↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/7

第4話: 合鍵の機械が、鍵を一箱食べた

「余は魔王である。埃を払うために玉座を降りたのではない」


 立派な口上だった。相手は割烹着の奥さん三人で、場所はうちの店先だ。


 連休のはじまる週の日曜、朝八時。町内会と商店街の、春の合同清掃だ。化粧品屋の奥さんが、ハタキの柄で軒の照明のカバーを指したところだった。


 背が高いから、というのが理由だ。去年までは、俺と脚立の仕事だった。


「いい声ねえ。じゃあ、うちの前の側溝の蓋もお願い。重いのよ、あれ」


 花屋の奥さんが、ブリキのバケツから軍手を出して、バルグの手に載せた。


「待て。余は断ったのだ」


「のぼりも立てといてね。南口から柱に一本ずつ、十二本」


 画板を脇に挟んだ八百屋の奥さんが、のぼりの束を抱えさせた。


 断るたびに、仕事が一つ増えていく。バルグは束を抱えたまま、こっちを見た。俺は竹箒で自分の足元を掃いた。


「……よかろう」


 魔界の王が、割烹着三人に三分で負けた。


「七百年治めて、三分か」


「あれは戦ではない」


 バルグはのぼりの束を見下ろして、低く言った。


「あれは……町内である」


 八百屋の奥さんが、画板をこっちへ向けた。挟んであるのは、ゴミ集積所の当番表だ。


「湊くんとこ、今年から二人でしょ。マオウさん、下の名前は」


「バルグである」


「じゃあ、バルさんね。刷ったら配るから」


 空いたマスに、ボールペンで『バルさん』と書き込まれた。バルグは腰を屈めて、ペンの先を最後まで見ていた。




 寝不足だった。原因は、うちの押し入れに住んでいる。


 こつ、こつ。少し置いて、こつ。


 夜中になると、バルグが押し入れの奥の板を指の節で叩く。ここ何日か、毎晩だ。


 奥の壁の板は、一枚だけ新しい。新しいといっても俺が子供の頃からそうで、ほかより色が浅いだけだ。湿気で張り替えたんだろう。


 一度だけ襖を開けた。バルグは上の段で膝を抱えて、指の節を板に当てたまま止まっていた。耳が、板のほうへ傾いていた。


 こっちを見ても、何も言わなかった。


 叩く理由は、知らないままにしてある。考え始めると、自分の部屋で寝られなくなる。


 月曜の十時過ぎ。あくびを噛み殺したところへ、バターの匂いが入ってきた。


「三崎さん、合鍵って今日できます?」


 パン工房こむぎの佐伯さんだった。うちから南へ三軒下った向かい側で、六年前に店を出した。この商店街で店主が五十より下なのは、あそことうちだけだ。


 白いコックコートの袖に、粉が付いている。


「裏口の鍵、失くしちゃって。昨日の清掃のあとから無いんです」


「探しました?」


「側溝も粉袋の中も見ました。たぶん、集めたごみと一緒に袋に入れちゃったんですよね」


「その袋は」


「今朝の八時に、収集車が」


 月曜は、燃えるゴミの日だった。拾われる心配だけは、もうない。


 失くした、と聞いたとたん、帳場の奥で丸椅子が鳴った。バルグが腰を浮かせている。


 目で止めた。回覧板のときは、生け垣に人の形の穴が開いた。鍵は今ごろ清掃工場だ。あの足がまっすぐそこへ向いたら、市を半分横切る。


 バルグは浮かせた腰を、丸椅子に戻した。


「予備はあるんです。これ」


 佐伯さんが、真鍮の鍵を一本、帳場に置いた。


「前に借りてた人から二本引き継いだんですけど、どっちも三回に一回しか回らなくて。今朝も三時に、裏口で十分がちゃがちゃやりました」


 この商店街で午前三時に起きているのは、豆腐屋とパン屋だけだ。


「六年、ずっとそれで?」


「鍵って、そういうもんだと思ってて」


 佐伯さんの右手が、空のまま動いた。見えない鍵を少し持ち上げて、押し込みながらひねる。考えなくても出る手つきだった。


 予備の鍵を手に取った。頭に錠のメーカーの刻印がない。合鍵から写した合鍵の、そのまた合鍵だ。写すたびに山が少しずつずれて、角が丸くなる。


 首の付け根に、髪の毛ほどの筋が入っていた。


「佐伯さん。これ、あと何回かで折れます」


「え」


「折れたら、先が錠の中に残ります。裏口は開かなくなる」


「困ります。明日の三時に開かなかったら、一つも焼けません」


「連休ですもんね」


「倍焼くんです。帰省のお孫さんを連れた人が、朝から並ぶんで。……錠ごと替えたほうがいいですか」


「取り寄せで、連休明けになります。それに、三回に一回でも回るなら錠は生きてます。悪いのは鍵のほうです」


「鍵のほう」


「次は、折れる前に持ってきてください。金物屋なんで」


「麺麭《パン》の長よ。湊は鍵も作る」


 帳場の奥から、バルグが請け合った。作るのは俺だ。


「おさ? 私、長なんですか。やった」


「パン屋の主人って意味です。たぶん」


「バルさん、ですよね。八百屋さんに聞きました。昨日、のぼりを一人で全部立ててた」


「うむ。余はバルさんである」


 もう名乗っている。


「で、今日できます?」


「できます。ただ機械が使えないんで、手で削ります。夕方までください」


「手で?」


「機械でこの予備をなぞっても、三回に一回の鍵がもう一本できるだけです。どっちみち最後は、錠に合わせて手で仕上げる」


 店の奥の作業台へ回った。佐伯さんも付いてきた。


 壁の釘に、鍵の素材が種類ごとに下がっている。まだ山を切っていない鍵だ。


 予備の鍵と溝の形が合うのは、棚の上の古い箱だけだった。もう作っていない型で、底に二十本足らず残っている。


 箱を作業台に置いた。左手に予備の鍵、右手にルーペ。溝を見比べる。合っている。


「これが合鍵の機械ですか。動いてるの、見たことないかも」


 佐伯さんが、作業台の真ん中の機械を覗き込んだ。


 元の鍵の山をなぞりながら、回る刃で素材を同じ形に削る。普通の合鍵なら三分だ。それが先週から動かない。


「壊れたんですか、これ」


「湊が落とした」


 後ろから、バルグが答えた。


「釘の箱に足を取られてな。機械を抱えたまま転んだ」


「お前は黙ってろ」


 こいつは、訊かれていないことまで正直に言う。


 落ちた拍子に、刃の軸が曲がった。スイッチを入れると刃が台を噛む。メーカー送りで三週間、見積もりは四万二千円。まだ頼めていない。


「麺麭の長。そなた今、これを『壊れた』と言うたな」


 ルーペから顔を上げた。


「言ってない。佐伯さん、言ってないですよね」


「言いましたけど」


 黒い袖が、機械の上に上がった。


「え、なんですかそれ。撮っていいですか」


 佐伯さんが、ポケットからスマホを出した。


 左手の鍵だけは、落とせない。右手のルーペを放り出して、黒い袖へ手を伸ばした。


「余は魔王である。——湊が落とした鍵の機械を、落とす前へ還す」


 手が届く前に、口上が終わっていた。


 軸の曲がりが、見ている前で消えた。


 刃が回り出した。


 ……いや、待て。プラグは先週から抜いてある。


 佐伯さんの目がスマホにあるうちに、床のプラグをサンダルの先で台の下へ押し込んだ。


 唸りが高くなっていく。扇風機の音が、歯医者の音になった。誰も握っていないレバーが倒れて、鍵を挟む台が右へ左へ走り出した。


 機械が、身震いしながら作業台の上を歩いた。


 歩いた先に、素材の箱があった。


 箱が倒れた。真鍮の素材が刃のほうへ雪崩れて、最初の一本が噛まれた。


 キン、と鳴って、何かが耳の横を抜けた。後ろの棚で、やかんが鳴った。


「伏せて!」


「やば、飛んでる飛んでる!」


 佐伯さんは、バルグの背中の後ろへ回った。判断が早い。壁としては、この商店街で一番厚い。


 機械は素材を一本噛んでは、山を一つ削り取って吐き出している。


 売り場の棚から、両手鍋の蓋を取った。二十六センチ。構えて、作業台へにじり寄る。


 金物屋が、鍋の蓋で合鍵と戦っている。じいちゃんには見せられない。


 蓋に何発かもらって、箱に手が届いた。


 空だった。


 機械はまだ回っている。噛む物がなくなって、唸りだけが残った。


「よく働く」


 バルグが言った。


「褒めるな」


 店で一番大きい寸胴を下ろして、逆さにして機械にかぶせた。重しに荒砥を二本載せる。唸りが、寸胴の中にこもった。


 バルグは右手の指を一本、内へ畳んだ。


「……今の、なんですか」


 バルグの背中から、佐伯さんが顔を出した。


「バルさんが叩くと、たまに直るんです。古い機械なんで」


「叩いてませんでしたけど」


「気合いで」


「昭和のテレビでも叩きますよ」


 佐伯さんはスマホをつついて、首をかしげた。


「あれ。真っ白。口上のとこ、全部飛んでる」


 画面を見せてもらった。白い光がしばらく続いて、いきなり、鍋の蓋を構えた俺が映った。


「ここからは撮れてるんですよ。これ絶対バズりますって。『金物屋、鍋の蓋で戦う』」


「駄目です」


「ですよね。前半が真っ白じゃ、加工の失敗にしか見えないし」


 佐伯さんは、あっさりスマホをしまった。それから床を見た。


「三崎さん。私の鍵になるはずだったの、これですか」


 真鍮が、床一面に散らばっていた。


 三人で拾った。無傷は一本もなかった。


 バルグは拾った真鍮と自分の右手を見比べて、その手を前掛けのポケットにしまった。


 握ったままだった左手を開いた。予備の鍵は無事だった。手のひらに、鍵の形の跡が付いていた。


「鍵は作ります。夕方までに」


「素材、これで全部なんですよね」


「問屋に頭を下げます」




 佐伯さんを店に帰して、問屋に電話した。


「三崎さんね。先月分、まだ頂いてませんよ」


 番頭さんの第一声が、それだった。後ろで、伝票をめくる音がしている。


「……連休明けに、必ず」


「で、今日は何」


「合鍵の素材です。古い型で」


 箱の横の品番を読み上げた。


「それ、もう廃番だよ。倉庫に半端が一本あるけど」


「その一本をください。今日じゅうに」


「一本。お宅の便は木曜だよ」


 伝票の音が止まった。百八十円の素材だ。届ける手間のほうが高い。


「お願いします。明日の朝に、どうしても要るんです」


 気付くと、帳場で頭を下げていた。電話なのに。


「……三時に、よその配達の帰りに寄らせるよ。先月分は連休明けだからね」


「ありがとうございます」


 切ってからも、すぐには頭が上がらなかった。


「湊。そなた、誰もおらぬ壁に頭を下げておったな」


 バルグが、帳場の横に立っていた。


「電話の向こうにいるんだよ」


「見えぬ相手にも下げるのか」


「見えない相手ほど下げるんだ。ツケがあるから」


 バルグは少し考えてから、壁のほうを向いた。


 大きな背中が、帳場の高さまで下がった。


「何してんだ」


「余も下げておる。素材とやらを食わせたのは、余である」


 魔王が、うちの壁に頭を下げている。壁の向こうは床屋で、問屋は逆の方角だ。


 教えるのは、やめておいた。




 寸胴の中の唸りは、三十分ほどで止んだ。試しにプラグを差してスイッチを入れると、刃は台を噛まずに回った。


 直ってはいる。それが腹立たしい。


 三時に、問屋の若いのが茶封筒を置いていった。中身は真鍮の素材が一本と、百八十円の納品書だ。


 一本。削りすぎたら、それで終わりだ。今日のあの機械に噛ませる気には、なれなかった。


 万力に、予備の鍵と素材を重ねて挟んだ。肩を揃えて、山の位置だけを針の先で引っかいて写す。深さは写さない。この予備の深さは、もう当てにならない。


 印に沿って、ヤスリで谷を入れた。わざと浅く。


 残りは、錠の前でやる。


 こむぎの裏口は、三丁目側の路地に面した鉄の扉だった。佐伯さんが内側から開けて待っていた。パンの焼ける匂いが、路地まで出ている。向かいの塀で、つつじが咲きかけていた。


 ろうそくに火をつけて、素材の刃を炎にかざした。真鍮が煤で真っ黒になった。


「え、焦がすんですか」


「煤を付けてます。これを差して、止まるところまで回す」


 差した。軽くひねる。すぐに、指へ固い当たりが返ってきた。そこで止めて、抜く。


 黒い刃の上に、光る点が二つできていた。


「錠の中で当たったところだけ、煤が剥げるんです。ここの山がまだ高い」


 光った所を、ヤスリで二度撫でた。三度目は撫でない。じいちゃんの手が、そうだった。


 煤を付け直して、また差す。


「鍵に合わせるんじゃないんですね」


「予備の鍵は、写すたびにずれてきたやつです。だから錠のほうに訊きます」


 抜く。撫でる。煤を付ける。差す。


 ヤスリが真鍮を撫でても、砂を一つまみ落としたほどの音しかしない。親指の腹に、粉がざらついた。


「そんなに、ちょっとずつなんですか」


「削った分は戻らないんで。一度に二回までです」


「パンと一緒だ。焼きすぎたら戻らない」


 佐伯さんが、手元を覗き込んだ。


「何回も窯を開けて見るんですか」


「開けません。温度が下がるんで」


「じゃあ違います」


 路地の入口から、よく通る声がした。


「案ずるな。あれは盗人ではない。金物屋である」


 バルグだ。ろうそくを灯して裏口の鍵穴をいじっている俺は、どう見ても泥棒だ。だから見張りに立たせた。人が通るたびに、ああやって告げている。


 余計に怪しい。


 何度目かで、光る点が一つになった。


 指に返る当たりも、変わっていた。もう壁じゃない。爪の先が一つ、引っかかっているだけだ。


 ここで欲を出すと、谷が一つだけ深い鍵ができる。それはもう、どこの戸も開けない。


 その一つを、一度だけ撫でた。


 差して、ひねった。


 止まらなかった。指に何も当たらないまま、鍵は最後まで回った。扉の縁から、かんぬきが出た。


「回った」


 佐伯さんが声を上げた。


「三回やってください。まだ三回に一回かもしれない」


 佐伯さんが鍵を握った。差しながら、手首が鍵を持ち上げかけた。


「持ち上げなくていいです」


「あ。癖で」


 一回。二回。三回。かんぬきは三回出て、三回引っ込んだ。


 佐伯さんは鍵から手を離さずに、しばらく扉の前で黙っていた。


「……軽っ。鍵って、こんなに軽いんですか」


「それが普通です」


「私、六年も何と戦ってたんだろ」


 煤で黒くなった鍵を、布で拭いて渡した。


「古いほうは、もう差さないでください。予備は、素材が見つかったら写します。問屋にも、今のが最後の一本でした」


「それまで、これ一本ですか」


「一本です。エプロンのポケットには入れないでください」


「……首から下げます」


 合鍵一本、六百円。佐伯さんは千円札を出して、釣りは要らないと言った。釣りは渡した。


 素材が百八十円。問屋への借りが一つ。鍋の蓋のへこみが三つ。


 あの蓋は、うちで使う。




 夕方、『すぐ戻ります』の札を外して店に入ると、帳場に紙が一枚置いてあった。


 ゴミ集積所の当番表だ。留守のあいだに、八百屋の奥さんが配っていったらしい。


 バルグが先に手に取った。太い指で、マスを端からたどっていく。平仮名は「ぬ」の先へ進んだばかりで、片仮名はまだ一つも読めない。


 指が、一つのマスで止まった。


 昨日、ボールペンの先を最後まで見ていた男だ。字ではなく、形で覚えたらしい。


 バルグは紙を、俺の目の前に掲げた。


「見よ湊。余の名が、表にある」


「ゴミ当番の表だ」


「余は七百年、玉座に座った。表に名が載ったのは、初めてである」


 言い返さなかった。


 バルグは当番表を、帳場の壁の暦の横に画鋲で留めた。




 店を閉めて二階へ上がる前に、バルグは暦の横で、もう一度だけ足を止めた。


 その夜は、板を叩く音がしなかった。


 うとうとしかけた頃、襖の向こうで寝言が一つだけ聞こえた。平仮名にも片仮名にも直せない、俺の知らない言葉だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。