の手を取り、ゆっくりと立ち上がる。傷の痛みは変わらず疼いていたが、南海に支えられながら、なんとか自分の足で立った。

 遅れて、健太(けんた)と綾実(あやみ)、美奈子(みなこ)が追いついてきた。蔵田の容体が落ち着いたのを見て、歩美たちと別れてきたのだろう。

 ◇

 その時、小さな鳴き声が聞こえた。

 前話で歩美と莉奈が治療した子猿だった。茂みの向こうから姿を現し、少し離れた場所にいる老猿のもとへ駆け寄っていく。老猿は鼻先を近づけ、子猿の傷口や身体を丁寧に確認した。

「ちゃんと家族のところへ戻れたんだ」

 歩美が小さく微笑む。張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。

 だが、慎悟はその光景の中に、別の違和感を覚えた。

 老猿の視線が、こちらを向いている。ただの動物の観察とは違う、何かを見定めるような目だった。

 慎悟と老猿の視線が、数秒重なる。

 やがて老猿は、ゆっくりと背を向けた。子猿を連れ、墓地の方へと歩いていく。向かった先は、最奥にある古い無縁墓だった。

 老猿がその前で足を止め、頭を下げる。一度。二度。子猿もその隣に座り、じっと動かなくなった。

 夕暮れの墓地に、二匹の猿と古びた墓石だけが取り残されている。不気味さよりも、説明のつかない違和感が、その場を包んでいた。

「また……あのお墓」

 綾実が呟く。

「偶然にしては、行動が一貫しすぎていますね」

 翼の声にも、微かな緊張が滲んでいる。

 慎悟は脇腹を押さえながら、ゆっくりと墓地の方へ足を向けた。今度は斬牙を追うためではない。あの無縁墓を、確かめるためだった。

 猿たちが歩美の札を見つめていたこと。老猿が繰り返し無縁墓へ頭を下げていたこと。そして今、猿たちが自分の身を挺してまで、斬牙から蔵田と仲間を守ろうとしたこと。ばらばらだった断片が、慎悟の頭の中で少しずつ形を結び始めていた。

「……こいつら」

 慎悟は無縁墓を見つめたまま、小さく呟いた。

「何か知ってるんじゃないか?」

 その言葉を、寿蒙に向ける。

 寿蒙の表情が、一瞬だけ動いた。慎悟はそれを見逃さなかった。だが住職は何も答えない。「気のせいでしょう」と否定することもしない。ただ黙って、無縁墓を見つめる老猿の背中を見ているだけだった。

 その沈黙自体が、何よりも雄弁な答えのように思えた。

 夕暮れの鐘の音が、山の斜面を伝って響いてくる。本堂の方角から聞こえるその音は、傾いていく光とともに、墓地全体をゆっくりと覆っていった。

 老猿は、なおも無縁墓へ頭を下げ続けている。

 慎悟は痛む傷を堪えながら、その光景をじっと見つめていた。

 斬牙の背中は、追えなかった。悪路漢の傷が、身体の限界を突きつけてきた。友紀と南海の言葉が、これまで信じてきた自分のあり方に、初めて小さな亀裂を入れた。

 それでも今、目の前にあるのは、別の追うべき謎だった。

 猿たちが見ている、回復札。

 老猿が頭を下げ続ける、無縁墓。

 そして、何かを知りながら語らない、住職の沈黙。

 慎悟は、夕暮れに沈んでいく無縁墓を、いつまでも見つめていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


慎悟が斬牙を追えなかったこと、それ自体はこの章の「敗北」ではありません。


友紀と南海の言葉が示したのは、「前線に立てない自分」を、慎悟自身がどう受け入れていくかという課題でした。


そしてもう一つ。


老猿が繰り返し頭を下げる無縁墓、猿たちが見つめる回復札、そして寿蒙の沈黙。


断片だったものが、少しずつ輪郭を持ち始めています。


次話「守るための夕食」では、山での緊張から一転、宿坊での夕食シーンをお届けします。


事件の直後だからこそ生まれる、日常のかけがえのなさ。


そして本堂での訓練を通じて、十彩獣団それぞれの役割が、静かに動き始めます。


次回もどうぞお楽しみに。


なろう仕様(改行多め・字下げなし)で書いてあります。他の話数分もまとめて作成する場合や、AI使用の注記を後書きに含める定型文が必要な場合はお申し付けください。

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