第八章 太陽系の内側
扉の向こうは、長い通路だった。
電球が三十メートルおきに吊ってある。壁はコンクリートの打ちっぱなしで、床に水の筋が走っていた。男は懐中電灯を点けなかった。点けずに歩ける道を、何度も歩いている。
時間の感覚が消えた。
歩数を数えていたが、三千を越えたあたりで数えるのをやめた。ふくらはぎが張り、膝の裏が痛くなり、それから痛くなくなった。
突き当たりに、扉。
これまでの扉と違って、鍵穴がひとつあるだけだった。男が鍵を出し、回した。
光が入ってくる。
目が開かない。手のひらで庇を作って、指の隙間から外を見た。
空き地だった。砂利の上に軽が二台と、白い作業車が一台。奥に自動販売機が立っていて、その向こうに二階建ての家が並んでいる。犬が鳴いている。
一晩、歩いていた。
「乗ってください」
男は古いセダンの鍵を開けた。紺色で、後ろのバンパーに擦り傷がある。俺は助手席に座り、ベルトに手を伸ばした。
伸ばしたところで、銃口が俺の顔の横に来た。
引き金が落ちた。
頭を抱えた。腕の内側に熱が来て、そこで終わった。痛みが来ない。
指の隙間から見ると、銃口から炎が出ていた。
細い、頼りない炎だ。ライターの炎だった。
男が面を外す。
龍さんだった。
「言ったでしょう。騙されやすい」
俺は動かなかった。
動かないまま、七時間のことを順に並べた。廊下で二秒待たされ、監視の球の下を歩かされる。三重の扉は、いつも俺が先に入らされた。そのあいだずっと、俺はこの筒の先に背中を向けていた。
「……面白いですか」
「いいえ」
「銃を持ってない人間の歩き方を、七時間見てたんだ。楽しかったろ」
龍さんはライターを閉じて、上着の内側にしまった。しまうときに、指が少し震えていた。
「持っていると思わせるほうが、確実でした。刃物を出すより、誰も怪我をしません」
「それはあんたの都合だ」
「そうです」
否定しなかった。否定されるほうがまだ楽だった。
俺は車を降りて、自動販売機まで歩いた。小銭を入れて、一番安いものを押す。紙コップが落ちてきて、湯気の出る茶色が注がれる。取り出し口から抜くとき、縁を強く持ちすぎて、片側が潰れた。潰れた側から飲むと、唇に段が当たった。
龍さんも降りてきて、ボンネットに寄りかかった。
「訊きたいことがあるはずです」
「順番に訊く。答えられない質問があったら、答えられないと言え。嘘をつかれるより短く済む」
「わかりました」
「放送の連中は、知ってるのか」
「地上で撮っていることは知っています。何のために撮っているかは、知りません」
「真柴さんは」
「地上の放送と、四つの寝台までです」
「地下は」
「地下は、顧問と、僕と、あと数人です」
「果歩は」
龍さんが答えるまでに、間があった。
「知っていました」
紙コップの段に、また唇が当たった。
三ヶ月、俺は画面の前に座っていた。果歩が手すりに掴まって体を回すのを見ている。あれは、俺に見せるために回っていた。
「体を探してるのは、誰の指示だ」
「榊です」
顧問が抜けた。抜けたことに、俺のほうが先に気づいた。
*
「太陽系は出られません」
龍さんが言った。
「順番に訊くと言ったはずだ。いまのは何番目の答えだ」
「一番目の質問の、根です」
「根は後でいい。先に、なぜ嘘が要るのかを聞かせろ」
龍さんは上着から封筒を出した。厚い。ボンネットの上で口を開け、紙を広げた。風が来たので、俺は財布から小銭を出して四隅に置いた。
軌跡の図だった。
中心に丸があって、そこから線が外へ伸びている。線は途中で曲がって、丸のほうへ戻ってきていた。
「無人の試験機です。二十七回」
「二十七回、全部戻ってきたのか」
「戻ったのではありません。戻されました」
「同じことに聞こえる」
龍さんは図を三枚並べた。年が違う。七年前、四年前、去年。線の曲がる位置が、三枚とも重なっていた。
「距離が同じです」
「……偶然じゃないのか」
「二十七回です」
俺は図に顔を近づけた。目盛りの読み方はわからない。わからないが、三本の線が同じところで同じ向きに曲がっていることは、目盛りが読めなくてもわかる。
「これは、あんたたちが作った紙だ」
「そうです」
「あんたたちが線を描けば、線はどこでも曲がる」
「描けます」
龍さんは否定しない。否定しないので、こちらが引っ込みにくくなる。
「牧野さん。この紙だけで信じてほしいとは言いません。あと二つ、別のところから来た材料があります」
「見せろ」
「いまは持っていません」
「じゃあ今の話は、そこまでだ」
龍さんが頷いた。頷いてから、咳が出る。片手を口に当てて、背中を丸めて、しばらく戻らなかった。
俺は待った。
「フェルミという人が、昔、妙なことを言いました」
咳が収まってから、龍さんは言った。
「星の数だけ文明があるなら、なぜ誰も来ないのか、と」
「それは俺でも思いつく」
「答えのひとつが、どの文明も自分の恒星系から出られない、というものです」
「仮説だろう」
「仮説です。僕らは、仮説の内側にいる人間の見え方を知りません」
紙コップが軽くなっていた。飲みきって、潰れた縁を指で押し戻す。戻らない。
「基礎の研究が、十年、動いていません」
「動いてない研究なんか、いくらでもあるだろ」
「あります。だから、それだけでは何も言えません」
「じゃあ何が言える」
「同じ距離で曲がることと、動かないことが、同じ頃から並んでいます。並んでいることしか、言えません」
言い切らない答えだった。言い切らない答えのほうが、こちらの喉には通った。
「それで、嘘が要るのか」
「出られないと知れたら、人は取り合いを始める。顧問はそう考えました」
「あんたは」
「僕は、その理屈で嘘をつく側にいました。理屈が正しいかどうかは、別の話です」
俺は図をまとめて、龍さんに返した。
返す手が、思ったより落ち着いていた。三ヶ月ぶんの十四時間が地面の上で撮られていたと知った夜に、太陽系が檻だと聞かされている。大きすぎる話は、入ってこない。入ってこないぶん、手は普通に動く。
「果歩たちは、どこで死んだ」
「地上です。あの部屋で」
「何があった」
「五人が、急に互いを傷つけました。放送を切って人が入ったときには、四人が倒れていて、果歩さんがいませんでした」
「なぜ」
「わかりません」
「わからないのか」
「わかっていれば、僕はあなたを探していません」
*
俺は車に戻って、ドアを閉めた。
閉めてから、窓を下ろした。龍さんが外に立っている。
「まだある」
「どうぞ」
「あんたの動機が、わからない」
龍さんが、上着の内側を上から一度押さえた。
「宙開は果歩を探してる。あんたも探してる。同じだ。中にいれば人も金も使える。裏切る必要がない」
「……」
「良心が痛んだ、はやめてくれ。七時間、俺の背中に筒を当てた人間の言うことじゃない」
龍さんは車のドアの縁に手を掛けた。掛けてから、運転席側へ回って乗り込んだ。ダッシュボードの物入れを開けて、四つ折りの紙を出す。
広げると、複写だった。便箋を写したものだ。
字が、果歩だった。
わたしの体を見つけて、すべて燃やしてください。
それだけが、真ん中に書いてある。
「あの事故のあと、果歩さんが機構に残した唯一の文字です」
「原本は」
「榊が持っています。僕には出せません」
俺は複写を持ち上げて、光に透かした。透かしても何も出ない。当たり前だ。
行の頭が揃っている。
左の端から、一字ぶんも外れていない。
「燃やす」
龍さんが言った。
声の温度が、そこで落ちた。
「顧問は、そのとおりにするつもりです。体も、記録も。四つの寝台ごと灰にして、計画をなかったことにする」
「あんたは反対か」
「反対です」
龍さんがハンドルを両手で掴んだ。掴んで、二度、叩いた。三度目はなかった。
「あれは、鍵かもしれないんです。人が三百年かけても届かなかったところへの。それを、怖いから燃やす」
「怖い、はあんたの言葉か、顧問の言葉か」
「……僕の言葉です」
「じゃあ顧問は何と言った」
龍さんが黙った。黙ってから、答えた。
「管理できないものは置いておけない、と」
俺は頷いた。怒鳴った人間の言い分より、そっちのほうが信用できる。人は自分の理屈を言うとき、怒鳴らない。
「もうひとつ」
「どうぞ」
「この複写は、俺が預かる」
「原本は持っていてください。僕には写しで足ります」
噛み合わなかった。
「原本の話はしてない。俺が持ってるのは、別の紙だ」
龍さんの手が、ハンドルの上で止まった。
俺は上着の内ポケットからビニール袋を出した。袋の口を折り返して、四つ折りの封筒を抜く。膝の上で開いて、ダッシュボードの複写の隣に並べた。
同じ字だった。
三つの塊と、十二桁。塊の頭が、一字ぶんも外れずに揃っている。
その隣に、便箋。
わたしの体を見つけて、すべて燃やしてください。
こちらの紙には、日付の順に連れていけと書いてある。




