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妻は太陽系の外で死んだはずだった  作者: 空の異変


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第十章 白伏山の上

 九月十一日の朝は、晴れていた。

 部屋の隅に給湯のポットが置いてある。胴に注意書きの札が貼ってあって、端が三ミリほど浮いていた。湯を汲むときに指が当たって、浮いた端が少し伸びる。伸びたぶんを押さえて、戻した。戻らない。

 袋を背負って、外へ出た。

 白伏山(しらふせやま)は、宿の窓からも見えていた。二千メートル級で、夏の終わりでも北の斜面に白が残る。登山口までは車で二十分、そこから歩道が整備されている。指定の点は、歩道からそう離れていない。

 駐車場は半分ほど埋まっていた。家族連れ。年配の団体。足元を固めた二人組。

 俺は入口の手前で立ち止まった。

「どうしました」

「いない」

「誰がですか」

「門だ」

 龍さんが歩道の先を見た。

「いませんね」

「遺跡にもいた。観音にもいた。二度とも、俺が着く前から荷物を見て回ってた」

「そうでしたね」

「なぜ今日はいない」

「気が変わったんでしょう」

「二度来て、三度目に気を変えるか」

「連中の考えることは、僕にはわかりません」

 わからない、で終わらせるところが引っかかった。

 この人は、門を十年以上追っている側の人間だ。資料室を壊されたときのことを、九日前は張りついていた期間まで言った。その人が、今日に限って考えることはわからないと言う。

 言い返さなかった。

 言い返す代わりに、歩きながらノートを開いて、一行書いた。

 九月十一日、登山口、門なし。

 書いて、ポケットに戻した。

「何を書いたんですか」

「今日の天気だ」


    *


 十一時を過ぎて、雲が下りてきた。

 下りてきた、という言い方は正しくない。雲は上にあったまま、別の白が横から来た。谷の側からだ。歩道の先が二十メートルで切れ、十メートルになり、自分の靴が見えなくなった。

 夏の霧ではなかった。冷たくない。湿って、重くて、息をするのに喉の奥を使う。

「龍さん」

 前を歩いていたはずの背中がない。

「龍さん。どこだ」

 声が返らない。返る代わりに、自分の声が少し遅れて戻ってきた。

 人の気配がない。

 さっきまで、前にも後ろにも人がいた。団体の話し声も、子供の足音もあった。全部なくなって、残っているのは自分の靴の音だけだ。

 携帯を出した。

 電波が立たない。電池は朝に八十パーセントあった。画面を見ると、十一になっている。見ているあいだに九になり、七になった。

 消えた。

 俺は歩いた。歩けば道に戻ると思った。三十分歩いて、汗が背中を伝い、シャツが冷えて、それでも白しかない。

 背中が、重くなった。

 膝が折れて、尻から落ちた。肩紐が食い込んで、そのまま後ろへ引かれる。

 袋の口が、内側から開いた。

「……懐かしい匂いがする」

 女の声だった。

 三ヶ月、画面ごしに毎日聞いていた声だ。

 振り返った。

 果歩が立っていた。

 服を着ていない。霧の白の中で、輪郭のところだけが明るい。明るいという以外に、書きようがない。

 腕があり、脚があり、胴があり、頭がある。九日前まで袋の中にあったものが、全部つながって、地面の上に立っていた。

「果歩」

 声が出てから、自分が何と言ったかに気づいた。

 女は答えなかった。

 こちらを見下ろして、首を少し傾ける。顔は果歩だ。目の置き方が違う。俺の顔を見ているのに、俺の顔のことは考えていない目だった。

 歩いてくる。

 四肢が別々に動いていない。手が先に行くこともない。ひとつの体が、ひとつの歩き方をしている。

「跪くことも、頭を下げることも、忘れたのか」

「……お前」

「犬でも、主に会えば尾を振る」

 手が伸びて、俺の喉を掴んだ。

 地面から足が離れた。爪先が草を擦る。両手でその手首を握ったが、握ったところで指が滑った。

「お前の体から、あれらの匂いがする」

「……何の」

「方士と呼ばれ、行者と呼ばれ、時代ごとに名を変えてきた。呼び名は変わる。汚いのは変わらない。虫のように殺しても減らない」

 目が合った。

 合った瞬間に、頭の後ろが割れた。誰かの手が眼窩から入ってきて、内側のものを順に外へ出している。引き出しをひっくり返す速さだ。家の玄関。封筒の裏。展示館の検査台。木の股。ボンネットの上の軌跡図。便箋の複写。

 声も出なかった。

 終わった。

 手が離れて、俺は草の上に落ちた。咳が出る。喉が鳴って、唾が垂れた。

 女は岩へ行って、腰を下ろした。座り方は丁寧ではない。片膝を立てて、そこに腕を載せている。それで、こちらの背中が丸くなる。

「知らずに連れてきたのなら、命は取らん」

「……お前は、誰だ」

先知(せんち)と呼ぶ」

「果歩はどこだ」

「おまえの妻は選ばれた。層を通り、証を立てた。そういう者だけが、器になる」

「器」

「おまえは、その器を運ぶ者だ」

 俺は膝に手をついて、上体を起こした。

「言っておく。この形は今日だけだ」

「どういう意味だ」

「この山の古いものたちが、霧を貸している。貸し物だ。体が全部戻るまでは、こうしてはいられない」

「戻ったら、果歩は」

 女は答えなかった。

 答えずに、指を二本立てた。

「おまえの妻の言葉は、二つに分かれていた」

「……二つ」

「燃やせという一つを、あの者たちは体のことだと読んだ。違う。最後の封のことだ」

「封」

「始まりの場所が、終わりの場所だ。戻れ。最後の体は、そこに埋まっている」

 俺は岩を見ていた。

 書いてある紙を、俺は九日前にノートへ写した。写したときには、そんな読み方はどこにもなかった。この女は、俺がさっき覗かれたぶんしか知らないはずだ。知らないはずのことを、いま並べている。

 並べていることが、正しいかどうかは別だ。

「直人。上を見ろ」

 名前を呼ばれた。

 あの夜、玄関で俺を呼んだのと同じ二文字だ。声の高さも、切り方も同じだった。同じであることは、何の証明にもならない。

 指が上へ跳ねた。

 顎を掴まれたわけではない。それでも顔が上を向いて、戻らなくなった。

 霧は切れていなかった。切れていないまま、白が動いていた。集まって、離れて、また集まる。形になりかけて、崩れる。崩れた先でまた形になる。

 形の内側に、こちらを見ているものがあった。

 数えようとして、数えられなかった。

 新しく出てきたのではない。出てきたなら、出てくる前の空が記憶にあるはずだ。ない。俺が上を見たすべての日に、それはそこにあった。運動会の空。葬式の空。打ち上げの日の空。

 喉の奥が鳴った。悲鳴を出そうとして、口が開いただけだった。

「おまえの記憶を見た」

 女の声が、下から来た。

「誰かが、おまえを使っている。うまく隠しているが、私は因果を見る目を持つ」

「……誰だ」

「宙開の者どもは愚かだ。恐れるに足りん。だが門の虫どもは狡い。おまえは」

 言葉が途切れた。

 代わりに、別の声が来た。

「牧野さん、止まって!」


    *


 霧が薄れていた。

 俺は立っていた。立って、右足の先が地面より前に出ていた。

 その先に地面がない。

 二歩下がった。下がってから膝が落ちて、草を掴んだ。掴んだ草が根ごと抜けた。

 龍さんが十メートル向こうから走ってきて、俺の襟を掴んで、さらに後ろへ引いた。引いた勢いで二人とも転んだ。

「どこに行っていたんですか」

「……あんたこそ」

「歩道の分岐で待っていました。二時間です」

 俺は腕時計を見た。

 十一時五十四分。

 登山口を出たのが九時半。霧に入ったのが、十一時をいくらか過ぎたあたり。

 女の声が聞こえたのは、そのあとだ。

 何分あとかは書けない。時計を見ていない。見ていないものを、見たようには書かない。

 周りを見た。岩がある。草がある。歩道の標識が三十メートル先に立っている。女はいない。踏み跡もない。霧が出たときと同じ速さで、なくなっていた。

 袋を探した。

 三メートル離れた斜面に転がっていた。口が開いている。

 抱え上げて、息が止まった。

 重い。

 九日前は、小さい子を背負うくらいだった。それが、大人ひとりに足りないぶんだけ足りない重さになっている。

 ファスナーを下げた。

 脚があった。

 二本とも、膝から下まで色が戻っている。足首の形も、踵の硬さも、二十年見てきたものではない。整いすぎている。整いすぎたものが、二本。

 右の足首が動いた。

 親指が、俺の手の甲を押した。押して、離れた。

「……四つだな」

 答えはない。

 袋の口を閉めて、背負った。肩に食い込む。立ち上がるのに、膝へ手をついて二度に分けた。

「牧野さん、その荷物」

「持てる」

「持てていません」

「持てる」

 歩いた。龍さんは半歩後ろについて、俺の背中を見ていた。俺の背中か、その上に載っているものかは、わからない。


    *


 宿に着いたのは、四時過ぎだった。

 霧は山の中腹から下には降りていない。それでも服は湿っていた。玄関の引き戸を開けて、三和土に立つ。

 帳場の女が奥から出てきて、タオルを二枚出してくれた。

「降られましたか」

「霧でした」

「あの山、夏でも出ますからね」

 靴を脱いだ。靴底が濡れていて、三和土の石に黒い跡がついた。俺の靴の跡がひとつ。隣に龍さんの跡がひとつ。

 袋を上がり框に下ろした。

 女がタオルを渡して、奥へ戻っていく。

 俺は自分の足を拭いて、顔を上げた。

 三和土に、跡が増えていた。

 俺のと、龍さんのと、その先だ。二つ並んで、上がり框のほうへ向いている。間隔は、人が一歩進むぶんだけ空いていた。

 拭いているあいだに、その先へもう二つ増えた。

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