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第5話: 迷子は三秒で見つかって、一秒で隠れた

 女の人の手のひらが、自分の腰の横で止まっていた。


「このくらいです。背は、このくらいで」


 その手の下には、誰もいなかった。


 こどもの日の、午後二時過ぎだった。


 一分前まで、俺は帳場で魔王と揉めていた。先週の夜中に聞こえた寝言の件だ。


「余は寝言など言わぬ」


「じゃあ、あれは誰が言ったんだ」


 バルグは答えずに、柏餅を葉っぱごと口に入れた。小松の会長が今朝置いていったやつだ。


 自分は一日じゅう、何でも訊くくせにだ。


 そこへ、この人が飛び込んできた。


 三十くらい。白いスニーカーの片方の紐が、ほどけたままになっている。目の下が赤かった。


「男の子です。五歳で、陸《りく》って言います。そこの路地の口で、私が電話に出たあいだに」


「何分前ですか」


「十分……もっとかもしれません。路地を家まで戻っても、いなくて。それで表だと思って、端から端まで三回走りました。八百屋さんも魚屋さんも、見てないって」


「迷子の放送って、ここにはないんですか」


「ありません。あるのは店の目です」


「目」


「表を五歳が一人で歩けば、開いてる店の誰かが見ます。誰も見てないなら、表にはいません」


 その人は、自分が三回走った通りを振り返った。


「でも、南口を出たら車道ですよね。あの子、まだ一人じゃ渡れないんです」


 大丈夫です、とは言えなかった。


「交番には」


「母が家から電話してます。あの子が戻るかもしれないので。三丁目の……生け垣に穴の開いた家って言えば分かるって」


「分かります。穴は丸く刈り揃えました。塞がるのは夏です」


「母も、夏までは穴の家だって言ってました」


 笑いかけた顔が、途中で崩れた。


「おまわりさんが着くまで十分はかかるから、先に金物屋のバルさんに頼めって。回覧板を見つけた人だからって、母が」


 帳場の奥で、丸椅子が鳴った。


 バルグが立っていた。口の端から、柏の葉の軸が出ている。


「湊。余の出番であるな」


「葉っぱを飲み込んでから言え」


 先週の鍵の時は、目で止めた。今日は止めない。


 止めていいのは、俺が代わりにやれる時だけだ。表にいないなら、裏にいる。閉めた店の裏口を一人で覗いて回れば、二十分はかかる。


 裏の路地も、南へ抜ければ同じ車道に出る。


「服は、何を着てますか」


「青いトレーナーです。あと靴が……踏むと光るやつで」


「靴が光るのか」


 バルグが身を乗り出した。


「光ります。赤く」


「よい靴だ」


 暗い所で目の光る男が、深くうなずいた。


「子供だけだぞ。人を跳ねるな。物も壊すな」


「心得た。足に、よく言うておく」


 言って聞く足なら、生け垣に穴は開いていない。




 『すぐ戻ります』の札を掛けて、通りを渡った。


 路地の口は、元布団屋の脇にある。抜ければ三丁目だ。


「ここです。ここで電話に出てました。振り向いたら、もう」


「口上は路地の中でやれ。表でやると人が集まる」


「口上とは何だ」


「お前が毎回言うやつ」


「あれは名乗りである」


 少し入ると、店の裏を通る細い路地と交わる。右が南口、左が北口。まっすぐ行けば三丁目で、塀の上のつつじが満開だった。


 まっすぐは、この人がもう見た。残りは右か、左かだ。


 十字の真ん中で、バルグが足を揃えた。


「余は魔王である。——この母御《ははご》の子の在り処を、尋ねる」


 声が、両側の壁に跳ねた。


「え。まおう」


「名乗りです。気にしないでください」


 黒い長靴が、右を向いた。


 向いた、と思った。次の瞬間、路地には誰もいなかった。


 風が遅れて来た。塀のつつじの花が、いくつも南へ飛んだ。お母さんの髪も、同じほうへ引かれた。


「止まれ!」


 返事の代わりに、ブザーが鳴った。


 ビーッ。すぐそこだ。


 ビーッ。その隣。


 少し空いて、三つ目が鳴った。音が小さい。ずっと遠くだ。


 三秒。数えたわけじゃない。三つ鳴り終わるまでが、そのくらいだった。


 ……いや、待て。うちはアーケードの真ん中だ。三つ目は、ほとんど南口で鳴っている。


「……今、消えましたよね」


「走っただけです。まっすぐ行くやつだって、聞いてませんか」


「聞きました。母から。聞きましたけど……この音は」


「防犯ブザーです。閉めた店の裏口に付けてあって、戸が揺れると鳴ります」


「揺れるって、誰が」


「うちの店番が、前を通ったんです」


 去年の秋に、うちが町内会に納めた品だ。ねじで留めたのも俺だから、どこのが鳴ったかは音の遠さで言える。


「一つ目が元布団屋で、二つ目が元レコード屋です」


「三つ目は」


「南の端です。あの辺りで付けたのは、元の本屋と玩具屋と——」


 写真館。


 今朝、風を通しに行った。じいちゃんの代から、町の外にいる持ち主の鍵を預かっている。月に一度、閉めた店を開けて回る。


 表のシャッターを膝の高さまで上げて、裏口に楔《くさび》を噛ませた。昼には閉めに戻るつもりだった。


 研ぎの客が三人続いて、忘れた。思い出したのが、今だ。


 開いている戸が一つあれば、五歳は入る。


「写真館です。今朝、俺が裏口を開けたままにしました。走れますか」


 お母さんは、返事より先に走り出していた。




 三つのブザーが、ずれたまま鳴り続けていた。一分で勝手に切れる型だ。


 閉めた店のあいだには、やっている店もある。その裏口が二つ三つ、細く開いた。俺の顔を見て、すぐに閉まった。


「なんだ、金物屋か」


 閉まる戸の向こうで、誰かが言った。


 ブザーが鳴れば、会長が防犯日誌を抱えて来る。鳴った時刻と、わけを書く帳面だ。


 今日のわけを、何と書いてもらえばいい。


 走りながら、壁を見た。


 店の裏の壁に、俺の目の高さで、白い線が一本続いている。モルタルもトタンも鉄の扉も、同じ高さで擦れていた。


 定規で引いたような線だった。回覧板の時と同じで、あいつの足は曲がらない。


 今日は塀も屋根も越えていない。在り処が路地沿いの戸口だと、まっすぐ行く肩は壁を擦るらしい。


 擦れた粉が、まだ宙に残っていた。息を吸うと、喉がざらついた。


 路地に物が出ていなくて助かった。人が出ていなくて、もっと助かった。


「壁の、この線は」


「肩です。あとで拭きます」


「肩……」


 後ろの足音が、少しずつ遠くなった。表を三回走った足だ。


「先に、行ってください」


 振り向かずに、足を速めた。


 写真館の裏口は、楔を噛ませたまま開いていた。


 バルグは、その戸口に立っていた。右の肩が、壁の粉で真っ白だ。右手の指が一本、もう折ってある。


 白い線は戸口の前を通り越して、隣の戸で切れていた。


「一軒、行き過ぎた」


「見れば分かる」


「足は止まった。余が止まらなかった」


「どこで止まった」


「隣の戸に手を突いた」


 隣は元玩具屋だ。三つ目のブザーは、それだった。


「人は跳ねておらぬ。物も壊しておらぬ」


「壁に線が引いてある」


「あれは肩である。足ではない」


「見つけたのか」


「見つけた。三秒である」


「中にいるんだな」


「おる。……余を見て、奥へ逃げた」


 三秒で見つけて、一秒で隠れられている。


「在り処は分かった。なぜ隠れるのかは、余には分からぬ」


 声が、半分の大きさになっていた。


「余では駄目だ。湊」


 こいつが自分で駄目だと言うのを、初めて聞いた。




 中は暗かった。酢に似た匂いがする。古いフィルムの匂いだ。


 受付のカウンターがあって、壁に色の抜けた七五三の見本が掛かっている。奥は、背景の布を巻いたままの撮影場だ。


 明るいのは一か所だけだった。表のシャッターの下の、膝の高さの隙間。今朝、俺がうちと同じ高さに上げた。そこからアーケードの光が、床に帯になって伸びている。


「陸くん」


 立ったまま呼んだ。


 カウンターの下で、赤い光が一度だけ点いた。


 もう一歩寄ると、光は奥へずれた。


 足を止めた。


 あそこから見えているのは、俺のサンダルだけだ。知らない大人の足が、近づいてくる。


 膝をついた。床は埃で、ひやりとした。


 カウンターの下に、男の子がいた。膝を抱えている。茶色い縞の猫が、その子の靴に顎を載せていた。魚屋の裏に居着いているやつだ。


 箱が一つ倒れて、紙の袋が床に散らばっている。


 男の子は、俺を見なかった。表の隙間のほうを見ていた。


 同じ高さから、同じほうを見た。


 サンダルが通った。革靴が通った。買い物車の車輪が、その後を転がっていった。


 うちの店で毎晩潜っているから、知っている。膝の高さの隙間から見えるのは、靴だけだ。


 後ろで足音が止まった。荒い息がする。


「陸——」


「待たれよ」


 バルグの声だった。半分の、そのまた半分だ。


「子は無事である。今、湊が訊いておる」


「でも」


「そなたの声は、今は大きい。余の声も大きい。子の前では半分にする。……湊のは、初めから小さい」


 余計なお世話だ。


 振り向くと、黒い長靴のあいだに白いスニーカーが見えた。紐のほどけた靴だ。そこから動かなくなった。


 床の高さからだと、俺も靴で人を見分けている。


「そこから、何が見える」


 男の子に訊いた。


「……くつ」


「誰のか分かるか」


「わかんない。さっきのは、おかあさんの」


「何回通った」


「さんかい」


 お母さんは表を三回走った。三回とも、この隙間の前を通ったことになる。


 大人は、膝の高さの隙間を戸口だと思わない。


「呼んでただろ」


「……おこってた」


「怒ってたか」


「こえが、おおきかった」


 声と靴だけだ。それだけなら、俺にも区別は付かない。


「てをはなしたら、もうつれてこないって」


「離したのか」


「ねこが、いっちゃうから。よんだのに」


 猫はあくびをした。責任を感じている顔ではなかった。


「俺もさっき、でかい声を出した」


「……だれに」


「戸口にいる、でかいのに」


「おこったの」


「止まってほしかった」


「とまった?」


「止まらなかった」


 カウンターの下で、靴が続けて光った。笑ったらしい。


「お母さんを、ここに呼んでいいか」


 返事まで、少しかかった。


「……おこってるか、わかんない」


「顔を見れば分かる」


「かお、みえない」


「見えるようにする」


 膝をついたまま、戸口を向いた。


「お母さん。入ってきてください」


 白い靴が、一歩入って止まった。


 俺は自分の目の横に、手のひらを浮かせた。店でこの人が、腰の横に浮かせていた高さだ。


「このくらいまで、屈んでもらえますか」


 お母さんは、何も訊かなかった。


 ほどけた紐の先が、埃の上に落ちた。その横に、膝が付いた。


 光の帯の中に、顔が下りてきた。


 目も鼻の頭も、真っ赤だった。口は怒る形を作ろうとして、作れていなかった。


「……陸」


 戸口で呼びかけた声の、半分もなかった。


 靴が光った。


「おかあさん、ないてるの」


「泣いてない」


「ないてる」


「……泣いてるよ。いなくなったと思ったんだから」


 カウンターの下から、光る靴が這い出してきた。


 お母さんの手のひらが、その頭に載った。腰の横で浮いていた手だ。今度は、下に頭があった。


「てをはなして、ごめんなさい」


「うん。お母さんも、怒鳴ってごめん」


 俺は膝をついたまま、少し下がった。


 床に付いた膝は、三人とも埃で真っ白だった。




 裏口を出ると、ブザーはもう止んでいた。


 お母さんは男の子の手を握ったまま、家に電話をかけた。


「お母さん、いた。交番にも言っといて。……うん。穴の家が、また金物屋さんの世話になった」


 切ると、戸口の脇のバルグに頭を下げた。何か言いかけて、やめた。もう一度下げた。


 バルグは黙って、同じ深さまで頭を下げた。


 路地の北から、小松の会長が来た。壁の白い線を指でたどって、脇に帳面を挟んでいる。


「湊くん。三つ鳴ったよ。何が揺らしたんだい」


 帳面はもう開いていて、鉛筆の先が俺を向いていた。


 わけは、俺の横に立っている。右の肩が真っ白で、その白は壁の線と同じ高さだ。


 その長靴のあいだを、茶色い縞の猫が抜けていった。


「……猫が」


「ちがうよ。おおきいおじさんが、はしってきたんだよ。めがひかってた」


 会長は男の子を見て、猫を見た。それからバルグの肩を見て、最後に壁の線を見た。


「そうかい。大きい猫だったんだねえ」


 鉛筆の先を舐めて、帳面に書き込んだ。


『五月五日 午後二時すぎ 三件 猫』


「菓子の長。余は猫では——」


「バルさん」


 会長は帳面を閉じた。


「わしは今日、朝から柏餅を包んでたんだよ。裏は見てない。……見なかったことにするよ。ね」


 お母さんが男の子の手を握り直して、小さくうなずいた。


「会長。線は明日、端から拭きます。落ちなければ塗ります」


「頼むよ。柏餅、二つ残しとくからね」


 会長は親子と並んで、路地を北へ戻っていった。男の子は何度も振り返って、バルグの目を見ていた。


 残ったのは、戸締りと床の袋だ。中へ戻ると、バルグが壁の色の抜けた見本を見上げた。


「湊。ここは何を商う店であった」


「写真館。人の姿を紙に写して、残しておく店だ」


「残して、どうする」


「あとで見る。七五三とか祝言とか。……シャッターは下までだぞ。ここは、うちとは違う」


 バルグが内側から、表のシャッターを引き下ろし始めた。床の光の帯が、細くなっていく。


 倒れた箱を起こして、袋を拾った。どれにも鉛筆で名字が書いてある。知っている名字が、いくつもあった。


 最後の一枚を、残った光にかざした。


 名字が二つ、並んでいた。


「……三崎、白木」


 声に出ていた。


 光の帯が、止まった。


 いつもなら、ここで「それは何だ」が来る。知らない物を前にして、こいつが訊かなかったことは一度もない。


 来なかった。


「どうした。レールが渋いか」


 返事はなかった。シャッターが床に着いて、光がなくなった。


 俺の頭より高い所に、金色の点が二つ残った。俺の手の袋のほうを向いたまま、動かなかった。


 うちと、白木のおじさんの名前だ。指で押すと、中で薄い帯が何本か滑った。写真のネガらしい。


 その場で、持ち主に電話をかけた。


「今朝、戸を開けたまま忘れました。すみません。それと、三崎と白木って書いた袋が一つあるんですが」


「三崎さんの名前なら、三崎さんのだ。持っていきなよ」


 電話のあいだ、金色の点は一度も瞬かなかった。


 裏口の鍵は、二度引いて確かめた。




 夜の八時に、店を閉めた。


 シャッターを膝の高さまで下ろして、隙間を潜る。


 いつもは、そのまま立つ。今日は土間に膝をついたまま、振り返った。


 革靴が通る。サンダルが通る。自転車の車輪が、ゆっくり転がっていく。


 小さい靴が一足、隙間の前で止まった。踏み直すたびに、赤く光った。


 靴の上に、膝が下りてきた。それから、顔が下りてきた。隙間に、すっぽり収まった。


「かなものやさん、おやすみ」


 髪が濡れていて、菖蒲《しょうぶ》の匂いがした。松の湯は今日、菖蒲湯だ。


「おやすみ」


「ねこのおじさんも、おやすみ」


 俺の後ろの暗がりで、金色の点が二つ、土間の近くまで下りてきた。


「……おやすみである」


 半分の、そのまた半分の声だった。


 小さい靴が、続けて光った。


 その横に、白いスニーカーが並んだ。紐は、結んであった。


 赤い光が、白い靴の横で点いたり消えたりしながら遠ざかっていった。


 この隙間から「おやすみ」が入ってきたのは、初めてだった。


 膝の埃を払って、仏間へ寄った。バルグは付いてこなかった。写真館を出てから、袋のことを一度も訊かない。


 前掛けのポケットから、袋を出した。引き出しにしまう前に、灯明の下で名前をもう一度見た。


 写真館の人が書いた字だと、思い込んでいた。


 右へ上がっていく、せっかちな字だった。じいちゃんの字だ。

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