第14話 凍れる粛清者
お待たせいたしました、第14話「凍れる粛清者」をお届けします。
前話にて、慎悟は蒼王を抜かず、傷を抱えたまま「指揮する者」としての一歩を踏み出しました。仲間たちを信じ、動かし、自分は前線に立たない――そのあり方が、今回、本当の意味で試されます。
三度目の襲来を果たした斬牙。今度の標的は、人間へ戻す力を持つ歩美と莉奈、その二人だけです。健太が受け止め、蓮が流し、翔一が乱し、翼が退路を限定し、友紀と南海が押し込み、伊織が射抜き、綾実が心を支える。十彩獣団がこれまで積み上げてきた連携が、一つの意志として噛み合う瞬間を、どうぞ見届けてください。
そして、莉奈の「人間へ戻れとは言わない」という言葉。斬牙――馬場翔之助の中から、ようやく零れ落ちる本音。救いの手が届きかけた、まさにその時に訪れる、もう一つの意志。
今回は短くない話数ですが、どうか最後まで、彼らと一緒に息をつめて読んでいただければ幸いです。
なお本作の執筆にあたっては、プロット整理・推敲の一部でAIを活用しております。あらかじめご了承ください。
昨夜、二つの影が同じ寺へ向かっていた。その予感は、まだ消えていない。
七月二十六日。寺の境内に蝉の声が満ちていた。
昨夜の戦いの痕は、まだそこかしこに残っている。半ば崩れた山門には応急の角材が斜めに打ちつけられ、割れた石畳の隙間から夏草が伸びていた。境内の隅では、傷ついた猿が布を巻かれたまま木陰でうずくまっている。檀家の老人たちが交代で見回りに来ては、無言で頭を下げて帰っていく。
戦いは終わったのに、痕だけが夏の光の中に取り残されていた。
北潟慎悟は本堂の柱に軽く肩を預け、境内を見渡していた。姿勢を変えるたびに、脇腹の奥で焼けた針を差し込まれるような痛みが走る。悪路漢の刀――松影に斬られた傷は、表面こそ塞がっているものの、内側にどす黒い熱を抱えたままだった。
「その傷、まだ疼くか」
背後から声をかけたのは池口寿蒙だった。作務衣の袖をまくり、額の汗を手拭いで拭っている。
「……少し」
慎悟は正直に答えた。以前の自分なら、痛みなど無いふりをしただろう。だが今は、そんな見栄が仲間を危険に晒すことを知っている。
「蒼王を抜くのはよせ。お前の中に残っている鬼気が、霊護獣との同調を乱す。今は無理に力を使うと、逆に喰われるぞ」
寿蒙の言葉に、慎悟は柄に伸ばしかけた手を止めた。抜かない。そう自分に言い聞かせる。
昨日、蓮に言われた言葉が耳の奥に残っている。
「お前は戦うな。俺たちを動かせ」
あの時は奥歯を噛んだ。だが一晩経った今、その言葉の意味が少しずつ形を持ち始めていた。自分が前へ出なければ何も守れない――そう思い込んでいた十五年間が、静かに軋んでいる。
境内の入り口で、山室綾実が小さく声を上げた。
「反応がある。北の斜面」
紫舞盾を持つ手が、微かに震えている。占いではない。感知札に走った歪みだった。
「猿の異変じゃない。人間の……いや」
言葉を濁す綾実の代わりに、脇出美奈子が続けた。
「斬牙。まだ近くにいる」
美奈子の胸元を、銀玲の気配が這うように動く。怒り、屈辱、そして底の見えない恐怖。三度目の来襲だった。
一分と経たずに、木々の間から灰色の影が飛び出してきた。
テリジノサウルスを思わせる長大な爪。装甲の隙間から覗く筋肉は、人間の少年のものとは思えないほど膨れ上がっている。
斬牙――馬場翔之助は、境内の中央へ着地するなり、周囲を睥睨した。
その視線が、二人の少女の上で止まる。
富津歩美と、指中莉奈。
「お前ら……お前らだけは、逃がさねえ」
低く歪んだ声だった。他の誰でもない。人間へ戻す力を持つ二人だけを、斬牙は執拗に狙っていた。
歩美は息を呑み、莉奈は反射的に一歩前へ出て歩美を庇う位置に立った。
「なぜ私たちだけを」
莉奈が問うても、斬牙は答えない。答える余裕がないのだと、誰の目にも明らかだった。爪の先が小刻みに震えている。
慎悟は本堂の階段に立ったまま、動かなかった。
刀を抜きたい衝動が全身を駆ける。だがそれを堪え、代わりに大きく息を吸い込んだ。
「健太、正面で止めろ! 蓮、力を流せ!」
声が境内に響いた。
「翔一は上空から視界を乱せ! 翼、逃げ道を一つだけ残して囲め!」
友紀と南海へ、視線を移す。
「友紀は右、南海は左から圧をかけて中央へ寄せろ!」
最後に、綾実へ目を向けた。
「伊織は関節を狙え。綾実は――」
言葉を切り、慎悟は綾実を見た。
「怒りを消すな。恐怖も消すな。二つを引き剥がしてくれ」
短い指示だった。だがそこには、この一年で慎悟が積み上げてきた仲間への信頼が凝縮されていた。
「――了解!」
九人の声が重なった。
熊坂健太が最初に動いた。玄牙をまとった巨躯が石畳を蹴り、正面から斬牙の突進を受け止める。玄牙棒を横に構え、三本の鉤爪をそのまま食い止めた。石畳が音を立てて割れ、健太の靴底が数センチ滑る。
「歩美には……行かせねえ!」
短い叫びだった。健太は攻めない。ただ、そこに立ち塞がる。押し返そうとする斬牙の力に対し、健太の腕が悲鳴を上げるように震えたが、膝は折れなかった。
その横から、細呂木蓮が蒼流槍を斜めに差し込んだ。力と力をぶつけるのではない。斬牙の突進の軌道を、わずかに逸らす。
「力だけなら健太に任せる。俺は、その力を外す」
蓮の言葉通り、斬牙の重心がわずかに横へ流れた。健太が支え、蓮が流す。二人の呼吸は、これまでの戦いで積み上げてきた連携そのものだった。
頭上から、柿原翔一が飛び込んでくる。烈翔をまとった橙色の影は、屋根の縁を蹴り、石灯籠を足場にし、斬牙の視界を絶えず横切った。
「ほらほら! こっち見ろって!」
烈翔棍で致命傷を狙うことはしない。ただ、斬牙の首の向きを乱し続ける。翔一の軽口は、緊張した戦場の中でむしろ場の呼吸を整えていた。
その隙に、瓜生翼が御札を四方へ投げた。完全な檻ではない。むしろ意図的に一箇所だけ、逃げ道を残す配置だった。
「完全に閉じ込める必要はない」
翼は静かに呟く。
「逃げられる方向を、一つだけ残せばいい」
その言葉を聞いた瞬間、慎悟は即座に意図を理解した。
「翼、そのまま西側だけ開けろ!」
西側――それは慎悟が最初から目算していた、石畳の中央だった。
北潟友紀が右側から踏み込み、正面から打ち合わずに細かな踏み込みと退きを繰り返す。斬牙の意識を右へ引きながら、少しずつ位置をずらしていく。
「兄ちゃん! こっちでいいの!?」
「あと三メートル!」
慎悟の声が飛ぶ。友紀はその声を信じて動いた。
左側では坪江南海が、斬牙の死角へ滑り込むように回り込む。正面から力をぶつけるのではなく、身体の向きそのものを変えさせる役割だった。友紀と南海、二人の連携によって、斬牙は「倒される」のではなく、気づかぬうちに「歩かされて」いた。
後方では波松伊織が清澄弓を構えていた。狙うのは斬牙の身体そのものではない。三本の鉤爪と腕部装甲の接続部――極小の可動部分だった。
息を止め、指を離す。矢は真っ直ぐに飛び、右腕の関節を正確に射抜いた。鈍い音とともに、鉤爪の一本が硬直する。
伊織は叫ばなかった。ただ、次の矢を番える。
そして山室綾実が、紫舞盾を地に突き立て、精神調律を発動させる。
「怒っていていい」
綾実の声は静かだったが、境内の空気を貫くほどの重みを持っていた。
「怖くてもいい。でも……その二つを、同じものにしないで」
斬牙の動きが、一瞬止まった。
斬牙の視線が、束の間だけ泳いだ。押し殺してきた何かが、輪郭を持とうとしていた。
その変化に、誰よりも早く気づいたのは美奈子だった。胸元を押さえ、掠れた声で呟く。
「違う……」
「美奈子?」歩美が振り返る。
「この人、人間へ戻りたくないだけじゃない」
美奈子は目を閉じ、流れ込んでくる感情を懸命に整理していた。
「戻りたいって気持ちもある。でも、戻るのが怖い。二つが……同時にある」
その言葉に、歩美の喉の奥で、何かがほどけていく感覚があった。これまで敵としてしか見ていなかった斬牙が、初めて「救えるかもしれない人間」として輪郭を持ち始める。
だが、美奈子は続けて言った。
「感情が分かるからって、あの人がしたことを許すわけじゃない」
歩美は頷いた。その通りだった。動物への虐待。老人への刃。莉奈やこの寺の誰かを殺そうとしたこと。感情の理解と、罪の免除は別のものだ。
包囲の輪は少しずつ狭まり、斬牙は西側へ、西側へと押し出されていく。翼の作った唯一の逃げ道が、そのまま罠になっていた。
その中央で、斬牙の内側では激しい葛藤が渦巻いていた。
「俺は悪くねえ」
何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。ガトーの悲鳴、動画のコメント欄、退学届。すべては「新しい接し方を試しただけ」だったはずだ。鬼になったのは、社会が自分を追い詰めたからだ。人間へ戻れば、その言い訳は全て崩れる。動物虐待も、老人を傷つけたことも、歩美たちへ向けた殺意も――全部、馬場翔之助という一人の人間が、自分の意思でやったことになってしまう。
「戻らねえ」
声が漏れる。だが、その声はさっきよりも弱かった。
「俺は鬼なんだ……」
石畳の中央、慎悟が指定した場所に、斬牙の足がついに踏み込んだ。
指中莉奈が、迷いのない足取りで前へ出た。
山吹色の光をまとう莉奈は、斬牙へまっすぐ視線を向ける。喉の奥が渇いた。それでも足は止まらなかった。
「人間へ戻れとは言わない」
莉奈の声は、これまでの誰よりも柔らかかった。
「あなたが決めればいい。でも、怖いから誰かを傷つけるのは……ここで止めよう。馬場さん」
人間の名を、莉奈ははっきりと呼んだ。
札が投げられる。山吹色の光が斬牙の胸に触れた瞬間、暴れ狂っていた鬼気が、少しずつ凪いでいく。灰色の装甲鱗が、肩から、腕から、首から、頬から、ゆっくりと剥がれ落ちていった。その下から、人間の皮膚が現れる。
歩美の手が震えた。過去に恨卑を灰にしてしまった記憶が、脳裏をよぎる。動けずにいる歩美の肩に、美奈子がそっと触れた。
「まだ大丈夫。怖がってる。でも……拒絶だけじゃない」
美奈子の言葉に背中を押され、歩美は黄色い回復札を握りしめた。莉奈が調律し、美奈子が意思を見極め、歩美が肉体そのものを本来の状態へ戻す。三人の役割が、この場で初めて完全に噛み合った。
歩美が一歩、踏み出す。
斬牙の顔は、鬼と人間の狭間で不安定に揺れていた。黄色く輝く鬼の瞳と、灰褐色の人間の瞳が、交互に浮かんでは沈む。
口が開いた。
「う……」
獣の唸り声だった。だがそれは、次第に掠れていき――
「……助けて……」
十六歳の少年の声だった。
歩美の足が止まった。周囲の仲間も、一瞬だけ動きを止める。その声に、斬牙自身の目が一番大きく見開かれていた。
「助けて……くれ……」
蝉の声だけが、境内に満ちていた。誰も、すぐには言葉を返せなかった。夏の風が、割れた石畳の上を吹き抜けていく。
歩美の目から迷いが消えた。
「今、行く!」
歩美が駆け出した、その時だった。
慎悟が声を張ろうとした。
「歩美! ゆっくりでいい! 莉奈と美奈子の状態を見ながら――」
言葉の途中で、蝉の声が、ふっと途切れた。
境内を覆っていた真夏の喧騒が、まるで誰かが指を鳴らしたかのように消えた。
歩美の吐いた息が、白く尾を引いた。
石畳の表面に、薄い霜が走る。本堂の軒先から落ちる水滴が、地面に届く前に、宙で凍りついた。
「……冷気?」
真っ先に気づいたのは伊織だった。弓を構えた指先が、微かに強張る。綾実も、紫舞盾越しに異様な鬼気を感じ取っていた。
美奈子だけは、様子がおかしかった。背筋だけが、冷たく強張っていく。
「読めない」
感情が、ない。怒りも、嫉妬も、迷いもない。あるのはただ一つ――冷たく平坦な殺意だけだった。それが、まっすぐに斬牙一人だけへ向けられている。
「歩美、止まって!」
美奈子の叫びは、間に合わなかった。
「ヒュン」
空気を裂く音が、一度。
斬牙の背中に、氷の矢が突き刺さった。身体が前へ大きく揺れる。
「……え?」
翔之助の声だった。誰よりも、彼自身が理解できていなかった。
一拍の間があった。永遠のように長く、実際には瞬きひとつの時間だった。
二本目の矢が放たれる。さらに細く、速く、正確だった。後頭部へ、迷いなく命中した。
血飛沫は最小限だった。ただ、さっきまで「助けてくれ」と震える声で言っていた少年の瞳から、急速に光が失われていく。それだけで、その場にいる全員が、何が起きたのかを理解した。
木々の奥に、影が立っていた。
黒と白の装甲鱗。氷の王冠を思わせる頭部の意匠。手には細身の凍珠弩。足元から、じわりと霜が広がっていく。
その視線は、歩美を見ていない。慎悟も、伊織も、綾実も見ていない。
――斬牙だけを、見ていた。
勝利の誇りも、怒りも、哀れみもない。ただ、命じられた標的の生死を確認するだけの、乾いた眼差しだった。
凍珠は、ゆっくりと凍珠弩を下げた。
伊織の指先が微かにこわばった。矢を放つ直前の呼吸、肩の静けさ、狙撃手としての癖――それらのどれかが、記憶のどこかに引っかかる。だが、それが何なのか、今の伊織には分からなかった。綾実も同じ違和感を覚えていたが、言葉にはならなかった。
斬牙――馬場翔之助の身体が、崩れ落ちた。
鬼の姿と、人間の姿が、不完全に混じり合ったまま。灰色の鱗と、剥き出しの人間の皮膚が、まだらに残っている。
歩美の目の前に、その身体が倒れ込んだ。
歩美は反射的に、握りしめていた回復札に力を込めた。まだ間に合うのか。もう遅いのか。歩美自身にも、答えは分からなかった。
凍珠は木々の奥に立ったまま、動かない。
慎悟は本堂の階段の途中で、拳を強く握りしめていた。刀へ伸ばしかけた手を、寸前で止める。今は、斬牙を救うことが先だった。
真夏の寺の境内に、白い霜が広がっていく。
蝉の声は、まだ戻らなかった。
歩美は、倒れた翔之助へ向けて、震える手を伸ばした。
第14話、いかがでしたでしょうか。
斬牙というキャラクターは、本章の中でずっと「認められたい」という一心で残虐に振る舞ってきた少年でした。ですが今回、その仮面の下にあったのは、怒りではなく恐怖――人間へ戻れば、自分のしてきたことと向き合わなければならないという恐怖でした。
莉奈の札によって、その恐怖と本音がようやく表に出た瞬間、彼の口から漏れたのは「助けてくれ」という、たった一言でした。
けれど、物語はそこで優しく終わってはくれません。冷たい沈黙とともに現れたのは、凍珠。斬牙を撃ったのが誰であり、なぜ撃たれなければならなかったのか――その答えは、次話で明らかになっていきます。
十彩獣団は斬牙を救えたのか、救えなかったのか。そして、伊織と綾実が凍珠の姿に抱いた小さな違和感の正体とは。
次回、第15話「救えるはずだった命」。
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