第六章 四つの寝台
車は二時間走り、それから一時間、外が見えなかった。
後部座席の両脇に男が座った。俺は膝に手を置いて、下を向いていた。見るなと言われたわけではない。見たら降ろしてもらえなくなる気がして、自分で下を向いた。
止まったところで目を開けると、コンクリートの壁と、白い管と、床の誘導線だけがあった。
エレベーターに乗せられた。
降りた先の廊下は明るい。掃除が行き届いている。壁の低い位置を、色分けしたテープが走っていた。
突き当たりの部屋に通された。
長椅子。低い机。壁に絵はない。給湯の台に紙コップが伏せて積んであって、一番上の一つだけ、縁が指の形に潰れていた。
「お茶でよろしいですか」
「……結構です」
出てきたのは紙コップではなく、ちゃんとした湯呑みだった。
熱い。湯気の出方が、家のそれと違う。うちの安い急須は、茶葉より先に湯が冷める。ここの茶は、二口飲んでもまだ熱かった。
三口目で、向かいに人が座っていることに気づいた。
若い男だ。
十八か、十九。細身で、スーツを着ている。着せられている感じではない。自分の体の寸法を正確に知っている人間の着方だった。
合わないのは、座り方だ。背もたれに寄りかからず、膝の角度を変えず、両手を膝の上に置いている。若い人間の姿勢ではない。
「牧野さん、長旅お疲れさまでした」
声が少しかすれていた。
「僕は龍といいます。龍さん、で結構です」
「……宙開の方ですか」
「許可をいただいて、ここの仕事に入っています」
後ろの扉が開いて、真柴が入ってきた。
「龍さん、二番の鍵、戻しておきました」
「ありがとう。真柴、この前の立替、いま返します」
龍さんが上着から札入れを出した。
机の上に紙幣を置く。一枚ずつ、向きを揃えて重ねていく。向きというのは、表裏のことではない。印刷された顔が全部同じほうを向くように、置き直している。三枚置いて、端を指で二度撫でて揃え、それからようやく差し出した。
真柴は受け取って、数えずに畳んだ。見慣れているのだろう。
俺だけが、その手つきを見ていた。
「ここまで、どのくらい来たんですか」
「駐車場からですか。三町ほどです」
「さん……」
「……三百メートルほど、と言ったほうがいいですね」
龍さんが笑った。笑い方は若かった。
「癖です。すみません」
その拍子に、襟の内側から細い鎖が覗いた。首に掛けている。金でも銀でもない、くすんだ色だ。指で押し戻して、襟を直した。
扉が開いた。
真柴と龍さんが同時に立った。
「榊顧問」
杖をついた老人が入ってきた。小柄で、背中が丸い。歩幅が靴一足ぶんしかない。机の端まで来るのに十秒以上かかった。
上座に座り、杖を両膝のあいだに立てて、その上に両手を重ねた。杖は、そのために使われていた。体を支えるためだ。
「牧野君」
「……はい」
「人が洞窟から出たのは、腹が減ったからではない」
答えようがなかった。
「外に何があるか知りたかった。それだけだ」
「はあ」
「だから我々は嘘を憎む。人と事実のあいだに立つのは、嘘だけだからな」
老人が顔を上げた。目はよく見えていないほうだと思う。それでも、俺の顔の位置は正確に捉えていた。
「あの通報のあと、君は何をした」
*
「……何のことか、わかりません」
「牧野君」
「本当に」
真柴が端末を机に置いて、こちらへ回した。
写真が二枚。
一枚目は敷石の広場だ。人が外へ向かって走っている。その流れの中に、一人だけ止まっている男がいる。拡大されていた。俺だ。
二枚目は石段。同じだった。同じ顔で、同じように止まっている。
「確認します。この二枚、牧野さんで間違いありませんか」
「……その写真じゃ、俺がいたことしかわからないだろ」
「ええ」
真柴は否定しなかった。
「鞄の中は写っていません。それで、何を運んでいたんですか」
答えなかった。
「牧野さん。私たちが現場にいたのは、あなたを探していたからではありません。門を追っていました。あなたが写っていたのは、こちらにとっても予定外です」
「……偶然だと」
「二度目は偶然と言いません」
窓のない部屋で、湯呑みだけがまだ熱かった。
俺は両手でそれを持って、話した。
果歩が通報の夜に帰ってきたこと。血がついていたこと。紙に場所と時間を書いて、順番に連れていけと言って、死んだこと。
そこで止めた。
両手のことは言っていない。体がどうなっているかも、どこに置いてあるかも言わない。
榊顧問は、途中で一度も口を挟まなかった。話し終えると、杖の上の手を組み直した。
「奥さんの体は、いまどこにある」
「言いません」
「牧野君」
「言いません。何が起きてるのか、俺のほうが何も知らない。知らないまま渡すのは、無理です」
沈黙が長かった。龍さんが顧問のほうを見て、顧問は誰も見なかった。
「では、見せよう」
杖の先が、床を一度だけ突いた。
「見せたうえで、もう一度聞く」
*
地下二階だった。
エレベーターの表示は数字ではなく、記号だ。降りると、さっきより幅の狭い廊下が伸びていた。長い。歩数で二百を越えた。
途中に扉がいくつもある。どれも同じ形をしている。
龍さんが止まった扉も、同じ形だった。
「少し、かかります」
指を当てる。顔を近づける。テンキーを打つ。打ち終わってから壁の受話器を取って、短く話した。それから、もう一度打った。
「……これ、毎回ですか」
「毎回です。僕の権限でも、ここは飛ばせません」
錠の落ちる音がして、扉が内側へ引かれる。
出てきたのは、冷気だった。
俺は首をすくめた。
部屋は広くない。教室の半分くらいだ。天井を見た。壁も見た。吹き出し口がない。冷房の機械も置いていない。
冷たいのは、部屋ではなかった。
寝台が四つ並んでいる。布が掛かっている。
龍さんが先に入って、手前の布の端を持った。
「牧野さん。先に言っておきます」
「……ああ」
「気分が悪くなったら、廊下へ出てください。誰も咎めません」
布が上がった。
四人いた。
男が三人、女が一人。顔は知っている。三ヶ月、毎日画面で見た顔だ。計画の五人のうち、果歩を除いた四人が、ここに並んでいる。
全員、白かった。白くて、向こうが透けている。腕の内側の血管に、動かない緑が詰まっていた。
果歩と同じだ。
違うのは、傷があることだった。それぞれ別の場所に、致命的だとわかる傷がある。果歩にはなかった。果歩は血を吐いて止まった。
俺は手前の寝台に近づいて、手を伸ばした。
「触っても」
「どうぞ」
肩の下に手を入れて、持ち上げた。
片手で上がった。
手を離した。
「通報を出した日の、深夜です」
龍さんが言った。
「この建物に、二人入りました」
「……二人」
「盗んで出ていくところを、全員で押さえました。押さえてから、顔を見ました」
真柴が続けた。
「死亡が確認されている二名でした」
指先の感覚が、この部屋に入ってから順に落ちていた。
「同じ夜、別の場所でも二人。近づくなと警告して、止まらなかったので、撃たれています」
「……残るのは」
「一人です」
誰も、その名前を言わなかった。
榊顧問は廊下に立ったまま、中へは入らない。入口の枠に手をかけて、そこから言った。
「宇宙で、何かに遭ったのだろう」
「顧問」
「遭った相手が、姿を借りて戻ってきた。いまのところ、我々の説明はそれだ」
「いまのところ、ですか」
「私は、確かめたものしか言わん。確かめたのは、そこに四つある、ということだけだ」
俺は四つの寝台を見ていた。
これは本物だ。触った。軽くて、冷たくて、果歩と同じだった。
同じだということは、果歩もこうだったということだ。
だとすれば、あの夜、玄関の鍵を右へ回して引いたのは、誰だ。
鍵の話を知っていた。舌打ちのことも知っている。知っていて、あれは俺の手首から熱を抜いた。
紙に三つ書いた。
そのあと左手は、俺が紙を出す前に、二つ目の位置を指している。
あの手は、あの紙を最初から知っている。
最初から知っているなら、あの紙は、あの手の側のものだ。
俺は二つ、運んだ。
言われたとおりに、順番に。
「牧野さん」
真柴だった。
「奥さんから、ほかに受け取ったものはありませんか。物でも、言葉でも」
俺は内ポケットの中で、ビニール袋の角を指で探した。
封筒は四つに折ってある。折り目のところを親指と人差し指でつまんで、もう一折り、小さくした。袋の中で紙が鳴る。四人ぶんの冷気の中で、その音だけが、俺の体温の側にあった。
渡せば、たぶん戻ってこない。
戻ってこなくて、それで正しいのかもしれない。
正しいのかもしれない、と思いながら、俺は指を離さなかった。
「牧野さん」
「……いや」
俺は言った。
「何も、もらってない」




