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第6話: 銭湯の下足箱が、三十六いっぺんに閉まった

 秤の針が、一キロを過ぎて止まった。


 皿には釘が山になっている。俺が頼んだのは、二百グラムだった。


「湊。針が逃げた」


「逃げてない。載せすぎだ」


「一掴みである」


「お前の一掴みは、人間の五掴みなんだよ」


 連休が明けて一週間。魔王はまだ、釘が量れない。


 手本を見せた。箱から一掴み取って、皿に落とす。針は二百の少し先で止まった。三本つまんで戻すと、ちょうどになった。


「なぜ分かる」


「毎日やってりゃ、手が覚える」


「余の手は覚えぬ」


「お前の手には、何でも軽いからだ」


 バルグは自分の手のひらを見た。豆腐屋の臼を一人で持ち上げた手だ。釘の二百グラムも一キロも、あれには同じなんだろう。


 引き出しにしまった袋のことは、あれから一度も訊いてこない。訊かれないと、こっちからも出しにくい。


「湊ちゃん。下足箱の鍵が一つ、ばかになった」


 声の主は、腹巻きだった。


 ランニングシャツに腹巻き。痩せて背が高くて、顔だけ湯上がりみたいに赤い。松の湯の松井さんだ。五月の半ばにこの格好で表を歩く人を、ほかに知らない。


 帳場に、真鍮のかけらが置かれた。小指の先ほどの四角い金具で、根元から折れている。


「錠の舌ですね。戸の横から出て、枠に掛かるところ」


「ゆうべ、酔っ払いが蹴りよった。札を失くして、開かんもんだから」


「靴は」


「舌が折れて戸が開いたんで、持って帰ったよ。今は閉まらん。ぶらぶらしとる」


「錠は外して預かります。舌は真鍮を接げば付きます。明日には」


「今日、閉まるようにしてくれ」


「三十六もあるでしょう。一つくらい——」


「閉まらん戸が一つあるとな」


 松井さんは、うちの表を見た。上まで開いたシャッターを。


「客は、ここもそろそろかと思う。口には出さんがな」


 言い返せなかった。先月、半分下りたうちの戸を見て、八百屋の孫は口に出して訊いた。やめちゃうの、と。


「枠に磁石を付けます。掛かりはしませんが、閉まります。十分で済みます」


「三時に開けるんだ」


「今から行きます」


 松井さんは、腹巻きの上から腹を一つ叩いた。


「ゆうべもな、わしが道具を取りに行っとるあいだに蹴られたんだ。待っとりゃ、開けてやったものを」


「道具?」


「古い手があるんだよ。人前でやるもんじゃないがな」


 それ以上は言わなかった。


 帳場の奥で、丸椅子が鳴った。


「そなたは、何の長だ」


 松井さんは、鴨居の下の黒い大男を見上げた。背の高い人が見上げる側に回るのは、珍しい眺めだった。


「これが、うわさのでっかい兄さんか。……おさ?」


「何屋さんかって訊いてます」


「湯屋だよ。松の湯」


「……湯の長であるな」


 バルグは深くうなずいた。


「湯の長。下足箱とは何だ」


「履物を預かる箱だよ。札を抜くと鍵が掛かる。掛からんのは、ただの棚だ」


「道理である。して湯の長、その鍵は——」


 まずい。


「松井さん」


 割り込んだ。


「さっきの、もう一回言ってもらえますか。鍵がどうなったか」


「ばかになった」


「それです。今日一日、その言い方でお願いします。ほかの言い方は、しないでください」


 松井さんは、俺とバルグを見比べた。


 バルグが首をかしげた。


「湊。ばかになる、とは何だ」


「具合が悪いって意味だ」


「壊れたのとは違うのか」


「違う。全然違う」


 同じだ。こいつは「壊れた」を聞くと、手が上がる。


「……ついでに、釜の音も聞いてくれ。去年の冬から、点き際に咳をする」


「俺、ボイラーは素人ですよ。会社でやってたのは空調です」


「設備屋は設備屋だろう。信さんが自慢しとった」


 初耳だった。


「二年で辞めた、下っ端ですよ」


「下っ端でも、耳はあるだろう」


 戸を留める磁石の金具を道具袋に入れて、『すぐ戻ります』の札を取った。


「お前も来い。一人で置いとくと、釘を全部『一掴みである』で売る」


「うむ」


「向こうでは、何にも触るな」


「余は、何にも触れぬ」


 返事だけは、いつもいい。




 松の湯は、アーケードの中ほどの路地を入った裏にある。煙突が一本、空に立っている。路地の塀のつつじは、花を半分落としていた。


 玄関の土間は、畳二枚ぶんもない。乾いた桶と石鹸の匂いがする。奥の戸は開いていて、脱衣場の板の間に籐の籠が伏せて並んでいた。


 土間の壁一面が、下足箱だ。


 木の扉が、六段に六つずつ。扉ごとに真鍮の錠が付いていて、木の札が差さっている。札にも扉にも、焼き印の漢数字があった。


 二段目の左から二つ目だけ、扉が半分開いて揺れている。八番だ。


 一番の札を抜いてみた。扉の横から真鍮の舌がかたんと出て、差すと引っ込む。札は、客が持って入る。


「木の鍵か。……よく減っておる」


 バルグは両手を前掛けのポケットに入れたまま、顔だけ寄せてきた。


 札の角を、親指でなぞった。何十年ぶんもの親指が撫でてきた丸さだ。俺の親指にも、合った。


 八番の錠は、舌の根だけが残っていた。枠の寸法を測って、磁石を付ける場所に鉛筆で印を入れた。


 八番の二つ隣にも、札が無い。十番だ。


 こっちは扉が閉まっている。錠は掛かって、札だけが無い。開店前の箱が、誰かに先に使われている顔で閉まっていた。


 子供の頃にも、見た。十番だけ札の無い日があって、誰かが先に入っているんだと思っていた。


 札を失くした客が、ほかにもいるのか。訊く前に、松井さんが暖簾を抱えて表へ出た。


 三時。暖簾が掛かった。


 待っていたみたいに、客が来た。洗面器を抱えた婆さんが二人。杖の爺さん。「あら金物屋さん」「あらバルさん」と言って、札を抜いていく。


 かたん。かたん。かたん。


「湊ちゃん。そっちはあとでいい。先に釜だ」


「先ですか」


「一番風呂が湯を使い出すと、火がまた点く。その点き際が、いちばん咳をする」


 松井さんは、湯銭を入れる缶を台に出した。留守のあいだは、客が自分で入れていく。それで間違いの起きない客しか来ない。


「お前はここに立ってろ。客が来たら、いらっしゃいと言え」


「余は、湯屋の番もするのか」


「立ってるだけだ。触るな」


「くどい」


 くどくて結構だ。




 釜場へは、建物の脇の通路から回る。幅は俺の肩と同じだ。バルグは、初めから入らない。


 突き当たりに鉄の戸があった。重油の匂いがする。戸の向こうで、何かが低く唸っていた。


 松井さんは、戸に手を掛けなかった。


「開けないんですか」


「音だけでいい」


「見ないと分かりませんよ」


「見りゃ、直したくなるだろう。お宅の血は」


 戸の前で、二人で待った。


 鉄に、手を当てた。ぬるかった。中の唸りが、薄く手に来る。


「開けるなよ」


「当ててるだけです」


 壁の向こうは浴室だ。桶の音がして、湯を流す音が続いた。


 やがて戸の奥で、ぼっと鳴った。


 火が点いた音だ。続いて、ごう、と風の音がする。ここまでは普通だ。


 手のひらに、何かが当たった。


 こん。


 音より先に、鉄を通って来た。耳を、戸に寄せた。


 こん、こん。


 鉄の箱の底で、小石が転がっているみたいな音だった。火が強くなると、数が増える。手にも、増える。


 会社のビルの機械室で、一度だけ似た音を聞いた。あの釜は、次の年に替わった。


「……咳は、これですか」


「これだ」


「火の音じゃないです。水のほうが鳴ってる。たぶん釜の底に、湯垢が石になって溜まって——」


 その先は、言えなかった。


 建物のいちばん表のほうから、声がした。


「余は魔王である」


 ……いや、待て。


「——湯の長の箱の鍵を、蹴られる前へ還す」


 浴室の高い天井が、声を倍にして返した。桶の音が、止まった。


 それから、鳴った。


 がちん。


 一つに聞こえた。数が揃いすぎて、一つに聞こえた。


 手の下で、釜はまだ咳をしていた。桶の音は、戻ってこなかった。




 通路を、肩を擦りながら走った。


 土間の真ん中に、バルグが立っていた。下ろしかけた右手で、指が一本、内へ畳まれるところだった。


 その横で、首にタオルを掛けた男が口を開けていた。中華屋の大将だ。昼の店を閉めてから夜の仕込みまでのあいだに、風呂に来る。片手に、脱いだ靴をぶら下げていた。


 下足箱を見た。


 八番の扉が、閉まっている。折れていた舌が、何もなかった顔で枠に掛かっていた。


 八番だけじゃない。三十六枚、全部だ。札が差さったままの扉まで、舌を出して閉じている。


「触るなって言っただろ!」


「触れておらぬ」


 バルグは、開いた手のひらをこっちへ向けた。


「かざしただけである」


「そういう意味じゃ——」


「この者が申したのだ。『なんでえ八番、壊れてんのか』と」


 大将が、タオルの端で自分を指した。


「言った。言ったら、この兄さんが何か怒鳴ってよ。手も触れてねえのに、箱が全部いっぺんに鳴りやがった」


「……気合いです。こいつが気合いを入れると、古い金物がたまに締まるんです」


「締まるかあ?」


「締まるんです」


 大将は首をひねって、空いた箱の札を引いた。抜けなかった。


 松井さんが、通路から追いついてきた。


「すみません、松井さん。うちの——」


「あとだ」


 松井さんは隣の札に手を掛けた。両手でこじって、一枚だけ抜く。差し直す。半分で止まった。


 指の腹で、錠の真鍮を撫でた。


「……固い。付けたての頃の固さだ」


「待てば緩むのか」


 小声で、バルグに訊いた。


「緩まぬ。締まった物は、締まったままだ」


「錠だけ新しくなっても、札は五十年ぶん減っとるんだ。合うもんか」


 松井さんは、角の丸い札を手に載せた。


 ちゃんと直ったのは、八番だけだ。その八番の札は、ゆうべの酔っ払いがどこかで失くしている。


「俺は入るぞ。靴は床でいいな」


 大将は靴を土間の隅に置いて、男湯へ消えた。あの人は、箱に用がない。


 入れ違いに、杖の爺さんが湯気と一緒に出てきた。


 札を差す。半分で止まる。抜いて、裏返して差す。止まる。爺さんは札を目の高さに上げて、裏と表を見比べた。


 女湯の戸も開いた。


 上がった順に、同じことが起きた。


「すまんね。鍵の機嫌が悪い。ちょっと見るから、涼んどってくれ」


 松井さんの声は、いつもの倍は明るかった。


 それから俺の袖を引いて、同じ口の端で言った。


「客を外へ出せ。集会所を借りてこい。鍵は豆腐屋だ」


「板の間で待ってもらえば——」


「客が見とる前じゃ、開けられん」




 路地を走った。


 剛三さんは、たかせの表で桶を洗っていた。


「剛三さん。集会所を貸してください。松の湯の客が五人、靴を出せなくなりました」


 束子《たわし》が止まった。


「……でかいのか」


「うちのです。すみません」


 剛三さんは何も訊かずに奥へ入って、鍵を放ってよこした。


「茶は、自分らで淹れさせろ」


 戻ると、湯上がりの年寄りが五人、路地から出てくるところだった。首にタオル、小脇に洗面器。足元は、松井さんが奥の住まいから抱えてきた履物だ。雪駄とゴム長と健康サンダルが、一足ずつ歩いていく。杖の爺さんは、花柄のつっかけを履いていた。


 集会所は、豆腐屋の向かいだ。路地の口からは、いくらも歩かない。そのいくらもない道を、一人ずつに頭を下げながら歩いた。


「いいよいいよ。湯冷めする陽気じゃなし」


「バルさんは声がいいねえ。風呂場によく響いたよ」


 怒る人はいなかった。


 たかせの前で、花柄のつっかけが止まった。杖の爺さんが、桶を洗う剛三さんに会釈する。剛三さんは束子を持ったまま頭を下げ返し、花柄を一度見て、桶に目を戻した。


 花柄が、アーケードの敷石を鳴らした。梁の巣から、燕が首だけ出して行列を見下ろしていた。


 集会所の戸を開けて、五人を畳に上げた。茶筒の場所は、俺より向こうのほうが知っていた。




 松の湯に戻ると、暖簾が引っ込めてあった。


 土間には松井さんと、手をポケットに入れたままのバルグがいた。隅にあった大将の靴は、もう無い。烏の行水で、夜の仕込みに帰ったそうだ。


「五十年、湯屋をやっとるがな。箱に総出で締め出されたのは、初めてだよ」


 客がいなくなって、松井さんは初めてぼやいた。


 それから、腹巻きから釘を出した。五寸釘だ。先が丸く潰れて、頭に布が巻いてある。


「湊ちゃん。兄さんを連れて帰れ。あとは、わしがやる」


「三十六枚、一人でですか」


「一人でやれる手だ」


 松井さんは七十四だ。


 頭を下げた。


「うちの者がやったことは、うちが直します」


 後ろで、長靴のかかとが揃う音がした。


 松井さんは、しばらく俺の頭の上を見ていた。たぶん、その後ろの黒いのを。


 釘が、指の中で一度向きを変えた。握り直した指は、そのまま止まった。


「……なら、持て」


「持つ?」


「戸をだ。兄さんは駄目だ。今日はもう、うちの戸に指一本触るな」


「かざすのも無しだぞ」


「……心得た」


 バルグは両手をポケットから出して、背中で組んだ。視察に来た王様みたいな立ち方になった。本物だから始末が悪い。


 札の差さっていない箱が、客の箱だ。数えると、七つあった。


 客は五人。八番を入れても六つ。一つ多い。


 十番だ。三時前から閉まっていた、あの扉だ。


「客のは、これとこれだ」


 松井さんは数える俺に構わず、五つを指した。常連の番号は、全部頭に入っているらしい。十番は、指さなかった。


 最初は、三段目の端だった。


 扉の左に、真鍮の蝶番が二つ付いている。筒の上に、芯の頭が小さく出ていた。


「芯を抜くんですね」


「分かるかい」


「金物屋なんで」


 芯が抜ければ、扉は蝶番の側から外れる。錠は掛かったままでいい。


「うちのは、芯の抜ける蝶番だ。先代が選んだ。札は必ず誰かが失くす、と言ってな」


 道具袋からポンチを出して、芯の尻に当てた。玄能で下から叩く。


 動かない。


 もう一度叩いた。蝶番の羽根が、きい、と鳴いた。


「叩くな」


 松井さんの手が、玄能を押さえた。


「先代の頃から、その戸をぶら下げてきた芯だ。重さが乗ったままじゃ、抜けんよ」


「じゃあ、どうするんです」


「先に、持ってやれ」


 扉の下の縁に、手のひらを当てた。押し上げる。


「上げすぎだ。浮かすな」


 力を抜いた。


「蝶番に、戸の重さが掛からんところまでだ。上げるんじゃない。持つんだ」


 手のひらに、扉が乗ってきた。


 木の戸が一枚と、真鍮の錠が一つ。それだけの重さを、上げも下げもせずに止めておく。


 蝶番の筒の中で、何かがふっと緩んだ。それが、手のひらに伝わってきた。戸が、自分の重さを忘れた。


 松井さんが、釘の先を芯の尻に当てた。叩かなかった。押しただけだ。


 芯が、すうっと上がった。


 上が抜けて、下が抜けた。扉がまるごと、腕の中に来た。錠は舌を出したままだ。


 箱の中に、草履が一足揃えてあった。


 鍵は掛かっている。なのに、戸は開いている。


「……これ、客には見せられませんね」


「だから出したんだ」


 松井さんは、抜いた芯を腹巻きに落とした。




 客の箱を五つ、先に外した。


「靴を集会所へ届けろ。豆腐屋の向かいだ」


「余は、触れてよいのか」


「靴は戸じゃない」


「……道理である」


 バルグは五足の履物を両腕に抱えて、路地を出ていった。向こうの上がり口に、きっちり揃えて並べるに違いない。


 うちの店は、『すぐ戻ります』のまま二時間になる。釘の客がいたら帰っている。一掴みで売られるよりは、ましだ。


 残りは、下の段からだ。


「腕が生きとるうちに屈んどけ。上は最後だ」


 持つ。緩む。抜ける。腕に来る。


 外した扉は、番号の順に壁へ立てかけた。戻す時に迷わないためだそうだ。


「一人でやれる手じゃ、なかったんですか」


 釘の先が、芯の尻で一度止まった。


「……昔は二人でやった。持つ者と、抜く者だ」


 誰と、とは訊かなかった。扉の乗った手のひらは、口より忙しい。


「札は、うちで作り直します。新しい錠に合わせて、全部」


「何日かかる」


「三日ください」


「それまで、うちは棚か」


「……すみません」


「いい。風通しがよくなる」


 釘の先は、もう次の芯に当たっていた。


「さっきの続きだ。釜は、何だって」


「底に石が溜まってます。たぶん。……今度、開けて見せてください」


「今度な」


 戻ってきたバルグは、また背中で手を組んだ。


 二段目に上がった。十二番。十一番。


 次の扉の下に、手のひらを当てた。


「そこは飛ばせ」


「え」


「十番は、そのままでいい」


 松井さんの顔を見た。釘の先はもう九番の芯に当たっていて、こっちを向かなかった。


 後ろで、長靴が止まった。九番の芯が抜けるまで、動かなかった。


 八番も外した。舌は、ちゃんと付いていた。道具袋の磁石は、今日は出番がない。


 七番で、二段目が終わった。


 肩を回した。手が、扉の形に開いたままになっている。釘の二百グラムなら覚えている手だ。戸の重さは、まだ覚えていない。


 一段目。肩の高さに腕を上げたまま、手のひらで扉を受ける。


 六番。五番。


 前腕が、細かく震えだした。重いからじゃない。軽い物を止めておくのは、重い物を持つよりずっときつい。


 四番で、松井さんに「下がっとる」と続けて言われた。汗が目に入った。拭く手が、無い。


 最後は、一番だった。


 手のひらを当てた。扉が乗る。止める。


 止まらなかった。腕が勝手に下がって、筒の中で芯が噛んだ。


「上げろ」


「……上がりません」


 肘の下に、黒い袖が入ってきた。


 大きな手のひらが、俺の肘を下から受けた。


「触るなって、言われただろ」


「戸には触れておらぬ」


 肘の下の手は、動かなかった。


「余が持っておるのは、湊である」


 震えが、止まった。


 手のひらの上で、扉がもう一度、自分の重さを忘れた。


 松井さんは何も言わずに、釘を押した。


 芯が、すとんと抜けた。


 一番を壁に立てかけて、数えた。三十五枚ある。


 下足箱は、棚になっていた。空の箱が、口を開けて並んでいる。


 扉が残っているのは、一つだけだ。


 その前で、バルグが足を止めていた。札のない差し口を、黙って見下ろしている。前掛けの端が、太い指の中で丸まっていた。


「松井さん。十番の札は、作らなくていいんですか」


「要らん」


 松井さんは釘の先を腹巻きで拭いて、しまった。


「十番はな、欠番なんだ。貸せる人がもういない」

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