第7話: アーケードの灯が、端から端まで点いた
割れる音が先で、暗くなるのが後だった。
木曜の朝の八時半。シャッターに引っかけてあったおからの袋を外していたら、北のほうでガラスの砕ける音がした。薄い音だ。瓶じゃない。
顔を上げると、アーケードの明かりが一つぶん、抜けていた。
走った。
酒屋の前に、飲み物の問屋の箱トラックが尻を向けて止まっていた。朝の九時までは、車が入れる。荷台の屋根の角が、軒の梁から吊った蛍光灯を引っかけたらしい。
乳白のカバーが敷石の上で割れ、管の破片が散っていた。器具は吊り金具の片方だけで梁からぶら下がって、ゆっくり揺れている。千切れた配線がその横に垂れていた。
梁の巣で、燕の雛が鳴いていた。
器具は駄目だ。取り寄せで二週間、ここは暗い。
運転手は若くて、顔が青かった。
「すみません。バックで……上は、見てなくて」
「怪我は」
「ないです。あの、弁償は——」
「保険で、組合に。会社に電話を。破片は踏まないで。配線にも触らないで」
「は、はい」
運転手は運転席で電話を始めた。受話口から怒鳴り声が漏れていた。
店から酒屋さんが出てきた。組合の会計だ。
「三代目。朝からついてねえな」
「夜、瓶を出すのに暗いですよ」
「しばらく暗いな。組合には言っとく。保険の紙は、俺んとこへ回せ」
「縛って、電気を落とします」
「集会所の箱か。鍵は豆腐屋だ」
後ろで長靴の音がした。バルグが、揺れている器具を見上げていた。
「湊。あれは——」
「落ちた」
「落ちた、だけか」
「落ちて、外れた。それだけだ」
「ならば、余が——」
「縛れば済む。お前は要らない」
壊れた、とは言わない。こいつの前でその言葉を言うと、黒い袖が上がる。
南から、白いゴム長が水を跳ねさせて来た。剛三さんだ。頭の手ぬぐいが、まだ濡れている。
剛三さんは割れたカバーを見て、揺れている器具を見て、それからバルグを見た。最後に、俺を見た。
「……落ちたか」
「落ちました」
それで済んだ。
「縛っとけ」
「先に、電気を落とします」
「集会所だ」
作業着のポケットから、鍵が出てきた。
「返しに来い。七時から寄り合いだ。机を出せ」
「はい」
「幾らか、言えるようにしとけ」
「調べて、紙にします」
「本屋さんが来る」
「本屋さんが、何の用で」
「来りゃ分かる」
南口の角の、元本屋の持ち主だ。
剛三さんはバルグを見上げた。
「でかいの。脚立を押さえとけ」
「余が」
「落ちたら、お前が受けろ」
「うむ」
水を跳ねさせて帰っていった。
集会所は、豆腐屋の向かいの元乾物屋だ。畳の間の奥に土間が残っていて、その壁に灰色の鉄の箱が掛かっている。
アーケードの灯の分電盤だ。
蓋を開けると、小さなブレーカーが二列に並んでいる。一番から四十一番まで、店ごとに一つ。じいちゃんの代に、組合が引き直した。
一つずつに荷札が下がっていて、店の名が書いてある。右へ上がっていく、じいちゃんの字だ。
レバーが下がっているのが、十八ある。店が一つ閉まるたびに、組合はここで一つ落とす。落とすのは、金物屋の仕事だった。じいちゃんが死んだ年の秋、向かいのレコード屋のを落としたのは俺だ。
太い指が、横から二十九番の札を押さえた。
「湊。これは読める」
バルグだ。鴨居の下で首をすくめたまま札を見ている。
「札が、四十一あるな」
「四十一だ。店の数だ」
「さ。か。い」
「酒屋だ」
「読めた」
「お前が覚えた所までの字で、足りるからな」
指が同じ列の少し先の札へ動いた。
「た。か。せ」
「豆腐屋だ」
「豆腐の長の札か」
「下りておるのが、多いな」
「十八ある。閉めた店の数だ」
次はレバーの下りている札だった。指がその上で止まった。
「これは読めぬ」
「読まなくていい。閉めた店だ」
「閉めた店の上は、灯さぬのだな」
「電気代だ」
「灯の代も、金か」
「全部、金だ」
「落とすのは、そなたか」
「俺だ」
「落とすだけか。壊しはせぬのだな」
「落とすだけだ。上げれば点く」
「ならば、よい」
二十九番に指を掛けて、下げた。
かちん。
指を離しても、下がったままだ。当たり前だ。
脚立に戻った。
電気の切れた器具の下で、手元が暗い。番線を巻く指の先が、一本ずつ見分けにくい。
器具は二本の番線で梁に縛った。これでもう落ちない。千切れた配線はテープで巻いて梁に留め、根元が抜けかけていないか手でたどった。
指に、紙が当たった。
荷札だ。配線の根元に細い針金で結わえてある。煤けて角が丸い。分電盤の札と同じ紙だった。
手元へ引いた。年号は昭和だった。
『安定器 取替 三崎』
これも、じいちゃんの字だ。直した日と、直した物と、直した人。うちの修理帳と同じ書き方だった。
その下に、もう一行あった。
同じ字じゃない。縦も横も、定規を当てたみたいにまっすぐな字だ。煤で、半分埋まっている。
親指を、煤に掛けた。一画ぶん擦ったところで、止めた。片手で脚立に掴まったまま読む字じゃない。
「三崎さん、まだですか。会社が、車を戻せって」
下から運転手の声がした。
「今、降ります」
「上に、何かありました?」
「じいちゃんの字」
「……え?」
「何でもないです。動かしていいですよ」
「縛っとくだけで、大丈夫ですか」
「落ちません。落としません」
札を針金のまま根元へ戻した。煤の下の一行は、次にここへ上がる時に読む。
脚立はバルグが押さえていた。頼んでいない。
「湊。寄り合いとは何だ」
「店の集まりだ。決め事をする」
「軍議であるな」
「電気代の話だ」
「余も出る」
「出ない。お前は組合員じゃない」
「組合員とは何だ」
「店の主だ。店番は入らない」
ちりとりを渡した。バルグは管の破片を一つ残らず拾った。
六時半を回ると、アーケードの下が先に暮れた。暮れてからが、灯の本番だ。
うちの上の一本が、帳場の手元を昼より明るくする。
二十九番の上だけ、暗い。酒屋の前の敷石が、そこだけ色を失くしていた。脚立は、その下に立てたままだ。まだ上がる用がある。
寄り合いに持っていく紙を書いた。器具の型番と、取り寄せの日数と、値段。
一番上は、「破損」にした。紙でも、あの言葉は書かない。
七時前に店を閉めた。いつもより一時間早い。シャッターを膝の高さまで下ろして、止め具のシャコ万を噛ませる。これで上にも下にも動かない。
「今日は、早いな」
「寄り合いだ。お前も来い。剛三さんが、机を出せってさ」
「組合員でない者が、机を運ぶのか」
「運ぶのは誰でもいい。決めるのが組合員だ」
「……よかろう」
集会所の長机は三つ。奥の土間に立てかけてあるのを、バルグが一度に三つ抱えた。
「一つずつだ。畳が持たねえ」
剛三さんが言った。
「……畳が、か」
バルグは一つずつ運んだ。座布団の八つは、一度でよかった。
並べ終えて、朝の鍵を返した。剛三さんは顎で表を指した。
「でかいのは外だ。組合員じゃねえ」
「……心得た」
バルグは敷居をまたいで表の窓の下に立った。窓の外の明かりの中に黒い肩だけが見えた。
七時に顔が揃った。
上座に剛三さん。帳面を開いた酒屋さん。魚屋の親父さん。八百屋の親父さん。花屋の奥さん。末席で急須を抱えているのは、小松の会長だ。
俺は、戸口に一番近い座布団だ。三代目で、一番若くて、寄り合いで口を開いたことは一度もない。
その隣に上着の人が座っていた。本屋さんだ。六十くらいで、日に焼けていない。
「南口の本屋の、息子です。親父の代は、世話になりました」
剛三さんは前置きをしない。
「始める。理事長は、まだ病院だ。灯から。二十九番が落ちた。三代目」
紙を読んだ。
「器具ごと替えです。取り寄せで二週間、三万八千円。運送屋の保険で出ます」
「保険が下りるまで、組合の立て替えだ。二週間、酒屋は裏から出せ」
「出す」
「次。電気代」
酒屋さんが帳面を読んだ。
「間引きで、去年より月に一万近く減った。組合費は、今年は上げない。来年は分からん」
「次。本屋さんだ」
本屋さんが膝の上で手を組んだ。
「親父の店を、壊そうと思います」
誰も驚かなかった。
「更地にして駐車場にします。南口の角なので車道から入れる。建物は建っているだけで金が出ていく。保険もあるし、見回りの契約だけで年に一万二千円。入ってくるのはゼロです。駐車場なら入ってくる」
年に一万二千円は、俺に払っている金だ。鍵を預かって、月に一度中を見て、壊れた所を小さく直す。
「それで組合さんにお願いしたいのはアーケードです。うちの上の軒と灯を、隣から切ってほしい。切った所の雨仕舞いは隣の軒にも掛かる工事になる。だから費用は半分持ちます」
「壊すのは、いつだ」
剛三さんが訊いた。
「秋のうちに。涼しくなってから」
「何台入る」
「四台で、月に三万五千です」
「切るのに、幾らだ」
「全部で百二十万。組合さんの半分が、六十万です」
「残りの半分は」
「うちで持ちます。駐車場で返します」
「何年で返る」
「二年で返ります」
「六十万は、出ねえ」
酒屋さんが帳面を叩いた。
会長が急須を抱え直した。
「南口はね、昔は映画館の帰りが——」
「会長」
剛三さんが止めた。会長は急須に戻った。
剛三さんは、何も言わなかった。組んだ太い指を、机の上に置いたままだ。
窓の外で、声が一つ上がった。
聞き慣れた高さの声だ。言葉はガラスに削られて届かなかった。それでも分かる。名乗りの、あの伸ばし方だ。
朝の「ならば、余が——」の、続きだ。
窓が、明るくなった。
いつもの灯の明るさじゃない。窓の桟の影が、畳の上で急に濃くなった。湯呑みの水面が白く光って、年寄りたちの顔から影が消えた。
魚屋の親父さんが立って窓を開けた。
「……おい、三代目。全部点いてるぞ。閉めた店の上もだ」
アーケードが、端から端まで点いていた。
消すのは俺だ。あの箱だ。
「三代目」
「箱です」
座布団を蹴って奥の土間へ走った。後ろで年寄りたちが表へ出ていく。
鉄の箱の蓋を開けた。
ブレーカーが、全部上がっていた。朝に落とした二十九番も、閉めた店の十八も、一つ残らず。
窓の外の声は、あいつだ。たぶん、朝の灯だ。
二十九番に指を掛けて、下げた。
かちん。
指を離すと、かちんと戻った。
主幹も同じだった。手を離せば、上がる。
臼の時と同じだ。還したものは止まらない。待つしかない。
蓋を閉めて、表へ出た。
目が、慣れなかった。
閉めた店のシャッターが、波板の山ごとに灯を返している。
二十九番の上が、点いていた。朝に割れた器具が、割れる前の乳白のカバーで梁から吊られている。縛った番線だけが何も縛らずに余っていた。
年寄りたちがアーケードの真ん中に立っていた。上を見ている。
バルグは、窓の下にいた。
右手の指が一本、内へ畳んであった。朝、脚立を押さえていた時は五本とも伸びていた。
その横に、朝の運転手が立っていた。手に菓子折りを提げて、顔は朝より青い。
「仕事が終わってから、謝りに来たんです。酒屋さんが閉まってて、それでこの人に訊いたんです。朝に自分が壊した灯は、まだあのままですかって——」
壊した。
朝から、俺が一度も口にしなかった言葉だ。
「そしたらこの人が、余は魔王である、って叫んで……あれが点いて。そこから端まで順に、全部です。あれも、直ってます」
運転手が、二十九番を指した。窓の下の黒い肩は、動かなかった。
「縛ってあったの、外しました?」
「外してません。縛ったままです」
「アーケードが古いんだ」
剛三さんが言った。
「古いと、たまに戻る。壊れてねえもんに、保険は下りねえ。会社には、直ってたと言え」
運転手は、二十九番を見上げた。
「朝、割れたのは……自分の目で、見てるんです」
「今、割れてるか」
運転手は、しばらく見ていた。
「……そう、ですか」
「菓子折りは、酒屋に回しとく」
運転手は菓子折りを剛三さんに押しつけ、バルグに頭を下げて、南口へ歩き出した。
「……直っちまったんなら、裏から出さんで済むか」
酒屋さんが自分の店の上を見て言った。
魚屋の親父さんが南を向いていた。
「……本屋」
花屋の奥さんが隣の閉めたシャッターを見た。
「茶舗」
八百屋の親父さんが北を見た。
「洋品店」
会長が急須を持ったまま言った。
「布団屋の親父がな——」
その先は誰も聞かなかった。会長も、続けなかった。
本屋さんは、南の端を見ていた。灯の端の下に、親父さんの店がある。
何も言わなかった。
剛三さんは、南の端を見なかった。手前の自分の店の上を一度だけ見た。それから俺を見て、バルグを見た。
「……戻るぞ。寄り合いだ」
座布団に戻ると本屋さんが最初に口を開いた。
「空き店舗の上まで点けて、電気代は誰が持つ。うちの上を切れば、その分は消えますよ」
荒れた。
「今夜の分は、仕方ねえだろう。月の帳面で見りゃ知れた額だ」
酒屋さんが帳面を閉じた。
「知れた額を、何年続けるんです。間引いて浮いたのが、月に一万でしょう」
「浮かせたのは、こっちだ」
帳面が、机を叩いた。湯呑みの茶が揺れた。そこから先は、声が重なった。
窓の外はまだ明るい。
「会長、茶」
「はいはい」
急須が二度目に空になって、会長が奥へ湯を取りに立った。その背中について土間へ出て、鉄の箱に手を掛けた。
「落とすのかい」
「閉めた店の上だけです」
「酒屋の上は」
「直ってます。点けときます」
「幾つ落とすんだい」
「十八です」
「多いねえ。……頼むよ」
「会長は、戻ってください。茶が無いと、荒れます」
「分かってるよ」
箱の蓋を開けた。
上から順に、口の中で数えながらいく。
二番は、本屋さんの親父さんの店だ。先月、雨樋の勾配を付け直した。
指を掛けて、下げた。
かちん。
指を離した。上がらなかった。勢いが、尽きたらしい。
一つ。
手に、レバーの固さが残った。朝と同じ固さだ。
四番はおもちゃ屋だ。去年の秋、シャッターのばねを替えた。六番は写真館で、今月、裏口のブザーを入れ直した。
二つ。三つ。
九番、十一番、十三番。菓子問屋の庇のトタンと、薬局の看板の吊り金具と、電器屋の二階の戸車。手は、札を読むより先に下りた。直した物のほうが、札より先に出てくる。
六つ。
十五番は履物屋だ。鍵は預かっている。まだ何も直していない。
指が、札の上で止まった。裏の戸の下の蝶番が、緩んでいる。風のある日は、鳴る。知っている。まだだ。
下げた。七つ。
十七番は金券屋だ。鍵を預かっていない。中は知らない。
指が、もう一度止まった。この札だけ、手より先に字を読んだ。下げた。八つ。
二十番はレコード屋だ。向かいだ。表の錠に油を差した。
九つ。
二十二番は布団屋だ。塀を積み直した。二十六番は乾物屋で、この集会所の上だ。ここも閉めた店だ。
十一。
二十八番の茶舗は樋を塞いだ。三十番の洋品店はガラスのパテを打ち直した。間の二十九番は飛ばす。上げたままだ。
十三。
三十二番の歯医者は壁の穴を埋めた。三十四番の蕎麦屋は換気扇に金網を張った。三十六番のゲームセンターは裏の柵を立て直した。
十六。
三十八番は銀行の機械の小屋だ。ここも、鍵を預かっていない。四十番の花市場は雨漏りの桶を替えた。
十八。
上がっているのは、開いている店の上だけになった。
土間から戻ると、窓の外は来た時の明るさに戻っていた。
取り壊しの話は、続いていた。
「切るのも、手かもしれんな」
酒屋さんが言った。
「六十万は出ねえが、切った後は電気代も減る」
剛三さんは、指を組んだままだ。
本屋さんが、窓を見た。それから、戸口の俺を見た。
「三崎さん。鍵を預かってもらってる手前、言いにくいんだが」
座布団は、まだ戻っていない。敷居の内側に、立ったままだった。
「あの建物、直してどうなるもんでもないでしょう。あんたが、一番知ってる」
部屋の目が、戸口に集まった。
本屋さんが座布団を一つ、こっちへ寄せた。座れ、ということらしい。
いつもなら、はあ、と言う。それで済む。
先月、樋を直した。勾配を付け直した日、二階の床板は踏んでも鳴らなかった。中が乾いているのを知っているのは、この部屋で俺だけだ。
右手に、レバーの固さが残っていた。十八ぶんだ。
「……いや、待て」
口から出ていた。
酒屋さんの湯呑みが、口の手前で止まった。会長が、急須を畳に置いた。剛三さんの指が、組んだまま止まった。
本屋さんは、俺を見たままだ。
「直せるうちは、閉めない」
「直せるって、年の一万二千で、ですか」
本屋さんの声は、荒くなかった。
座布団は、寄せられた所にあった。戻さなかった。敷居からも、動かなかった。靴下の裏に、敷居の木が固かった。
誰も動かなかった。
剛三さんが、組んでいた指をほどいた。
机の上に、手のひらを置いた。
「……アーケードは、組合のもんだ」
「切るなら、持ち主を全部呼んで総会だ。今日の顔ぶれじゃ決められん」
本屋さんが、息を吐いた。
「……総会は、いつですか」
「理事長が戻ったらだ。戻らんなら、年内に俺が開く。それまで、中は三代目だ。今までどおり」
「……分かりました。総会で、また」
「決まりだ」
剛三さんが、立ち上がった。
本屋さんは上着を着て、戸口で足を止めた。こっちへ寄せた座布団を元の所へ戻して、南口のほうへ歩いていった。
外に出ると、バルグは窓の下にいた。
「中、聞こえてたか」
「窓は厚い。中の話は、通らなんだ」
「ずっと、そこにいたのか」
「一度、灯の下へ行った。あとは、ここだ」
「運転手に、何て答えた」
「壊れたままにはせぬ、と答えた」
嘘ではない。こいつは嘘をつかない。
「湊」
バルグは窓を見上げなかった。俺の足元を見ていた。
「座布団が一つ、そなたの足へ寄った。足は、寄らなんだ」
窓を振り返った。見上げて届くのは、桟の手前の一枠、戸口の座布団と敷居だけだ。
声は通らない。足だけ、通っていた。
「脚立は、二十九番の下だ。担いで帰る」
北へ歩いた。
酒屋の上は、番線を余らせたまま点いている。配線の根元に、読んでいない札がまだ結わえてある。今夜の分には、札が付かない。
読みに上がるのは、やめた。今夜は、何も直していない。
脚立を畳んで、肩に担いだ。
バルグは、二十九番の下から動かなかった。斜め向かいの路地の奥を見ている。白木のおじさんの家だ。路地の奥まで、灯は届かない。
バルグが動くのを待つあいだ、北と南を見た。一本道で、端から端まで見える。
北口へ向いて、灯を一つずつ数えた。南口へ向いて、続きを数えた。
二十三。




