第2話: 豆腐屋の石臼が、一尺浮いた
押し入れの中で、何かが天井に頭をぶつけた。
ごん、という音で目が覚めた。家が下から突き上げられて、それから横に長く揺れた。
枕元のスマホが鳴りだした。午前三時四十一分。震度四。
襖が内側から開いて、黒い頭が出てきた。
「湊。敵襲である」
「地震だよ」
「地が揺れるのか。この国は」
「揺れる。慣れろ」
バルグは上の段から片足を下ろしかけて、揺れが収まったのを確かめてから、また引っ込めた。
あれで七百年、国を治めていたらしい。
この一週間、あいつの言う「この町には、余の知る顔が一つだけある」の「知る顔」が誰なのかは、教えてもらえていない。二回訊いて、二回とも「うむ」で終わった。
何なんだよ。
一階に降りると、釘の量り売りの箱が二つ、床に中身を撒いていた。
釘を拾い始めて五分もしないうちに、膝の高さまで下ろしたシャッターの下の隙間に、白いゴム長が二本立った。
「……湊。起きてるか」
剛三さんの声だった。二軒先の、とうふ処 たかせの親父さんだ。この時間なら、もう豆を挽いているはずだった。
「起きてます。そっちは大丈夫でしたか」
隙間から覗くと、剛三さんは屈みもせずに言った。
「臼が割れた」
たかせの作業場は、湯気の匂いがしなかった。
いつもなら釜が鳴って、豆の煮える甘い匂いが路地まで出ている時間だ。今朝は、蛇口から垂れる水の音しかしない。
作業場の入口で、ごん、と音がした。付いてきたバルグが、鴨居に額をぶつけていた。今朝二回目だ。
石臼は、土間の真ん中の台座に据わっている。上下二枚の石で、直径は四十センチほどある。
その上の石が、真っ二つになっていた。
「湊。これは何だ」
額をさすりもせずに、バルグが訊いた。
「石臼。豆を挽く道具だよ。下の石がモーターで回って、上の石の穴から水と豆を落とす」
「挽いて、どうする」
「煮て搾って固めたら、豆腐になる」
「とうふとは」
「白くて四角いやつ。……今は、それどころじゃない」
「大正の臼だ」
剛三さんが、ぼそりと言った。
「じいさんの代から、こいつで挽いてる」
横に棚板が一枚と、水切りの重石が落ちていて、豆腐の型箱が三つ散らばっている。
壁を見た。棚受けの金具が片方だけ、木ねじごと漆喰から抜けていた。
「この棚受け、うちが付けたやつですか」
「信さんがな。三十年前だ」
じいちゃんの付けた金具が、じいちゃんの知っている臼を割った。棚受けのほうは、長いねじとアンカーで今日中に付け直せる。問題は石だ。
割れ口を指でなぞった。中まで、きれいに割れている。
「接げなくはないです。石に使える接着剤もあります」
「挽けるのか」
「挽く時は、上の石にずっと力がかかります。継ぎ目から欠けて、石の粉が豆に入る」
「売り物にならんな」
「新しい臼は、石屋に目を切ってもらって……早くて半年だと思います」
「いくらだ」
「……訊かないほうがいい額です」
「そうか」
剛三さんは、ひっくり返したビールケースに腰を下ろした。太い指を膝の上で組んで、割れた石を見ていた。
「……俺の代で閉める店だ」
組んだ指を、一度ほどいて、また組んだ。
「臼に先に死なれたら、閉め方が分からん」
何も言えなかった。
桶の中では、昨日の夕方から浸けた大豆が、ふっくら膨らんでいた。挽かれるのを待っている顔をしていた。
「朝の分、断ってくる。中華屋は電話じゃ起きん。婆さんたちの分は貼り紙だ」
剛三さんが立ち上がった。
「六時に、中華屋が二十丁取りに来る。七時には、鍋を持った婆さんたちが来る」
「俺、行きましょうか」
「俺の客だ」
剛三さんは、表のガラス戸から出ていった。
ゴム長の音が、アーケードを遠ざかっていった。
バルグが、割れた石の前に立った。
「湊。これは『壊れた』のであろう」
「……割れた」
「ならば——」
大きな手が、臼の上に上がった。
俺の手が、勝手にその手首へ伸びた。一週間前、八百屋の前でやったのと同じ動きだ。
指が、手首の手前で止まった。
曲がった鉄なら叩ける。欠けた刃なら研げる。割れた石は、俺には直せない。
止めていいのは、俺が代わりに直せる時だけだ。
手を下ろした。
「この臼だけだぞ。この臼だけ」
「心得た」
バルグは、深く息を吸った。
「余は魔王である。——豆腐の長の臼を、割れる前へ還す」
声が、作業場の白いタイルに跳ね返った。
二つに割れた石が、音もなく寄り合った。継ぎ目が、瞬きのあいだに消えた。
そして、臼が回り出した。
スイッチは切れている。コンセントも抜けている。
ゆっくり。それから速く。下の石の勢いに引きずられて、上の石も遅れて回っている。キイイ、と、濡れた指でガラスを擦るような音がした。
臼が、浮いた。
上下二枚ごと、台座から一尺、三十センチほど。宙で、回り続けている。
手の中のスマホは、四時五分だった。
……いや、待て。
「石臼は直った。直ったけど、なんで浮いてるんだ」
「還した石が、勢いを持て余しておる」
「持て余してるのはこっちだ。止めろ」
「止まらぬ。還したものは、もう余の手を離れておる」
「じゃあ、どうすんだよ」
「待つ」
「この臼だけって言っただろ」
「約束どおり、この臼だけである」
確かに、浮いているのはこの臼だけだ。浮かせるなとは、言っていなかった。
俺が悪かった。……いや、悪くない。
中華屋まで往復で五分。貼り紙を書いて貼るのに十五分。剛三さんが戻るまで、長くて二十分。
七十キロはある石が二枚、腰の高さで唸っている。戻ってきた剛三さんにこれを見せたら、心臓に悪い。俺の心臓にも悪い。
表のガラス戸の前に立った。内側からカーテンを引いて、背中で戸を押さえた。
「湊。なぜ豆腐の長を阻む」
「阻むんじゃない。見せないんだ」
「なぜ」
「石が宙で回ってたら、普通の人は腰を抜かす」
「余の国では、石くらい浮く」
「ここは、お前の国じゃない」
剛三さんが戻ったら、ここで止める。据え直してるんで危ないです、とか何とか言って。
臼は回り続けた。キイイ、という音が、少しずつ低くなっていく。
十分が過ぎた。
臼の向こうの暗がりで、ぎい、と蝶番が鳴った。
目を上げた。
作業場の奥の勝手口が、半分開いていた。路地の冷たい空気が、土間の足元を這ってくる。
「……剛三さん?」
返事はなかった。路地には、誰もいなかった。
風だ。そういうことにした。
臼が浮きっぱなしのまま、二十分が過ぎた。
剛三さんは、まだ戻らない。ガラス戸の取っ手に、そこにあった擂り粉木を閂代わりに差した。
直すのが仕事の人間は、どうなっているのか分からない物を見ていられない。気付いたら、台座の縁に頬を付けて、臼の底を覗き込んでいた。濡れたコンクリートが冷たかった。
下の石の底が、頭の上で回っている。
何か彫ってあった。回るたびに、同じ所が一周して戻ってくる。
回る速さが落ちてきて、ようやく読めた。
「信」。
一周おいて、「宗」。
もう一周。三つ目は、字なのかどうかも分からなかった。輪を描きかけて、途中で鉤のように折れた線だ。
「信」は、じいちゃんの字だ。うちの玄能の柄にも、同じ癖のある「信」が彫ってある。
「宗」は、たぶん白木のおじさん——宗一郎さんの宗だ。松の湯のボイラー番で、じいちゃんの飲み友達だった。七年前に死んだ。
三つ目は、知らない。
顔を上げると、バルグも臼の底を見ていた。
右手の指が一本、折りかけのまま止まっていた。
臼が、ふっと沈んだ。
ごとん。
台座に戻った石が、半回転して止まった。スマホを見ると、四時四十二分。回り出したのが四時五分だったから、三十七分、回っていた。
「……止まった」
「うむ。勢いが尽きた」
振り向くと、折りかけだったバルグの指が、根元まで折り込まれていた。
表の戸を叩く音がして、擂り粉木を抜いた。
剛三さんは、五時半に表から戻ってきた。思っていたより、ずっと遅かった。
言い訳は三つ用意してあった。どれも、継ぎ目の消えた石の説明にはならない。
剛三さんは臼の前に立って、上の石に親指を当てた。割れていた所を、端から端まで、ゆっくりなぞった。
継ぎ目は無い。
剛三さんは、俺を見なかった。バルグも見なかった。
「……挽く」
それだけ言って、モーターのコンセントを差した。
訊かれないのが、一番こわい。
膨らんだ豆を水と一緒に穴へ落とすと、臼の縁から白い呉汁が垂れてきた。豆を挽いた、どろりとした汁だ。剛三さんはそれを指に取って擦り、眉を寄せた。
「……ざらつく」
それでも釜で煮て、布で搾って、豆乳へにがりを打つ。
固まらなかった。
木桶の中で、豆乳はゆるい雲みたいに崩れたまま、いつまでもまとまらなかった。
「……目がずれた」
剛三さんが言った。
バルグと二人で上の石を少し持ち上げて、挽く面を覗いた。
「湊。目とは何だ」
バルグが、低い声で訊いた。
「石の面に彫ってある溝だよ。上と下の溝が鋏みたいに噛み合って、豆を細かく潰す」
「それが、ずれたと」
「浅くなってる。片側だけ、特に」
芯棒の受けも、三ミリずれていた。落ちた拍子だろう。
「なぜ浅くなる」
答えは分かっていた。声を落とした。
「三十七分も、豆も水も挟まずに石と石で擦れ合ってたからだよ」
バルグは、黙って臼を見下ろした。
粗い呉汁からは、豆腐はうまく固まらない。
「目立て、します」
剛三さんが、こっちを見た。
「今夜やります。明日の朝には」
「できるのか」
「じいちゃんが年に一度ここでやってたのを、横で見てました」
「……見てただけか」
「見てただけです」
剛三さんは、しばらく黙っていた。
それから、桶を顎でしゃくった。
「豆は、今夜も浸けとく」
その日、たかせのシャッターには「本日 豆腐お休みします」の紙が貼られた。角ばった大きな字だった。
俺は昼のうちに棚受けを付け直して、店の奥から、じいちゃんの目立ての道具を出した。
木の箱の蓋の裏に、じいちゃんの字で「たかせ」と書いてある。
「それは何だ」
店番をしていたバルグが、帳場から首を伸ばした。
「目切り鏨。石に溝を切るノミだ。こっちは石頭。石を叩く金槌」
「刃が、どれも丸い」
「じいちゃんが死んでから、誰も使ってないからな」
鏨の刃先は、五本とも、なまっていた。夕方までかけて、一本ずつ砥石で立て直した。
夜の九時、たかせの作業場で、上の石を外した。
「親父の頃は、大人が三人がかりで上げた」
剛三さんが言い終わる前に、バルグが一人で持ち上げていた。
「でかいの。落とすなよ」と、剛三さんが言った。
「余は、落とさぬ」
バルグは石を筵の上にそっと裏返した。
「三時に起きる。やかましくていい」
剛三さんはそれだけ言って、二階へ上がっていった。
バルグは、作業灯を持たされた。
まず芯棒の受けを叩いて戻し、薄い銅板を一枚噛ませた。下の石を指で回して、ぶれが消えたのを確かめる。
それから、目だ。
消えかけた溝を、チョークと差し金でなぞり直していく。
「線を引いて、何とする」
「溝の通り道を決めてる。面が八つに分かれてる。それぞれに深い溝が一本と、浅い溝が何本か走ってる」
「全部、手で彫るのか」
返事の代わりに、うなずいた。
鏨の刃を溝に当てて、石頭で叩く。
コツ。
石の粉が、ほんの少し跳ねる。刃を少しずらして、また叩く。
コツ。コツ。
粉が舞わないように、霧吹きで石を湿らせる。濡れた石から、雨上がりの河原みたいな匂いがした。
一本の溝を立て直すのに、三分かかった。溝は、上の石と下の石を合わせて百本近い。
石頭を握る右手の親指の付け根で、古傷が叩くたびに白くなった。
十二時を回った頃、バルグが言った。
「湊。もう一度、余が還せばよかろう」
「還したら、また浮くだろ」
「……浮くやもしれぬ。擦れて減った目が戻るかは、分からぬ」
「やもしれぬ、じゃねえ」
コツ。
「そなたの手は、遅い」
「遅いよ」
コツ。
「遅いけど、浮かない」
バルグは何か言いかけて、やめた。作業灯の光の輪は、ずっと俺の手元にあった。
二時を過ぎた頃、今度は俺のほうから訊いた。
「お前も見てただろ。下の石の、底の字」
「見た」
「『信』と『宗』は、たぶんじいちゃんと白木のおじさんだ。三つ目、読めるか」
光の輪が、石の上で一度だけ揺れた。
「……余は、平仮名もまだ読めぬ」
「そういうことを訊いたんじゃない」
返事はなかった。
「灯り、ぶれてる」
「……すまぬ」
光の輪が、元の場所に戻った。
コツ。
それきり、しばらく鏨の音しかしなかった。
二時四十分に、階段がきしんだ。
剛三さんは作業着の上に手ぬぐいを巻きながら降りてきて、裏返した上の石の前にしゃがんだ。
太い指で、溝を一本ずつ撫でた。何も言わなかった。
最後の一本を立て終えたのは、三時少し前だった。
「上げろ」
剛三さんが言った。
バルグが上の石を持ち上げて、芯棒に通した。今度は、据えるのに一分もかからなかった。
豆を落とす。臼の縁から、呉汁が垂れてくる。
剛三さんはそれを指に取って擦り、指を開いた。
何も残っていなかった。
釜が鳴りだした。豆の煮える甘い匂いが、ようやく作業場に戻ってきた。
搾った豆乳を木桶に張り、剛三さんが柄杓を取った。
「湊。長は、何をしておる」
バルグが、俺の耳元で訊いた。珍しく、小さな声だった。
「にがりを打つんだ。これで固まる。……黙って見てろ」
剛三さんが柄杓を豆乳に沈めて、大きく八の字に回す。
にがりを打つ時だけ、剛三さんは口が少し開く。子供の頃から見てきたが、本人は気付いていないらしい。
豆乳の表に、ゆるい皺が寄った。寄って、そのまま動かなくなった。
固まった。
六時。水槽の中で、剛三さんが豆腐を切り分けた。包丁が水の中を一度通るたびに、白い四角が一つ増えた。
「たかせさん、二十丁。いつもどおりで」
裏口で、中華屋の若いのが岡持ちを提げて待っていた。
剛三さんは、切れ端を一つ、水ごと俺の手のひらに載せた。
「三代目。食え」
まだ温かかった。
自分で名乗る時は、頭の中で「三代目」の後ろに「たぶん、最後の」が付く。
人に呼ばれると、付かなかった。
今なら、切り出せる気がした。徹夜明けの頭で、用意した三つの言い訳のうち、一番ましなやつを選んだ。
「剛三さん。昨日の臼のことなんですけど。あれは、こいつが叩いたら——」
剛三さんは、臼を見ていた。
台座の上の、臼の一尺上のあたりを。
「……見なかったことにする」




