第七章 放送室の裏側
部屋に窓はなかった。
寝台がひとつ。机。椅子。机の上に水差しと、伏せたコップ。扉には内側に取っ手がついていて、押せば開く。押して確かめる。開いた先の廊下に男が二人立っていて、片方が会釈をした。俺は扉を閉めた。
榊顧問の言い方は最後まで丁寧だった。今夜はここで休んでほしい、話は明日でいい、と。断る形は用意されていない。
横になって、天井の継ぎ目を数えた。
四つ並んだ寝台のことを考える。触った感触が、まだ手のひらに残っている。肩の下に手を入れて、片手で上がった。あの軽さを、俺は一度、自分の家の台所で持ち上げている。
だから、あの紙は。
そこまで行って、毎回止まる。止まるたびに、また四つの寝台から始める。
二時間、それを繰り返した。
声が聞こえたのは、三時間目だ。
「騙されやすいんですね」
俺は起き上がった。
扉が開いている。廊下の光が床に長く伸びて、その真ん中に人が立っていた。面をつけている。白でも赤でもない、樹脂のような色の面だ。目のところだけ穴が開いている。
手に銃があった。
「……誰だ」
「それは重要ではありません」
声がこもって、輪郭が潰れている。聞いた覚えがある声だと思った。思っただけで、誰とは結びつかない。
「殺しに来たなら、早くしてくれ」
「持ってきたのは死ではなく、事実です」
面の男は銃口を少し下げた。下げただけで、しまわない。
「いま死ぬと、あなたは後悔します」
「どういう意味だ」
「知りたければ、ついてきてください」
男は廊下へ出ていった。足音が三歩ぶん遠ざかって、止まった。待っている。
俺は靴を履いた。
死ぬと決めた人間に、危険も未知も残っていない。そう思って立ち上がったのだが、立ち上がってみると、靴紐を結ぶ手はいつもどおりに動いていた。人の体は、頭が決めたことをそこまで聞かない。
*
夜の施設には人がいた。
等間隔の足音。角を曲がる前に、光が先に来る。面の男はそのたびに俺の肩を押さえ、二秒待ち、行けと合図した。二秒のうちに、廊下の先で光が向きを変えている。
監視の球が天井についている場所では、壁の側を歩かせた。球の真下だけは、堂々と通る。
暗証の扉を三度通った。指、顔、テンキー。昼に龍さんがやっていたのと同じ手順を、この男は俺の倍の速さで済ませた。
宙開の人間だ。しかも下のほうではない。
俺は数えることにした。
エレベーターは使わなかったから、階は変わっていない。右に二回、左に一回、階段を下って一階ぶん。突き当たりの手前に消火栓。その先の壁に、避難経路の案内図が貼ってあった。俺は歩きながら首だけ回して、部屋の形と、扉の数を見た。
通路の突き当たりに、扉が二つ並んでいる図だった。
「見ないでください」
「見てない」
「首の向きでわかります」
「出口は覚えとく。あんたが途中で気を変えるかもしれない」
面の中で、息が笑いの形になった。
最後の扉は、それまでのどれよりも厚かった。開くのに四十秒かかった。
*
中は、体育館のような高さがあった。
照明が上のほうに並んでいて、床まで届ききらない。その薄い明かりの中に、白いものが立っていた。
ロケットだ。
胴に【新人類計画】と書いてある。文字の書体まで、打ち上げの日に見たものと同じだった。周囲には、映画で使うような大きな布が吊ってある。青い布。緑の布。床には養生テープで印がつけてあった。
「航空のことは、妻から聞きかじった程度です」
俺は近づいた。
「使ったロケットって、こんなに綺麗に残るものなんですか」
「見えているものが、そのままとは限りません」
答えになっていない。答えになっていないことが答えだった。
俺は胴に触れた。
爪が沈んだ。
厚紙と、樹脂だ。強く押すと面がたわんで、内側で骨組みの棒に当たる。継ぎ目には貼り合わせのテープが見えていた。火を近づければ、それで終わる。
「……模型かもしれない」
声に出した。男に言ったのではない。
「模型を、この扉の奥に置きますか」
「置くかもしれない」
「四十秒かけて開ける扉の奥にですか」
俺は答えなかった。男も待たなかった。
ロケットを回り込んだ先に、また扉がある。開けると通路があり、通路の先にまた同じ扉がある。三重を抜けて、次の部屋に入った。
そこで、胃が動く。
壁の色を知っている。手すりの高さも、天井の管の走り方も知っている。三ヶ月のあいだ、毎日十四時間見ていた部屋だ。果歩がこの手すりに掴まって体を回し、この壁際でパウチの口を切っていた。
床が、平らだ。
俺は膝をついて、床に手をついた。平らだ。撮られている側の床が平らであることの意味を、頭が追いつく前に、手のほうが先に理解していた。
「十四時間だけ放送するのは、宇宙飛行士にも休息と私生活が必要だからです」
男が言った。
「残りの十時間、五人は部屋を出て、寝て、次の収録の準備をします」
「……準備」
「言い方を選ぶなら、そうなります」
*
奥に机があった。
作業用の椅子が三脚。布張りの座面が毛羽立って、座る位置のあたりに毛玉が固まっている。俺は一番手前の椅子を引いて、座らずに、机の上を見た。
収録の予定表があった。日付と、時刻と、内容の欄。八月の頁に、十四時間の枠が細かく割ってある。枠のひとつに「再送」と書いてあった。その隣に、別の日付。
俺は携帯を出した。
三週間前に切り取った十秒が、まだ残っている。
船内時計の表示が二分戻る。配信側の時刻は前へ進む。五分の遅延は公表されている。遅延は、時刻が戻ることを説明しない。
予定表をめくった。俺が切り取った日の枠に、「再送」の二文字があった。
当直の記録は別の綴りにあった。名前と、時間と、押印。その日の当直は二人で、どちらも深夜の欄に印がない。撮っていない時間に、放送は流れていた。
映像は、撮った日に流れるとは限らない。
当たり前のことだ。当たり前のことが、ここでは全部こちら側に倒れてくる。
操作台の端に、小さなものが置いてあった。
俺は手を伸ばして、止めた。
首飾りだ。
打ち上げの二ヶ月前に、俺が買ったものだ。高いものではない。買って三日で留め金が壊れて、駅前の店に出した。店の男が、金具を替えるより溶かしてつけるほうが早いと言って、そうした。仕上げに、爪の先ほどの盛り上がりが残る。俺は見栄えが悪いと言い、果歩は引っかからなければいいと言った。
盛り上がりは、そこにあった。
指の腹で撫でると、同じところで爪が止まる。
放送の中で、果歩は毎日これをつけていた。襟のあいだから鎖が出て、作業のたびに揺れる。三ヶ月見ていた。
俺は首飾りを持ち上げて、また置いた。置いた位置は、持ち上げる前と一ミリも変えなかった。
模型だけなら、疑いで済む。
予定表と、当直の綴りと、この留め金が同じ部屋にある。
果歩は、知っていた。
*
「時間です」
男が言った。
俺は立ち上がれなかった。膝が笑っているのではない。立ち上がると、この部屋を出ることになる。出れば、いま見たものは記憶の側に移る。記憶は、この十日で何度も嘘をついている。
「牧野さん」
「……ああ」
「ここは放送に映らない側です。行きましょう」
男が部屋の最奥へ向かった。放送画面に入らない角だ。壁に沿って、機材の箱が積んである。その裏へ回った。
扉が二つ並んでいた。
右は、ここまでと同じ暗証の扉だった。パネルが光っている。
左は、錆びていた。
枠から面から、全部が赤茶色に膨れている。蝶番のあたりは膨れが厚く、塗装が浮いて剥がれかけていた。海沿いの倉庫で三十年放っておいた扉が、この部屋の壁に嵌まっている。
男が右のパネルに指を当てた。
当てながら、体が左へ寄った。寄って、すぐ戻った。錆びた枠の下のほうが、十センチほど廊下側へ出っ張っている。そこを避けた動きだった。
「そっちの扉は」
「急いでください」
「訊いてる。そっちは何だ」
「開きます。入ってください」
押し込まれた。
入りながら、俺は首だけで振り返った。
さっき、避難経路の案内図を見ている。突き当たりの手前、消火栓の先。部屋の形と、扉の数まで覚えている。
図には、扉がひとつしか描かれていなかった。




