第13話 怯える十六歳
お読みいただきありがとうございます。第六章「猿寺の凍れる夏」、第13話「怯える十六歳」をお届けします。
前話では、莉奈の一枚の札によって、斬牙の装甲鱗の下から馬場翔之助の素顔が覗きました。「戻れ」とは言わない救い。それが、斬牙にとってはどんな刃よりも深く刺さるものだったのかもしれません。
今回は戦闘のない一話です。誰もいない廃屋の中で、斬牙がただひとり、自分自身と向き合う――そんな静かな回になります。
鬼であり続けることは、はたして「強さ」なのか。それとも、罪から目を逸らすための「言い訳」なのか。
十六歳の少年が抱える怯えと、それでも鬼であろうとする理由を、どうかじっくりと見届けてください。
そして物語は同時に、金津邸の奥へも動いていきます。美里が最も恐れているものが、静かに姿を現し始めます。
山道を転げ落ちるようにして、斬牙は寺の気配から遠ざかった。
背後を何度も振り返る。
追っ手はいない。
慎悟たちは追ってこない。
それでも足を止められなかった。
木の根に爪先を引っかけ、灌木の枝が灰色の装甲鱗を裂く。痛みはある。だが今の斬牙にとって、痛みは戦っている証拠でしかなく、むしろ都合がよかった。痛ければ、まだ鬼でいられる。
福江市郊外。誰も住まなくなって久しい一軒の廃屋が、夏草の中に沈むように建っていた。割れた窓。腐った畳。剥がれかけた壁紙が、湿った風に揺れている。放置されたままの茶碗、錆びた自転車、色褪せたカレンダー。時間だけが止まった場所だった。
夏だというのに、屋内の空気は妙に冷たい。
斬牙は玄関の戸を蹴破るようにして中へ転がり込み、そのまま壁に背中を預けて座り込んだ。荒い息が、埃っぽい空気を揺らす。
戦いから逃げたのではない。
――そう思い込もうとしていた。
◇
呼吸が整う頃、右腕に違和感が走った。
莉奈の山吹色の札を受けた場所が、疼いている。火傷とは違う熱だった。皮膚の表面ではなく、もっと奥、骨と筋肉のあいだから、身体の形そのものを書き換えられていくような感覚。
灰色の装甲鱗の隙間に、一瞬だけ人間の皮膚が覗いた。すぐに消える。だがまた覗く。
右腕の三本の鉤爪のうち、一本が縮んでいく。爪の先端が丸くなり、関節の位置が変わり――人間の指の形に近づいていく。
「……は?」
斬牙は自分の手を見つめた。声にならない声が漏れる。
慌てて手を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みで意識をつなぎとめるように、何度も強く握った。
「ふざけんな……」
怒っているように聞こえる。だが本当は違う。
十彩獣団に囲まれたときより、今のほうが息が浅い。敵に殺されかけるのなら分かる。だが今、自分の身体が、自分の意思とは無関係に、鬼であることをやめようとしている。
◇
廃屋の奥まで進むと、屋根に空いた穴から差し込む光の下に、浅い水たまりができていた。
通り過ぎようとした瞬間、水面に映った顔に、足が止まった。
灰色の鬼の顔ではなかった。
顔の右半分だけ、装甲鱗が剥がれ落ちている。その下から現れているのは――乱れた髪。汗ばんだ額。青白い肌。怯えた目。
馬場翔之助だった。
強大な怪物ではない。ただの、十六歳の少年の顔だった。
「……誰だよ」
分かっている。分かっていて、聞いている。
自分だ。斬牙になる前の、自分だ。
斬牙は水面を踏みつけた。波紋が広がり、像が崩れる。
だが、崩れたのは水面の映像だけだった。自分自身は、消えなかった。
◇
「俺は悪くない」
床に座り込んだまま、斬牙は呟いた。
「俺は悪くない」
もう一度。今度は声を張った。
「俺は悪くない!」
三度目は、廃屋の壁に反響するほどの声量だった。
だが、大きくなればなるほど、言葉に込められた確信は薄くなっていくようだった。最初の一言は断言だった。二度目は、自分自身に対する確認だった。そして三度目は――もう、懇願に近かった。
誰かに向かって言っている言葉ではなかった。
自分自身に、信じさせようとしているだけの言葉だった。
◇
床にへたり込んだまま、斬牙は膝を抱えた。
思い出したくもない光景が、勝手に蘇ってくる。
小さなチワワ。ガトー。嫌がって暴れる身体。首根っこをつかんで、宙に持ち上げた自分。撮影しているスマートフォン。そして、笑っている自分。
あの時は、本当に「面白い」と思っていた。
「あれは冗談だったんだ」
斬牙は誰もいない部屋で言葉を並べ始めた。
「動画なんて、みんなやってる。ちょっとふざけただけだ。犬だって、死んでねえ」
それから、いつもの理屈が続いた。
ネットが騒ぎすぎた。学校が大袈裟に処分した。教師も保護者も自分を悪者にした。野球部も守ってくれなかった。学校が、自分を切り捨てたのだ。
自分は被害者だ。
そう並べているうちに、言葉の並びが、いつもと違う手触りを持ち始めた。順番はいつもと同じはずだった。だが今日は、その言葉が、自分の耳に届く前にどこかへ吸い込まれていく。誰にも届いていない。
自分自身にすら。
◇
不意に、鳴き声が聞こえた。
小さな、甲高い悲鳴。
犬の声だ。
斬牙は反射的に周囲を見回した。誰もいない。廃屋には自分ひとりだけだ。分かっているのに、耳の奥で鳴き続けている。
動画の中の、あの声だった。
「……やめろ」
耳を塞ぐ。消えない。
「やめろって言ってんだろ!」
拳を壁に叩きつけた。腐った板が乾いた音を立てて割れる。指の関節から血が滲む。
それでも、悲鳴は止まらなかった。
「犬は死んでいない」
これまで何度も自分に言い聞かせてきた理屈だった。だが今、その理屈の隙間から、言葉になる前の疑問が顔を出しかけた。
死ななければ、苦しませても構わないのか。
「俺は……悪く……」
最後まで言えなかった。
斬牙は口を閉ざした。それ以上、何も言葉にしなかった。
◇
静まりかえった水面を、もう一度見た。
映っているのは怪物ではなかった。
今にも泣き出しそうな、十六歳の少年だった。
「戻りたくない……」
言葉が、意識よりも先にこぼれ落ちていた。
斬牙は自分の口を押さえた。押さえた手が、小さく震えている。
「違う。人間になんかなりたくねえ。人間は弱い。鬼なら、誰にも舐められねえ」
言い直しながら、しかし気づいてしまった。
人間が嫌なのではない。
馬場翔之助へ戻った後が、怖いのだ。
人間へ戻れば、すべてが「鬼がやったこと」では済まなくなる。
ガトーを苦しませたこと。
動物虐待の動画を撮ったこと。
学校を追われる原因を作ったこと。
野球部に迷惑をかけたこと。
寿満寺の猿を傷つけたこと。
檀家の老人を重傷にさせたこと。
回復札の使い手を殺そうとしたこと。
すべてが、馬場翔之助自身の行いになる。
謝らなければならない。
処分を受けなければならない。
償わなければならない。
場合によっては、警察も、裁判も、社会的な責任も、避けられなくなる。
そして何より――その後も、生きていかなければならない。
死よりも重いのは、罪を背負ったまま生き続けることだった。
◇
鬼であれば、責任を他人へ押しつけられる。
学校が悪い。ネットが悪い。社会が悪い。美里が悪い。自分を覇竜十傑へ選ばなかった者たちが悪い。
誰かを憎み続けている限り、自分自身を見つめる必要がなかった。
灰色の装甲鱗は、敵の攻撃から身を守るための鎧であると同時に、馬場翔之助が自分の罪から隠れるための鎧でもあった。
そしてその鎧を、剥がせる者たちがいる。
池口寿蒙。
富津歩美。
そして――指中莉奈。
◇
莉奈の言葉が、頭の中で繰り返された。
戻れ、とは言われなかった。ただ、これ以上は止めろと、それだけを告げられた気がした。正確な言葉は、もう思い出せない。
斬牙は莉奈を憎もうとした。だが、それが難しかった。
歩美なら憎めた。無理やり人間へ戻そうとする、余計なお節介な女として。
寿蒙なら拒絶できた。偽善で正義を語る、坊主として。
だが莉奈は、責めなかった。戻れとも、戻るなとも、はっきりとは言わなかった。斬牙自身に、選択を返しただけだった。
それが、廃屋に転がり込んでからのどんな痛みよりも堪えた。
選ぶ自由を与えられてしまえば、鬼であり続けることさえ、他人のせいにできなくなる。
◇
「……あいつらがいるからだ」
斬牙は立ち上がった。
回復札の使い手がいるから、自分は怖いのだ。ならば――殺せばいい。
寿蒙。歩美。莉奈。三人を殺せば、誰も自分を人間へ戻せなくなる。
喉の奥で渦巻いていたものが、拳を握る力に変わっていく。
灰色の装甲鱗が、再び全身を覆っていく。人間の指の形へ戻りかけていた鉤爪が、また巨大な爪へと戻る。
「今度こそ……、全員、殺す」
その声は勇ましくは響かなかった。
これは復活でも、覚醒でもなかった。自分の罪と向き合うことから逃げるための、怯えた自己防衛にすぎなかった。
斬牙は、三度目の寿満寺襲撃を決めた。
◇
同じ頃。
金津邸の奥、抑揚のない空気が満ちる一室で、覇竜十傑・霧香は霊具を前に座していた。
札。薄く漂う鬼気。細く立ちのぼる煙。
霧香は斬牙にまつわる未来を探っていた。
見えるもの。寿満寺。山吹色の光。黄色い札。灰色の装甲鱗。鱗が剥がれ落ち、その下から現れる、馬場翔之助の顔。
霧香の表情が、わずかに動いた。
「……人間へ戻る?」
未来は確定していない。占うたびに細部は揺れる。
だが――斬牙が人間へ戻る可能性だけは、何度視ても消えなかった。
◇
七月二十六日、未明。
霧香は美里のもとへ向かった。
「斬牙が負ける可能性があります」
美里はほとんど反応を示さなかった。斬牙は覇竜十傑ですらない。失っても代わりはいくらでもいる。
だが霧香は続けた。
「いいえ。敗北ではありません」
一拍置く。
「馬場翔之助へ戻る可能性があります」
その瞬間、美里の表情が変わった。ごくわずかに。笑みが消えた。
「……確かなの?」
霧香は感情の乗らない声で答えた。
未来は確定していない。だが、以前より可能性は強くなっている、と。
莉奈。歩美。寿蒙。三人の回復札が組み合わされれば、斬牙の鬼化が解除される可能性がある。
◇
美里はしばらく黙っていた。
やがて、囁くような声で言った。
「斬牙が負けることは構わないの。でも、選び直されるのは困るわ」
美里が説くのは、進学でも、就職でもない、鬼になるという道――第三の進路。それは、社会から排除された者が「自分で選んだ」道として語られてきた。
だが、一度鬼になった者が人間へ戻れるのだとしたら。
鬼になることは最終決定ではなくなる。間違えたと思えば、戻れる。やり直せる。別の道を、選び直せる。
「鬼になるしかなかった」という思想そのものが、崩れてしまう。
「人間へ戻れる鬼が一人でも現れれば」
美里は言葉を継いだ。
「第三の進路そのものが、揺らぐの」
穏やかな声だった。だからこそ、恐ろしかった。
◇
「凍珠を呼んで」
美里が短く命じると、側近が一礼して去っていった。
しばらくして、規則正しい足音とともに現れたのは、布目優だった。
十五歳。すでに父・京平と母・陽子を、自らの手で殺している。
さらに巨徳による除霊を受け、その罪の重みも、痛みも、大きく削り取られていた。
以前よりも表情が乏しい。何のために呼ばれたのかを尋ねることもしない。ただ、命令を待っている。
これは皮肉だった。
優は、「もう誰にも自分の答えを決めさせない」という思いから、鬼になることを選んだはずだった。
だが今の優は、美里に答えを与えられなければ、動くことすらできない少女になっていた。
◇
「優」
美里が名を呼ぶと、優はゆっくりと顔を上げた。
「あなたにお願いしたいことがあるの」
「……何?」
美里は、斬牙について説明した。命令に従わないこと。寿満寺を勝手に襲撃していること。そして――人間へ戻る可能性が生まれていること。
美里は「自分の思想が崩れるから殺してほしい」とは言わなかった。もっと別の言葉に置き換えた。
「斬牙は、自分で選んだ道を、捨てようとしているの。一度選んだ第三の進路を、自分の都合で降りようとしている」
自由を説いているはずの美里が、選び直す自由だけは、決して認めなかった。
そして、静かに問いかけた。
「斬牙を、止めてくれる?」
優は数秒、美里を見つめた。
以前の優なら、人を殺す意味を、もう一度考えたかもしれない。父を殺したときの震え。母を殺したときの記憶。それらが一瞬だけ、氷の下でかすかに揺れた気配があった。
だが、表面には出てこなかった。
「分かりました」
白い冷気が、優の身体を包んでいく。黒と白の装甲鱗。頭上に浮かぶ氷冠。
布目優は、感情の起伏を欠いた足取りのまま、凍珠へと変わった。
◇
廃屋を出た斬牙が、夏草の茂る道を進んでいく。
三本の鉤爪。荒い息。剥き出しの怒り。だがその奥に、まだ消えない怯えがある。
自分を人間へ戻す者たちを殺すため、斬牙は寿満寺へ向かう。
同じ頃、金津邸を出た凍珠が、表情を変えないまま歩き出す。凍珠弩を手にしたその足取りに、迷いはない。
人間へ戻る可能性を持つ斬牙を殺すため、凍珠は寿満寺へ向かう。
二人とも、金津美里によって「第三の進路によって救われた」とされる鬼だった。
だが斬牙は、選び直すことを恐れている。
凍珠は、選び直すことを許さないために、使われている。
斬牙の足元では、夏草が踏み潰されていく。
凍珠の足元では、夏草にうっすらと霜が降りていく。
熱と、冷気。
恐怖と、無感情。
逃げる者と、狩る者。
二つの影が、同じ寺へと向かって伸びていった。
第13話「怯える十六歳」、お読みいただきありがとうございました。
斬牙というキャラクターは、これまで「覇竜十傑に選ばれなかった鬼」「猿や老人を平気で傷つける残虐な鬼」として描かれてきました。ですが今回、その鎧の下にあったのは、犬の悲鳴を忘れられずにいる、ごく普通の十六歳の少年の恐怖でした。
「俺は悪くない」と繰り返す言葉が、一度言うごとに弱くなっていく――この一話は、その変化だけで斬牙という人物を描き切ることを目指しました。誰かを憎み続けることでしか自分を保てなかった少年が、最後にたった一言、「戻りたくない」と本音を漏らす。そこに彼の全てが詰まっていると思います。
そして終盤、金津美里の思想の急所がついに明らかになります。「鬼になるしかなかった」という第三の進路の論理は、鬼が人間へ戻れてしまった瞬間に崩れ去る。美里が本当に恐れているのは、十彩獣団の武力ではなく、「人は選び直せる」というただそれだけの事実なのです。
そのために動き出すのが、布目優――凍珠でした。かつて被害者だった少女が、今度は「選び直そうとする者」を狩る側に立たされる。この構図の残酷さを、次話でしっかり描いていきます。
次回、第14話「凍れる粛清者」を近日中に投稿予定です。斬牙が最後に見せる本音と、それを断ち切る二本の矢。ぜひ見届けていただければ幸いです。
なお、本作の執筆にあたっては、プロット整理・推敲の補助としてAI(Claude/Anthropic)を活用しています。キャラクター設定・世界観・構成・最終的な文章の編集判断は、すべて著者が行っております。
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