第十四章 火に残る筆跡
机は、百を超えていた。
両側に並んで、通路の奥まで続いている。端末の載った机の隣に、木の箱が置いてある。箱の中は紐で綴じた帳面だ。その上に、背の割れた洋装の本が積んである。
順番がない。
新しいものを古いものの上に置いて、その上にまた新しいものを置いた。片づける人間がいなかったのではない。片づけるところまで行かずに、毎回終わったという置き方だった。
三つめの机で足を止めた。
近ごろの作業台だ。天板に鉛筆削りが留めてあって、受けの箱に削りかすが半分たまっている。指で押すと、乾いて固まっていた。
「どの時代にも、気づく者がいる」
声が前から来た。
「気づいた者は、調べる」
「そうだろうな」
「調べるたび、止める者が来た」
「門か」
「名は変わる」
「止めて、どうなった」
「途中でやめた紙が、こうして残る」
「やめさせられた側は」
「私は、数えていない」
俺は帳面を一冊、こちらへ引いた。
和紙だ。虫が食っている。縦に墨で、数が書いてある。
四つ、二つ、二つ、二つ、二つ。
区切りが同じだった。
数そのものは違う。年にあたる四つが、俺の紙とは合わない。合わないまま、区切り方だけが同じだ。
その隣に、短い印が並んでいた。印は同じものが何度も出てくる。出てくる間隔と、数の並びが、どこかで揃っている気がした。
気がした、で止めた。
揃っていると書くには、俺は紙を全部読めていない。
「何を調べてたんだ、この人たちは」
「私の主たちを」
「いるかどうかを、か」
「ここまで来た者は、もう疑っていない。おまえもだ」
返す言葉がなかった。
「調べていたのは、性質のほうだ」
「性質」
「上にいるものは、人にとって善か悪か。どの時代の者も、同じことを訊いた」
「答えは」
「どちらでもない」
黒い上下がこちらを向いた。
「正しい。それだけだ」
俺は帳面を閉じて、元の位置に戻した。一センチずれたので、直した。
*
通路の先が、開けた。
洞窟だった。天井が見えない。見えないところまで、光が届かずに消えている。
真ん中に、石を積んだ台があった。
高い。下から見上げて、首が痛くなるくらいだ。上まで段が刻んである。段の上に、火が燃えていた。
風はない。風がないのに、火は動いていた。
近づくと、火の中に何かが映っていた。
人の肩。机の角。手。どれも一秒より短い。出て、消えて、別のものが出る。
「あれは、何を映してる」
「見た者のいたものだ」
「誰が見た」
「ここに手を入れた者、全部だ」
「登る前に、訊きたい」
「言え」
「あの人は、どこで死んだ」
「ここだ」
「この下の戸が開くと、太陽系も開くのか」
「別のことだ」
「別か」
「戸は、主たちが通る。檻は、おまえたちを置く器だ。同じ手で作ったというだけで、同じものではない」
段に足を掛けた。掛けたところで、手を掴まれた。
「おまえは、よくやった」
「……」
「命は取らん。褒美をやる」
俺の手が、火の中へ引かれた。
止める間はなかった。
肘まで入った。
*
熱かった。
焼けはしない。熱いだけが、腕の骨の内側から続いた。
目の前に、別の部屋が開いた。
果歩がいる。白衣ではない。作業着の上に、肩から下げた名札。机の前に立って、画面の数字を指で追っている。追いながら、首を振った。
部屋にいる人間が、全員、同じ顔をしていた。
何かが終わった顔だ。
次の切れ目で、杖の音がした。
榊顧問が入ってくる。いまより背が伸びている。背が伸びているというより、まだ丸まっていない。手に、写真を何枚か持っていた。
洞窟の写真だった。
「あの写真は、誰が撮った」
「杖の男だ」
「一人で来たのか」
「一人で来て、二度目に人を連れてきた」
「連れてこられた側は、何を聞かされた」
「人の口のことは、私は数えない」
人が集まる。果歩が集まったうちの一人になっている。壁に、新人類計画と書いた紙が貼ってあって、その下に五人の名前があった。
切れ目。
五人が、この段を登っていた。
火が小さい。いまの半分もない。五人が円になって、順に手を入れた。
入れて、顔が変わった。
四人の顔が変わって、一人だけ変わらなかった。
「そこだ」
声が、外から聞こえた。俺の腕はまだ火の中にある。
「その火は、人の中にあるものを大きくする。大きくなりすぎたものを、人は持てない」
「……四人は」
「持てなかった」
「あんたが大きくしたのか」
「火がやる」
「火はあんたのものだろ」
「私のものではない。私が通る道だ」
画面が跳んだ。
音だけになった。石を打つ音。布が裂ける音。名前を呼ぶ声が二つ、途中で切れる。長くはなかった。長くなかったことが、いちばん残った。
音が止むと、四人が倒れていた。
立っているのは果歩だけだ。
立って、手のひらを見ている。
「そのあと、あれはどうした」
「数えた」
「何を」
「……わからん」
わからん、という言葉を、この女が使ったのは初めてだった。
「器はひとつと決まっている」
声が言った。
「残った者が、最も篤かった者だ。おまえの妻は選ばれた。私は、正しく選んだ」
「四人は、どこで間違えた」
「間違えていない」
「じゃあ、なんだ」
「持てなかった。それだけだ」
持てなかった、で片づく話を、この女は二度した。二度とも、倒れた四人のほうは見ていない。
*
火の中の果歩が、動いた。
倒れた四人のほうへは行かない。段の上に膝をついて、石の面に手を置いた。
置いて、指を滑らせた。
左から右へ。端まで行って、戻る。戻った指が、人差し指の腹で、いま見ていた線を押さえた。押さえたまま、ひとつ下へずらした。
俺は、腕の熱さを忘れた。
その動きを、二十年見ている。
家計簿の左の列。通販の伝票。学校からの、持ち物の書いてある紙。果歩は必ず、行の頭を揃えて書いた。読むときは、指の腹で一行を押さえて、下へずらす。ずらすとき、爪は使わない。爪を使うと紙が傷むと言っていた。
火の中で、彼女は数えていた。
紙はない。石の上を、何もない場所を、押さえて、ずらしている。
押さえる前に、彼女は一度だけ上を見た。
見た先に、天井はない。天井のかわりに、平らなものが広がっていた。紙のような平らさだ。その平らなものの上に、街と、線路と、海岸線が、端から端まで一緒に載っている。日付の順に並んでいない。全部が同じ面にある。
果歩の目が、その面のどこかを探した。探して、見つからなかった顔をして、下を向いた。
下を向いてから、石を押さえた。
それから、口が動いた。
何を言ったかはわからない。わからないが、口の形が四回、区切れた。
紙には、三つある。
四つめは、紙になっていない。
「見えたか」
外の声が言った。
「見えた」
「何が見えた」
俺は答えを選んだ。選ぶ時間が、二秒しかなかった。
「妻が、火の中で祈ってた」
「そうだ」
「祈るしかなかったんだろ」
「そうだ」
嘘ではない。嘘ではないが、俺が見たものでもない。
この女は、白伏山で俺の頭を開けた。開けて、八月の終わりまでを取っていった。いま俺の中にあるものは、そのあとに入ったものだ。時計の十四分と、地下の墨の区切りと、石の上を押さえる指。
三つとも、あの日には、まだなかった。
腕が、火から抜けた。
抜けた手のひらに、煤がついていた。爪のあいだも黒い。火傷はない。
*
俺は段の途中に座り込んだ。
膝が動かない。動かないまま、頭のほうだけが速く回っていた。
紙の数は、日と時刻だ。それは八月に自分で分けた。
分けたあとも、数は残る。
凪代で、左手。鷲坂で、右手。白伏山で、脚。三つとも、場所と時刻が体に当たっている。当たっているのは確かだ。当たっているだけなら、行き先の表でいい。
行き先の表を書くのに、行の頭を揃える必要はない。
揃えるのは、あとで人が列として読むときだ。
列として読む人間は、俺しかいない。
俺しか受け取らない紙に、あの人は、揃えて書いた。
膝に手をついて立った。
二度に分けずに、一度で立てた。
「登る」
「そうしろ」
段は、数えると百七あった。
*
上は平らだった。
石が磨り減っている。真ん中に火があって、そのまわりに、人の座った跡のような窪みが五つ残っていた。
黒い上下が、火の前に立った。
「ここから先は、私の仕事だ」
「何をする」
「体と頭を返す。返れば、私は全部になる」
「果歩は」
「転がる石の下に、水がある。石を退ければ、水は少しのあいだ見える」
「……日本語で言え」
「入れ替わるあいだだけ、あれが戻る」
「どのくらいだ」
「息を吸って、吐くあいだくらいだ」
「それだけか」
「終わったら、どうなる」
「上が降りる」
「降りて、何をする」
「それは、おまえが訊く問いではない」
「訊いてる」
「別れを言え。おまえには、その権利をやる」
上下が、火へ向かって歩いた。
布が先に燃えた。燃えて、内側が見えた。
俺の見ていた腕と脚が、火の色に混ざって、輪郭だけが残る。頭と胴が、上から順に透けなくなっていく。灰色だったところに、肌の色が戻った。首の後ろに、小さな黒子がある。
あの黒子は、去年の夏に一緒に見たものだ。
火の中で、体が立った。
目を閉じている。閉じたまま、顎が上がった。痛がる形ではない。もっと上の、まだ名前のついていない場所に触っている顔だった。
俺は段の縁に手をついて、見ていた。
見ているしかなかった。
火が、一度、低くなった。
低くなった中で、目が開いた。
開いた目が、こちらを見た。
右の手が、火の中で、上がった。
上がって、何もない空気を、人差し指の腹で押さえた。
押さえて、ひとつ下へ、ずらした。




