第十六章 昔の呼び名
夢は、毎晩ではなかった。
週に二度のこともあれば、十日空くこともある。来る夜は、寝入ってすぐに来た。
夢の中の俺は、俺ではない。
畑を焼いている男だったり、荷車を押している女だったりする。顔は見えない。見えるのは手だ。どの手も、首の後ろに同じ癖を持っていた。鎖が汗で張りつくと、指を一本入れて浮かせる。俺も、冬のあいだに同じ指の使い方を覚えた。
覚えたのは、断片だ。
かつて行き来があったこと。誰かが戸を立てたこと。戸を立てた側が、その後ずっと、開けたい側を探して歩いていること。順番も、年号も、揃わない。
起きるたびにノートへ書いた。
最初の半年で、ノートは四冊になった。
書いたものを、俺は二列に分けている。
左は、自分が見たり聞いたりしたものだ。予定表の「再送」の欄。当直の綴りの空いた印。石の上を押さえた指。
右は、夢から来たものだ。
二列を混ぜない。混ぜると、どちらも使えなくなる。それだけは、龍さんに言われる前から自分で決めていた。
鎖は、外していない。
外さないでいるあいだに、体のほうが少し変わった。階段で息が上がらなくなり、切り傷の治りが早くなった。代わりに、夜中に膝から下が冷える。冷えは朝まで残る。
龍さんが五十メートルで足を止めたのを、俺は去年、見ている。
あれと同じ道の、入口に立っているのだと思う。思うだけで、確かめる方法はない。
門の人間は、月に一度くらい来る。
用件を持ってくるのではない。座って、茶を飲んで、帰る。俺が何かを言いつけたことは一度もない。言いつけても、たぶん動かない。
僧は、二度来た。
二度とも、納得したとは言わなかった。
宙開は、秋に新人類計画の中止を公表した。理由の欄は短かった。榊顧問の名前は、それから公の文書に出ていない。真柴からの連絡もない。どこにいるかを、俺は確かめていない。確かめていないことを、そのままノートの左には書けない。
だから、どちらの列にも書いていない。
*
連続講座は、七月から始まった。
場所は、西の私大の、階段のある教室だ。俺の役は資料提供者ということになっている。数式のほうは、隣に立っている先生がやる。俺は、どの紙がどこから出てきたかを話す。
最初の回に、学生の一人が手を挙げた。
「先生は、ご専門は」
「専門はありません」
「じゃあ、なんで先生なんですか」
「その紙を持ってた人間の、夫だったからです」
それで笑いが起きるかと思ったら、誰も笑わなかった。
別の学生が手を挙げた。
「あの、これ、本当の話なんですか」
「紙と、放送の記録は本物です。どこで手に入れたかも話せます」
「その先は」
「その先は、俺が見たと言うしかありません。見たと言うだけのものは、証拠になりません」
「じゃあ、信じなくていいんですね」
「信じないでください。使えるところだけ、使ってください」
以来、みんな俺を先生と呼ぶ。肩書きはつかない。名札も刷られない。それでいい。
講義の中身は、進みが遅い。
三組の数字と、その数字が指している位置と、位置どうしの関係。関係には矢印がついている。矢印のうち、二本は引き終わっていて、四本は途中で切れている。切れているところに、隣の先生が毎回、点線を足す。
点線は、次の回に消えることもある。
「先生。この矢印のところだけ、もう一度いいですか」
前から三列目の学生だった。
髪を後ろで結んで、机に講義資料と、鉛筆と、小さな削り器を出している。削り器の受けに、かすが二人ぶんくらい溜まっていた。
「高瀬さん」
名簿を見ないで名前が出た。三回目からそうなった。
「どの矢印ですか」
「三つめから四つめに行くところです。ここだけ、元の紙がないって書いてあります」
「ありません」
「じゃあ、どこから来たんですか」
「俺が見ました」
「見た、というのは」
「その場にいて、見ました。記録は取れていません」
高瀬さんがペンを止めた。
止めて、資料の余白に何か書いた。書いてから、顔を上げた。
「それ、書いておいていいですか。先生が見た、だけ」
「どうぞ」
「あとで確かめられないと、使えないので」
「そのとおりです」
「先生の見たところ、もう一回起きたりします?」
「わかりません」
「わからないのが困るんですけど」
「困ります」
隣の先生が、こちらを見て、少し笑った。
紙の写しは、いま四人が持っている。原本は俺のところにある。隣の先生は、原本を見せろと一度も言わなかった。言わない理由を訊いたら、見なくても写しで足ります、と返ってきた。
同じ言い方を、去年、別の人間からも聞いている。
俺が説明できるのは、そこまでだ。そこから先は、この人たちが何年かかけて、確かめられる形に直していく。直せない部分は、直せないと書いて残す。
その速さに、俺はもう腹を立てなくなった。
*
講義のあと、教室に残る学生が何人かいる。
高瀬さんは、たいてい最後まで残った。
「先生、これ、去年のことなんですよね」
「去年の九月です」
「奥さんの字、見たことあります。資料の写真の」
「ええ」
「行の頭が、きれいに揃ってて」
俺は黒板消しを持ったまま、手を止めた。
「そうですね」
「私、あれできないんです。ノートがどんどん斜めになって」
「練習すれば、できます」
「練習しました。無理でした」
高瀬さんは笑って、資料を鞄に入れた。入れるとき、手が少し止まった。
「先生。変なこと訊いていいですか」
「どうぞ」
「先生、私のこと、ときどき長く見ますよね」
「……すみません」
「怒ってないです。気になっただけで」
「紙のことを考えていると、人の顔を見たまま止まるんです」
「あ、それ、うちの父もやります」
言い訳のつもりだった言葉を、この人は自分の家の話にして返した。
高瀬さんは、それ以上訊かなかった。訊かない代わりに、自分のほうを話した。
「私、中学のとき、親に置いていかれたんです」
俺はノートの上で指を止めた。
「そのあと、いまの両親に引き取られて。名前も、そのとき変わりました」
「……高瀬、は」
「いまの父の姓です。灯は、母がつけました」
「いい名前です」
「私も気に入ってます」
高瀬さんは鞄の紐を肩に掛けた。
「昔からの友達は、前の名前で呼びますけど」
書くことは、たくさんあった。
年齢。顔。中学。置いていかれた、という言い方。火の中で、あの人が一度だけ上を見たこと。平らな面に、街も、線路も、海岸線も、順番なしで載っていたこと。
俺はペンを持っていた。
持っていて、何も書かなかった。
左の列に入れるには、確かめたものが足りない。右の列に入れるには、夢から来たものではない。
入れる列が、ない。
*
廊下で足音がした。
走っている。教室の引き戸が、勢いよく開いた。
同じくらいの年の女の子が、息を切らして立っていた。片手に携帯、片手に紙袋。紙袋のほうを先に持ち上げて、こちらへ会釈をした。
「すみません、まだやってました?」
「終わりました」
「よかった」
女の子は教室の中へ入ってきて、机のあいだを三列ぶん、斜めに横切った。横切りながら、こちらを見ていない。
高瀬さんが鞄を持ち直して、立ち上がる。
窓から入る光が、夕方の色になっていた。
「あや」
(了)




