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第1話: 押し入れから魔王が出てきた

 押し入れの襖が、内側から開いた。


 俺の部屋の押し入れだ。奥は壁で、壁の向こうは隣の床屋の物置だ。内側から開く理由がない。


 布団が雪崩を起こして、黒い袖がぬっと出てきた。


 続いて肩。やたら広い。次に頭。鴨居にごんとぶつかった。


 男は額を押さえもせずに、六畳の真ん中に立った。頭が天井に届きそうだった。土と、何かが焦げたような匂いがした。


 男が鼻から息を吐いた。ふいごみたいな音がして、六畳の空気が動いた。


「——余は魔王である」


 ……いや、待て。


 朝の七時だ。俺はまだ歯も磨いていない。


「土足」


 最初に口から出たのは、それだった。


 男は自分の足元を見た。泥のついた黒い長靴が、畳に二つ跡を付けている。


「これは失礼した」


 男は片足ずつ靴を脱ぎ、両手で揃えて、押し入れの中に戻した。


 そこじゃない。


 スマホは枕元にある。一一〇番まで三秒。押し入れからここまでは二歩。向こうのほうが速い。


 勘定だけは、昔から速い。


「……魔王って、何の」


「魔界の王である。戦に負けた。玉座は捨ててきた」


 淀みがなかった。昨日の天気を言うのと同じ声だった。


「その魔王が、なんでうちの押し入れにいるんだよ」


「落ちた」


「どこから」


 男は少し考えてから、天井を指さした。


「上からである」


 つい、天井を見た。穴はない。


 ついでに押し入れも覗いた。布団は全部雪崩れて出ていて、残っているのは揃えた長靴だけだ。昨夜、俺が布団を押し込んだ時には、大人が潜める隙間なんかなかった。


「二階の上は屋根だ」


「うむ」


 うむ、じゃない。


「余は、しばらくここに住む」


「家賃」


 反射で出た。こっちは手取り五万だ。


「金は持たぬ」


「じゃあ出てけ」


「働く。余は七百年、国を治めてきた」


「うちは金物屋なんだよ。魔界の総本山じゃない」


「金物屋とは何だ」


「釘とか鍋を売って包丁を研いで、合鍵を作る店」


「では余は、釘を売ろう」


「釘は量り売りだ。お前に量れるか」


「量れぬ」


 正直か。


「そもそも、何しに来たんだよ」


 男はそこで初めて、少し黙った。窓の外の、アーケードの屋根のほうを見た。


「余は人を探しに来た。見つかるまで置け」


「誰を」


 答えはなかった。


「……帰る所は」


「無い」


 即答だった。


 改めて見ると、男は手ぶらだった。黒衣の裾は焦げてほつれ、袖口は泥で固まっている。


 男の腹が、ぐう、と鳴った。


 泥棒なら、脱いだ靴を揃えたりしない。そのくらいは、とっくに分かっていた。


 追い出す理由なら、十個は言えた。不法侵入。土足。身長。朝の七時。


 言えなかったのは、帰る所のないやつに「帰れ」と言う、その一個だけだった。


 我ながら、ちょろい。


「……店番、できるか」


「できる」


「家賃の代わりに、店番と力仕事。飯は出す。それでいいな」


「よかろう」


 なんで、そっちが上からなんだ。


「名前は」


「バルグ」


「三崎湊。この店の三代目だ」


 たぶん、最後の。とは言わなかった。




 店は一階だ。朝なのに薄暗いのは、表のシャッターが胸の高さで止まっているからだ。


 この一週間、俺は腰を屈めて店に出入りしている。客も屈む。ほとんど来ないけど。


 階段がきしんで、バルグが降りてきた。今度は、降り口の鴨居の手前で首をすくめた。泥の長靴を、片手に二つぶら下げている。


「これは何だ」


「シャッター。店の戸だよ。先週の金曜の夜中に、酔っ払いの軽が突っ込んで壊れた。下の三枚が凹んで、レールに噛んでる」


 夜だけ車の抜けられるアーケードを、走ってきたらしい。


「そなたは金物屋であろう。直せぬのか」


 痛いところを突いてくる。


「レールの曲がりは、当て木して玄能《げんのう》で叩いたら少し戻った」


「板は」


「スラットは駄目だ。この横板のことな。凹んだのは叩けば叩くほど波を打つ。無理に巻き上げたら、上の板まで折れる」


「では、どうする」


「業者に見積もりを取った。下三枚とレールの交換で十四万。ぶつけた相手の保険で払う。査定に来るのは来週だってさ。それまでは屈んで暮らす」


 半分下りたうちのシャッターを見て、近所が何と言っているかは、だいたい分かる。


 このアーケードで、シャッターが下りたまま上がらなくなった店は、もう十八ある。向かいの元レコード屋も、三年前からその一つだ。


 バルグは凹んだ板を、じっと見ていた。


「そなた、これを『壊れた』と言うたな」


「言ったけど」


「ならば戻す。それだけのことだ」


 バルグは土間で長靴を履いて、屈んで表へ出た。屈んでも、後ろ頭がシャッターの縁を擦った。


 俺も屈んで、後を追った。


「何する気だ。叩くなよ。それ以上凹んだら十四万じゃ済まな——」


 バルグが片手を、凹みにかざした。


「余は魔王である。——この鉄の戸を、壊れる前へ還す」


 声がアーケードの屋根に跳ねた。


 凹みが、消えた。


 叩いて戻したのとは違う。くの字だった板が、瞬きのあいだにまっすぐになっていた。


 口を開けるより先に、シャッターが上がった。


 上がった、というより、吹っ飛んだ。


 ガラガラなんて音じゃない。シャッターは一瞬で上の巻き取り箱に吸い込まれて、一番下の座板が箱の底にぶち当たった。


 ガァン。


 座板は手のひら一枚ぶん跳ね返って、また上へ叩きつけられた。


 ガァン。ガァン。ガァン。


 止まらない。


 巻き上げのバネが、加減というものを忘れたみたいに引っ張り続けている。


 梁の燕が、巣から飛び出していった。


 隣の床屋と反対隣の化粧品屋、筋向かいの自転車屋が戸を開けた。二軒先の豆腐屋からは、白い作業着の親父さんが網を持ったまま出てきた。


 こういう時は、町内会長が来るのが決まりで——


 ほら来た。和菓子屋の小松の会長が、寝間着にカーディガンを引っかけて、サンダルで走ってくる。七十五の全力だ。遅い。カーディガンを探すのに手間取ったらしい。


 頭の中で、勝手に勘定が始まる。


 表に出てきた店、七軒。謝りに行く先、十一軒。座板が箱の底を割るまで、あと何発か。割れたら十四万では済まない。


 バルグは腕を組んで、跳ねるシャッターを見上げていた。


「ふむ。少し、勢いが余った」


「少しじゃねえ!」


 店に飛び込んで、棚からシャコ万を掴んだ。コの字の締め具で、ねじを回せば大抵の物は挟める。脚立を担いで表へ出る。


 座板が上に当たった瞬間に、真下のレールを挟めばいい。跳ね返る場所がなくなれば、音は止まる。


 一回目は、一拍遅れた。


 跳ね返ってきた座板に、シャコ万の口を弾かれた。指がじんと痺れた。


 俺はだいたい、一拍遅れる。


 二回目。音と同時に口を差し込んで、ねじを回した。回した。回した。


 座板がシャコ万に噛んで、跳ね返らなくなった。


 ガァン、が、ぎし、に変わった。


 それきり、アーケードが静かになった。


 燕が一周して、巣に戻った。


 音の止んだところへ、小松の会長がようやく着いた。肩で息をしている。


「見事な手際である」


 下から、バルグが言った。


「お前が言うな」


 脚立を降りると、バルグが自分の右手を見ていた。


 親指から、指を一本折った。ゆっくりと、何かを確かめるみたいに。


「何数えてんだ」


 バルグは手を下ろした。


「余の勘定である」


 答えになってない。


「……さっきの、何をやったんだ」


 声を落として訊いた。


「還した。壊れる前へ」


「どうやって」


「還したのだ」


 同じ答えが二回来た。困ったことに、嘘をついている顔には見えなかった。


「湊くん。うちの鏡が一枚、落ちかけたよ」


 隣の床屋のトキさんが、櫛を持ったまま言った。


「すみません。シャッターが、その……直りまして」


「……あんだけ凹んでたのに、跡も残ってねえな」


 筋向かいの自転車屋の親父さんが、下の三枚を覗き込んで首をひねった。


「こいつが叩いたら、戻りまして」


「あら、力持ちだねえ」


 化粧品屋の奥さんは、それで済ませた。


 豆腐屋の剛三さんだけは、下の三枚を黙って見ていた。それから、網の先でバルグを指した。


「……そっちの、でかいのは」


 全員の目が、黒ずくめの大男に集まった。


 何て紹介すればいい。押し入れから出てきました、は無理だ。


 バルグが一歩前に出た。


「余は魔王である」


 終わった。


「——本日は、店番である」


 一拍おいて、トキさんが言った。


「……マオウさん。外国の方かい」


「うむ」


 通った。通るのか。


 ようやく息の整った小松の会長が、割って入った。


「まあまあ、アーケードが古いからねえ。バネもくたびれてるんだよ、きっと。うちの裏の雨戸もね、去年の秋に——」


「会長、その話は今度聞きます」


 小松の会長の話は、放っておくと昼まで続く。




 人垣がほどけてから、店の土間でバルグに言った。


「十四万の修理は、要らなくなった。どうせ保険屋の金だから、得も損もない」


「では、何を嘆く」


「来週の査定に見せる凹みが、もう無いんだよ。写真は残ってるのに、保険屋に何て言えばいいんだ」


「直った、と言えばよい。嘘ではあるまい」


 嘘じゃないのが、一番困る。


「謝りに回るぞ。手ぶらじゃ行けない」


 店の奥の段ボールから、じいちゃんの代に作った手ぬぐいを出した。紺地に白で「三崎金物店」。十年は眠っていた在庫だ。


「それは何だ」


「粗品」


「そしなとは」


「粗末な品ですって言って渡す物」


「詫びに、粗末な物を渡すのか」


 バルグは手ぬぐいの束を、両手で神妙に受け取った。


「この国は、奥が深い」


 深くない。


 トキさんの店で、バルグは手ぬぐいを差し出した。


「余は、詫びに来た。これは粗品である」


 トキさんは噴き出して、受け取った。


「律儀だねえ、マオウさんは」


 十一軒回って、怒った人は一人もいなかった。


 八時前。最後の一軒が、南口寄りの八百屋だった。


 店先で、黄色い帽子の女の子が泣きそうな顔をしていた。


 ここの孫だ。この春から一年生で、背中のランドセルが、まだ本人より偉そうに光っている。


「ランドセルの金具がね、曲がっちゃったの。転んで」


 横に付いた小さなナスカンが、くの字に開いている。防犯ブザーを下げておく所だ。


 バルグが、膝を折ってしゃがんだ。


「案ずるな」


 声が、半分の大きさになっていた。さっきアーケード中に響いた声と、同じ喉とは思えない。


 しゃがんだまま、バルグが片手を上げかけた。


「やめろ」


 俺はその手首を掴んだ。指が回りきらなかった。


「町がもたない」


 バルグは、掴まれた手首を見下ろした。


「……心得た」


 上げかけた手が、膝の上に下りた。


 前掛けのポケットから、ラジオペンチを出す。ナスカンの口を少しずつ閉じて、ばねが戻るのを指で確かめる。三十秒。防犯ブザーを掛け直して、ランドセルを軽く叩いた。


 そのあいだ、バルグは膝に置いた手を動かさずに、俺の指先を見ていた。


 女の子は金具を開け閉めしてから、俺を見上げた。


「ねえ。かなものやさん、やめちゃうの」


「……誰が言ってた」


「おばあちゃん」


 店の奥で、大根を並べていたおばあちゃんが手を止めた。八百屋の奥さんだ。


 半分下りたシャッターを、一週間見ていたら、そう思う。


 手取り五万の勘定が、また勝手に始まりかけた。


「やめない」


 女の子の帽子のつばを、指で少し上げてやった。


「壊れたなら持ってこい。金物屋だ」


 女の子はうなずいて、ランドセルを鳴らしながら走っていった。散りかけの桜の花びらが、アーケードの中まで吹き込んでいた。


 奥さんが手ぬぐいを受け取りながら、小さく言った。


「湊くん、ごめんね」


 粗品を渡しに来て、謝られてしまった。




 午後、魚屋の親父さんが柳刃を持ってきた。切っ先が、米粒ほど欠けている。


「先月から欠けてんだ。ここの戸が上まで開いてるって、聞いたもんでな」


 砥石を水に沈めて、泡が出なくなるのを待つ。荒砥で刃先を欠けの深さまで下ろしていくと、黒い研ぎ汁の下で欠けが小さくなっていった。


 そのあいだ、バルグは店の前で、通る人に「余は店番である」と言い続けていた。


 作業着の男が足を止めて、店先の箱を指さした。


「兄ちゃん、この釘を二百グラム」


「量れぬ」


 男は少し黙ってから、自分で秤に釘を載せた。二百グラムちょうどで止めて、小銭を置いていった。


「見事な手際である」


 店番とは。


 夕方、研ぎ上がった柳刃を渡した。親父さんは刃先を爪に当てて滑らないのを確かめ、千二百円を置いていった。そのあと、八百屋の奥さんが台秤を抱えてきた。


「湊くん。これ、針が戻らないの。見てもらえるかしら」


「預かります。明日には」


 知らない顔の人が、植木鋏を持ってきた。


「朝の音で、ここに金物屋があったのを思い出しましてね」


 夜の八時、店を閉めた。


 シャコ万を外して、フック棒でシャッターを引き下ろす。バネに腕ごと持っていかれそうになる。膝の高さまで下ろして、レールにもう一度シャコ万を噛ませた。


「なぜ、下まで下ろさぬ。盗人が入るぞ」


「うちに盗られて困る物なんか、砥石くらいだよ。泥棒が研ぎ方を知ってたら、弟子にしてやる」


 バルグは笑わなかった。膝の高さの隙間から、目を離さなかった。


 俺は膝をついて、隙間から店に潜った。


 バルグは大きな体を二つに折って、這うようにくぐってきた。上がり框で長靴を脱いで、框の下に揃えた。


 今度は、そこでいい。


 二階に上がって、客用の布団を出した。


「要らぬ。余はここがよい」


 押し入れだった。


「知っておる。余が出てきた所である」


 知ってるなら、なおさら嫌だろ。


 百九十を超える男が、膝を抱えて押し入れの上の段に収まった。襖の隙間から、大きな目がこっちを見ている。


 正直、怖い。


 電気を消してから、今日の分を頭の中で数えた。柳刃。台秤。植木鋏。


 壊れた物を持ってきた客は、三人。先週は、ゼロだった。




 夜中に目が覚めた。


 押し入れの襖が、少し開いていた。中は空だった。


 階段を降りる。店は暗い。膝の高さの隙間から、アーケードの常夜灯の光が床に細長く伸びている。その光の端に、フック棒が立て掛けてあった。握りの所だけ、じいちゃんの手の形にすり減って、黒ずんでいる。


 仏間の襖が開いていた。仏壇の豆電球の灯明だけが点いている。じいちゃんの頃から、夜も消さない。


 灯明の横の、人の頭より高い所に、光が一つ浮いていた。


 濁った金色の、小さな点。


 息が止まりかけて、それがバルグの目だと気付いた。暗いところで、薄く光るらしい。先に言っておいてほしい。


 遺影の中のじいちゃんは、老眼鏡を額に上げたまま笑っている。探し物をしている時の顔だ。


 バルグは、その写真を見下ろしていた。


 今朝、ふいごみたいな鼻息で六畳の空気を動かしていた男だ。その音が、止まっていた。


 肩も動かない。


 手は、合わせなかった。両手を体の横に下ろしたまま、ただ立っていた。


「……じいちゃんだ。三年前に死んだ。手ぐらい、合わせてけよ」


 バルグは振り向かなかった。


 長い間があって、止まっていた息が、一度だけ深く吐き出された。


「表の戸を、なぜ下まで下ろさぬ」


 写真を見たまま、バルグが言った。


「じいちゃんに言われたから。死んだ日から、一回も全部は下ろしてない」


 バルグは、何も言わなかった。


「もしかして、じいちゃんのこと知ってんのか」


 金色の目が、写真から離れずに、細くなった。


「……この町には、余の知る顔が一つだけある」

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