第十一章 帰りを呼ぶ声
部屋は六畳だった。
布団が一組。座卓。鏡台。隅に給湯のポットが置いてあって、胴の注意書きの札は、朝に押さえたところがまた浮いていた。湿気で糊が緩むのだろう。指で撫でて、寝た。
寝られなかった。
天井の木目を見ていた。霧の中の顔と、上に並んでいたものと、玄関の三和土に増えた跡が、順番を変えて何度も出てくる。
袋は、座卓の横に置いてある。口は十センチ開けてある。
中は動かない。
一時を過ぎたころ、戸を叩く音がした。
三つ。間を置いて、三つ。
「……はい」
返事はない。
起き上がって、鏡台の上の灰皿を握った。ガラスの重いやつだ。握ってから、自分が何をするつもりなのか考えて、やめられなかった。
「どなたですか」
叩く音が続く。
「答えないなら、帳場を呼びます」
続いている。速くも遅くもならない。人が手で叩く音には、ふつう気分が出る。出ていない。
携帯に手を伸ばした。
音が、止まった。
息を吐いた。酔って部屋を間違えたのだろう。灰皿を下ろした。
戸が開いた。
鍵は掛けてある。
廊下に、頭を剃った男が立っていた。作務衣のような黒い上下。裸足だ。両手を合わせて、こちらへ一礼した。
*
男が入ってきた。
歩き方は遅い。遅いのに、風が起きた。俺の背中側から戸のほうへ抜けて、戸が音を立てて閉まった。
目の前まで来て、俺の顎を掴んだ。
上げられた。
窪んだ眼窩に、濁った白があるだけだった。黒目の位置がわからない。わからないのに、見られているとわかる。
「な、何をする気だ」
動けなかった。動けば首を折られる。そう思わせる持ち方だった。
「あなたは、知っていますか」
「……何を」
「あれが、本当だということを」
「あんた、何を言って」
「語られてきたものです。名も、形も、土地ごとに違う。中身は同じです」
顎を持つ指の力が、少しだけ抜けた。
「かつては、行き来がありました」
「行き来」
「いまは見えない。見えないのは、あいだに戸を立てた者がいるからです」
男が手を離した。
「私たちが、その戸です」
俺は後ろへ下がった。下がった足が座卓に当たって、湯呑みが倒れた。
「あんたたちが、門か」
「はい」
「遺跡と、観音で、あれをやったのも」
「あれは私たちではありません」
「嘘だ。ニュースに出てた」
「出ていました」
否定しなかった。否定しないところが、あの若い男と同じだった。
「じゃあ、誰がやった」
「戸を開けたい者たちです。名乗りはありません」
「あんたたちと、どう違う」
「向きが逆です。私たちは閉める側で、あちらは開ける側です。同じ場所に立ちますから、外からは一つに見えます」
「見分けられる人間が、どれだけいる」
「多くはありません」
「閉めて、何になる」
「開いていた頃のことを、私たちは記録で知っています」
「その記録を見せてくれ」
「あなたに見せるためのものではありません」
俺は布団の脇に飛びついて、袋のファスナーを一気に下げた。
超常には、超常でやるしかない。
中に手を入れた。
底に触れた。
何もない。
もう一度入れる。布の折り目を掴んで、裏返すように引き出した。空の袋が、俺の手の中でくしゃくしゃになった。
「牧野さん」
声は、背中から来た。
「怖がらなくていい。私はあなたに危害を加えたいのではありません」
「……いま加えてる」
「首領がお選びになったと聞いています」
「首領」
「私は、まだ納得していません。あのように重いものを、こんな普通の人に渡すと聞いて、確かめに来ました」
「誰だ、その首領ってのは」
「ですから、確かめます」
手のひらが、俺の頭に載った。
*
痛みが、内側から来た。
どこが痛いのかを言えない。体のどこにも傷はなく、それでも痛い。痛みの横に、悲しみが同じ大きさで並んでいた。誰かが目盛りを掴んで、右いっぱいまで回していく。
見せられた。
山の上から、岩と雪が落ちていく。登っていた列が消える。
海の底から、水が持ち上がる。船が持ち上がって、沈む。
平らな土地に、足の裏の形をした窪みが並ぶ。窪みの下に、屋根と、塀と、水路の形が潰れて入っている。
それから、上だ。
空の向こうに並んでいるものが、こちらを見ている。悪意ではない。悪意は相手を認めてはじめて成り立つ。あれは、見ている。転がして、止まるのを見て、また転がす。
あとで考えれば、俺は何ひとつ確かめていない。見せられたものが起きたことだと、俺には言えない。
そのときは、言えた。
膝が曲がった。
人は虫だ。反抗はできない。伏せるしかない。
誰の声でもない声が、俺の口の中でそう言った。
腰が落ちて、手が畳についた。額を下げるまで、あと十センチだった。
「お父さん、帰ろ」
止まった。
十センチのところで、止まった。
週末の夕方の声だ。公園の砂が靴に入って、帰り道でそれを鳴らしながら歩く。ベンチで動画を見ている俺の肩を、後ろから二度叩く。叩いてから、前に回ってくる。
「あや」
畳に手をついたまま、俺は言った。
「あや、どこにいる」
「お腹すいた」
顔を上げた。
立っていた。
制服だ。中学に上がった年の、袖が余っている紺のやつだ。膝の横に指を揃えて、少し前屈みになって、こちらを覗き込んでいる。十二歳の背の高さから、俺の顔を見るには、そうするしかない。
「あや」
「お父さん、下手くそ」
「……何が」
「座るの、そこじゃないよ」
両手が伸びてきて、俺の頬に触れた。
温度がない。温度がないことに、俺は気づいていた。気づいたまま、手をそこへ置かせておいた。
「あと一回だけ」
あやが言った。
「終わったら、あたしから帰ろって言う」
俺は膝を立てた。
立てた膝に体重を移す。畳から手が離れた。離れた手を、娘の手に重ねようとして、そこに何もなくなっていた。
立った。
立ってから、戸を探した。
*
畳に倒れていた。
自分が倒れたところから、天井の木目が見えている。さっきまで見ていたのと同じ木目だ。
肘をついて起きた。
僧が、部屋の隅にいた。
立ってはいない。壁に背をつけて、床に座らされている。頭が横へ傾いて、顎の下に何かが当たっていた。何も見えない。見えないものが、顎と、左の肩と、両方の手首を、壁に押しつけている。
僧の足が二度動いて、それから動かなくなった。
袋は、座卓の横で口を開けている。空のままだ。
外が、うるさかった。
声。金属。走る音。誰かが何かの上に落ちた音。窓の障子が薄く光って、光が動いている。懐中電灯だ。二本ではない。数えられない。
「牧野さん」
戸が開いて、龍さんが入ってきた。
片方の袖が肘から裂けて、下の腕に横一文字の線が走っている。血は出ていない。出る前だ。
「両方来ています」
「両方」
「門と、うちと」
「なんで」
「あとにしてください。荷物を」
「その人は」
龍さんが部屋の隅を見た。見てから、目を逸らした。
「生きています」
「押さえてるものを、どけられるか」
「僕には無理です。牧野さんの言うことも、聞かないでしょう」
「聞かない」
「では、置いていきます」
「腕、どうした」
「かすりました」
「血が出てない」
「出ます。いまに」
俺は袋を掴んだ。空だと知っていて掴んだ。掴むと、掴んだぶんだけ重かった。
「窓から出ます。ここは平屋です」
龍さんが障子を開けた。ガラス戸の鍵を外して、二十センチだけ引く。
外は暗い。庭木の影と、板塀と、その向こうに路地。
路地で、足音が二組、逆の方向から近づいて、ぶつかった。ぶつかって、止まる。ぶつかり合う音が始まって、長く続いた。
龍さんが息を吐いた。
「いまのうちです」
俺は片足を窓枠に掛けた。
掛けたところで、路地の音が止まった。
片方が下がる音。もう片方も下がる音。二組とも、向きを変えていた。
同じ壁に向かって、こちらへ。




