第4話 猿の悲鳴
お待たせしました。第4話「猿の悲鳴」をお届けします。
前話では、寿満寺の墓地で老猿が無縁墓へ頭を下げ続ける不穏な光景と、歩美の回復札だけを見つめる猿たちの視線が描かれました。
その違和感の正体が、今回、最悪の形で姿を現します。
山の奥から響いた悲鳴。
血を流して逃げてきた小さな命。
そして、覇竜十傑に選ばれなかったことへの焦りを、残虐さで埋めようとする鬼・斬牙。
今回は、傷ついた者へどう向き合うかという一点で、歩美と莉奈、二人の回復札使いの"違い"が初めて浮き彫りになる回でもあります。
力があるだけでは、届かない距離がある。
そのことを、莉奈は静かに証明します。
なお本話には、動物および人間への暴力描写が含まれます。
苦手な方はご注意のうえお読みください。
それでは、第4話「猿の悲鳴」をどうぞ。
三度目の悲鳴の余韻が、まだ耳に残っていた。
無縁墓を離れてからも、綾実は何度か後ろを振り返った。
老猿はまだ、同じ場所で頭を下げ続けている。
石の表面はほとんど文字が読めないほど風化していた。
それでも老猿は、まるで誰かに詫びるように、あるいは誰かを呼ぶように、額を地面へ近づけていた。
「......あの猿、何をしてるんだろう」
綾実がつぶやく。
慎悟も同じ違和感を抱えていた。
猿たちは人間を見ていなかった。
見ていたのは、歩美が持つ黄色い回復札だった。
「気になるなら、後で寿蒙さんに聞いてみればいい」
蓮が短く言う。
考え込む前に、答えを持っている人間へ聞く。
いつもの合理的な判断だった。
境内へ戻る石段の途中、南海が慎悟の顔を覗き込んだ。
「慎悟くん、そんなに考え込んだら、また傷が痛くなるよ」
「考えるだけで傷が開くなら、俺はとっくに入院してる」
慎悟は軽く笑って返した。
だが脇腹の奥で、鈍い熱が疼いている。
友紀がすぐ隣から兄の背中を軽く叩いた。
「笑ってごまかすな」
「ごまかしてない」
「ごまかしてる。兄ちゃんのその顔、南海と付き合う前から知ってるんだから」
友紀の口調は軽い。
だがその目は、兄の顔色を確かめるように動いていた。
三人のやり取りに、後ろを歩く健太が小さく笑う。
翔一も茶化そうとして、口を開きかけた。
その瞬間だった。
山の奥から、甲高い悲鳴が響いた。
人間の声ではない。
猿の悲鳴。
一瞬で場の空気が変わった。
木々にいた猿たちが一斉に鳴き始める。
枝が激しく揺れ、鳥が羽音を立てて飛び立つ。
寿蒙の顔から、それまでの穏やかな表情が消えていた。
「......この声は」
蓮が山の方角へ視線を向ける。
「近い」
翼も目を細め、周囲の霊気を探るように意識を集中させた。
「普通の獣同士の争いじゃないかもしれません」
慎悟が身構えた瞬間、境内へ続く茂みが激しく揺れた。
◇
飛び出してきたのは、小さなニホンザルだった。
走るというより、転がり落ちてくるようだった。
足がもつれ、何度も体勢を崩す。
それでも後ろから何かに追われているように、必死で前へ進もうとしていた。
首。
肩。
前脚。
そのどこからも血が流れていた。
地面に、赤い点が続いていく。
「あの子......!」
美奈子が息を呑む。
彼女の表情が、痛みをこらえるように歪んだ。
「すごく怖がってる......近づいてくるもの、全部が怖いって......」
歩美が反射的に駆け寄ろうとする。
「待って。今、治すから」
だがその声に応えたのは、威嚇の声だった。
「キィッ!」
子猿が歯を剥く。
小さな前脚を振り、必死に威嚇の姿勢を取る。
近づくな。
その一心で、傷ついた体を無理に持ち上げていた。
歩美は思わず足を止めた。
「怖がってる......」
だが目の前で拒絶されると、胸の奥が締めつけられる。
歩美の力があれば、あの傷はすぐに塞げる。
けれど、治療を受け入れられない相手には、その力は届かない。
美奈子が静かに補足する。
「人間そのものが怖いんじゃないと思う。今は、動くもの全部が敵に見えてるんだよ」
歩美は札を握ったまま、動けなかった。
手を伸ばすだけでは、この距離は縮まらない。
◇
前へ出たのは、莉奈だった。
すぐには近づかない。
子猿から数メートル離れた場所で足を止め、ゆっくりと膝をつく。
さらに体を低くし、視線を子猿より下へ落とした。
手は伸ばさない。
触ろうともしない。
周囲の仲間も、莉奈が何をしようとしているのか、黙って見守っていた。
「大丈夫。触らないからね」
莉奈の声は静かだった。
子猿はまだ歯を剥いている。
莉奈はそれを否定しなかった。
「怖かったんだよね」
責める言葉でも、なだめる言葉でもない。
ただ、事実を認める言葉だった。
背後で、淡い山吹色の光が揺らめく。
光狐の霊気が、風のように周囲へ広がっていく。
攻撃ではない。
拘束でもない。
「静かにしろ」と強制する力でもなかった。
乱れた生命力に、そっと寄り添うような気配。
子猿の呼吸が、少しずつ変わっていく。
速く、浅かった息が、わずかに間隔を空け始めた。
剥き出していた歯が、少しずつ引っ込む。
莉奈が半歩、距離を詰めた。
「そのままでいいよ。逃げなくていいから」
子猿は光狐を見た。
莉奈を見た。
また光狐を見た。
そして、力を抜くように体を地面へ伏せた。
警戒が完全に消えたわけではない。
ただ、逃げ続けるための力を、今は使わなくていいと感じたようだった。
莉奈が歩美を振り返る。
「今なら大丈夫だと思う」
◇
歩美は正面から近づかなかった。
莉奈の隣から、一歩ずつ歩み寄る。
「ありがとう、莉奈ちゃん。そのまま落ち着かせてて」
黄色い札を取り出す。
莉奈の山吹色の霊気と、歩美の黄色い光が、初めて自然に重なった。
一方は、傷を受け入れられる状態へ整える力。
もう一方は、実際の損傷そのものを修復する力。
二つの性質の違いが、現象としてそのまま示される。
歩美は傷を確認した。
首。
肩。
前脚。
三本の裂傷が、ほぼ平行に走っている。
刃物ではない。
太く長い鉤爪で掴まれたような形状だった。
慎悟がしゃがみ込み、傷口を覗き込む。
目つきが変わった。
「......この傷」
友紀も気づいた。
南海の表情が曇る。
「三本の鉤爪だ」
慎悟の声が低くなる。
「まさか」
健太が呟いた。
「斬牙か」
蓮が短く言葉を継ぐ。
その名前が出た瞬間、場の空気が張り詰めた。
寿蒙の回復札を貼られ、一時的に人間の生命力を呼び戻された鬼。
翼が傷の幅と深さを観察しながら、結論だけを短く置いた。
「傷の形状からして、斬牙の鉤爪である可能性が極めて高いです」
慎悟が山の方角を見た。
「まだ、この山にいる」
寿蒙も険しい表情で同じ方向を睨む。
その直後だった。
あれほど鳴いていた猿たちの声が、ふいに途絶えた。
静寂が、逆に不穏さを際立たせていた。
◇
場面は、寿満寺よりさらに山奥へ移る。
木漏れ日が地面に細かい模様を落としていた。
真夏の湿気が肌にまとわりつく。
蝉の声が絶え間なく降り注いでいた。
折れた枝。
踏み荒らされた下草。
太い木の根元で、斬牙が片腕で成獣のニホンザルを押さえつけていた。
猿は必死に抵抗し、斬牙の腕を引っ掻く。
だが灰色の装甲鱗には、傷一つつかなかった。
「じっとしてろよ」
声の端が、かすかに掠れていた。
猿の悲鳴が響く。
斬牙は自分の三本の鉤爪を見た。
自分より後に鬼になった者が、覇竜十傑の席に座っている。
牛竜。
角羅。
思い浮かぶ名前のどれもが、自分より格下だったはずの者たちだった。
なのに、自分には席がない。
人間だった頃も同じだった。
野球部でも八番。
誰も自分の価値を正しく見なかった。
動画は冗談だったはずが、学校から排除された。
ネットの中の誰かが、勝手に自分を裁いた。
鬼になれば、評価から自由になれると思った。
なのに鬼の社会でも、「選ばれる者」と「選ばれない者」に分けられる。
「俺の何が足りないんだよ......」
力はある。
爪もある。
人間を殺すことだってできる。
なら、足りないものは何だ。
斬牙の思考は、ひとつの答えへたどり着く。
――残虐さだ。
美里が求めているのは、ためらわず殺せる鬼だ。
ならば証明すればいい。
猿を殺す。
寺を荒らす。
寿蒙を殺す。
歩美を殺す。
莉奈を殺す。
自分を人間へ戻そうとする者を、一人残らず消す。
「そうすりゃ......俺だって十傑だ」
斬牙は鉤爪を、猿の首へ近づけた。
◇
背後から、怒鳴り声が響いた。
「何しとるんじゃ、お前!」
斬牙が振り返る。
作業着姿の老人だった。
寿満寺の檀家で、昔からこの裏山の草刈りや枝打ちを手伝っている。
手には山仕事用の鎌を握っていた。
鬼を見ても、老人は逃げなかった。
押さえつけられた猿を見て、声を張り上げる。
「離せ!」
「じいさん、死にたいのか?」
斬牙が低く笑う。
「その猿を離せと言っとる!」
老人は鎌の刃を斬牙へ向けなかった。
刃を自分の後ろへ向けて持ち替え、柄で斬牙の腕を叩いた。
「いてえな!」
実際にはほとんど効いていない。
だが予想外の抵抗に、斬牙の腕から力が抜けた。
猿がその隙をついて逃げ出す。
近くの木へ飛びついた。
「行け!」
老人が叫ぶ。
猿は枝の上へ逃れ、そこから斬牙を見下ろした。
老人は、超人的な力を持っているわけではなかった。
怖い。
勝てない。
それでも、目の前の命を見捨てなかった。
ただ、それだけだった。
◇
斬牙の笑みが消えた。
「何してくれてんだ、クソじじい!」
老人は退かなかった。
「山のもんを玩具にするな!」
その言葉が、斬牙の何かを刺した。
自分がかつて動物を玩具のように扱ったことなど、認めるつもりはなかった。
だからこの言葉は、説教として、否定として、耳に突き刺さった。
「俺に説教すんな!」
三本の鉤爪が、横薙ぎに振るわれる。
老人は避けきれなかった。
胸から肩へかけて、作業着が裂ける。
赤い血が、夏草の上へ飛び散った。
老人が地面へ崩れ落ちる。
◇
斬牙が倒れた老人を見下ろした瞬間だった。
周囲の木々が、一斉に揺れ始めた。
一匹。
二匹。
五匹。
十匹。
次々と猿が姿を現す。
老人が助けた猿もいた。
誰も逃げなかった。
仲間が傷つけられた。
自分たちを守った老人まで傷つけられた。
猿たちが鳴き声を上げる。
枝を揺らし、威嚇の姿勢を取る。
地面に降りた猿が石を拾い上げ、斬牙へ向けて投げつけた。
肩に当たる。
別の石が頭へ当たる。
もちろん、痛みなど感じない。
それでも猿たちは、次々と石を投げ続けた。
「なんなんだよ、お前ら......!」
斬牙には理解できなかった。
勝てない相手へ向かっていく理由が分からない。
自分より弱い仲間のために戦う理由が分からない。
人間だった頃、誰も自分を守ってくれなかった。
奥歯が軋むほど、顎に力が入る。
石が肩に当たるたび、そこだけ体温が上がっていくようだった。
「だったら――」
両腕の鉤爪が持ち上がる。
「まとめて死ね!」
猿の群れへ襲いかかろうとした、その瞬間だった。
◇
斬牙の体を、激しい痛みが貫いた。
「ぐぁっ!?」
膝が崩れる。
痛みの中心は、以前寿蒙から回復札を貼られた場所だった。
そこから、白い光が漏れ出している。
装甲鱗の隙間。
斬牙は自分の腕を見た。
灰色の鱗が薄くなっていく。
その下から、人間の皮膚が覗いていた。
馬場翔之助の腕。
「......やめろ」
鬼としての低い声から、ほんの一瞬だけ、十六歳の少年の声が滲んだ。
「出てくんな......!」
人間の皮膚が、腕から肩へと広がっていく。
鬼と人間、二つの姿がせめぎ合う。
心臓が、痛いほど速く打っていた。
喉の奥が引きつり、うまく息が吸えない。
人間へ戻れば、自分が何をしたのかが、全て馬場翔之助自身の行為として戻ってくる。
鬼でいる限り、「鬼だからやった」で済ませられる。
人間へ戻れば、逃げ場がない。
スマートフォンの画面。
炎上したコメント欄。
犬の悲鳴。
退学届。
野球部の白いユニフォーム。
教師の冷たい声。
寿蒙の回復札。
猿の血。
老人の血。
断片的な記憶が、脳裏を次々と横切っていく。
「俺を戻そうとするな!」
それは怒声であり、同時に悲鳴だった。
◇
遠くから、複数の声が聞こえた。
「こっちだ!」
慎悟たちだった。
枝を踏む音。
葉を掻き分ける音。
複数の足音が、確実にこちらへ近づいてくる。
斬牙が顔を上げた。
「あいつら......」
装甲鱗はまだ不安定に揺らいでいる。
この状態で十彩獣団と正面から戦えば、どうなるか分からなかった。
斬牙は木の上の猿を睨みつけた。
「覚えてろ」
猿は逃げず、まだ低く唸っている。
「次は――」
木々の向こうに、慎悟たちの姿が見え始める。
「次は群れごと殺す」
そう吐き捨て、斬牙は山奥へと駆け出した。
太い枝が音を立てて薙ぎ払われ、その音が遠ざかっていく。
◇
慎悟たちが現場へ駆けつけた時、そこに斬牙の姿はなかった。
代わりにあったのは、血を流して倒れている老人と、その周囲から離れようとしない猿の群れだった。
「おじいさん!」
歩美が真っ先に駆け寄る。
莉奈もすぐに札を取り出した。
寿蒙も老人の傍らへ膝をつく。
慎悟は一瞬だけ、斬牙が逃げていった方角へ視線を向けた。
木々の間から、まだ枝を折る音がかすかに聞こえている。
追えば、追いつけるかもしれない。
慎悟の拳が、無意識に固く握られる。
だが背後では、歩美たちが必死に老人へ手を伸ばしていた。
老人の呼吸は浅く、弱かった。
一刻を争う命が、目の前にある。
斬牙を追うべきか。
目の前の命を救うべきか。
慎悟はどちらの答えも出せないまま、遠ざかっていく気配の音と、仲間たちの張り詰めた声との間で、拳を握り続けていた。
第4話、お読みいただきありがとうございました。
今回いちばん書きたかったのは、歩美と莉奈の対比です。
歩美の力は強い。
傷はすぐに塞げる。
けれど、恐怖で心を閉ざした相手には、その力が届かないという現実を、今回初めて歩美自身が思い知る形になりました。
対して莉奈は、何もしないところから始めます。
近づかない。
触らない。
ただ「怖かったんだよね」と、相手の恐怖をそのまま認める。
この差は、単なる技術の違いではなく、後の章で二人の回復札の性質そのものを分けていく伏線でもあります。
もう一人、今回どうしても書きたかったのが檀家の老人です。
特別な力も、勝算もない。
それでも「山のもんを玩具にするな」と、鎌の柄一本で鬼の前に立ちはだかる。
力ではなく、目の前の命を見捨てないという意志だけで動く人物を、この物語にはどうしても一人置きたいと思っていました。
そして斬牙です。
覇竜十傑に選ばれなかった焦りが、残虐さの誇示という形で暴走していく過程を、今回はできるだけ丁寧に描いたつもりです。
けれど、寿蒙の回復札の痕が疼き、装甲鱗の下から人間・馬場翔之助の腕が覗いた瞬間、彼の中の何かが崩れかけます。
「俺を戻そうとするな」という叫びは、怒りであると同時に、悲鳴でもあります。
この綻びが、今後の斬牙にとってどういう意味を持つのか、ぜひ見届けていただければと思います。
慎悟たちの足音が近づくところで、今回は幕を閉じました。
次回、第5話「追えない背中」では、慎悟たちが山の中で斬牙と対峙し、そして慎悟自身が「動けない自分」という現実と向き合うことになります。
友紀と南海の言葉が、兄であり指揮官である慎悟に何を突きつけるのか。
どうぞ楽しみにお待ちください。
最後に、本作の執筆にあたっては構成・推敲の一部でAIを活用しています。
物語の根幹となる展開・設定・文章表現は著者自身によるものです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次回、第5話「追えない背中」でお会いしましょう。




