↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妻は太陽系の外で死んだはずだった  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/16

第四章 右手の重さ

 音には規則があった。

 三回、間を置いて、三回。布を通して硬いものを叩く音だ。

 俺は両手をハンドルから離し、膝に置いた。置いてから、また戻した。

 エンジンを切る。

 音はつづいている。

 金具を外した。

 蓋を起こして、シャツをどけた。

 果歩は昨日と同じ姿勢で入っていた。同じ色で、同じだけ透けている。

 左手だけが、違った。

 透けていない。白くもない。血管の緑も消えている。手首から指先まで、肌の色が戻っていた。戻りすぎていた。爪の生え際の形も、節の皺も、俺が知っている果歩の左手より整っている。二十年、皿を洗って、伝票をめくって、冬にあかぎれをつくってきた手ではない。

 見ているあいだに、人差し指が持ち上がった。

 俺は背中をドアに押しつけた。

 指はダッシュボードを差した。そこに俺の携帯が置いてある。

 渡すべきかを考えた。考えているうちに、手のほうが動いた。腕の途中から先だけが、肩を連れずに起き上がり、携帯を掴む。

 画面が光った。メモ帳が開いて、文字が並んだ。

 【行け。】

「……どこへ」

 【書いてある。】

「紙のことか」

 【順に。】

 俺は内ポケットのビニール袋に触れた。触れただけで、出さなかった。

「果歩」

 打つ手が止まった。

 一秒。二秒。

 【果歩ではない。】

 自分の喉が鳴るのを聞いた。

「じゃあ何だ」

 【運べ。】

「答えろ。全部の場所へ行ったら、果歩は戻るのか」

 【次の場所へ行け。】

「戻るのかと聞いてる」

 携帯が、俺の膝の上に落ちた。

 拾おうとしたところで、指が喉に掛かった。

 力の出どころがわからない。肘から先しかないものに、体ごと座席へ押しつけられている。俺は両手でその手首を掴んだ。動かない。踵でフロアを蹴った。動かない。

 視界の縁から、順に暗くなった。

 離れた。

 咳が止まらない。涙が出て、ハンドルに垂れた。襟が濡れていた。

 携帯が差し出された。

 【二度目はない。】

「……名前は、あるのか」

 【名は要らない。運べ。】

 その手が、俺の胸のあたりを差した。内ポケットだ。それから指を二本立てて、下へずらした。

 三つの塊の、二つ目。

 書いてある位置を、この手は知っている。

 俺は紙を出していない。開いてもいない。

「お前」

 言ってから、その言葉が自分の口から出たことに気づいた。

「お前は、道順を知ってるんだな」

 左手は動かなかった。

「あの紙は、果歩の字だ」

 携帯が持ち上がった。

 【そうだ。】

「だったら、書いたのは果歩だ」

 【そうだ。】

「じゃあお前は何だ」

 携帯がシートに置かれた。画面が暗くなるまで、俺はそれを見ていた。


    *


 その夜、車の中でずっと同じことを考えていた。

 道順を知っていることと、果歩が戻ることは、別だ。乗り換えの駅を知っている人間が、こちらの行き先を望んでいるとは限らない。

 わかっている。

 わかっていて、俺は翌朝アクセルを踏んだ。

 出発の支度をしているあいだに、左手が携帯で一言打った。

 【蒸れる。】

「……は」

 【箱はやめろ。】

 文句だった。文句を言われている。俺は運転席で五秒ほど、本当に何も考えられなかった。

 背負う形の搬送袋を、道路沿いの量販店で買った。登山用の大きいやつだ。袋に移した。その十分のことは、思い出さないようにしている。終わってから、駐車場の便所で吐いた。

 ファスナーは、上を十センチだけ開けたままにさせられた。閉めようとすると、内側から指が挟まる。

 鷲坂観音(わしざかかんのん)までは六時間半だった。日は三日ある。急ぐ理由がないぶん、考える時間があった。

 考えないことにして、サービスエリアで二晩寝た。

 靴下の縫い目は、親指の付け根から、歩いているうちに土踏まずのほうへ回っていた。歩くと当たる。止まると当たらない。遺跡のときと逆だ。新しいのを買えばいい。買わなかった。


 観音は、岩壁に彫られていた。

 高さは七十メートルあると案内にある。近代に補修と整備が入って、足元まで石段が通っていた。膝の高さの柵。柵の向こうは、参観の順路に入っていない管理区域だ。

 参道は人で詰まっている。

「七十メートルって、ビルだと何階分」

「二十階くらいじゃないの」

 前を行く二人組が、首を反らせたまま話していた。

 袋を背負って歩くと、上の隙間から左手が出た。俺の肩の横で、手のひらを上に向けて風を受けている。

 誰も見ない。

 前から来た子供が、まっすぐ俺の肩の横を見た。見て、通り過ぎる。目の焦点は、手を通り越して俺の顔に合っていた。

 係員が寄ってきた。

「お客さん、大きいお荷物は前で持ってください」

 袋は見えている。

 手は見えていない。

 石段の途中で、後ろから声をかけられた。

「すみません、鞄から、髪の毛みたいなの、出てますよ」

 中年の女性だった。俺は口を押さえて、礼を言った。押し込むときに、指が果歩の耳に当たる。冷たさは、はじめの夜より強くなっていた。

 戻った部分は、誰にも見えない。

 戻っていない部分は、見える。

 二列に並べて、ノートに書いた。


    *


 十三時五十分、前のほうがざわついた。

 人が上を指している。

 像の肩のあたり、順路にはない場所に、人が立っていた。数えると十四人。俺が気づいたときには、もうそこにいる。どこをどう通ったのかは見ていない。

「降りてください」

 拡声器が鳴った。

「危険です。ただちに降りてください」

 十四人は動かない。

 十四時十五分。

 俺は腕時計を見た。

 彼らが左手で、右の二の腕を握る。

 声は拡声器より大きかった。

「上にいるものが、人には力が要ると言われた。だから、私たちに右手がある」

「今日、ここでお返しします」

 拡声器が何か言いかけて、言葉の途中で切れた。

 俺の前にいた客が、両手で自分の子供の目を覆った。

 俺は像の足元のほうを見ていない。見ていたのは、その人の腕だ。子供の頭を抱えた腕が、震えながら、動かないでいる。

 下から音がした。二度、間を置いて、あとは続けて聞こえる。

 人が一斉に下がる。

 笛が鳴り、警備が走り、十分後には参道の半ばにテープが張られた。救急の車が三台。上からの指示で、客は駐車場のほうへ流された。

 その流れの中で、背中が重くなる。

 足が止まった。

 肩紐が食い込む。さっきまでは、小さい子を背負っているくらいの重さだった。それが、大人の腕一本ぶん増えている。

 袋の口から、何かが押し出てくる。

 流れに巻き込まれたまま、俺は駐車場まで運ばれた。車に着いて、袋を助手席に置き、ファスナーを下ろす。

 右手があった。

 左手と同じだ。透けていない。白くもない。整いすぎている。

 二つの手が、俺の見ている前で近づいて、絡んだ。指と指ではない。手首から先が、二本の紐を撚るように、同じ方向へねじれていく。ねじれて、一本の線になった。

 線の先で、十本の指が外へ開いた。開ききって、止まる。

 それから、ほどけた。

 二つの手が離れて、それぞれの位置に戻った。四秒か、五秒だ。

「おい」

 返事はない。

「いまのは何だ。二つで一つなのか、二つなのか」

 右手が動いて、人差し指を立てた。

 一本。

 それだけだった。

 俺はノートを出した。

 到着、十二時四十分。上に人、十三時五十分。声、十四時十五分。重さが増えたのは、そのあとだ。何分あとかはわからない。流されていた。

 紙の時刻は、十四時十五分。

 俺が着いた時刻ではない。声の時刻だ。

 遺跡のときもそうだった。十五時十三分は、俺が広場にいた時刻ではなく、あの列が立ち上がった時刻だった。

 二回。二回とも合っている。

 二回では、まだ足りない。足りないが、二回目があったという事実は、一回目とは重さが違う。

 ペンを置いた。

 左手が携帯を取った。

 画面が光って、指が一文字目を打つ。

 打ち終わらなかった。

 右手が出て、左手の手首を上から押さえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。