第4話: 合鍵の機械が、鍵を一箱食べた
「余は魔王である。埃を払うために玉座を降りたのではない」
立派な口上だった。相手は割烹着の奥さん三人で、場所はうちの店先だ。
連休のはじまる週の日曜、朝八時。町内会と商店街の、春の合同清掃だ。化粧品屋の奥さんが、ハタキの柄で軒の照明のカバーを指したところだった。
背が高いから、というのが理由だ。去年までは、俺と脚立の仕事だった。
「いい声ねえ。じゃあ、うちの前の側溝の蓋もお願い。重いのよ、あれ」
花屋の奥さんが、ブリキのバケツから軍手を出して、バルグの手に載せた。
「待て。余は断ったのだ」
「のぼりも立てといてね。南口から柱に一本ずつ、十二本」
画板を脇に挟んだ八百屋の奥さんが、のぼりの束を抱えさせた。
断るたびに、仕事が一つ増えていく。バルグは束を抱えたまま、こっちを見た。俺は竹箒で自分の足元を掃いた。
「……よかろう」
魔界の王が、割烹着三人に三分で負けた。
「七百年治めて、三分か」
「あれは戦ではない」
バルグはのぼりの束を見下ろして、低く言った。
「あれは……町内である」
八百屋の奥さんが、画板をこっちへ向けた。挟んであるのは、ゴミ集積所の当番表だ。
「湊くんとこ、今年から二人でしょ。マオウさん、下の名前は」
「バルグである」
「じゃあ、バルさんね。刷ったら配るから」
空いたマスに、ボールペンで『バルさん』と書き込まれた。バルグは腰を屈めて、ペンの先を最後まで見ていた。
寝不足だった。原因は、うちの押し入れに住んでいる。
こつ、こつ。少し置いて、こつ。
夜中になると、バルグが押し入れの奥の板を指の節で叩く。ここ何日か、毎晩だ。
奥の壁の板は、一枚だけ新しい。新しいといっても俺が子供の頃からそうで、ほかより色が浅いだけだ。湿気で張り替えたんだろう。
一度だけ襖を開けた。バルグは上の段で膝を抱えて、指の節を板に当てたまま止まっていた。耳が、板のほうへ傾いていた。
こっちを見ても、何も言わなかった。
叩く理由は、知らないままにしてある。考え始めると、自分の部屋で寝られなくなる。
月曜の十時過ぎ。あくびを噛み殺したところへ、バターの匂いが入ってきた。
「三崎さん、合鍵って今日できます?」
パン工房こむぎの佐伯さんだった。うちから南へ三軒下った向かい側で、六年前に店を出した。この商店街で店主が五十より下なのは、あそことうちだけだ。
白いコックコートの袖に、粉が付いている。
「裏口の鍵、失くしちゃって。昨日の清掃のあとから無いんです」
「探しました?」
「側溝も粉袋の中も見ました。たぶん、集めたごみと一緒に袋に入れちゃったんですよね」
「その袋は」
「今朝の八時に、収集車が」
月曜は、燃えるゴミの日だった。拾われる心配だけは、もうない。
失くした、と聞いたとたん、帳場の奥で丸椅子が鳴った。バルグが腰を浮かせている。
目で止めた。回覧板のときは、生け垣に人の形の穴が開いた。鍵は今ごろ清掃工場だ。あの足がまっすぐそこへ向いたら、市を半分横切る。
バルグは浮かせた腰を、丸椅子に戻した。
「予備はあるんです。これ」
佐伯さんが、真鍮の鍵を一本、帳場に置いた。
「前に借りてた人から二本引き継いだんですけど、どっちも三回に一回しか回らなくて。今朝も三時に、裏口で十分がちゃがちゃやりました」
この商店街で午前三時に起きているのは、豆腐屋とパン屋だけだ。
「六年、ずっとそれで?」
「鍵って、そういうもんだと思ってて」
佐伯さんの右手が、空のまま動いた。見えない鍵を少し持ち上げて、押し込みながらひねる。考えなくても出る手つきだった。
予備の鍵を手に取った。頭に錠のメーカーの刻印がない。合鍵から写した合鍵の、そのまた合鍵だ。写すたびに山が少しずつずれて、角が丸くなる。
首の付け根に、髪の毛ほどの筋が入っていた。
「佐伯さん。これ、あと何回かで折れます」
「え」
「折れたら、先が錠の中に残ります。裏口は開かなくなる」
「困ります。明日の三時に開かなかったら、一つも焼けません」
「連休ですもんね」
「倍焼くんです。帰省のお孫さんを連れた人が、朝から並ぶんで。……錠ごと替えたほうがいいですか」
「取り寄せで、連休明けになります。それに、三回に一回でも回るなら錠は生きてます。悪いのは鍵のほうです」
「鍵のほう」
「次は、折れる前に持ってきてください。金物屋なんで」
「麺麭の長よ。湊は鍵も作る」
帳場の奥から、バルグが請け合った。作るのは俺だ。
「おさ? 私、長なんですか。やった」
「パン屋の主人って意味です。たぶん」
「バルさん、ですよね。八百屋さんに聞きました。昨日、のぼりを一人で全部立ててた」
「うむ。余はバルさんである」
もう名乗っている。
「で、今日できます?」
「できます。ただ機械が使えないんで、手で削ります。夕方までください」
「手で?」
「機械でこの予備をなぞっても、三回に一回の鍵がもう一本できるだけです。どっちみち最後は、錠に合わせて手で仕上げる」
店の奥の作業台へ回った。佐伯さんも付いてきた。
壁の釘に、鍵の素材が種類ごとに下がっている。まだ山を切っていない鍵だ。
予備の鍵と溝の形が合うのは、棚の上の古い箱だけだった。もう作っていない型で、底に二十本足らず残っている。
箱を作業台に置いた。左手に予備の鍵、右手にルーペ。溝を見比べる。合っている。
「これが合鍵の機械ですか。動いてるの、見たことないかも」
佐伯さんが、作業台の真ん中の機械を覗き込んだ。
元の鍵の山をなぞりながら、回る刃で素材を同じ形に削る。普通の合鍵なら三分だ。それが先週から動かない。
「壊れたんですか、これ」
「湊が落とした」
後ろから、バルグが答えた。
「釘の箱に足を取られてな。機械を抱えたまま転んだ」
「お前は黙ってろ」
こいつは、訊かれていないことまで正直に言う。
落ちた拍子に、刃の軸が曲がった。スイッチを入れると刃が台を噛む。メーカー送りで三週間、見積もりは四万二千円。まだ頼めていない。
「麺麭の長。そなた今、これを『壊れた』と言うたな」
ルーペから顔を上げた。
「言ってない。佐伯さん、言ってないですよね」
「言いましたけど」
黒い袖が、機械の上に上がった。
「え、なんですかそれ。撮っていいですか」
佐伯さんが、ポケットからスマホを出した。
左手の鍵だけは、落とせない。右手のルーペを放り出して、黒い袖へ手を伸ばした。
「余は魔王である。——湊が落とした鍵の機械を、落とす前へ還す」
手が届く前に、口上が終わっていた。
軸の曲がりが、見ている前で消えた。
刃が回り出した。
……いや、待て。プラグは先週から抜いてある。
佐伯さんの目がスマホにあるうちに、床のプラグをサンダルの先で台の下へ押し込んだ。
唸りが高くなっていく。扇風機の音が、歯医者の音になった。誰も握っていないレバーが倒れて、鍵を挟む台が右へ左へ走り出した。
機械が、身震いしながら作業台の上を歩いた。
歩いた先に、素材の箱があった。
箱が倒れた。真鍮の素材が刃のほうへ雪崩れて、最初の一本が噛まれた。
キン、と鳴って、何かが耳の横を抜けた。後ろの棚で、やかんが鳴った。
「伏せて!」
「やば、飛んでる飛んでる!」
佐伯さんは、バルグの背中の後ろへ回った。判断が早い。壁としては、この商店街で一番厚い。
機械は素材を一本噛んでは、山を一つ削り取って吐き出している。
売り場の棚から、両手鍋の蓋を取った。二十六センチ。構えて、作業台へにじり寄る。
金物屋が、鍋の蓋で合鍵と戦っている。じいちゃんには見せられない。
蓋に何発かもらって、箱に手が届いた。
空だった。
機械はまだ回っている。噛む物がなくなって、唸りだけが残った。
「よく働く」
バルグが言った。
「褒めるな」
店で一番大きい寸胴を下ろして、逆さにして機械にかぶせた。重しに荒砥を二本載せる。唸りが、寸胴の中にこもった。
バルグは右手の指を一本、内へ畳んだ。
「……今の、なんですか」
バルグの背中から、佐伯さんが顔を出した。
「バルさんが叩くと、たまに直るんです。古い機械なんで」
「叩いてませんでしたけど」
「気合いで」
「昭和のテレビでも叩きますよ」
佐伯さんはスマホをつついて、首をかしげた。
「あれ。真っ白。口上のとこ、全部飛んでる」
画面を見せてもらった。白い光がしばらく続いて、いきなり、鍋の蓋を構えた俺が映った。
「ここからは撮れてるんですよ。これ絶対バズりますって。『金物屋、鍋の蓋で戦う』」
「駄目です」
「ですよね。前半が真っ白じゃ、加工の失敗にしか見えないし」
佐伯さんは、あっさりスマホをしまった。それから床を見た。
「三崎さん。私の鍵になるはずだったの、これですか」
真鍮が、床一面に散らばっていた。
三人で拾った。無傷は一本もなかった。
バルグは拾った真鍮と自分の右手を見比べて、その手を前掛けのポケットにしまった。
握ったままだった左手を開いた。予備の鍵は無事だった。手のひらに、鍵の形の跡が付いていた。
「鍵は作ります。夕方までに」
「素材、これで全部なんですよね」
「問屋に頭を下げます」
佐伯さんを店に帰して、問屋に電話した。
「三崎さんね。先月分、まだ頂いてませんよ」
番頭さんの第一声が、それだった。後ろで、伝票をめくる音がしている。
「……連休明けに、必ず」
「で、今日は何」
「合鍵の素材です。古い型で」
箱の横の品番を読み上げた。
「それ、もう廃番だよ。倉庫に半端が一本あるけど」
「その一本をください。今日じゅうに」
「一本。お宅の便は木曜だよ」
伝票の音が止まった。百八十円の素材だ。届ける手間のほうが高い。
「お願いします。明日の朝に、どうしても要るんです」
気付くと、帳場で頭を下げていた。電話なのに。
「……三時に、よその配達の帰りに寄らせるよ。先月分は連休明けだからね」
「ありがとうございます」
切ってからも、すぐには頭が上がらなかった。
「湊。そなた、誰もおらぬ壁に頭を下げておったな」
バルグが、帳場の横に立っていた。
「電話の向こうにいるんだよ」
「見えぬ相手にも下げるのか」
「見えない相手ほど下げるんだ。ツケがあるから」
バルグは少し考えてから、壁のほうを向いた。
大きな背中が、帳場の高さまで下がった。
「何してんだ」
「余も下げておる。素材とやらを食わせたのは、余である」
魔王が、うちの壁に頭を下げている。壁の向こうは床屋で、問屋は逆の方角だ。
教えるのは、やめておいた。
寸胴の中の唸りは、三十分ほどで止んだ。試しにプラグを差してスイッチを入れると、刃は台を噛まずに回った。
直ってはいる。それが腹立たしい。
三時に、問屋の若いのが茶封筒を置いていった。中身は真鍮の素材が一本と、百八十円の納品書だ。
一本。削りすぎたら、それで終わりだ。今日のあの機械に噛ませる気には、なれなかった。
万力に、予備の鍵と素材を重ねて挟んだ。肩を揃えて、山の位置だけを針の先で引っかいて写す。深さは写さない。この予備の深さは、もう当てにならない。
印に沿って、ヤスリで谷を入れた。わざと浅く。
残りは、錠の前でやる。
こむぎの裏口は、三丁目側の路地に面した鉄の扉だった。佐伯さんが内側から開けて待っていた。パンの焼ける匂いが、路地まで出ている。向かいの塀で、つつじが咲きかけていた。
ろうそくに火をつけて、素材の刃を炎にかざした。真鍮が煤で真っ黒になった。
「え、焦がすんですか」
「煤を付けてます。これを差して、止まるところまで回す」
差した。軽くひねる。すぐに、指へ固い当たりが返ってきた。そこで止めて、抜く。
黒い刃の上に、光る点が二つできていた。
「錠の中で当たったところだけ、煤が剥げるんです。ここの山がまだ高い」
光った所を、ヤスリで二度撫でた。三度目は撫でない。じいちゃんの手が、そうだった。
煤を付け直して、また差す。
「鍵に合わせるんじゃないんですね」
「予備の鍵は、写すたびにずれてきたやつです。だから錠のほうに訊きます」
抜く。撫でる。煤を付ける。差す。
ヤスリが真鍮を撫でても、砂を一つまみ落としたほどの音しかしない。親指の腹に、粉がざらついた。
「そんなに、ちょっとずつなんですか」
「削った分は戻らないんで。一度に二回までです」
「パンと一緒だ。焼きすぎたら戻らない」
佐伯さんが、手元を覗き込んだ。
「何回も窯を開けて見るんですか」
「開けません。温度が下がるんで」
「じゃあ違います」
路地の入口から、よく通る声がした。
「案ずるな。あれは盗人ではない。金物屋である」
バルグだ。ろうそくを灯して裏口の鍵穴をいじっている俺は、どう見ても泥棒だ。だから見張りに立たせた。人が通るたびに、ああやって告げている。
余計に怪しい。
何度目かで、光る点が一つになった。
指に返る当たりも、変わっていた。もう壁じゃない。爪の先が一つ、引っかかっているだけだ。
ここで欲を出すと、谷が一つだけ深い鍵ができる。それはもう、どこの戸も開けない。
その一つを、一度だけ撫でた。
差して、ひねった。
止まらなかった。指に何も当たらないまま、鍵は最後まで回った。扉の縁から、かんぬきが出た。
「回った」
佐伯さんが声を上げた。
「三回やってください。まだ三回に一回かもしれない」
佐伯さんが鍵を握った。差しながら、手首が鍵を持ち上げかけた。
「持ち上げなくていいです」
「あ。癖で」
一回。二回。三回。かんぬきは三回出て、三回引っ込んだ。
佐伯さんは鍵から手を離さずに、しばらく扉の前で黙っていた。
「……軽っ。鍵って、こんなに軽いんですか」
「それが普通です」
「私、六年も何と戦ってたんだろ」
煤で黒くなった鍵を、布で拭いて渡した。
「古いほうは、もう差さないでください。予備は、素材が見つかったら写します。問屋にも、今のが最後の一本でした」
「それまで、これ一本ですか」
「一本です。エプロンのポケットには入れないでください」
「……首から下げます」
合鍵一本、六百円。佐伯さんは千円札を出して、釣りは要らないと言った。釣りは渡した。
素材が百八十円。問屋への借りが一つ。鍋の蓋のへこみが三つ。
あの蓋は、うちで使う。
夕方、『すぐ戻ります』の札を外して店に入ると、帳場に紙が一枚置いてあった。
ゴミ集積所の当番表だ。留守のあいだに、八百屋の奥さんが配っていったらしい。
バルグが先に手に取った。太い指で、マスを端からたどっていく。平仮名は「ぬ」の先へ進んだばかりで、片仮名はまだ一つも読めない。
指が、一つのマスで止まった。
昨日、ボールペンの先を最後まで見ていた男だ。字ではなく、形で覚えたらしい。
バルグは紙を、俺の目の前に掲げた。
「見よ湊。余の名が、表にある」
「ゴミ当番の表だ」
「余は七百年、玉座に座った。表に名が載ったのは、初めてである」
言い返さなかった。
バルグは当番表を、帳場の壁の暦の横に画鋲で留めた。
店を閉めて二階へ上がる前に、バルグは暦の横で、もう一度だけ足を止めた。
その夜は、板を叩く音がしなかった。
うとうとしかけた頃、襖の向こうで寝言が一つだけ聞こえた。平仮名にも片仮名にも直せない、俺の知らない言葉だった。




