第十二章 助手席を閉ざす
窓枠から足を下ろした。
庭の土は雨のあとで柔らかい。着地の音は吸われた。吸われたのに、膝の裏まで響いた。
空の袋を肩に掛けて、縁側の端を見る。
黒い上下を着たものが立っていた。
白伏山から下りた翌日、宿の隣の店で俺が買ったものだ。長袖と、裾の絞れるズボン。値札を外して畳の上に置いておいたら、朝には袖が通っていた。着せた覚えはない。
腕も脚も、そこにある。俺には見える。見えているのに、袖は内側から張られていない。布だけが、人の形に浮いていた。
「直人」
龍さんの声だ。
この人が俺を名前で呼んだのは、初めてだった。
「板塀の切れ目まで。走って」
走った。
シャツの脇の縫い代が、腕を振るたびに肌に当たる。当たる場所が同じなので、五歩めにはそこだけ熱くなった。
切れ目を抜けると路地だ。
左から光。右から足音。
「右へ」
「足音は右だぞ」
「音のするほうが、まだ混んでいません」
屋根の上で、笛が鳴った。
短く二回、長く一回。路地の奥で続いていた打ち合う音が、その笛で止まる。止まって、全部がこちらを向いた。
*
板塀の内側を五十メートル走って、角で止まった。
龍さんの腕から、やっと血が出ていた。袖の裂け目に沿って、肘のほうへ流れている。流れる速さで、傷の深さがわかる気がした。
「血が出た」
「言ったでしょう。いまに、と」
角の向こうを覗く。
懐中電灯が三本。三本とも、地面ではなく塀の上を照らしていた。人の背の高さを探す照らし方だ。
俺は後ろを見た。
黒い上下が、二歩後ろに立っている。
「隠れろ」
返事はない。返事の代わりに、上下が俺を追い越して、路地の真ん中へ出た。
止める暇がなかった。
光が三本とも、そちらを向く。向いて、動かなかった。
「そこ、誰かいるか」
「……見えねえ」
「上か」
一人が走ってきた。
走ってきて、黒い上下の真横を通り抜けた。肩がぶつかる距離だ。男は速度を落とさない。落とさずに、俺と龍さんのいる角へ向かってきた。
塀に背をつけて、通り過ぎるのを待った。
足音が遠ざかる。
「見えていません」
龍さんが言った。
「暗いうえに、黒です。頭と胴だけが、宙に浮いた布に見える。走りながらでは、人の形になりません」
「あんたは」
「僕は、あなたを見ていました」
嘘だ。
角を曲がるとき、この人は黒い上下の一歩手前で体を斜めにした。ぶつからないための避け方だった。避けるには、位置がわかっていなければならない。
言わなかった。
言わずに、覚えた。
路地は途中で二度、行き止まりになった。
一度目は木の塀で、引き返したところに四人いた。四人のうち二人が頭を剃っている。残りの二人は作業着だ。同じ側に立っているのに、並びに隙があった。
「伏せて」
龍さんが俺の襟を下へ引いた。
引かれた頭の上を、誰かが誰かに向かって走った。剃った頭のほうではない。作業着のほうが、剃った頭に向かっていった。
「……こいつら、味方同士じゃないのか」
「違います」
「宙開と門か」
「片方は、そのどちらでもありません」
二度目の行き止まりは、側溝の蓋が外れた細い道だった。戻る口を作業着が塞いで、前を剃った頭が塞ぐ。挟まれたところで、二つが噛み合った。噛み合った隙間は、人ひとりぶんあった。
俺は先に通った。
通るとき、肘が誰かの背中に当たった。当たった相手は振り返らなかった。振り返る余裕のある喧嘩ではない。
*
駐車場は、宿から三つめの角の先にあった。
街灯が一本。舗装はなく、白線が砂利に引いてある。紺色のセダンは、隅の木の下だ。
龍さんが先に走って、後ろの扉を開けた。
「乗ってください」
俺は運転席へ回った。回ったところで、木の陰から三人出てきた。
手に何か持っている。形は見えない。
龍さんが俺の肩を掴んで、車のほうへ押した。押して、自分は三人の側へ歩いていく。
「鍵」
投げられた。受け損ねて、膝で挟んで拾った。
運転席に座る。後ろの扉が閉まる音がした。黒い上下は、後部座席にいる。
鍵を回した。
かからない。
もう一度回す。始動の音が途中で切れた。三度目も切れる。
外で、金属が砂利に落ちた。声が二つ。片方が途中で終わった。
四度目で、かかった。
握ったハンドルが滑る。手のひらが濡れているせいだ。ルームミラーを見ると、後部座席の黒い上下は背もたれに寄りかからず、膝に手を置いていた。誰かの座り方に似ていた。
*
運転席の窓を、拳が叩いた。
龍さんだ。
額の左が切れて、そこから顎まで一本、線になっている。上着の前が濡れていた。自分の血かどうかは、見てもわからない。
「開けてください」
窓を五センチ下げた。
果歩は、助手席の窓を五センチ開けたがる人だった。開ければ俺が寒いと言い、閉めれば彼女が眠いと言う。二十年、その往復をやった。
五センチは、話はできて、手は入らない幅だ。
「あの三人は」
「片づきました」
「ほかには」
「しばらく来ません」
「そうか」
窓の縁に肘を載せた。
「龍さん。乗せない」
ガラスの上で、手が止まった。
「……いま、なんと」
「乗せない、と言った」
「牧野さん」
「さっきは直人だったろ」
「直人さん。外は、まだ」
「三つ言う」
指は立てなかった。数える動作をすると、こちらの調子が崩れる。
「路地で、門の男が彼女の真横を走り抜けた。ぶつかる距離だ。あの男には見えていない」
「そう言いました」
「あんたは避けた。角で、一歩手前で体を斜めにした」
龍さんが黙った。
「見える人間だ。それはいい。世の中には見える人間がいていい」
「……ええ」
「二つめ。放送室の奥に、扉が二つあった。右はあんたが開けた。左は錆びてた。枠の下が十センチ、廊下側に出てた。あんたは、そこを避けて歩いた」
「覚えていません」
「三つめ。俺がその扉の話をしたとき、あんたは俺の額に手を当てた。熱はないですね、と言った。それから、扉はひとつです、と言った」
ガラスに、龍さんの息が白く広がった。九月の夜だ。白くなるほどの寒さではない。
「見えない人間が、ない、と言うのは普通だ」
俺は言った。
「見える人間が、ない、と言うのは違う」
答えはなかった。
龍さんは窓から顔を離して、一歩下がった。下がってから咳をする。片手を口に当てて、背中を丸めて、長く続いた。
ハンカチを出して口を拭き、内側を見せない畳み方で畳んだ。
「僕は、あなたを七時間、筒の先に立たせました」
「そうだ」
「今夜も、走らせました」
「そうだ」
「それでも、いまは乗せていただきたい」
「無理だ」
「理由を、もう一つだけ」
「俺が決めたからだ」
窓を上げた。
龍さんはガラスを二度叩いた。三度目はなかった。
*
車を出すとき、ミラーに龍さんが映った。
映って、すぐ外れた。外れる前に、この人は車の後ろへ回っている。後ろの扉に手を掛けて、閉め直した。俺がもう閉めた扉だ。閉め直すのに、片手が長く内側へ入った。
その長さを、俺は数えなかった。
街道に出て、信号で止まった。
後部座席から声がした。
「始まりの場所へ戻れ」
「知ってる」
「最後の体は、そこに埋まっている」
「聞いた。山で聞いた」
「ならば急げ」
ウインカーを出した手と逆の手で、ノートを引き寄せた。膝の上で開く。ペンは挟んである。
三行目の右は、まだ空いていた。
「お前に言っておく」
信号が青になる。
「戻る。戻るが、あの扉からは入らない」
「……なぜだ」
「先に放送の部屋へ行く。予定表と、当直の綴りを持って出る。それから扉だ」
「順番に意味はない」
「ある」
「言ってみろ」
「あの部屋は、嘘が形になって置いてある場所だ。紙もある。名前も、時間も書いてある」
「紙は燃える」
「燃える前に持ち出す」
「運ぶ者が、荷物を増やしてどうする」
俺は答えなかった。
答えないでいると、後ろで布の鳴る音がした。座り直した音だ。
「直人。おまえは、まだ妻に会えると思っている」
「思ってる」
「認めるのか」
「認める。それで何か困るか」
しばらく、返事がなかった。
「困らん」
困らない、と言った。困らないから使える、という意味だと、俺にもわかる。わかっていて、俺は取り消さなかった。取り消せば、こちらの手が一枚減る。
アクセルを踏んだ。
「順番は、俺が決める」
助手席は空いている。
空けたまま、南へ向かう車線に入った。




