第12話 戻れとは言わない
第十二話「戻れとは言わない」をお届けします。
拘束された斬牙を前に、富津歩美は回復札を握ったまま動けません。「救う」という行為が、時に相手の意思を無視した支配になり得ることに気づいてしまったからです。
代わりに一歩を踏み出したのは、指中莉奈。彼女の札は「戻せ」ではなく「触れる」ための力です。
そして脇出美奈子が感じ取ったのは、斬牙の中にある「怒り」ではなく「怖さ」でした。
鬼を人間へ戻す方法は、まだ完成していません。けれど、確かな一歩が記されます。
(本作の執筆・推敲にはAIを一部活用しています)
莉奈の声が届いても、斬牙は振り向かなかった。
拘束されたままの巨体から、荒い呼吸だけが漏れている。
夏の蝉の声が、やけに大きく聞こえた。
剥がれた石畳。焦げた札の匂い。誰も動かない。
やがて斬牙が、周囲を睨めつけながら低く呟いた。
「……殺せよ」
誰も答えなかった。
「勝ったんだろ。だったらさっさと殺せ!」
慎悟は命令を下さなかった。代わりに、少し離れた場所に立ち尽くす富津歩美を見た。
戦場の空気が、戦闘から別の何かへ切り替わる。
歩美は黄色い札を握りしめたまま、一歩前へ出た。そしてすぐに止まった。
自分の札の性質は、もう分かっている。単なる回復ではない。対象を、本来の人間としての肉体状態へ強く引き戻そうとする力だ。
だが、斬牙ほど鬼化が深く、本人がここまで激しく拒絶している場合、その先に何が起きるか分からない。馬場翔之助へ戻るのか。鬼気と人間の生命力が衝突して、肉体そのものが崩れるのか。それとも――消滅するのか。
歩美は一歩、また一歩と近づいた。札を持つ指が震える。
助けたい。その一点だけは揺らがなかった。だが、間違えれば人を消してしまう力を、自分は手にしている。
さらに、もっと根深い疑問が歩美の喉の奥に張りついていた。
本人がこれほど強く拒んでいるのに、自分の善意だけで人間へ戻してしまっていいのか。それは救いなのか、それとも――金津美里と同じように、他人の進路を勝手に決めることではないのか。
歩美は札を握ったまま、それ以上、腕を伸ばせなかった。
拘束された斬牙が、その様子を見逃さなかった。
「なんだよ」
押し殺した声だった。
「救うんじゃなかったのか?」
歩美の肩が小さく揺れる。
「結局、お前も俺を殺すのが怖いだけだ」
反論できなかった。図星だったからだ。同時に、それだけではないと分かっていながら、言葉にできなかった。
斬牙が小さく笑った気配がした。誰かが自分を救おうとして、結局は怖じ気づく。それを確かめると、肩からわずかに力が抜けたように見えた。
「……富津先輩」
抑えた声が、その空気を割った。
さきほど一歩前へ出ていた指中莉奈が、視線だけを歩美へ向けていた。
「莉奈ちゃん……?」
莉奈の手には、山吹色の札が握られている。歩美の札とは、色も、そして根本にある性質も違う。莉奈自身、それをよく理解していた。強制的に本来の状態へ引き戻す力ではない。今そこにある生命力と霊気を、そっと調律する力だ。
莉奈は慎悟を見た。慎悟は一瞬だけ考え、頷いた。
「やってくれ」
莉奈が斬牙へ近づいていく。
「来るな」
斬牙が唸る。拘束された身体のまま、それでも威嚇を止めない。莉奈はガトーを傷つけた張本人を前にしている。足がわずかに震えている。それでも止まらなかった。
「人間へ戻れなんて言わない」
斬牙の表情が、一瞬だけ止まった。
「鬼をやめろとも言わない」
「お前に何が分かる!」
咆哮のような叫びだった。莉奈はそれを正面から受け止め、静かに答えた。
「分からないよ」
一拍、間を置く。
「だから、あなたの人生を私が決めたりしない」
言い終えると同時に、莉奈は札を投げた。
札は斬牙の胸部装甲へ貼りつく。山吹色の光が広がった。歩美の黄色い光のように、身体を強く引き戻す力ではない。水面に波紋が広がるような、穏やかな光だった。
「やめろ……」
声から、さっきまでの怒気が少しずつ消えていく。
莉奈はもう一言だけ、付け加えた。
「ただ、苦しみから逃げるために、もっと誰かを傷つけるのは止めて」
怒鳴りもしなかった。説教でもなかった。抑えた声だったからこそ、それは斬牙の奥深くまで届いた。
鬼気が大きく揺れる。肩の鱗が、ぽろりと剥がれ落ちた。頬の装甲にひびが走り、その下から――十六歳の少年の顔が、一瞬だけ現れた。
馬場翔之助。
その名前を取り戻したのは、ほんの数秒だった。だが誰もが見た。
同時に、抑え込まれていた記憶が、断片となって溢れ出す。
スマートフォンの画面。撮影ボタン。小さなチワワ、ガトー。首根っこを乱暴に掴み、笑いながら持ち上げる翔之助自身の声。犬の甲高い悲鳴。
投稿。再生数。コメント欄。通知の音が止まらない。
学校。呼び出される教室。教師の硬い表情。保護者の視線。責める声、責める声、責める声。
「死んでないだろ」
当時の翔之助の声が蘇る。
「ちょっとふざけただけだ。みんな大げさなんだよ」
あの時の翔之助は、自分が悪いとは、心の底では認めていなかった。今の斬牙もまた、同じように認めようとしない。
だが今初めて――ガトーの悲鳴を、雑音として処理できなくなっていた。
学校を去る日の記憶が続く。誰も目を合わせてくれなかった廊下。空になったロッカー。荷物を抱えて歩いた、長く感じた渡り廊下。自分だけが世界から切り離されたような感覚。
そして金津邸。
覇竜十傑に入りたいと訴えた自分。美里の微笑み。
「あなたには、まだ価値がないわ」
その言葉が、今も一番深い場所に刺さったままだった。人間社会からも、鬼の社会からも、選ばれなかった。だからこそ斬牙として、誰よりも残虐であることで、自分の価値を証明しようとしてきた。
「違う……」
斬牙の声が揺れる。
「俺は……、俺は悪くない……!」
叫びだった。だがその声を聞いた脇出美奈子が、胸元を強く押さえた。
「違う!」
美奈子の声に、全員の視線が集まる。
「この人……怒ってるんじゃない」
一瞬の間。
「怖がってる」
「黙れ!」
斬牙が吠える。だが美奈子は続けた。銀玲を通して伝わってくるのは、思考そのものではなく、感情の色だ。それでも、その色だけは間違えようがなかった。
「人間に戻りたくないんじゃない。人間に戻った後が怖いんだ」
境内が静まり返った。
蝉の声だけが、やけに大きく響く。
慎悟はその言葉を、頭の中でゆっくりと反芻した。鬼でいる限り、猿への暴力も、老人への傷害も、寿満寺への襲撃も、誰かを殺そうとしたことも――全部「斬牙がやった」と言い訳ができる。
だが人間へ戻れば、違う。全部、馬場翔之助として、その名前で背負わなければならない。
「……そうか」
慎悟が呟いた。
「戻れないんじゃない。戻るのが怖いんだ」
「違う!」
斬牙が絶叫する。拘束された身体が、激しく暴れ始めた。
「俺は斬牙だ! 馬場翔之助なんかじゃない!」
否定すればするほど、その言葉は真実の輪郭をなぞっているように、その場にいた誰の耳にも聞こえた。
「まずい、鬼気が一気に膨張してる!」
翼が叫ぶ。灰色の鬼気が斬牙の全身から噴き上がり、拘束していた札の端が焦げ始めていた。
山室綾実が精神調律を強め、月影剣を構えて意識を集中させる。だが暴走する感情の奔流は、それだけでは抑えきれない。
「押さえきれねえ!」
健太が歯を食いしばりながら玄牙棒を握り直す。
「慎悟!」
蓮が短く呼んだ。
判断は一瞬だった。歩美の札を強制的に使う道。全員で力ずくで押さえ続ける道。あるいは――もう一度、倒しにかかる道。
そのどれも、慎悟は選ばなかった。
「全員、離れろ!」
「兄ちゃん!?」
友紀が目を見張って振り返る。
「拘束を解け!」
翼が一瞬だけ目を見開き、すぐに慎悟の意図を悟った。四方の札から手を離す。
直後、抑え込まれていた鬼気が一気に解き放たれた。
衝撃波が境内を走り抜け、砂埃と焼けた葉が舞い上がる。全員が反射的に後退した。
斬牙が自由になる。
だが、その鬼の姿は誰にも襲いかからなかった。むしろ後ずさり、爪先が土を掻いた。
「待って!」
莉奈が一歩踏み出す。斬牙の鉤爪が地面を裂き、火花が散った。
「来るな! 俺を戻すな! 俺は……」
その先を、斬牙は言葉にできなかった。
踵を返し、境内を蹴散らすようにして走り出す。半ば崩れた山門を跳び越え、そのまま裏山の斜面へと消えていった。
「追う!」
友紀が朱迅剣を握り直す。翔一も烈翔を呼び戻そうとした。
「追うな!」
慎悟の声が、その動きを止めた。
全員が動きを止めて振り返る。
「今追えば、また戦うしかなくなる」
「でも!」
友紀が食い下がる。
「今日は倒すために戦ったんじゃない」
慎悟の声は抑えていたが、迷いがなかった。友紀はしばらく兄を見つめていたが、やがて剣を下ろした。
灰色の巨体は、夕陽に染まる山の緑の中へ、完全に姿を消していた。
境内に、長い沈黙が降りた。
歩美は黄色い札を握ったまま、その場に立ち尽くしていた。
「私、何もできなかった……」
呟くように漏れた声に、莉奈が首を振った。
「違います。使わないって決めたのも、富津先輩の選択です」
説教のような響きはなかった。それは、後輩から先輩へ、静かに手渡された言葉だった。
歩美の表情は、まだ晴れていなかった。それでも、自分が「使わなかった」ことにも、確かに責任があるのだと、ゆっくり受け止め始めていた。
少し離れた場所で、寿蒙は何も言わず、ただその様子を見守っていた。
「あの人の中に……ちゃんと残ってた」
美奈子が小さく呟く。
「馬場翔之助が」
慎悟は焦げた札の残骸を見下ろしながら、口を開いた。
「斬牙は、人間に戻れないんじゃない。自分から戻らないようにしてる」
蓮が腕を組む。
「罪から逃げるために、鬼を鎧にしてるってことか」
「たぶんな」
慎悟は短く答えた。
今回、鬼を人間へ確実に戻す方法は見つからなかった。だが、確かな手応えはあった。
鬼の中にも、人間としての感情は残っている。莉奈の札なら、それを強制せずに触れることができる。美奈子なら、その奥にある本当の感情を読み取れる。そして歩美の札は、いずれ最後の一歩を踏み出すための力になるかもしれない。
勝利ではない。だが、前進ではあった。
◇
夕暮れの山道を、斬牙は走り続けていた。
息が上がっている。走るたびに、頬に何かがちりちりと痛む。さきほど、一瞬だけ人間の皮膚へ戻った場所だった。
ガトーの悲鳴が、耳の奥から離れない。
「俺は悪くない」
自分に言い聞かせるように呟く。
木の枝を払いのけ、足がもつれる。それでも止まらなかった。
「俺は悪くない……」
声はさっきより弱くなっていた。誰に向けて言っているのか、自分でも分からなくなっていた。
やがて足が完全にもつれ、斬牙は木の根元に膝をついた。荒い呼吸だけが、夏の山の闇に響く。
誰にも聞こえないほど小さな声で、それでも確かに、斬牙は呟いた。
「……戻りたくない」
鬼でいたいのではなかった。人間へ戻る先を思うと、指先が冷たくなった。
その本音が、初めて言葉になった瞬間だった。だが斬牙本人は、まだその意味を認めようとはしなかった。
灰色の巨体は、そのまま夏の山の闇の奥へと、静かに消えていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回、歩美が札を使えなかった場面は、彼女の弱さではなく、彼女なりの誠実さとして書きました。「助けたい」という気持ちと、「相手の人生を勝手に決めていいのか」という問いは、簡単には両立しません。
莉奈の「あなたの人生を私が決めたりしない」という一言は、彼女自身がまだ十六歳であることを思うと、なかなか重い台詞だったと思います。
斬牙の暴走を止めたのは、力ではなく「離れろ」という慎悟の判断でした。刀を抜かず、追わせもしない。前線に立たない指揮官としての彼の変化が、少しずつ形になってきています。
次話「怯える十六歳」では、逃げ延びた斬牙自身の視点から、彼が抱えている本当の恐怖の正体に迫ります。そして物語は、金津美里の思想が試される局面へと動き出します。
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




