第三章 十五時十三分
七時に出て、十二時前に着いた。
高速を降りてからの三十分が長い。畑と防風林の繰り返しで、標識だけが遺跡の名前を出しつづける。第二駐車場は八割埋まっていた。県外の車が多い。夏休みの最後の週だ。
スーツケースを降ろし、キャスターを鳴らさずに引いた。油を差しておいてよかった。
案内板によると、座標の点は展示広場の中ほどにある。広場へ入るには、附設の展示館を抜けるしかない。その入口に列ができていた。特別展示の幟が立っている。土偶と、土器と、石器の写真。
列の後ろについて、掲示を読んだ。混雑のため手荷物をお預かりする場合があります、大型の荷物は検査の対象となります。
引き返す、という選択肢が頭を通った。通っただけだ。
列は十五分ほど動かなかった。
前に、子供を二人連れた家族がいた。
「土偶ってさ、なんで目がでかいの」
「寒いとこの人だから、雪がまぶしかったの」
「嘘だ」
「嘘。お母さんも知らない」
「なんで嘘つくの」
「並んでると暇だから」
靴下の、親指の付け根に縫い目が当たる。朝から履いているうちに位置がずれて、立ち止まると当たり、歩くと当たらない。当たる場所をずらそうとして、靴の中で指を曲げた。
前が進んだ。
係の女性がスーツケースを指した。
「大きいので、こちらでお預かりするか、中を確認させてください」
「……中を、お願いします」
自分の声が遠くで聞こえた。
係は台の上に横倒しにするよう言い、俺がそうすると、両手で持ち上げて向きを変えた。
「軽いですね。空ですか」
「着替えです」
「お泊まりで」
「三日ほど」
「開けていただけますか」
開けた。
上に畳んだシャツとタオルがある。その下に果歩がいる。
係の手が、シャツの端を持ち上げた。持ち上げて、下ろす。
「ありがとうございます。どうぞ」
俺は蓋を閉めて、金具を留めた。留めるときに二度、手が滑った。
広場へ出る前に、男子トイレの一番奥へ入った。
鍵を掛け、便座の蓋を下ろし、その上にスーツケースを立てて開ける。
果歩は昨日のままだった。夏の車内に十時間置いたのに、匂いがない。変わったのは色だ。昨日よりも向こうが透けて、抱えたときの手応えがさらに減っている。
携帯を出して、カメラを向けた。
画面には、開いたスーツケースの内側と、畳んだシャツと、便座の蓋が映っていた。
映っていたのは、それだけだ。
指を伸ばして、果歩の肩に触れる。触れている。画面には俺の指しか出ない。指の下に何もないまま、指だけが少し浮いていた。
隣の個室で、紙を引く音がした。
俺はしゃがんで、果歩の手首を持ち、仕切りの下の隙間から向こうへ二十センチほど出して、すぐ引いた。もう一度、今度は一秒だけ。
「……は?」
「兄ちゃん、なにしてんの。紙ないの?」
答えずに、蓋を閉めて外へ出た。
手を洗いながら、順番に並べた。
さっきの検査台では出てこなかった。カメラには映らない。隣の男には見えた。
言えるのは、そこまでだ。機械がすべて駄目だということも、人にはいつでも見えるということも、今日の一回からは出てこない。
鏡の中で、俺は自分の顎を見ていた。昨日から剃っていない。
*
展示広場は、思ったより広かった。
敷石が扇形に並んで、中央に現代の造形物が立っている。大きな土偶を模したもので、高さは五メートルほど。解説板には、出土した土偶をもとに制作したと書いてある。縄文の遺物そのものではない。案内の人が団体客に、そこを二度繰り返していた。
俺はベンチの端に座り、スーツケースを脚の内側に挟んだ。
十三時四十分。一時間半ある。
最初に気づいたのは、襟だった。
広場の東側に、同じ刺繍を襟につけた男が三人いる。輪を二重にして、下を切り落としたような図案。見覚えがあった。去年の春、宙開の資料室に入って記録を壊した連中として、ニュースに出ていた。
「門」と名乗っている。計画は上にいるものへの不敬だ、というのが彼らの言い分だと、そのニュースは伝えていた。それ以上のことを、俺は知らない。
三人は、人を見ていなかった。
荷物を見ていた。
大きなリュック、キャリーケース、担架に似た形の三脚ケース。ひとつ見つけるたびに近寄り、持ち主に何か言い、脇へ連れていく。
十四時すぎ、それが目の前で起きた。
大きなキャリーケースを引いた若い男が、三人に囲まれて植え込みの陰へ入っていった。押してはいない。肩にも触れない。三方から、歩く向きを塞いでいるだけだ。
風の向きで、切れ端だけ届いた。
「……失礼ですが、中を」
「は? 何なんですか、あんたら」
「ご迷惑をおかけします。すぐ済みます」
陰で、ケースが開かれた。中を覗き、蓋を閉じ、そのうちのひとりが札入れから紙幣を出して男の手に押しつける。男は一度断り、二度目で受け取った。
連中が戻ってくる。若い男は、しばらく紙幣を見てから歩き去った。
暴力ではない。暴力でないものを見て、俺はスーツケースの持ち手を握り直した。指が汗で滑り、もう一度握り直した。
ベンチを立って、広場の北側へ移った。
造形物からは遠くなる。座標の点からも外れる。それでもそこを選んだのは、北側に出口が二つあるからだ。片方は駐車場へ直通している。片方が潰れても、もう片方が残る。
果歩は、十五時十三分に「この場所」と書いた。場所の範囲がどれだけかは書いていない。広場の北端が範囲の外なら、それはそれでいい。
外なら、何も起きない。
何も起きなければ、俺は帰る。
*
十五時〇八分、人の流れが変わった。
南の入口から団体が入ってきた。二十人、三十人、まだ来る。観光客を押しのける。押しのけるというより、肩を入れて割り込んでいく。四十代の男が二人がかりで押し戻され、尻もちをついた。
彼らは広場の中央を取った。
造形物の正面に、四列。列の頭が揃っている。号令をかけた者はいない。
周りの客が足を止めた。携帯を向ける者もいる。催しだと思ったのだろう。俺も一秒だけ、そう思いたかった。
十五時十二分。
全員が膝をついた。揃っている。揃いすぎている。どこかで拍手が起きた。
俺は腕時計を見た。それから内ポケットからビニール袋を出し、封筒の角だけ引き出して、一行目を確かめる。
二〇二四〇八二四一五一三。
秒針が回っていた。
彼らが立ち上がった。
右手で、左の二の腕を握る。全員が同じ形をとった。
ひとりが声を出した。広場の端まで届く声だった。
「上にいるものが、人には運が要ると言われた。だから、私たちに左手がある」
後ろの列が、復唱する。
「今日、ここでお返しします」
俺の前に、旗を持った団体客が入ってきた。四十人ほどの列が、ちょうど中央への視線を塞いだ。
音が聞こえた。
濡れた布を強く絞るときの音に、少し似ている。似ているが、同じではない。
一度。二度。
三度目から、数えはじめた。数えるつもりはない。耳が勝手に数えた。
十一まで数えた。
十二はなかった。代わりに、女の悲鳴。
そこから先は、順番がつかない。
「逃げろ」
「救急車、誰か」
「こっち通れない、戻って」
旗が倒れた。人の壁が外へ向かって崩れて、俺はベンチの角に腰をぶつけた。持ち手が手から離れかけて、両手で抱え直す。抱えたまま、顔を上げた。
造形物の頭が動いていた。
五メートルの高さで、頭部だけが、こちらへ向く。速くはない。機械のような一定の速さだった。
目にあたる窪みから、光が出た。
光は俺を通り越して、腕の中のスーツケースで止まった。
逃げている客は、誰も上を見ていない。上を見たまま立っているのは、俺だけだ。
「そこだ」
男の声。門の襟だった。三人ではない。七人か、八人。全員がこちらへ向きを変えた。
走った。
北の出口は、逃げる客で詰まっている。もう片方へ回った。回る途中で肩を掴まれ、スーツケースごと体をひねって振り払った。振り払った先に別の客がぶつかってきて、掴んだ男が巻き込まれて転ぶ。
第二駐車場までの記憶は飛び飛びになる。残っているのは、自分の呼吸が耳の内側で鳴っていたことと、キャリーケースが段差で二度跳ねたことだ。
車に乗り、助手席にスーツケースを載せた。来た道ではない細い道へ出る。
十分走って、誰も追ってこないことを確かめて、路肩に停めた。
時計は十五時四十分を指していた。
三十分に満たない。
ハンドルに額をつけて、靴の底が乾いた音を立てていることに気づいた。足を上げると、マットの上に砂が落ちた。広場の敷石の目地に詰まっていた、細かい白い砂だ。かかとにも、土踏まずにも入っている。
落とす気になれなかった。
ノートを開いて、書いた。
到着、十二時五十分。膝をついた、十五時十二分。声、十五時十二分から十三分のあいだ。造形物、十五時十三分ごろ。
「ごろ」と書いてから消して、書き直した。時計を見たのは膝をついたときだ。そのあとは見ていない。見ていないものを、見たように書くわけにはいかない。
書き直して、ペンを置いた。
助手席で、音がした。
空調の音ではない。外の音でもない。
スーツケースの、内側だ。




