第十五章 火を継ぐ人
段の縁から、火まで三歩あった。
三歩を、考える前に踏んでいた。
腕を火の中へ入れて、肩のあたりを探す。掴んだ。布はもうない。掴んだところが熱いのか冷たいのか、手のほうが判断をやめていた。
引いた。
重い。人ひとりぶんの重さだ。八月の台所で持ち上げたときの、掛け布団のような軽さではない。
もう一度引いた。
足が滑って、尻から段に落ちた。落ちながら、腕の中に人が入ってきた。
「お別れは済んだ?」
声が、火の底から来た。
「その体を返して」
火が伸びた。
伸びて、腕の中のものを引き戻そうとする。引き綱を掛けられたような力だ。俺は両足を段の窪みに突っ張って、背中を反らせた。
「返せ!」
俺は答えなかった。
答える口がなかった。歯を噛みしめていて、開ける余裕がない。
腕の中で、肩が動いた。
息を吸う動きだった。
*
「……直人」
目が開いていた。
さっきの目ではない。焦点が、俺の顔の、目のところに合っている。そこに合わせる人間を、俺はひとりしか知らない。
「果歩」
「寒い」
火の前で、そう言った。
俺は上着を脱いで掛けた。掛けるときに、胸の前で手が引っかかった。彼女の右手が、俺の袖口を掴んでいる。掴んだまま、親指が二度、布を叩いた。
「放送のことは、知ってた」
「ああ」
「黙ってて、ごめん」
「いま、それか」
「いま、しかない」
果歩が、掴んだ手を離した。離した手が、石の面へ下りる。
指が、左から右へ動いた。
端まで行って、戻る。人差し指の腹が、何もない石を押さえた。押さえて、ひとつ下へずらした。
三度、やった。
三度目で、手が止まった。止まった場所を、俺の顔のほうへ向ける。
「……数えてたのか」
「うん」
「紙の三つは」
「三つは、渡した」
「四つめは」
「ここにある。写せない」
俺はノートを出そうとして、手が届かなかった。鞄は段の下だ。
「覚えて」
果歩が言った。
「覚えて、あとで書いて。あなた、家計簿の数字だけは間違えなかったから」
「……それは、お前が三回見直してたからだ」
「知ってる」
笑ったのだと思う。顔の筋肉が、笑う前の形まで動いて、そこで止まった。
火が、また伸びた。
果歩の背中が、後ろへ十センチ持っていかれた。俺は抱え直した。
「直人」
「言うな」
「私を殺して」
「言うなと言ってる」
「ここで止めて」
「ほかの手を探す。いま探す」
「探した」
果歩が俺の手首を握った。握る力が、生きている人間の力だ。
「五年、探した。これしかない」
五年、という数を、俺はそのとき数えられなかった。あとで数えた。あやが死んだ年から、この日までだ。
*
洞窟の下で、足音が鳴った。
多い。二十は下らない。段を登ってくる音が、二列になっている。
先頭に龍さんがいた。
腕の裂け目が縛ってある。その後ろに、頭を剃った男。旅館の部屋で俺の顎を掴んだ男だ。壁に押しつけられていたはずの肩が、いまは普通に動いている。
「龍さん」
僧が言った。呼んだ相手の名を、俺はそこで初めて知る。首領という職と、その二文字が、同じ人間の上で重なった。
龍さんが段の上まで来て、止まった。
俺と、腕の中の果歩を見た。
「果歩さん」
「龍さん」
果歩が答えた。答えるのに、息を継いだ。
「お願いします」
「はい」
龍さんが上着の内側から出したものは、ライターではなかった。
俺が見たのは、そこまでだ。
音が一つ鳴って、腕の中の重さが変わった。
*
耳が、しばらく戻らなかった。
戻ってから、自分の声が聞こえた。何を言っているのか、自分でもわからない声だった。
「……あんた」
俺は果歩を段に下ろして、立った。
「あんた、何をした」
「撃ちました」
「見ればわかる。なぜだ」
「果歩さんが、そう言ったからです」
「俺も、そう言われた」
「ええ」
「俺は撃たなかった」
「ええ」
龍さんは謝らなかった。謝らないことで、言い逃げだけはしていない。俺は拳を握って、振らずに、下ろした。
下ろした先に、果歩の腕がある。
火が、膨れた。
熱の壁が来て、俺は横へ倒された。石の上を二回転がって、段の縁で止まる。
「虫が」
声が洞窟の壁を叩いた。
「虫が、主の器に手を入れた」
火の中に、形ができかけていた。頭のない形だ。作りかけのまま、こちらへ倒れてくる。
俺の前に、龍さんが入った。
*
龍さんは膝を折って、俺と目の高さを合わせた。
「直人さん」
「……離れろ。熱いだろ」
「僕は、八二年の生まれだと言いました」
「聞いてない」
「真柴に言ったのを、聞いていたはずです。一九八二年ではありません。天正十年です」
四百年以上の数が、頭の中で形にならなかった。形にならないまま、この人の紙幣の揃え方と、三町という言い方と、五十メートルで止まる足が、一列に並んだ。
龍さんが咳をした。
手を口から離すと、襟のところまで赤くなっていた。畳む布を、もう持っていない。
「三つだけ、言います」
「……ああ」
「旅館の場所は、僕が漏らしました。両方に」
「なぜ」
「三つ巴でなければ、あなたが車に乗れなかったからです」
「二つめ」
「車の後ろの扉を、僕が閉め直しました。中に置いたものがあります」
「蛇か」
「はい。力を削るだけです。あれを殺す力はありません」
「三つめ」
「破綻は、わざと見せました。扉のことも、手のことも」
「白伏山に門がいなかったのも、あんたか」
「行かせませんでした。あそこで止められたら、三つめが欠けます」
「三つめが何かを、知ってたのか」
「三つあることは、知っていました。何のための三つかは、いまも知りません」
俺は龍さんの襟を掴んだ。掴んで、すぐ離した。
「じゃあ、全部あんたの絵か」
「いいえ」
「いいえ、とは」
「僕が決めたのは、いま言った三つだけです。あなたが数を分けたことも、順番を変えたことも、火の中で奥さんの手を見たことも、僕の絵にはありません」
龍さんは首の後ろへ手を回した。
くすんだ鎖を外して、俺の首に掛けた。掛けてから、襟の内側へ押し込んだ。指の動きが、あの日、自分の襟にやったのと同じだった。
「重いですよ」
「これは何だ」
「持っていた者の、覚えていたことです。すぐには出ません。夢のほうから来ます」
「断ったら」
「断れます。断ったら、僕は別の人を探しに行きます」
「行けるのか、その体で」
龍さんは答えずに、立った。
立って、果歩のほうへ行った。
「体は、僕が連れていきます。見つけて、燃やしてください、と書いた人です」
俺は段に座ったまま、動かなかった。
動かないことを、自分で選んだ。選んだということを、あとで何度も確かめられるように、そのときの石の冷たさを覚えた。膝の裏に当たっていた角の形まで覚えた。
龍さんが果歩を抱えた。
抱え方が、丁寧だった。首の後ろに手を入れて、頭が垂れないようにしてから、膝の下を掬った。
「牧野さん」
僧が俺の肩を掴んで、後ろへ引いた。
「下がってください」
「あの人は、戻るのか」
「戻りません」
「知ってて行かせたのか」
「首領が決めたことです。私は、納得していません」
納得していない、という言い方を、この男は二度した。一度目は、俺の頭に手を載せる前だった。
龍さんは振り返らなかった。振り返らずに、火の中へ入った。
火が、二度、大きくなった。
三度目はなかった。
*
夜明け前に、街道沿いの空き家に入れられた。
門の人間が四人、外にいる。中は畳が二間で、電気は来ていなかった。僧が蝋燭を立てて、俺の前に置いた。
「眠ってください」
「眠れない」
「では、座っていてください」
僧は隣の部屋へ行き、襖を閉める前に、一度だけこちらを見た。
「牧野さん。その鎖は、外せます」
「外したら」
「私たちは、また探しに出ます」
「外さない」
「そうですか」
襖が閉まった。歓迎の言葉も、儀式もない。組織に入った覚えも、まだない。
俺は背中を壁につけた。
シャツの脇の縫い代が、動くたびに同じところに当たる。走った夜からずっとだ。当たる場所の皮膚が、もう痛くない。
鞄を膝に載せた。
収録の予定表。当直の綴り。ビニール袋に入った封筒。果歩の首飾り。首には、別の鎖が掛かっている。二つは触れ合うが、混ざらない。片方は駅前の店で溶接した安物で、片方は誰が作ったかもわからない。
ノートを開いた。
ページは残り少ない。
ペンの先を、罫の左端に当てた。
石の上を押さえていた指の動きが、まだ手の中にある。消える前に、置いておく場所が要る。
行の頭を、揃えた。
二〇二四〇八二四一五一三、と書いた。




