第四章 右手の重さ
音には規則があった。
三回、間を置いて、三回。布を通して硬いものを叩く音だ。
俺は両手をハンドルから離し、膝に置いた。置いてから、また戻した。
エンジンを切る。
音はつづいている。
金具を外した。
蓋を起こして、シャツをどけた。
果歩は昨日と同じ姿勢で入っていた。同じ色で、同じだけ透けている。
左手だけが、違った。
透けていない。白くもない。血管の緑も消えている。手首から指先まで、肌の色が戻っていた。戻りすぎていた。爪の生え際の形も、節の皺も、俺が知っている果歩の左手より整っている。二十年、皿を洗って、伝票をめくって、冬にあかぎれをつくってきた手ではない。
見ているあいだに、人差し指が持ち上がった。
俺は背中をドアに押しつけた。
指はダッシュボードを差した。そこに俺の携帯が置いてある。
渡すべきかを考えた。考えているうちに、手のほうが動いた。腕の途中から先だけが、肩を連れずに起き上がり、携帯を掴む。
画面が光った。メモ帳が開いて、文字が並んだ。
【行け。】
「……どこへ」
【書いてある。】
「紙のことか」
【順に。】
俺は内ポケットのビニール袋に触れた。触れただけで、出さなかった。
「果歩」
打つ手が止まった。
一秒。二秒。
【果歩ではない。】
自分の喉が鳴るのを聞いた。
「じゃあ何だ」
【運べ。】
「答えろ。全部の場所へ行ったら、果歩は戻るのか」
【次の場所へ行け。】
「戻るのかと聞いてる」
携帯が、俺の膝の上に落ちた。
拾おうとしたところで、指が喉に掛かった。
力の出どころがわからない。肘から先しかないものに、体ごと座席へ押しつけられている。俺は両手でその手首を掴んだ。動かない。踵でフロアを蹴った。動かない。
視界の縁から、順に暗くなった。
離れた。
咳が止まらない。涙が出て、ハンドルに垂れた。襟が濡れていた。
携帯が差し出された。
【二度目はない。】
「……名前は、あるのか」
【名は要らない。運べ。】
その手が、俺の胸のあたりを差した。内ポケットだ。それから指を二本立てて、下へずらした。
三つの塊の、二つ目。
書いてある位置を、この手は知っている。
俺は紙を出していない。開いてもいない。
「お前」
言ってから、その言葉が自分の口から出たことに気づいた。
「お前は、道順を知ってるんだな」
左手は動かなかった。
「あの紙は、果歩の字だ」
携帯が持ち上がった。
【そうだ。】
「だったら、書いたのは果歩だ」
【そうだ。】
「じゃあお前は何だ」
携帯がシートに置かれた。画面が暗くなるまで、俺はそれを見ていた。
*
その夜、車の中でずっと同じことを考えていた。
道順を知っていることと、果歩が戻ることは、別だ。乗り換えの駅を知っている人間が、こちらの行き先を望んでいるとは限らない。
わかっている。
わかっていて、俺は翌朝アクセルを踏んだ。
出発の支度をしているあいだに、左手が携帯で一言打った。
【蒸れる。】
「……は」
【箱はやめろ。】
文句だった。文句を言われている。俺は運転席で五秒ほど、本当に何も考えられなかった。
背負う形の搬送袋を、道路沿いの量販店で買った。登山用の大きいやつだ。袋に移した。その十分のことは、思い出さないようにしている。終わってから、駐車場の便所で吐いた。
ファスナーは、上を十センチだけ開けたままにさせられた。閉めようとすると、内側から指が挟まる。
鷲坂観音までは六時間半だった。日は三日ある。急ぐ理由がないぶん、考える時間があった。
考えないことにして、サービスエリアで二晩寝た。
靴下の縫い目は、親指の付け根から、歩いているうちに土踏まずのほうへ回っていた。歩くと当たる。止まると当たらない。遺跡のときと逆だ。新しいのを買えばいい。買わなかった。
観音は、岩壁に彫られていた。
高さは七十メートルあると案内にある。近代に補修と整備が入って、足元まで石段が通っていた。膝の高さの柵。柵の向こうは、参観の順路に入っていない管理区域だ。
参道は人で詰まっている。
「七十メートルって、ビルだと何階分」
「二十階くらいじゃないの」
前を行く二人組が、首を反らせたまま話していた。
袋を背負って歩くと、上の隙間から左手が出た。俺の肩の横で、手のひらを上に向けて風を受けている。
誰も見ない。
前から来た子供が、まっすぐ俺の肩の横を見た。見て、通り過ぎる。目の焦点は、手を通り越して俺の顔に合っていた。
係員が寄ってきた。
「お客さん、大きいお荷物は前で持ってください」
袋は見えている。
手は見えていない。
石段の途中で、後ろから声をかけられた。
「すみません、鞄から、髪の毛みたいなの、出てますよ」
中年の女性だった。俺は口を押さえて、礼を言った。押し込むときに、指が果歩の耳に当たる。冷たさは、はじめの夜より強くなっていた。
戻った部分は、誰にも見えない。
戻っていない部分は、見える。
二列に並べて、ノートに書いた。
*
十三時五十分、前のほうがざわついた。
人が上を指している。
像の肩のあたり、順路にはない場所に、人が立っていた。数えると十四人。俺が気づいたときには、もうそこにいる。どこをどう通ったのかは見ていない。
「降りてください」
拡声器が鳴った。
「危険です。ただちに降りてください」
十四人は動かない。
十四時十五分。
俺は腕時計を見た。
彼らが左手で、右の二の腕を握る。
声は拡声器より大きかった。
「上にいるものが、人には力が要ると言われた。だから、私たちに右手がある」
「今日、ここでお返しします」
拡声器が何か言いかけて、言葉の途中で切れた。
俺の前にいた客が、両手で自分の子供の目を覆った。
俺は像の足元のほうを見ていない。見ていたのは、その人の腕だ。子供の頭を抱えた腕が、震えながら、動かないでいる。
下から音がした。二度、間を置いて、あとは続けて聞こえる。
人が一斉に下がる。
笛が鳴り、警備が走り、十分後には参道の半ばにテープが張られた。救急の車が三台。上からの指示で、客は駐車場のほうへ流された。
その流れの中で、背中が重くなる。
足が止まった。
肩紐が食い込む。さっきまでは、小さい子を背負っているくらいの重さだった。それが、大人の腕一本ぶん増えている。
袋の口から、何かが押し出てくる。
流れに巻き込まれたまま、俺は駐車場まで運ばれた。車に着いて、袋を助手席に置き、ファスナーを下ろす。
右手があった。
左手と同じだ。透けていない。白くもない。整いすぎている。
二つの手が、俺の見ている前で近づいて、絡んだ。指と指ではない。手首から先が、二本の紐を撚るように、同じ方向へねじれていく。ねじれて、一本の線になった。
線の先で、十本の指が外へ開いた。開ききって、止まる。
それから、ほどけた。
二つの手が離れて、それぞれの位置に戻った。四秒か、五秒だ。
「おい」
返事はない。
「いまのは何だ。二つで一つなのか、二つなのか」
右手が動いて、人差し指を立てた。
一本。
それだけだった。
俺はノートを出した。
到着、十二時四十分。上に人、十三時五十分。声、十四時十五分。重さが増えたのは、そのあとだ。何分あとかはわからない。流されていた。
紙の時刻は、十四時十五分。
俺が着いた時刻ではない。声の時刻だ。
遺跡のときもそうだった。十五時十三分は、俺が広場にいた時刻ではなく、あの列が立ち上がった時刻だった。
二回。二回とも合っている。
二回では、まだ足りない。足りないが、二回目があったという事実は、一回目とは重さが違う。
ペンを置いた。
左手が携帯を取った。
画面が光って、指が一文字目を打つ。
打ち終わらなかった。
右手が出て、左手の手首を上から押さえた。




