第五章 車を捨てる日
鷲坂を出てから、耳のうしろで音がするようになった。
声だ。人の声の高さで、言葉になっていない。運転中は聞こえない。信号で止まった瞬間や、飯を食い終わって箸を置いた瞬間に、後ろから入ってくる。
同じ並びが何度も出た。四つの音のかたまりが二回。少し置いて、長い一続き。頭の三つは毎回同じだ。
サービスエリアで、俺はそれを覚えて、翻訳のアプリに吹き込んだ。音節は間違えていない。それだけは自信がある。
結果は、該当なしだった。
言語を自動判別にしても、片端から選んでも、同じだ。
携帯を伏せて、シートを倒した。
夢を見た。
広い建物の中にいた。天井が高い。長椅子が両側に並んで、人が座っている。前のほうで誰かが唱和していて、何を唱えているのかは聞き取れない。俺はいちばん後ろに立っていた。
前に立った人が、手のひらの上の何かを読み上げた。読み終えると、人々が立ち上がり、出口へ向かって歩きはじめる。
俺も出るつもりで、振り返った。
出ていった人たちが、戻ってきていた。
自分の足で戻ってきたのではない。背中から引かれている。かかとが床をこすり、上着の裾が前へめくれて、後ろ向きのまま、もとの席まで運ばれていく。
引いているのは、細い線だった。
天井から下りている。
暗くなった。
外の光が入らなくなったのではない。天井の側から、光が減った。
俺は上を見た。
脚があった。
建物の幅の半分ほどを占めて、それは天井にいた。腹のほう、脚の付け根のほう、見えるところの全部に、赤い点が並んでいる。並んでいるのは点ではなく、開いているものだ。線はそこから出ていた。
「……何だ、あれは」
前のほうで、声がした。
「あれは、どこに」
人影だった。さっき手のひらの上のものを読んでいた人が、光の減ったところに立っている。
「上だ。頭の上」
「ああ」
その人は、手の中のものを撫でていた。
「見えるようになったんですね」
「見えるも何も、いま出てきた」
「出てきていません」
俺は後ろへ下がろうとした。足が床から離れない。
「あなたが歌っているあいだも、座っているあいだも、朝に目を覚ますときも、そこにいました」
それだけ言って、その人は口を閉じた。
赤い点が、またひとつ開いた。
線が来て、俺の襟を掴んだ。
*
襟を引かれて、目が覚めた。
引いていたのは左手だ。右手が携帯を持って、俺の顔の前に出している。
【追手。起きろ。】
窓の外を見た。
サービスエリアの駐車場に、ピックアップが三台入ってきている。うち一台は、俺の車の斜め後ろに尻を向けて停まった。出口を潰す位置だ。
三人、降りてきた。歩き方が遅い。急いでいない。
街灯の下で、襟が見えた。
キーを回して、ライトを上向きにした。
三人が顔をそむけた隙に、バックへ入れて踏んだ。
後ろのピックアップの前に当たって、車体が斜めになる。当たった側のドアミラーが飛んだ。できた隙間に、ハンドルを切って抜けた。
本線へ出るまでに、後ろで三台ともライトが点く。
それから三日、同じことが繰り返された。
一度目はインターで降りて、下道を二時間走った。撒いたと思った四時間後、田んぼの一本道で、対向車線に例のピックアップがいる。
二度目は逆の方角へ二百キロ戻って、山越えの道を取った。峠の駐車帯で寝て、夜明けに起きたら、五十メートル下の待避所に一台停まっていた。
三日のあいだに、両手が口を出したのは二度だけだ。
一度目は峠の下りで、【左。】と打った。左は行き止まりだ。行き止まりの手前に待避所があって、俺はそこへ車を入れ、ライトを消した。二分後、下から二台上がってきて、峠の上へ抜けていった。
二度目は給油のときだ。【降りるな。】
降りなかった。セルフの給油機の前でエンジンをかけたまま十五分座っていて、後ろに並んだ軽にクラクションを鳴らされる。結局、何も来なかった。
役に立つことは言う。理由は言わない。
三日目の朝、俺はエンジンを切って、両手をハンドルにのせた。
左手が携帯を取った。
【降りろ。私たちを前へ。】
言われたとおり、両方をボンネットの上に置いた。
二つの手がまたねじれて、一本になる。線の先の指が、塗装に触れた。十秒ほどそうしていて、ほどけた。
携帯に出た。
【印は車に付いている。私には外せない。】
「外せないって、どういうことだ」
【外せない。】
「機械なら外せる。車の下だろ。工場へ持っていけば」
【そういう種類ではない。】
「じゃあ、どういう」
右手が、俺の手首を掴んだ。強くはない。掴んで、車のほうへ向けた。それから、袋のほうへ向けた。
車と、袋。
二つを順に指せば説明は終わりだ、という態度だった。
*
一時間考えて、俺は車と袋を分けることにした。
地図で林を探した。国道から農道へ入って、四キロ。防風林と雑木が混ざっていて、道から中が見えない。車を路肩に寄せ、袋を背負って入った。
中は暗かった。八月の午後で、足元だけが夕方になっている。
埋めるつもりだった。
スコップは後ろに積んである。三日前、量販店で別の物を買ったついでに買った。
袋を下ろし、口を開けたところで、右手が出てきて、俺の手からスコップを叩き落とした。
【土には入れない。】
「なんでだ。地面の下のほうが安全だろ」
【入れない。次に言えば、殺す。】
俺はスコップを拾って、車へ戻した。
代わりに、木へ上げた。
幹が三本に分かれた大きいのを選んで、根元から七メートルほどの股に袋を押し込んだ。ビニール紐を二重に回して、枝に結ぶ。下から見上げると、葉に隠れて色も出ない。
目印は、根元から三本目の枝に巻いた紐にした。紐は青。この林に、ほかに青いものはない。
降りるときに、手のひらを擦った。
下から見上げた。
葉と枝しか見えない。見えないように仕舞ったのだから、見えないのが正しい。正しいことをした手が、樹皮を握った形のまま、しばらく開かなかった。
果歩は、こういう場所が嫌いだった。虫が、ではない。土の匂いが服に残るのが嫌だと言って、あやの遠足の荷造りを俺に押しつけたことがある。
押しつけられたのは一度だけだ。二度目からは、自分でやっていた。
林を出て、車に乗る前に、来た道の写真を四枚撮った。分岐と、目立つ電柱と、農道から見た林の形。ノートにも書いた。写真が消えることはないと思うが、思っていたことは、この一週間で何度も外れている。
そこから三十キロ走って、小さい町に入った。
駅前のコインパーキングに車を入れた。屋根なし、二十四時間の最大料金あり、出入口は一箇所。見つかりやすい場所を、わざと選んだ。
駅の裏に、中華そばの店があった。暖簾の色が抜けている。中には俺のほかに二人。
「並。チャーシューのせてください」
「はいよ」
「あと、水いただけますか」
「勝手にやって。そこのポット」
主人は麺を茹でながら、手を止めずに続けた。
「兄さん、旅行」
「そんなところです」
「この辺、なんもないよ」
「そうみたいですね」
「なんもないから、みんな出てく。うちの倅も出てった」
俺は頷いて、丼が来るのを待った。
おしぼりの袋の切り込みは、端から一センチのところに入っていた。そこを持って引くと、まっすぐ裂ける。裂いて、指の付け根と、爪のあいだと、手首まで拭いた。樹皮の粉が落ちた。
そばが来るまでに、段取りを並べた。
駅前にレンタサイクルの看板が出ていた。一日七百円。自転車で林まで戻るには二時間かかる。二時間かけて戻り、袋を回収して、車は置いていく。置いていけば、連中はこの駐車場へ来る。俺はそこにいない。
そばは旨かった。
三杯目の水を飲み、勘定をして、暖簾をくぐる。
午後の日が、路面から返ってくる。
肩に、左右から手が入った。
「動かないで。歩いてください」
男の声だ。感情の高さがない。
腰の後ろに、硬いものが当たっていた。それが何かは、当てられているあいだ考えないほうがいい。
「荷物は」
「持ってません」
「そうですか。背中、空っぽですね」
その言い方が引っかかった。引っかかったが、歩かされる。
十五分ほど、日陰と日向を交互に通った。店の勝手口が並ぶ路地に入って、止められた。
黒いセダンが停まっている。
ピックアップではない。
扉が開いた。
降りてきたのは、林でも峠でも見た覚えのない靴だった。
「お久しぶりです、牧野さん」




