第3話: 回覧板を尋ねたら、魔王が屋根に乗った
魔王が、「ぬ」で止まっている。
帳場の机に釘の紙袋を裏返して広げ、その裏に鉛筆で平仮名を書いている。あ、い、う、と来て、な、に、と来て、そこから先へ進まない。
鉛筆の芯が、また折れた。今朝から、もう何本目だ。
「湊。どちらが『ぬ』だ」
バルグが紙をこっちへ向けた。「ぬ」と「め」が並んでいる。
「尻尾に輪っかがあるほう」
「なぜ輪がある」
「知らねえよ。お前、一日に百回は『ぬ』って言ってるぞ。分からぬ、量れぬ、読めぬ」
「余は、そんなに言わぬ」
「今も言った」
バルグは黙って、輪のあるほうを太い指で押さえた。
「……『く』ならば、読める」
「それ、まだ教えてないぞ」
「店先の箱の札にある。一字目だ」
釘の箱の札だ。じいちゃんが筆で「くぎ」と書いた。
「二字目は」
「点が余計である。認めぬ」
習い始めたのは、たかせの臼の朝からだ。同じ朝から、表のシャッターには毎日おからの袋が引っかけてある。
「……余った」
今朝、鉢合わせした剛三さんは、それだけ言って帰った。
「豆腐の長は、毎朝同じだけ余らせる。見事な勘定である」
「あれは余ってない」
十一時過ぎに、小松の会長が来た。手ぶらだった。
金物屋に手ぶらで来る人の用事は、だいたい長い。
「湊くん。回覧板が止まってるんだよ」
「どこのですか」
「三丁目の十四班。先週の月曜に出したのが戻ってこない。いつもなら三日で一周するんだ。回覧板は回ってこそだからね」
会長は帳場の前の丸椅子に腰を下ろした。
「一軒目は回したと言う。十二軒目は来てないと言う。それなら間のどこかだろう。今朝から三軒叩いたけど、昼間はどこも留守でね。名簿の順番も昔のままで、空き家が三つも挟まってる。わしの膝じゃ、もう一周は——」
「会長」
「ああ、ごめんごめん。それでね。湊くんなら三丁目の家は全部分かるだろう。どこの戸が固いかまで」
分かる。十四班の十二軒なら、どこの雨戸が引っかかって、どこの物置の蝶番が錆びているかまで言える。
回覧がどの順に回るのかは、知らない。
「歩いて回れば、一時間ですね」
「湊。回覧板とは何だ」
「町内の知らせを挟んだ板。読んだら隣の家へ回す」
「板が、家から家へ歩くのか」
「人が持っていくんだよ」
「誰もおらぬ家の戸を、なぜ三つも叩く」
「叩いてみないと、留守かどうか分からないだろ」
「道理である。……その板が、消えたと」
「消えてない。誰かの家で止まってるだけだ」
「探し物であるな」
帳場の奥で、バルグが立ち上がった。鴨居の手前で、今度はちゃんと首をすくめた。
「菓子の長。その回覧板とやら、余が尋ねよう」
和菓子屋だから菓子の長、らしい。
「長、ねえ。悪くないね」
「尋ねる?」
訊いたのは俺だった。
「探し物の在り処へ、余の足が向く」
会長は「ほう」と言って、バルグの足元を見た。黒い長靴が二つ、行儀よく並んでいるだけだった。
還すだけじゃなかったのか。
シャッターは天井まで跳ねた。臼は一尺浮いた。どっちも、壊れた物を戻す魔法だった。
探すだけなら、壊れる物はない。
「……回覧板だけだぞ」
「心得た」
帳場の机に、釘の紙袋が残った。「ぬ」になりそこねた「め」が、三つ並んでいる。
俺が歩けば一時間で済む。済むのに、止めなかった。
昼どきに店を一時間も空けられない。そう自分に言い訳して、店の戸に「すぐ戻ります」の札を掛けた。
三丁目の住宅地は、アーケードの東側の裏にある。元布団屋の脇の路地を抜ければすぐだ。
木造の二階家が、軒をくっつけるように並んでいる。どこの家も一階の屋根の上に物干し台を張り出していて、四月の終わりの風にシーツがはためいていた。
昼前の路地には、誰も出ていなかった。
十四班の一軒目の前で、バルグが立ち止まった。
「余は魔王である。——菓子の長の回覧板の在り処を、尋ねる」
声が、物干し台のシーツを揺らした。
バルグの長靴が、くるりと東を向いた。
そして、歩き出した。
路地に沿ってではない。まっすぐだ。
一軒目の低いブロック塀を、またいだ。
「おい。そこは人んちの庭だ」
塀を越えて、黒衣の背中を両手で掴んだ。
「湊。正装が伸びる」
「知るか!」
掴んだまま、庭を三歩引きずられた。
止められるのは、口上の前だけだ。豆腐屋の臼で、それは覚えたはずだった。
手を離した先に、隣との境のレッドロビンの生け垣があった。春の新芽で、燃えるみたいに赤い。
バルグは生け垣に正面から入っていった。
ばきばきと枝の折れる音がして、黒い背中が赤い葉の中に消えた。少しして、向こう側から葉っぱだらけの頭が出てきた。
「止まれ!」
「止まらぬ。余の足は、在り処しか知らぬ」
後ろで会長が、生け垣に空いた人の形の穴を見て言った。
「マオウさんは、まっすぐ歩くねえ」
「そういう問題じゃないです」
生け垣の向こうは、隣の家の裏庭だった。バルグは物置の屋根に上がり、そこから一階の瓦へ上がって、物干し台の手すりをひょいとまたいだ。
物干し台では、この家の奥さんがシーツを干していた。洗濯ばさみを口にくわえたまま、固まった。
「失礼する。余は、通る」
「すみません、あとで伺います!」
バルグは物干し竿をくぐった。くぐりきれずに、干したばかりのシーツが一枚、肩に引っかかった。
そのまま向こう側の手すりを越えた。
……いや、待て。手すりの向こうは、隣の平屋の屋根だ。
「そこは屋根だ! 人んちの!」
バルグはすぐ下の軒に降りた。白いシーツを肩からなびかせて、瓦の上を棟へまっすぐ上っていく。
黒衣に、白いマント。どこから見ても魔王だ。
俺は地面を走った。塀と塀のあいだの細い通路を抜けて、表の路地へ回る。回りながら、勘定が止まらない。
生け垣の枝が五、六本。シーツ一枚。瓦は、何枚割れたか見当もつかない。探すだけなら壊れる物はない、と踏んだのは誰だ。
俺だ。
表へ回ると、平屋の屋根のてっぺんでバルグが止まっていた。
人差し指で、真下を指している。
「湊。ここである。この真下だ」
それから指していた手を開いて、指を一本ゆっくり折った。
屋根に魔王が乗っていなければ、見慣れた家だった。三丁目の元畳屋さんの家だ。奥さんを亡くしてから一人で住んでいる。去年の暮れに、縁側の雨戸の戸車を替えに来た。
玄関の新聞受けに、新聞が二部、差さったままだった。
今朝の朝刊と、昨日の夕刊だ。
「畳屋さん」
戸を叩いた。返事がない。
「畳屋さん。三崎です。金物屋の」
もう一度叩いて、耳を戸に付けた。
奥で、何かが畳を擦る音がした。
「……おう」
玄関には鍵が掛かっていた。
庭へ回った。雨戸は戸袋に収まっていて、縁側のガラス戸が閉まっている。このガラス戸のネジ締り錠は、去年の暮れからネジが奥まで入らない。直しますよと言ったら、畳屋さんは「泥棒も入らん家だ」と笑った。
「畳屋さん。入りますよ」
ガラス戸に手を掛けて、引いた。
開いた。
湿布の匂いがした。
茶の間の卓袱台と茶箪笥のあいだに、畳屋さんが横向きに倒れていた。座布団が一枚、腰の下で半分に折れている。
卓袱台には、回覧板と、紐で綴じた古い紙の束が載っていた。開いたままの束の上に、老眼鏡が畳まずに置いてある。
「畳屋さん。分かりますか。三崎です」
目が開いた。
「……金物屋の孫か」
「そうです。どこが痛いですか」
「腰だ。……昨日の昼に、立とうとしたらな」
茶箪笥の上の置き時計は、十一時四十分だった。
昨日の昼から、ここにいたことになる。あの針が、ほとんど二周するあいだだ。
畳に、空の湯呑みが転がっていた。
電話は、襖の向こうの廊下だ。
「……あそこまで、這えんかった」
俺の目の先を見て、畳屋さんが言った。
胸を見た。浅いけれど、上下している。手を取ると、冷たかった。
三年前の四月、俺は二階から降りるのが一拍遅れた。じいちゃんは、店の奥で座り込んでいた。
スマホを出して、一、一、九と押した。
呼び出し音が一度鳴った。スマホを持つ手を、空いた手で押さえた。
「はい、一一九番消防です。火事ですか、救急ですか」
「救急です」
「救急車が向かう住所を教えてください」
住所。番地までは覚えていない。
卓袱台の回覧板に、十四班の名簿が挟んであった。指でたどる。
「城南三丁目、二十六の五です」
「どなたが、どうしましたか」
「男の人が家の中で倒れてます。昨日の昼から、起き上がれないそうです。八十……」
「……四だ」
畳の上から、声がした。
「八十四歳です。意識はあります。話もできます」
「呼吸は普通ですか。けがや出血はありますか」
もう一度、胸を見た。
「息は少し速いです。血は出てません。腰を痛がってます」
「分かりました。救急車はもう出ています。体は動かさないで、毛布か何か掛けてあげてください」
「はい」
「水や食べ物は、まだあげないでください。着いた時に分かるように、どなたか表に出てもらえますか」
縁側から顔を出すと、会長がようやく路地の角を曲がってくるところだった。
「湊くん、回覧板はあったかい」
「会長! 救急車を呼びました。大通りの角で待っててください」
会長は口を開けたまま、一度止まった。それから来た道を戻っていった。膝のことは、もう言わなかった。
隣の部屋の押し入れから、毛布を出して掛けた。
「……水」
「救急車が来るまで、我慢してください。今は駄目だそうです」
「……けちだな」
畳屋さんの目が、卓袱台のほうへ動いた。
「……回覧板、止めとる。先週から、古い紙を探しとった」
「会長が探してました」
「……だろうな」
畳屋さんは、一つ息を継いだ。
「……信さんの字が、出てきたぞ。二本目の栞だ」
「後で見ます」
天井の上から、声が降ってきた。
「湊。その御身は、息をしておるか」
「してる。お前は動くな。瓦が割れる」
「心得た」
それきり、屋根の上は静かになった。本当に一歩も動いていないらしい。
畳屋さんが、目だけで天井を見た。
「……誰だ。屋根の上のは」
「うちの店番です」
「店番が、なんで屋根にいる」
「話すと長いです」
「……長くていい。黙っとると、寝ちまう」
「回覧板を探してたら、屋根に上りました」
「……短いじゃねえか」
サイレンが大通りのほうから近づいてきた。
庭へ下りて、屋根を見上げた。バルグは棟の上で、片足を半歩出したまま止まっていた。
音が、少し遠ざかった。一本手前の路地に入りかけたらしい。会長の膝では、まだ大通りの角まで着いていないはずだ。三丁目の路地は、どれも同じ顔をしている。
屋根の上で、瓦が一枚鳴った。
「救いの車よ! ここである!」
アーケードの屋根に跳ね返ったのと同じ声が、住宅地の上を渡っていった。
バルグが棟の上に仁王立ちしていた。肩から外したシーツを、頭の上で大きく振っている。
遠ざかりかけた音が、向きを変えた。まっすぐ、こっちへ来る。
動くなと言ったのは、取り消すことにした。
路地の入口でサイレンが止まり、赤い光が回った。救急隊が三人、担架を抱えて走ってきた。会長は、そのずっと後ろを付いてくる。
路地の窓が、二つ三つ開いた。どの顔も、担架より先に屋根を見上げた。
「こっちです。縁側から」
隊員の一人が、畳屋さんの横に膝をついた。
「お名前、言えますか」
畳屋さんは、はっきり答えた。別の一人が、指に小さな器械を挟んで数字を読んだ。
「お薬手帳と保険証は、ありますか」
「茶箪笥の、二段目」
引き出しを開けると、輪ゴムでまとめた手帳と保険証が一番上にあった。いつか要ると分かっていた人のしまい方だった。
「ご家族の連絡先は」
答えたのは、縁側に着いたばかりの会長だった。まだ肩で息をしている。
「息子さんが千葉に。名簿に番号があります。わしが電話します」
「股関節を傷めているかもしれません。市民病院に運びます」
担架が縁側を出る時、畳屋さんが俺の袖を掴んだ。
「鍵は、下駄箱の上だ。戸締り、頼む」
「はい」
「縁側は、締まらんぞ」
「知ってます。俺が直さなかったんで」
畳屋さんは、少しだけ口の端を上げた。
「……回覧板。回しといてくれ」
担架を運び出しながら、若い隊員が屋根を二度見した。
「……あの、屋根の方は。おけがは」
「ありません。うちの店番です。自分で降りられます」
たぶん。
「……店番」
隊員は何か言いかけて、担架のほうを選んだ。
「瓦は滑ります。降りきるまで、下で見ていてください」
サイレンが、アーケードの向こうへ遠ざかっていった。
バルグは、来た道を逆にたどって降りてきた。物干し台の手すりを越える前に、奥さんへシーツを返して、深々と頭を下げた。
「そなたの布が、救いの車を呼んだ。礼を言う」
「……あらまあ」
奥さんはシーツを受け取って、路地の俺を見下ろした。
「湊くん。うちの生け垣、人の形に穴が空いてるんだけど」
「明日、刈り込み鋏を持って伺います。梯子も」
「湊。瓦は割っておらぬ」
「自分で数える」
屋根を見上げて、数えた。ずれているのは一枚、割れたのは無い。
「あの御身は、助かるのか」
「腰だ。口は達者だった」
今度は遅れなかった。
それでも、畳屋さんは昨日の昼から倒れていた。
会長が、電話を耳から離した。
「息子さん、夜には着くそうだよ」
下駄箱の上の鍵は、それまで俺が預かる。三人で、戸締りに茶の間へ上がった。
縁側のガラス戸を閉めて、ネジを回した。奥まで入らない。入るところまで回して、手を離した。
卓袱台の回覧板を、会長が手に取った。一番上の紙は、会長の字だった。
『町内会創立五十周年記念誌。古い写真・資料をお寄せください』
紙の下の枠に、判子が三つ。そこから先は、空いたままだ。
横の束は、十四班の古い回覧の控えだった。辞書ほどの厚さがある。
「四十年ぶんだよ。あの人が班長になってからの、全部だ」
会長は眼鏡を外して、自分の字を親指でなぞった。
「今朝、わしは三軒叩いた。ここは叩かなかったんだよ。班長さんの家だからね」
綴りには、細く裂いた広告の紙が、栞の代わりに三本挟んであった。
老眼鏡を畳んで脇へ置き、二本目を開いた。
じいちゃんの字だった。右へ上がっていく、せっかちな字だ。
「何と書いてある」
横から、バルグが覗き込んだ。平仮名がまだ「ぬ」で止まっている男だ。
太い指が、紙の上の一字を押さえた。
「これは読める。『く』である」
合っていた。釘の箱の札と同じ手の、同じ「く」だ。
残りは、俺が読み上げた。
「『宗一郎くん歓迎会。五月十一日、夕六時より。三崎金物店二階にて。会費五百円。酒は持ち寄りのこと。三崎』」
宗一郎くん。白木のおじさんだ。じいちゃんの飲み友達で、臼の底の「宗」の人だ。
あの背の高い人にも、この町に来たばかりの頃があったらしい。どこから来た人だったのか、俺は知らない。
「……もう一度、読め」
もう一度読んだ。バルグは紙ではなく、読んでいる俺の口元を見ていた。
「『くん』とは何だ」
「年下とか、新入りに付ける」
「新入り、か」
バルグはそれきり黙って、読めないはずのじいちゃんの字に、目を落としていた。「く」を押さえた指が、隣の字へ一つだけ動いた。
その指の下、紙の半分から下は、枠だった。家ごとの判子と、その横に「受取時刻」。
八時十分。九時十分。十一時半。筆跡もインクの色も、家ごとにばらばらだ。
七つ目の枠にだけ、鉛筆の書き込みがあった。
『留守。夕方また』
その横に、夕方五時の時刻と判子が並んでいる。
判子は十五。朝に出た紙が、その日のうちに一周していた。
綴りを、会長のほうへ向けた。
会長は眼鏡を掛け直して、黙って自分の紙を横に並べた。判子が三つの紙と、十五の紙だ。
それから回覧板の縁を定規にして、自分の紙に線を引き始めた。判子の枠の横に、欄がもう一列できていく。一番上に、会長は「受取時刻」と書き入れた。
「会長。手帳を一枚ください」
十四班の家を書き出した。名簿の順番ではなく、路地の並びの順に。四軒に、丸を付けた。
「その丸は、何だい」
「一人で住んでる家です。ここを入れて、四軒」
どこの雨戸が重いかを知っているのと同じくらいには、誰が一人で住んでいるかも知っている。
会長はその紙を、名簿の上に挟んだ。
玄関に鍵を掛けて表へ出ると、物干しの奥さんが路地に立っていた。
「畳屋さん、大丈夫なの」
「腰だって。市民病院」
「次はうちだったのよ。古い紙を探すから待っててくれって、班長さんに言われてて。昨日の夕方に声はかけたの。返事がないから、留守だと思って」
会長が回覧板を差し出した。
「はい、十四班。今日から手渡しだよ」
奥さんは新しい欄を見て、何も訊かなかった。腕時計を見て、最初の枠に書き入れる。十二時五十分。
回覧板を胸に抱えて、空き家を二つ過ぎ、路地の角を折れた。足音が止まった。丸を付けた家の前だ。
戸を叩く音がした。
返事は聞こえない。物干し台で、シーツが風をはらむ音だけがする。
少し置いて、もう一度、叩く音がした。
「はあい」
帰りは、生け垣の穴を通らずに路地を回った。
前を行くバルグの長靴は、今度は路地の曲がり角のとおりに曲がっていた。
人を探しに来た、とこいつは最初の朝に言った。
「それ、自分の探し物にも使えんの」
長靴が、一歩ぶんだけ遅れた。
「使えぬ。余の探し物にだけは、足が向かぬ」




