第二章 床下に残したもの
床下収納は台所の手前にある。蓋を持ち上げて、中の箱を三つ出した。出す音で、玄関の男がもう一度名前を呼んだ。
果歩は入った。
入れるまでの手順は、あとになっても思い出せない。覚えているのは、蓋が閉まる前に髪の先が縁に挟まって、それを指で中へ押し込んだことだけだ。箱を戻した。上の二つは軽い。一番下に敷いた箱が重くて、角を合わせるのに手間取った。
シャツの前に赤がついていた。着替える時間はない。洗面所で顔だけ洗って、ジャンパーを羽織って前を閉めた。
ゴミ箱を、床の窪みの上へ寄せた。
鍵を、右へ回しながら手前に引いた。
外に四人いた。
先頭に女がひとり、後ろに男が三人。白衣ではない。動きやすい上下で、男たちの上着は肩の縫い目が合っていない。既製品を体に合わせていないというより、体のほうが既製品に合っていない。
「夜分に失礼します。宙開の真柴と申します」
名刺が出た。受け取った。
「牧野果歩さんの件で、ご遺族にお話を伺っています。任意です。お断りいただいても構いません」
「断ったら」
「また伺います」
俺は体をずらして、上がってくださいと言った。
四人とも靴を脱いだ。揃えて置いた。一番後ろの男だけ、揃えたあと三和土に立ったまま動かなかった。
真柴は居間の椅子に座る前に、窓へ行ってカーテンを引いた。男のひとりが、手のひらほどの機械を持って部屋を一周する。テレビの裏、電話台、エアコンの吹き出し口。機械は音を出さない。ランプも見えなかった。
「何を探してるんですか」
「盗聴と、通信の確認です。うちの案件は、外へ出ると厄介なので」
「盗聴」
「ご不快でしたら、おっしゃってください。やめます」
やめてほしかったが、やめてくれと言える立場ではなかった。
真柴が向かいに座った。膝の上で手を組む。組んでから、悔やみの言葉を言った。形は整っていて、温度はない。整っているぶん、聞きやすかった。
「牧野さん。今日、何か変わったことはありませんでしたか」
「テレビを見てました。それだけです」
「何時から何時まで」
「朝からずっと。会見も見ました」
「会見のあとは」
「座ってました」
真柴は頷いて、それから頷くのをやめた。
「確認します。今日、この時間までに、どなたかお宅を訪ねてきませんでしたか」
「来てません」
「どなたも」
「あんたたちが最初です」
男のひとりが、壁の写真の前で足を止めた。果歩と俺と、制服の子。真柴はそちらを見ずに、俺を見ていた。
「牧野さん。これは公表していない話です」
「聞きたくないと言ったら」
「それでも申し上げます。船で起きたことは、隕石ではありません」
「……は」
「乗員が、地上に戻っている可能性があります。戻っているとすれば、乗員の姿をした別のものです」
そこで切れた。切って、真柴は俺の顔を見る。俺が何を返すか、返すまでにどれだけかかるか、両方を数えている目だ。
「悪い冗談だ」
「だといいと思っています」
*
「家の中を、見せていただけますか」
「令状は」
「ありません。任意です。お断りいただけます」
断れば、また来る。今夜断って、明日の朝にまた来られるほうが困った。俺は立って、寝室から開けた。
押入れ。浴室。天井裏の点検口。男たちは丁寧だった。物を戻す位置まで覚えていて、そのとおりに戻す。丁寧さのほうが、こちらの神経を削った。
最後に、台所へ来た。
真柴の靴下が、床下収納の蓋の上で止まった。
「ここ、開けても」
「……ああ」
蓋を上げたのは俺だ。人にやらせたくなかった。
一番上の箱から、弁当箱が出た。小さい。プラスチックの蓋に、削れて半分になったウサギのシールが貼ってある。隣に紺の運動靴。二十二センチ。かかとの内側が、両方とも潰れている。
真柴が箱の中を見て、手を止めた。
「お子さんの」
「五年前に。中学に上がった年です。事故で」
「……お名前を、伺っても」
「あや、と呼んでました」
言ってから、自分の声が平らすぎることに気づいた。五年あれば、この話をするときの喉の使い方は覚えてしまう。覚えたくて覚えたわけではない。
真柴は箱に触らなかった。伸ばしかけた指を引いて、膝へ戻した。
「その下にも、入ってます」
「拝見しても」
「見せたくない。中身は言います」
俺は言った。果歩が行くと決まってから、俺のほうの終わり方のために揃えたものがある、と。品目は言わなかった。真柴も聞き返さなかった。
「一人で残ることになっていたので。妻は二十年、長ければ三十年、帰らない予定でした」
「……伺っています」
「揃えて、蓋をして、上に娘のものを載せました。順番が逆だろうとは、自分でも思います」
後ろの男が真柴を見た。真柴は男を見なかった。
「真柴さん」
「はい」
「まだ掘りますか」
真柴は数秒黙った。それから端末を出して、画面を二回叩いた。どこかへ送ったのだろう。返事を待たずに蓋へ手を伸ばし、閉めた。
「今日の任意の範囲は、ここまでです」
「納得した、という意味ですか」
「いいえ。範囲の話です」
はっきりしている。そういう人のほうが、この夜には怖かった。
帰り際、真柴は玄関で振り返った。
「必要でしたら、専門の先生をご紹介します」
「その先生は、人を戻せますか」
「戻せません」
「じゃあ結構です」
「わかりました。また伺います」
戸が閉まった。砂利を踏む音が遠ざかり、外で車の扉が二回鳴る。エンジンがかかって、それも遠くなった。
膝が落ちた。上がり框に座り込んで、しばらく立てない。
蓋の下に、果歩がいる。一番下だ。箱を全部出していれば、今夜のうちに終わっていた。
*
封筒を胸ポケットから出したのは、二時をまわってからだ。
食卓に広げて、電気をつけた。
三つの塊。塊ごとに、座標らしい数字の列と、その下に十二桁。
二〇二四〇八二四一五一三。
最初の四桁で気づいた。二〇二四。気づいてしまえば、あとは分けるだけだ。二〇二四/〇八/二四/一五/一三。年、月、日、時、分。
カレンダーを見た。今日は二十三日で、日付はもう変わっている。
明日だ。十五時十三分。
二つ目は二〇二四〇八二七一四一五。二十七日の十四時十五分。三つ目は二〇二四〇九一一一一四〇。九月十一日の十一時四十分。
間隔は三日と、半月。
座標のほうは、頭のいくつかだけ地図アプリに入れてみた。針が北へ飛んだ。続きを入れ終えると、地名が出た。凪代遺跡。縄文の大きな遺跡で、去年、特別展示のニュースを見た覚えがある。
所要時間、四時間四十分。
七時に出れば、昼過ぎには着く。
大学ノートを一冊引っ張り出して、三つの数字を書き写した。写し終えてから、元の封筒はビニール袋に入れ、口を折って、上着の内ポケットに収めた。
写したほうを見る。元のほうは見ない。そう決めた。どこかで自分の字と彼女の字が混ざる気がした。混ざったら、あとで取り返しがつかない。
信じたわけではない。
信じられるのは、日付と時刻なら確かめられる、という一点だけだ。明日の十五時十三分に、あの場所で何も起きなければ、それで終わる。何も起きなければ、俺は帰ってきて、蓋を開けて、順番どおりに全部出す。
そこまで考えて、ペンを置いた。
スーツケースを納戸から出した。キャスターの片方が鳴る。油を差すつもりで買ったスプレーが、五年、同じ棚にある。差した。鳴らなくなった。
着替えを詰めた。ノートと充電器は、上着のポケットに入る。
最後に冷蔵庫を開けた。何も考えずに開けて、何も出さずに閉めて、また開ける。
卵が三つあった。炊いてあった米を温めて、卵を二つ落とし、醤油をかけて食べた。ペットボトルの茶を出して、ラベルの継ぎ目を爪で浮かせ、戻す。
食べ終わって、皿と箸と小鍋を洗った。洗ったものを水切り籠に伏せる。位置は決まっている。皿が奥、小鍋が右、箸は籠の縁へ渡す。
渡して、手を拭いた。




