第一章 訃報の夜
画面が砂になった。
三ヶ月見つづけた船内の白い壁が、細かい粒の群れに変わる。音は先に落ちていた。残ったのは、スピーカーの奥で紙をこするような雑音だけだ。
俺はリモコンを持ち上げ、また置いた。回線の向こうが切れているなら、こちらで直せるものではない。
十七分、砂がつづいた。
それから画面が切り替わって、宙開の会見場が出た。長机。マイク。白い布。広報の男が紙を持って立ち、持ったまま読まずに頭を下げた。
下げてから、読んだ。
隕石。船体の損傷。爆発。乗員五名。
牧野果歩という名前は、四番目に出てきた。
俺は座ったまま、ペットボトルのラベルの継ぎ目を指で探していた。継ぎ目は裏側にある。爪を立てると、そこだけ少し浮く。浮かせて、戻す。浮かせて、戻す。
画面の中で、男がもう一度頭を下げていた。
三ヶ月前の打ち上げの日から、俺は一日十四時間この部屋にいた。公開されている放送がそれだけだ。残りの十時間は休息と私生活のため、と説明がついていた。
会社は四月に辞めている。果歩が選ばれたと決まった週に辞表を出した。理由を聞かれて、妻が二十年帰らない仕事に行くので、と答えたら、上司は笑ってから笑うのをやめた。
十四時間のうち、果歩が映るのは半分もない。映らない時間も俺は見ていた。壁を見て、手すりを見て、彼女の白いマグの位置が朝と夕で変わるのを見ていた。
打ち上げの二週間前、果歩は鍋の蓋を押さえながら、二十年では済まないかもしれない、と言った。
「三十年になるかも。帰ってこられないほうが、たぶん普通」
「普通って言うな」
「じゃあ、想定内」
「もっと悪い」
果歩は笑って蓋を持ち上げた。湯気で眼鏡が白くなって、拭かないまま煮え具合を覗いた。
あのとき俺が言いたかったことは、行くな、ではない。行くなら、こっちのことはこっちで決める、だ。言わなかった。言えば荷物を解くと思った。
八月のはじめに、一度だけ妙なものを見た。
船内時計の表示が、二分戻った。配信側の時刻表示は前へ進んだままだった。五分の遅延があることは公表されている。遅延と、時計が戻ることは、別の話だ。
俺はその十秒を切り取って、携帯に残した。問い合わせ窓口の番号まで調べて、かけていない。素人が口を出したと思われるのが嫌だった。
残したまま、三週間が経っている。
*
玄関で、鍵が回った。
うちの鍵は、右へ回しながら手前に引かないと開かない。何年も前からそうだ。
引く音がした。それから、開く音。
俺はテレビをつけたまま立ち上がった。
廊下に果歩が立っていた。
打ち上げの日に着ていた、機構の薄い作業着。左の肩から腹までが、乾ききらない赤で塗られている。髪が首に貼りついていた。靴を履いていない。
「逃げて」
最初に出たのが、それだ。
俺は口を開けて、何も言わずに閉じた。もう一度開ける。
「……誰だ」
「直人」
「誰だって聞いてる」
果歩が上がってきた。土間で足を止めないことに、この人は気づいていない。裸足のままフローリングに赤い跡を置いて、俺の手首を掴んだ。
冷たい、という言い方は正しくない。氷は冷たい。これは、手首の内側から熱を引き抜いていく側の冷たさだった。二秒で指の感覚が鈍った。
俺は引き剥がした。
「あんたが誰か知らないが、あの人は今日、死んだ。全国で流れた。さっき見た」
「見たね。そう報じられることは、知ってた」
「じゃあ証明しろ」
果歩は玄関を振り返った。
「その鍵、まだ直してない」
「それは」
「直そうって言ったの私。今度やるって言ったのあなた。引っかかるたびに舌打ちして、そのあとで必ず謝るでしょう。誰にも言ってない」
俺は黙った。
鍵の話を外でしたことはない。舌打ちのほうは、自分でも忘れているつもりでいた。
「あとの四人は」
「知らない」
「知らないのか」
「最後に見たときは、四人とも動いてた。そこまで」
嘘の言い方ではなかった。果歩は知らないことを知らないと言う人で、そこだけは二十年変わっていない。
「病院に連れていく」
「やめて」
「その血を見て黙ってろってのか」
「呼んだら、先に来るのは救急じゃない」
「……何が来る」
「今夜のうちに、誰かが来る」
「果歩」
「うん」
「どうやって帰った」
「説明してる時間がない」
手が離れた。果歩は部屋を見回した。
*
探しているものは、すぐにわかった。
台所の引き出しの二段目に、ボールペンと、封を切った請求書の束が入っている。彼女はそこを開けて、封筒を一枚抜いた。裏の白いほうを上にして、食卓に置く。
書きはじめた。
字は果歩の字だった。速いのに、行の頭が揃っている。三つの塊に分けて書いて、塊と塊のあいだを一行あけた。座標らしい数字の列と、その下に十二桁。
二つ目を書き終えたところで、彼女は左の指先を紙に当てた。いま見ている行を、指の腹で押さえる。それから顔を上げずに、押さえた指をひとつ下へずらした。
家計簿でも通販の伝票でも、この人はそうしていた。押さえないと行を飛ばす、というのが本人の言い分だ。
三つ目を書き終えて、ペンを置いた。
「直人、紙を見て」
「見てる」
「日付の順に、私を連れていって」
「日付」
「上から順番。場所と、時間。入れ替えないで」
俺は紙を持ち上げた。数字は数字にしか見えない。二〇二四ではじまる塊が三つある、ということだけがわかった。
「順番を変えたら、どうなる」
「変えないで」
「答えになってない」
「時間がない、が答え」
「全部行ったら、あんたは戻るのか」
果歩は紙のほうを見ていた。指はもう、どの行も押さえていない。
「これは何だ」
「それは」
果歩が言葉を切った。
切ったのではない。顎が下がって、そのまま戻らなかった。
肌の色が動いた。頬から首へ、黄から赤へ、赤から白へ。白のあとが長かった。白が薄くなって、皮膚の下の線が透ける。腕の内側を走る血管が、外から数えられるようになった。
中を流れているものは、墨に近い緑だった。
「果歩」
「逃げて。あなたしか、いない」
「何から逃げるんだ。誰から逃げるんだ。言えよ」
「捕まらないで」
「果歩」
「紙を、先に隠して」
咳が出た。一度で終わらない。二度目で、床に緑が落ちた。
落ちた場所で、床が音を立てた。湯を張った鍋に水を垂らしたときの音に近い。緑は広がらずに消えて、あとに小さな窪みが残った。塗装が焼けて、下の色が出ている。
果歩が前のめりに倒れてくる。
受け止めた。
受け止めて、腕の中の重さが足りないことに気づいた。
人ひとりを抱えて、肩に力が入らない。掛け布団を畳んだくらいの重さしかなかった。冷たさのほうは逆に増している。袖越しでも、腕の皮膚が痛んだ。
呼吸を確かめた。していなかった。脈も見つからなかった。
しばらく、そのまま座っていた。
膝の上の重さが足りない。重さが足りないという一点が、ほかの何よりも受け入れがたかった。二十年一緒に暮らした人の重量を、俺は指の側で覚えている。持ち上げるときの腰の入れ方で覚えている。その記憶のほうが、テレビの会見よりも先に嘘をつかれた。
時計は二十三時をすぎていた。
テレビでは会見が終わって、別の局の番組に変わっている。笑い声がしていた。リモコンを探して、見つけられずに、コンセントを抜いた。
床の窪みを、足の裏で覆う。
封筒を四つに折って、ズボンの尻ポケットに入れた。入れてから、洗濯に出すことを考えて、シャツの胸ポケットに移した。
この人をどこへ置くか、という順番で頭が動きはじめた。床下収納。上に入っている箱。箱を出す順。
立ち上がって、彼女の腕の下に手を入れた。
玄関の外で、足音が止まった。
「牧野直人さん」
男の声だった。丁寧で、大きい。
「宙開です。少し、お話を伺えますか」




