第九章 一人分の夕食
北へ向かう国道で、俺は扉の話をした。
「あの部屋の奥に、扉が二つあった」
「二つ」
「右があんたの開けたやつだ。左は錆びてた。枠が膨れて、下の十センチが廊下側に出てた。あんた、あれを避けて歩いたろ」
龍さんはハンドルから片手を離して、俺の額に当てた。
「熱はないですね」
「ふざけるな」
「扉はひとつです。僕が開けた一枚だけです」
「案内図にも、一枚しか描いてなかった」
「でしょうね」
言い方に迷いがなかった。嘘をついている人間の間の取り方を、俺は知らない。二十年一緒にいた相手の嘘にも気づかなかった男だ。
左手と右手のことを、俺はまだ話していない。
話していない札が一枚あるうちは、こちらの負けが決まらない。
*
林は、置いていったときのままだった。
農道から四キロ。分岐の写真と、電柱と、道から見た形。四枚とも合っている。防風林の切れ目から入って、三十歩で暗くなった。
青い紐を探す。
根元から三本目の枝。葉の色に紛れて、思ったより見つからない。二周して、四周目で見つけた。九日、雨が二度降っている。紐は色が褪せていた。
「上ですか」
「七メートルくらい」
「僕が」
「あんたは下にいてくれ」
幹に足を掛けた。行きより登りにくい。九日前は追われていて、追われているあいだは腕が勝手に動いた。今日は動かない。三度滑って、四度目で股に手が届いた。
袋は、股の奥にある。
紐を解いて、肩に掛け、片手で幹を抱えて降りた。降りるあいだ中、背中の中身は動かなかった。
地面に足がつく。
袋を下ろして、ファスナーを十センチ開けた。
左手が出てきた。
出てきて、俺の頬を打った。返しでもう一度打った。音が林に響いて、上のほうで鳥が飛んだ。
俺は口の中を切った。血の味がする。
「……九日だ。閉じ込められてた」
左手は携帯を探した。携帯は上着の胸にある。取り出して渡すと、画面が光った。
【遅い。】
「わかってる」
【次は九月十一日。】
「知ってる。書いてある」
打つ手が止まった。止まって、それから俺の襟を掴んで、引き寄せた。顔の高さまで。指の力が、あの夜の車内と同じところに入っている。
息を止めて待った。
手は離れた。
顔を上げると、龍さんが三メートル先に立っていた。
こちらを見ていない。
俺の肩の横、宙に浮いた手首のあたりを見ている。
「……牧野さん」
「なんだ」
「手が、動いていますね」
俺は答えなかった。
答えずに、ファスナーを十センチ残して閉め、袋を背負った。
「ひとつ訊く」
「どうぞ」
「門は、この九日、どこにいた」
「車を探していたでしょうね」
「車は駅前の駐車場に置いてきた」
「なら、駅前にいます」
「九日もか」
「ああいう連中は、諦めが悪いんです。去年、資料室を壊したときも、三ヶ月張りついていました」
嫌っている声だった。嫌うのに理由の要らない相手のことを話す声だ。
「あんた、門のことになると言葉が増えるな」
「増えましたか」
「増えた」
「気をつけます」
龍さんは道に戻るまで、二度振り返った。二度とも、俺の顔ではないところを見た。
*
そこから十日、俺たちは北へ動いた。
龍さんは道を選ぶのがうまかった。高速に乗らない日を作り、乗る日は料金所を二つ手前で降りる。宿は二晩以上続けない。食事は一日のうち時間をずらして二回。
「なぜ見つからないんだ」
「僕は、向こうの探し方を知っているので」
「便利だな」
「便利なうちは、隣にいてください」
後部座席に袋を置いた。運転席の後ろだ。助手席は空けてある。
果歩は、助手席に乗る人だった。地図を見るわけでもないのに、必ず前に座って、窓を五センチ開けたがった。開けると俺が寒いと言い、閉めると彼女が眠くなると言う。その往復を二十年やった。
空けておく理由はない。理由はないが、袋を前に置く気にならなかった。
二日目の昼に、街道沿いの食堂へ入った。袋は背負ったままだ。車に置いて離れる気になれない。
「お客さん、そちらのお荷物、棚に上げましょうか」
「このままで」
「邪魔になりますよ」
「慣れてます」
店の女は袋を見た。口から十センチ、俺の耳の横に左手が出ている。指が三本、折れたり伸びたりしていた。
女は袋だけを見て、盆を置いて戻っていった。
龍さんは向かいに座っている。汁の椀を持ち上げるとき、一度だけ、俺の耳の横まで目を上げた。
「熱いうちにどうぞ」
「……ああ」
三日目の夕方に、試した。
峠の登りで、俺は後ろに手を伸ばしてファスナーを下げた。十センチ開けると、左手が出て、助手席のヘッドレストの上に載った。
龍さんがルームミラーに触れた。
角度を直したのではない。触って、少し下げた。下げた先に映るのは、後部座席の窓際だ。
俺はファスナーを閉めた。
三分待った。龍さんの指がまたミラーに来て、今度は上へ戻した。
もう一度下げた。ミラーが下がる。閉めた。上がる。
四度目で、龍さんが口を開いた。
「牧野さん。何をしているんですか」
「窓の開き具合を見てた」
「そうですか」
それ以上は訊かなかった。訊かないほうが、こちらとしては始末が悪い。
わかったのは、ひとつだけだ。
この人には、戻った部分が見えている。
見えているからといって、扉の件で嘘をついている証明にはならない。見えるものが多い人間は、世の中にいていい。ただ、見える人間が「ない」と言ったときの重さは、見えない人間が言うときとは違う。
ノートに二行足した。
登り坂で、龍さんが荷物を持つと言い出したことがある。五十メートルほど上がったところで足が止まった。手すりに掴まって、背中を丸めて、咳をする。ひとしきり続いた。
ハンカチを口から離して、畳んだ。内側を見せない畳み方だった。
「代わる」
「すみません」
十八か十九の顔をしている男が、俺より先に息を切らす。
その日の夜、宿の前で紙幣を出すとき、龍さんはまた一枚ずつ向きを揃えていた。
*
山麓の宿に入ったのは、九月十日だった。
六部屋しかない。玄関に傘立てがあって、番号を書いた札が下がっている。食堂は一階の奥で、券売機の前に品書きが貼ってあった。
「二部屋、お願いします」
「二名様で、二部屋」
「はい」
「相部屋のほうがお安いですけど」
「別々で」
帳場の女は書きながら、龍さんのほうを見た。
「お連れさま、ご兄弟」
「いえ」
「若い方ですねえ。息子さんかと」
龍さんが会釈をした。会釈だけで、何も言わなかった。
明日は登るのかと訊かれ、明後日だと答えた。天気の話を二往復して、鍵を二本受け取った。
龍さんは部屋に上がったきり、降りてこない。
俺は券を買った。
焼き魚の定食、並。
果歩と外で食べるときは、大盛りをひとつ取って分けた。彼女は三分の一ほどで箸を置き、残りをこちらへ寄せる。寄せ方が毎回同じで、皿を回して、脂の多い側を俺に向ける。二十年それだったので、俺はいまだに、自分が何人前食べるのかを知らない。
並は、ちょうどだった。
ちょうどだったことを、しばらく見ていた。
おしぼりの袋は、端から一センチのところに切り込みが入っている。そこを持って引くと、まっすぐ裂ける。裂いて、指を拭く。
公園からの帰り道に、あやが言っていた。
「お父さん、帰ろ。お腹すいた」
食べ終わって、湯呑みの茶を足した。
それから、鞄からノートを出した。
三つ書いてある。
二〇二四〇八二四一五一三。右に、到着十二時五十分、声十五時十二分から十三分、左手。
二〇二四〇八二七一四一五。右に、到着十二時四十分、声十四時十五分、右手。
二〇二四〇九一一一一四〇。右は、空いている。
明後日の、十一時四十分。
その下に、行を空けて、もう一行書いた。複写の便箋の文句を、そのまま写した。
わたしの体を見つけて、すべて燃やしてください。
ひとつは、順番に連れていけと言う。
ひとつは、見つけて燃やせと言う。
字は同じだ。行の頭の揃え方も同じだ。二枚とも、あの人が書いた。
俺はどちらにも従っていない。上の三行は、二つまで終わらせた。下の一行は、まだ誰にも渡していない。
龍さんと同じ車に乗っていることと、龍さんの説明を全部受け取ったことは、別だ。ノートに書いておけば、あとで自分が何を受け取ったのか数え直せる。数え直せるものだけを、俺は増やしていく。
ペンを挟んで、ノートを閉じた。
湯呑みを空にした。
立って、盆を持った。箸を皿の上に揃え、小鉢を寄せ、湯呑みを盆の端に置く。
食器返却口に、盆を置いた。




