↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妻は太陽系の外で死んだはずだった  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/16

第十二章 助手席を閉ざす

 窓枠から足を下ろした。

 庭の土は雨のあとで柔らかい。着地の音は吸われた。吸われたのに、膝の裏まで響いた。

 空の袋を肩に掛けて、縁側の端を見る。

 黒い上下を着たものが立っていた。

 白伏山から下りた翌日、宿の隣の店で俺が買ったものだ。長袖と、裾の絞れるズボン。値札を外して畳の上に置いておいたら、朝には袖が通っていた。着せた覚えはない。

 腕も脚も、そこにある。俺には見える。見えているのに、袖は内側から張られていない。布だけが、人の形に浮いていた。

「直人」

 龍さんの声だ。

 この人が俺を名前で呼んだのは、初めてだった。

「板塀の切れ目まで。走って」

 走った。

 シャツの脇の縫い代が、腕を振るたびに肌に当たる。当たる場所が同じなので、五歩めにはそこだけ熱くなった。

 切れ目を抜けると路地だ。

 左から光。右から足音。

「右へ」

「足音は右だぞ」

「音のするほうが、まだ混んでいません」

 屋根の上で、笛が鳴った。

 短く二回、長く一回。路地の奥で続いていた打ち合う音が、その笛で止まる。止まって、全部がこちらを向いた。


    *


 板塀の内側を五十メートル走って、角で止まった。

 龍さんの腕から、やっと血が出ていた。袖の裂け目に沿って、肘のほうへ流れている。流れる速さで、傷の深さがわかる気がした。

「血が出た」

「言ったでしょう。いまに、と」

 角の向こうを覗く。

 懐中電灯が三本。三本とも、地面ではなく塀の上を照らしていた。人の背の高さを探す照らし方だ。

 俺は後ろを見た。

 黒い上下が、二歩後ろに立っている。

「隠れろ」

 返事はない。返事の代わりに、上下が俺を追い越して、路地の真ん中へ出た。

 止める暇がなかった。

 光が三本とも、そちらを向く。向いて、動かなかった。

「そこ、誰かいるか」

「……見えねえ」

「上か」

 一人が走ってきた。

 走ってきて、黒い上下の真横を通り抜けた。肩がぶつかる距離だ。男は速度を落とさない。落とさずに、俺と龍さんのいる角へ向かってきた。

 塀に背をつけて、通り過ぎるのを待った。

 足音が遠ざかる。

「見えていません」

 龍さんが言った。

「暗いうえに、黒です。頭と胴だけが、宙に浮いた布に見える。走りながらでは、人の形になりません」

「あんたは」

「僕は、あなたを見ていました」

 嘘だ。

 角を曲がるとき、この人は黒い上下の一歩手前で体を斜めにした。ぶつからないための避け方だった。避けるには、位置がわかっていなければならない。

 言わなかった。

 言わずに、覚えた。

 路地は途中で二度、行き止まりになった。

 一度目は木の塀で、引き返したところに四人いた。四人のうち二人が頭を剃っている。残りの二人は作業着だ。同じ側に立っているのに、並びに隙があった。

「伏せて」

 龍さんが俺の襟を下へ引いた。

 引かれた頭の上を、誰かが誰かに向かって走った。剃った頭のほうではない。作業着のほうが、剃った頭に向かっていった。

「……こいつら、味方同士じゃないのか」

「違います」

「宙開と門か」

「片方は、そのどちらでもありません」

 二度目の行き止まりは、側溝の蓋が外れた細い道だった。戻る口を作業着が塞いで、前を剃った頭が塞ぐ。挟まれたところで、二つが噛み合った。噛み合った隙間は、人ひとりぶんあった。

 俺は先に通った。

 通るとき、肘が誰かの背中に当たった。当たった相手は振り返らなかった。振り返る余裕のある喧嘩ではない。


    *


 駐車場は、宿から三つめの角の先にあった。

 街灯が一本。舗装はなく、白線が砂利に引いてある。紺色のセダンは、隅の木の下だ。

 龍さんが先に走って、後ろの扉を開けた。

「乗ってください」

 俺は運転席へ回った。回ったところで、木の陰から三人出てきた。

 手に何か持っている。形は見えない。

 龍さんが俺の肩を掴んで、車のほうへ押した。押して、自分は三人の側へ歩いていく。

「鍵」

 投げられた。受け損ねて、膝で挟んで拾った。

 運転席に座る。後ろの扉が閉まる音がした。黒い上下は、後部座席にいる。

 鍵を回した。

 かからない。

 もう一度回す。始動の音が途中で切れた。三度目も切れる。

 外で、金属が砂利に落ちた。声が二つ。片方が途中で終わった。

 四度目で、かかった。

 握ったハンドルが滑る。手のひらが濡れているせいだ。ルームミラーを見ると、後部座席の黒い上下は背もたれに寄りかからず、膝に手を置いていた。誰かの座り方に似ていた。


    *


 運転席の窓を、拳が叩いた。

 龍さんだ。

 額の左が切れて、そこから顎まで一本、線になっている。上着の前が濡れていた。自分の血かどうかは、見てもわからない。

「開けてください」

 窓を五センチ下げた。

 果歩は、助手席の窓を五センチ開けたがる人だった。開ければ俺が寒いと言い、閉めれば彼女が眠いと言う。二十年、その往復をやった。

 五センチは、話はできて、手は入らない幅だ。

「あの三人は」

「片づきました」

「ほかには」

「しばらく来ません」

「そうか」

 窓の縁に肘を載せた。

「龍さん。乗せない」

 ガラスの上で、手が止まった。

「……いま、なんと」

「乗せない、と言った」

「牧野さん」

「さっきは直人だったろ」

「直人さん。外は、まだ」

「三つ言う」

 指は立てなかった。数える動作をすると、こちらの調子が崩れる。

「路地で、門の男が彼女の真横を走り抜けた。ぶつかる距離だ。あの男には見えていない」

「そう言いました」

「あんたは避けた。角で、一歩手前で体を斜めにした」

 龍さんが黙った。

「見える人間だ。それはいい。世の中には見える人間がいていい」

「……ええ」

「二つめ。放送室の奥に、扉が二つあった。右はあんたが開けた。左は錆びてた。枠の下が十センチ、廊下側に出てた。あんたは、そこを避けて歩いた」

「覚えていません」

「三つめ。俺がその扉の話をしたとき、あんたは俺の額に手を当てた。熱はないですね、と言った。それから、扉はひとつです、と言った」

 ガラスに、龍さんの息が白く広がった。九月の夜だ。白くなるほどの寒さではない。

「見えない人間が、ない、と言うのは普通だ」

 俺は言った。

「見える人間が、ない、と言うのは違う」

 答えはなかった。

 龍さんは窓から顔を離して、一歩下がった。下がってから咳をする。片手を口に当てて、背中を丸めて、長く続いた。

 ハンカチを出して口を拭き、内側を見せない畳み方で畳んだ。

「僕は、あなたを七時間、筒の先に立たせました」

「そうだ」

「今夜も、走らせました」

「そうだ」

「それでも、いまは乗せていただきたい」

「無理だ」

「理由を、もう一つだけ」

「俺が決めたからだ」

 窓を上げた。

 龍さんはガラスを二度叩いた。三度目はなかった。


    *


 車を出すとき、ミラーに龍さんが映った。

 映って、すぐ外れた。外れる前に、この人は車の後ろへ回っている。後ろの扉に手を掛けて、閉め直した。俺がもう閉めた扉だ。閉め直すのに、片手が長く内側へ入った。

 その長さを、俺は数えなかった。

 街道に出て、信号で止まった。

 後部座席から声がした。

「始まりの場所へ戻れ」

「知ってる」

「最後の体は、そこに埋まっている」

「聞いた。山で聞いた」

「ならば急げ」

 ウインカーを出した手と逆の手で、ノートを引き寄せた。膝の上で開く。ペンは挟んである。

 三行目の右は、まだ空いていた。

「お前に言っておく」

 信号が青になる。

「戻る。戻るが、あの扉からは入らない」

「……なぜだ」

「先に放送の部屋へ行く。予定表と、当直の綴りを持って出る。それから扉だ」

「順番に意味はない」

「ある」

「言ってみろ」

「あの部屋は、嘘が形になって置いてある場所だ。紙もある。名前も、時間も書いてある」

「紙は燃える」

「燃える前に持ち出す」

「運ぶ者が、荷物を増やしてどうする」

 俺は答えなかった。

 答えないでいると、後ろで布の鳴る音がした。座り直した音だ。

「直人。おまえは、まだ妻に会えると思っている」

「思ってる」

「認めるのか」

「認める。それで何か困るか」

 しばらく、返事がなかった。

「困らん」

 困らない、と言った。困らないから使える、という意味だと、俺にもわかる。わかっていて、俺は取り消さなかった。取り消せば、こちらの手が一枚減る。

 アクセルを踏んだ。

「順番は、俺が決める」

 助手席は空いている。

 空けたまま、南へ向かう車線に入った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。