第十三章 錆びた扉へ
夜のうちに山を下りて、明け方に平野へ出た。
サービスエリアで二時間眠った。眠ったというより、目を閉じていたら空が白くなっていた。
「なぜ止まる」
後ろから声がした。
「人は寝る」
「おまえは、寝なくてもいい体を運んでいる」
「運んでる俺は、寝ないと死ぬ」
「……そうか」
納得した声ではない。納得しない声でもない。仕組みを一つ覚えた、という言い方だった。
携帯は白伏山で切れたまま、二日、鞄の底にあった。差込口に挿すと、画面が一度だけ光って、また消える。十分ほどで起き上がった。
時刻が出た。
俺は左手首を上げて、腕時計と並べた。
十四分。
時計のほうが先へ行っている。
九月十日の夜、宿の帳場で、俺はこの時計を合わせている。券売機の上に電波の時計が掛かっていて、二分ずれていたので直した。直したときには合っていた。
十一日の朝、登山口を出るまでも合っていた。
合わなくなったのは、そのあとだ。
運転席の背に頭をつけて、計算した。計算というほどのものではない。引き算だ。
霧が切れて、龍さんに襟を掴まれて、地面に転がった。起きて腕時計を見た。十一時五十四分。
十一時五十四分から十四分を引くと、十一時四十分になる。
紙には、二〇二四〇九一一一一四〇と書いてある。
もう一度、時計と画面を並べた。十四分は変わらない。三度目も並べた。
三度目で、手が震え出した。
「何を見ている」
「時計だ」
「時計は、おまえの体に何もしない」
「そうだな」
画面を消して、上着の内側へ入れた。
この女は、紙に書いてある字を知っている。山で、俺の頭から取っていった。取っていったのは、八月の終わりまでの俺だ。九月十一日の十四分は、その中に入っていない。
*
空き地に着いたのは、昼を過ぎてからだった。
自動販売機がある。軽が二台。二階建ての家が並んでいて、犬の声も、あの朝と同じ方角から聞こえた。
奥に、低いコンクリートの箱がある。扉に鍵穴がひとつ。
車を停めて、鍵を抜いた。
抜いたところで、足元で何かが動いた。
座席の下から、緑が出てきた。
紐だと思った。濡れた紐が落ちている、と。思っているあいだに、それは後部の足元へ流れて、黒いズボンの裾に入った。
布の内側が、一度、膨らんだ。
「……おい」
返事はない。
裾から、片方の手が入った。俺には見える手だ。入って、引き出すまでに三つ数えるほどかかった。引き出されたものは、二つになっていた。
窓の外へ捨てた。
「噛まれたのか」
「噛まれた」
「大丈夫か」
「その問いに、意味はない」
黒い上下が車を降りる。降りるとき、扉の枠に肩が当たった。当たってから体を直すのに、間があった。
俺はコンクリートの箱まで歩いた。
「開けられるか」
上下が扉の前に立って、鍵穴の横に手を置いた。置いて、動かない。
十秒。
金属がきしむ音がして、止まった。
もう一度。止まった。
三度目で、錠前の箱ごと枠から外れた。外れた金具が砂利に落ちて、二度跳ねた。
「三度かかった」
「……」
「前なら、一度だろ」
答えなかった。答えないことが、答えだった。
俺はノートを出して、二行書いた。車の後ろの扉を閉め直した手のことと、その長さを覚えていないことを書いた。
誰が置いたかは書かなかった。
書けるだけを書く。この一ヶ月で覚えたのは、それだけだ。
*
通路は、行きと同じだけ長かった。
電球が三十メートルおきに吊ってある。壁の水の筋も同じ場所だ。ふくらはぎが張って、膝の裏が痛くなって、それから痛くなくなる。
前を行く黒い上下が、三度、足を止めた。
止まるたびに、俺も止まった。止まった場所の壁に、水の筋の形を指で撫でて覚えておく。帰り道のためではない。数え直すためだ。
「何か聞こえるのか」
「下から呼ばれている」
「誰に」
「主たちだ」
「近いのか」
「近い」
それ以上は訊かなかった。訊けば、この女は喜んで答える。喜んで答える話は、あとで数え直せない。
突き当たりの扉を抜けると、機材の箱の裏だった。
左に、錆びた扉がある。
枠の下が十センチ、廊下側へ出ている。八日前と同じだ。塗装の浮いたところが、少し広がっていた。
俺は、そちらへ行かなかった。
*
放送室の照明は点いていた。
布が吊ってある。青と、緑。床の養生テープも、あの夜のままだ。手すりも、天井の管も、三ヶ月毎日見た形をしている。
机のところまで歩いた。
作業用の椅子が三脚。布張りの座面が毛羽立って、座る位置に毛玉が固まっている。俺は一番手前を引いて、座った。
収録の予定表を、袋に入れた。
当直の綴りも入れる。操作台の端の首飾りを取って、ポケットに落とした。落としてから、指で留め金を探した。爪の先ほどの盛り上がりが、指の腹に当たる。
それから、ノートを開いた。
三行目の右に、書いた。
到着十時十分、霧十一時すぎ、時計十一時五十四分イコール実十一時四十分、脚。
書いて、下に一行足した。
時計は霧の中で十四分進んだ。
これで三つになる。
二つでは足りないと、俺は八月の終わりに自分で書いた。三つある。三つとも、日と時刻が、体の変わった場所に当たっている。
妻は、この三つを俺に渡した。
渡した理由は、まだ書けない。
ペンを挟んで、ノートを閉じた。
「牧野」
顔を上げた。
*
布の陰に、椅子が出してあった。
榊顧問が座っている。杖を両膝のあいだに立てて、その上に両手を重ねていた。後ろに四人。全員が同じ服で、同じものを構えている。
「顧問」
「君に二つやる」
前置きがなかった。六日前、湯呑みを出してきた人と同じ声だ。
「一つ。こちらに入りなさい。見たことは一切、口にしない」
「二つめは」
「ここで終わる」
「終わる、というのは」
「言葉どおりだ」
俺は椅子から立った。立って、机の端に手をついた。
「先に訊いていいですか」
「短く」
「なぜ、ここにいるんです。あんたたちの人は、北へ行ったはずだ」
「行かせた」
「……じゃあ」
「追う人数と、待つ人数は、別に決める」
杖の先が、床を一度突いた。
「人は、閉まっている戸の前に戻る。開けたいからではない。そこに置いてきたものがあるからだ」
「置いてきたもの」
「君の場合は、奥さんだろう」
答えなかった。
「顧問。龍さんは、あんたの部下だったんですか」
「部下という言い方は、しない」
「じゃあ、何です」
「便利な男だった。便利すぎた」
「顧問。四つの寝台は、まだありますか」
「ある」
「燃やすんですか」
「私は、管理できないものを置いておかない」
「果歩の紙にも、燃やしてくれと書いてあった」
「知っている。原本は私が持っている」
「読み方は、一つじゃない」
「二通りに読める文を、私は指示とは呼ばん」
「牧野。三つ数える」
「待ってくれ」
「三」
「顧問、俺は」
「二」
布の吊り具が鳴った。俺の後ろで、床を擦る音がする。
「一」
「伏せろ」
声は、後ろから来た。
俺は膝を折って、床に伏せた。伏せながら、両手で耳を塞いだ。塞ぎ方は、あやに教えたやり方だった。手のひらの下を耳の穴に当てて、指を後頭部で組む。花火の日に、教えた。
*
塞いだ手の下に、音が入ってきた。
高い音だ。一つではない。数えようとして、五つで諦めた。五つのあとも続いていた。
床の養生テープが、目の前で盛り上がった。盛り上がって、元に戻る。
音が止まった。
顔を上げた。
椅子がある。椅子だけがある。
四人が立っていた場所には、何もなかった。床の上に、杖が一本、転がっている。転がって、机の脚に当たって止まった。
撃った音は、聞いていない。
弾の跡も、壁にない。
「……何をした」
黒い上下が、机の横に立っていた。袖の内側で、形が定まらないものが動いている。動きが収まるまでに、少し時間がかかった。
「別のところへ置いた」
「殺したのか」
「置いた、と言った」
「どこに」
「おまえの足の届くところではない」
「あの人は百を越えてる」
「知っている」
「歩くのに杖が要る」
「それも知っている」
「置いた先に、床はあるのか」
「問いが多い」
俺は杖を拾った。
握りの部分が、手の脂で色が変わっている。百歳を越えた人間が、十年二十年、毎日そこを握った色だ。
机の上に置いた。
置く場所に意味はない。意味はないが、床に転がしたままにはしたくなかった。
*
錆びた扉は、押すと開いた。
鍵も、暗証も、なかった。八日前にこの前を通ったとき、俺はこれを扉だと思った。思っただけで、開くとは考えていない。
内側は、下りの階段だった。
段が高く、手すりがない。十段で後ろの光が細くなり、二十段で足元も見えなくなった。
黒い上下が先に立っている。
「灯りは」
「そのうち出る」
「この下は、なんだ」
「始まりの場所だ」
「山でも、そう言った」
「言った」
「始まりが、なぜ建物の下にある」
「建物のほうが、あとから来た」
出た。
五十段ほど下りたあたりで、壁の低い位置が光りはじめた。光って、下へ続いていた。管も配線もない。壁そのものが光っている。
階段は、そこから急になった。
膝が笑いはじめたころ、段が終わって、平らになった。
両側に、机が並んでいた。
端末がある。積み上げた本がある。紐で綴じた帳面がある。紙の色が机ごとに違う。新しいものの上に古いものが載って、その上にまた新しいものが載っていた。
俺は手前の机で足を止めた。
開いたままの綴じ帳があった。和紙だ。縦に、墨で数が書いてある。
四つ、二つ、二つ、二つ、二つ。
そう区切られて、上から下へ、十七行。
内ポケットのビニール袋に、同じ区切りの紙が入っている。




