第八章 ~四度目のオルネ村~
『識別名――オルネ』
『住民数――三百十二名』
『住民全員が、記録を拒否しています』
黒い手帳に浮かんだ文章を見つめた後、俺はページを閉じた。
「今は、何もしない」
白い道へ額をつけていた老婆が、ゆっくり顔を上げる。
額には薄い土の跡がついていた。
「なぜでございますか」
声に怒りはなかった。落胆すら感じられない。
ただ、疲れていた。
願いを口にすることにも、その願いが叶うかもしれないと期待することにも、疲れ果てた人間の声だった。
「俺は、あなたたちのことを何も知らない」
「知る必要はございません」
「ある」
俺は老婆の前へしゃがんだ。
「三百十二人全員を忘れると決めるなら、その三百十二人が、何を望んでいるのか知らなければならない」
セフが僅かに眉を動かした。
「全員と話すつもりですか」
「少なくとも、村の総意という言葉だけで決めるつもりはない」
老婆は、深い皺に囲まれた目で俺を見た。
「村人たちは皆、同じ願いを持っております」
「全員へ直接聞いたのか」
「長い話し合いを重ねました」
「子供にも?」
老婆の唇が、僅かに動いた。
答えは返ってこない。
その沈黙だけで十分だった。
「村へ案内してくれ」
俺は立ち上がった。
「そこで、一人ずつ話を聞く」
「管理者様」
「俺は管理者じゃない」
言い切った直後、白い道に現れた文章を思い出した。
帰還者識別名、YUMA。
第九接続者。
今の俺が否定しても、過去に存在した何者かと俺がつながっている可能性は消えない。
「少なくとも、今の俺は、自分を管理者だとは思っていない」
言い直すと、老婆はしばらく俺の顔を見つめた。
過去の俺と比べているのかもしれない。
同じ顔をしているのか。
同じ声なのか。
それとも、名前以外はまったく異なる存在に見えているのか。
やがて、老婆は小さく頷いた。
「承知いたしました。私はエッダと申します」
「エッダさん」
「敬称は不要でございます」
「では、エッダ」
老婆の目が、微かに揺れた。
「それも、以前と同じでございますね」
「以前?」
「三度目のあなた様も、私をエッダと呼ばれました」
胸の奥が冷える。
「そのときの俺は、どんな人間だった」
エッダはすぐには答えなかった。
遠くに並ぶ白い石柱へ視線を向け、静かに口を開く。
「優しい方でした」
思わず、僅かに息を吐いた。
少なくとも、残酷な管理者ではなかった。
そう考えかけた俺へ、エッダは続ける。
「だからこそ、私どもを三度、苦しませました」
オルネ村は、旧第九巡回路から北へ半刻ほど進んだ場所にあるという。
そこには道らしい道がなかった。
エッダが乗ってきた馬車の跡をたどり、腰近くまで伸びた草をかき分けて進む。
補給物資を積んだ二台の荷車まで連れていくのは難しいため、バルツたちには白い道の脇で待ってもらうことになった。
「日没までには戻ってきてください」
バルツが、俺たち六人を順番に見る。
「戻らなかった場合は?」
ノエルが尋ねると、バルツは一瞬だけ考えた。
「今夜は待ちます。明日の朝までに戻らなければ、北方遺跡へ向かいます」
「薄情だな」
「補給隊全員を、あなた方と一緒に行方不明にするわけにはいきません」
「分かってるよ」
ノエルも本気で責めたわけではない。
ガルドがバルツへ頷いた。
「戻れなければ、俺たちを待つな。先発調査班への補給を優先しろ」
「承知しました」
バルツの視線が、俺の背負った鞄へ向く。
中には、世界から消された調査員の手紙と木彫りの馬が入っていた。
「リウスという人物についても、何か分かった場合は」
「必ず伝えます」
名前の後半しか残っていない父親。
彼とオルネが関係しているのかは分からない。
ただ、俺が彼を仮称リウスとして記録した直後、エッダは白い道へ現れた。
偶然とは思えなかった。
草原を進んでいくうち、空の色が変わり始めた。
昼にはまだ早いはずなのに、青い空へ薄い黄色が混じっている。太陽の周囲には、淡い光の輪が三重に浮かんでいた。
「天候が崩れるのか」
ガルドが空を見上げる。
ノエルは鼻を動かした。
「雨の匂いはしないな」
リアは歩きながら、白い本へ現在地と空の変化を書き込んでいた。
「空の色が変わり始めた地点を記録しています」
「前を見ないと、また転ぶぞ」
ノエルが忠告する。
「視界の大部分は前方へ向けています」
「大部分じゃ足りないだろ」
「前回も転んでいません」
「俺たち二人へ、同時に体当たりしただろ」
「足場を確認するため、一時的に身体を預けただけです」
「それを転んだって言うんじゃないのか」
「ノエル・ハースの発言記録から、信頼性という項目を削除します」
「できるならやってみろよ」
普段と変わらない言い争いだった。
しかし、リアの足取りは慎重だった。
鈎針通り。
南水路。
旧第九巡回路。
地図から切り離された場所には、必ず何らかの境界があった。
オルネにもある。
全員が、それを警戒していた。
やがて、草原の中央に森が現れた。
周囲の地形とは無関係に、円形の林だけが浮かんでいる。
外側には白い幹の木。
その内側には赤い幹。
さらに奥には、光を吸い込むような黒い幹。
三種類の木が、森を囲む三重の壁を作っていた。
「森というより、柵に近いですね」
ミレナが木々を見上げる。
セフは外側の白い木へ近づき、表皮と太さを調べた。
「三種類の木は、年齢が異なります。白い木は、およそ八十年。赤い木は、その倍以上。最も内側の黒い木は、さらに古い」
「普通の森なら、内側ほど古いんじゃないのか」
ノエルが尋ねる。
「年齢の順序だけなら不自然ではありません。問題は、それぞれの輪が、ほぼ同じ時期に一斉に育った形跡を持つことです」
「別の時代に作られた境界が、重なって残っている?」
俺が尋ねると、セフは頷いた。
「その可能性が高いでしょう」
エッダは森の前で馬車を止めた。
首から下げていた木札を外し、白い木の幹にある窪みへ差し込む。
札へ刻まれた『オルネ』の文字が淡く光ると、左右の木々が音もなく傾いた。
人と馬車が通れる道が開く。
「この札がなければ、村へ入ることはできません」
エッダが木札を取り外す。
「村から出るときも必要なのか」
ガルドの問いへ、エッダは僅かに視線を下げた。
「以前は必要でございました」
「今は違う?」
老婆は答えなかった。
森へ入り、白い木の輪を抜けた瞬間、周囲の音が変わった。
草を踏んだ足音が、半拍遅れて背後から聞こえてくる。
一歩進む。
少し遅れて、同じ足音。
二歩進めば、また二つの足音が返ってくる。
俺たちの後ろを、姿の見えない誰かが同じ歩幅でついてきているようだった。
ノエルが後ろ向きになり、歩きながら音を確認しようとする。
遅れて聞こえる足音も、同じように後ろ向きの歩調へ変わった。
エッダの顔色が変わる。
「後ろを向いて歩いてはなりません」
「どうして?」
「以前のご自分と、目が合います」
ノエルは即座に前を向いた。
「そういうことは先に言ってくれよ」
白い木を抜け、赤い木の輪へ入る。
今度は声が遅れた。
「ノエル」
俺が名前を呼んでも、声は聞こえなかった。
数秒後、木々の奥から自分の声が返ってくる。
――ノエル。
さらに遅れて、少し低い声。
――ノエル。
もう一つ。
疲れ切ったような声。
――ノエル。
同じ言葉。
だが、どれも違う俺の声だった。
「呼び返されても、答えてはなりません」
エッダが言う。
ノエルは周囲の木々を見回した。
「名前を呼ばれて無視するほうが、危なくないか」
「森の声は、現在のあなたを呼んでいるのではございません」
「それなら、誰を?」
「以前のあなたです」
三つ目の黒い木の輪へ入る。
空気が急激に冷たくなった。
そこでは音ではなく、匂いが現れた。
焼きたてのパン。
雨に濡れた土。
血。
煙。
花。
同じ場所に存在するはずのない匂いが、次々と鼻を掠めていく。
雨の匂いに、俺は足を止めた。
黄色い傘。
濡れた小鳥。
母親だと思っていた女性。
顔も声も失った記憶。
木々の隙間に、女性の後ろ姿が見えた。
白い服。
幼い俺の手を引く、細い腕。
「母さ――」
声が出る直前、ノエルが俺の口を塞いだ。
「返事をするなって言われただろ」
「でも、今そこに」
もう一度、木々の間を見る。
女性の姿は消えていた。
代わりに、黒い幹へ文字が刻まれている。
『第一オルネ』
少し先の木。
『第二オルネ』
さらに奥。
『第三オルネ』
黒い木の輪を抜けると、急に視界が開けた。
オルネ村があった。
最初に受けた印象は、穏やかな農村だった。
石と木で造られた家々。
中央を流れる細い川。
水車。
畑。
果樹。
家畜小屋。
小さな礼拝堂。
広場では子供たちが走り、畑では男女が鍬を振るっている。家の前では、老人が籠を編んでいた。
どこにでもありそうな村だった。
同時に、どこを見ても僅かな違和感がある。
一階建ての家の壁には、存在しない二階へ続くはずだった階段が埋め込まれていた。
藁葺きの屋根の上に、別の形をした屋根の跡が残っている。
村の中央には井戸が三つあった。
隣り合っているのではない。同じ場所へ重なるように、新しい白い石、赤く変色した石、黒い石で作られた三つの井戸が存在している。
村人たちの身体にも、複数の人生が重なっていた。
畑で鍬を振るう男の左腕には、新しい切り傷と古い火傷、その上から縫い合わせたような黒い線が走っている。
走り回る子供の一人は、身体に合わない老人用の革靴を履いていた。それでも、長年使い慣れた靴のように転ばず走っている。
「三つの村が、一つの場所へ残っている」
リアが呟く。
「正確には、四つでございます」
エッダが静かに答えた。
「現在の村を含めて」
俺たちの到着へ気づいた村人たちが、一人ずつ手を止める。
驚いた様子はなかった。
俺たちが来ることを、最初から知っていたように見える。
一人の男が鍬を地面へ置いた。
別の女性が頭から布を外す。
そして、三百人近い村人が一斉にその場へ跪いた。
老人だけではない。
畑で働いていた者も。
広場で遊んでいた子供も。
「お帰りなさいませ」
大勢の声が重なる。
「第九記録者様」
俺は動けなかった。
この人たちは、俺を待っていた。
救ってもらうためではない。
何も記録せず、消えていくことを認めてもらうために。
村長の家は、三つの建物を無理やり重ねたような造りだった。
玄関が三つある。
使われているのは中央の扉だけで、左右の扉は石壁へ埋め込まれ、取っ手だけが残されていた。
家の中には長い食卓があり、その周囲へ十四脚の椅子が並んでいる。
座ったのは、俺たち六人と、エッダを含む村の代表者五人。
三脚が空いていた。
「以前は、ほかにも代表者がいたのか」
空席へ目を向けると、エッダの隣に座る老人が頷いた。
「第一と第二のオルネでは、別の者がこの席に座っておりました」
老人の名は、ハルム。
現在のオルネ村の村長で、六十八歳。
ただし。
「第一オルネでは、私は十二歳でした」
ハルムは、皺の刻まれた手を食卓へ置いた。
「第二では三十四歳。第三では、ハルムという人間は生まれておりません」
「今は六十八歳」
「はい」
同じ名前や同じ記録が、毎回同じ年齢、同じ家族、同じ立場として再現されるわけではない。
ある村では子供。
別の村では村長。
ある村には、そもそも存在しない。
それでも、別の人生を生きた自分の記憶が残っている。
「本当に、すべて同じ自分だと思うのか」
俺が尋ねると、ハルムは自分の左手を見た。
指が一本足りない。
「分かりません。ですが、夢を見ます。異なる年齢の私。異なる妻。異なる子供。そして、異なる死に方をした私を」
失われた指の周囲には、幾つもの傷が重なっていた。
「現在の私は、十二年前に農具で指を失いました。第一の私は火事で。第二では、戦で失いました」
「存在しなかった第三では?」
「指を失った記憶だけが、私の中にあります」
身体を持たなかった人生の痛みまで。
今のハルムへ残っている。
ミレナが、代表者たちを順番に見た。
「村の皆さんも、同じように過去の人生を覚えているのですか」
「程度は異なります」
答えたのは、四十代ほどの女性だった。
名はサナ。
村の薬師。
「明確な記憶を持つ者もいれば、夢だけを見る者もいます。痛みだけが残っている者や、現在には存在しない家族を探し続ける者、自分の名前を複数持つ者もおります」
サナは胸元から、三枚の木札を取り出した。
それぞれに別の名前が刻まれている。
『サナ』
『リィナ』
『アナト』
「どれが、本当の名前なのですか」
リアが尋ねると、サナは穏やかに笑った。
「分かりません。今はサナと呼ばれていますが、リィナという名を聞いても振り返ります。アナトという名を聞けば、亡くした子供の顔を思い出します」
「その子供は、今の村に?」
「この世界では、生まれておりません」
サナは笑顔のまま答えた。
しかし、一筋の涙が頬を流れる。
「それでも、私はあの子の母親です」
俺は反射的に黒い手帳へ触れた。
記録しなければ、そう考えた。
しかし、指が止まる。
何と記録すればいい。
『サナには、存在しない子供がいる』
それは違う。
子供は存在しなかったのではない。
別のオルネでは、確かに生きていた。
『サナは、別のオルネにおいて、アナトという名で子供を育てていた記憶を持つ』
慎重に文章を定めると、黒い手帳へ文字が現れた。
サナが突然、顔を上げる。
「今……」
「どうしました」
「子供の声が聞こえました」
彼女は部屋の隅を見る。
そこには誰もいない。
「私を、母さんと呼びました」
俺が過去の関係を記録したことで、別のオルネに存在した親子のつながりが、一瞬だけ強くなった。
それはサナを救ったのか。
忘れようとしていた痛みを、再び鮮明にしただけなのか。
俺には分からなかった。
黒い手帳を閉じる。
記録することが、常に正しいとは限らない。
記録される側が何を望んでいるのかを知らなければ、俺の行為も世界を勝手に書き換える者たちと変わらなくなる。
「なぜ、オルネは何度も作り直される」
ガルドが尋ねた。
「ほかの消された場所と、何が違う」
ハルムは窓の外を見た。
村の中央にある礼拝堂。
その奥には、小さな丘がある。
頂上に一本の木が立っていた。
葉は一枚もない。
白い幹から枝が伸び、その先には黒い実が幾つもついている。
「あの木でございます」
「何の木だ」
「本当の名は分かりません」
エッダが答える。
「私どもは、戻り木と呼んでおります」
第一オルネが作られた当初、丘には何もなかったという。
村が滅びる直前に、小さな芽が出た。
世界が作り直され、第二オルネが生まれたとき、木は最初から丘に立っていた。
「木は、第一の村の記憶を保持しておりました」
サナが続ける。
「幹へ触れた者は、以前の村が滅びる様子を見ました」
第二オルネの住民は、第一の滅亡を知った。
同じ過ちを繰り返さないため、備えようとした。
「第一の村で、何が起きた」
「黒い雨でございます」
エッダの声が低くなった。
冬の終わり。
空から煤のような黒い雨が降った。
雨へ触れた人間は、自分ではない誰かの記憶を見るようになった。
家族を敵だと思い込み、知らない子供を自分の子と呼び、自分の名前を忘れる。
村は三日で崩壊した。
争い。
火事。
川へ身を投げた者。
最後には、誰も残らなかった。
「第二のオルネでは、雨を避けるため、地下へ避難しました」
「同じ雨は降らなかった?」
セフが尋ねる。
「はい。その代わり、地面から黒い霧が湧きました」
霧の中には、第一オルネで死んだ者たちが現れた。
家族の顔をして。
名前を呼び。
一緒に来てほしいと頼んだ。
「誰もが、自分の最も会いたい相手を見ました」
亡くした親。
生まれなかった子供。
別の人生で結ばれた伴侶。
住民たちは、自分の意思で霧の中へ入っていった。
第二オルネも滅びた。
第三の村で、住民たちは戻り木を切り倒そうとした。
斧を入れた。
燃やした。
根を掘り起こし。
丘ごと崩そうとした。
それでも翌朝には、何事もなかったように戻っていた。
「そのとき、あなた様が来られました」
エッダが俺を見る。
第三オルネの終わり。
第九記録者。
あるいは、第九管理人格YUMA。
今の俺と同じ名を持つ存在が、村へ現れた。
村人の話を聞き、戻り木を調べ。
そして、
「過去の俺は、何をした」
「戻り木を、消えないよう記録されました」
理解が追いつかなかった。
「災厄の原因を、固定したのか」
「木が失われれば、私どもの人格も、次の世界へ引き継げないからだと説明されました」
戻り木は、災厄の原因であると同時に、村人たちの人格を保存する器でもあった。
村が滅びるたび。
木が住民の記録を保持し、次の世界で新しいオルネを作る。
「俺は、村人を救おうとした」
「はい」
「だから木を残し、第四のオルネを作った」
「はい」
エッダの声が震えた。
「あなた様は、次こそ正しく保存すると約束されました。次の世界では災厄が起きないようにする。今度こそ、全員を救うと」
「その言葉を、信じたのか」
「三度目の私どもは、喜んで死にました」
次の世界では、苦しみを覚えていない。
家族と、新しい人生を始められる。
その希望を持ち、第三オルネの住民たちは世界の終わりを受け入れた。
「ですが、第四の私どもは、すべてを覚えておりました」
第一の村。
第二の村。
第三の村。
三度の人生。
三度の死。
愛した者。
殺した者。
救えなかった者。
すべての記憶が混ざり、現在の三百十二人へ流れ込んでいる。
「記憶を初期化する処理が、戻り木によって拒まれた」
セフが考え込む。
「木は、人格を完全に残そうとした。その結果、過去の記憶まで現在へ重ねたのかもしれない」
「完全に残す」
サナが、三枚の名札を握る。
「どの記憶を残せば、私が完全になるのでしょう」
今の家族。
以前の夫。
別の世界の子供。
自分が殺した隣人。
自分を殺した親。
忘れれば、苦しみは薄れる。
だが、忘れれば、その人々が生きていたことまで失われる。
俺が鈎針通りから考え続けてきた問いと同じだった。
苦しい記憶も、残すべきなのか。
残された本人が、忘れたいと願ったとしても。
「第四オルネは、いつ終わる」
リアが尋ねた。
代表者たちは、全員同じ方向を見た。
丘の上の戻り木。
「明日の日没です」
エッダが答える。
「なぜ分かる」
「戻り木の実が、三百十二個になりました」
木に実る黒い果実。
一つが、住民一人分。
最後の実は昨夜ついたという。
戻り木は、第四オルネに暮らす全員の情報を回収し終えた。
いつでも、次の処理を開始できる状態になっている。
「次は、何が起こる」
「分かりません」
第一は黒い雨。
第二は黒い霧。
「第三は、何が村を滅ぼした」
俺の問いに、エッダの顔から表情が消えた。
「あなた様でございます」
呼吸を忘れそうになった。
「俺が?」
「第三オルネを消したのは、第九管理人格YUMAでございます」
家の外から、村人たちの生活する音が聞こえる。
子供の笑い声。
家畜の鳴き声。
鍬が土へ入る音。
過去の俺は、彼らを救うためだと説明したのだろう。
第四オルネを作るため。
記憶を整理し。
次こそ正しく保存するため。
三百十二人を一度消し、次の世界へ送った。
だから、命令が残されている。
『第四オルネにおいて、同一の崩壊が発生した場合』
『住民の再構築を行わない』
同じ苦しみを繰り返したなら。
次は作らない。
第三オルネの住民たちと交わした約束。
「明日の日没に、第四オルネも終わります」
エッダが言う。
「まだ、滅びると決まったわけではない」
「戻り木は満ちました」
「木を調べる」
「何も変わりません」
「それでもだ」
俺は立ち上がった。
「俺は、過去の俺が残した命令だけで、今を生きている三百十二人を消さない」
「では、五度目をお作りになるのですか」
「それも、まだ決めていない」
エッダの表情が変わった。
それまで抑えられていた怒りが、初めて表へ現れる。
「また、私どもに期待させるのですか」
老婆も立ち上がった。
小さな身体。
それでも、その声は部屋全体を震わせた。
「今度こそ救うと。今回は違うと。解決する方法が必ずあると」
「エッダ」
「あなた様は、三度おっしゃいました」
皺に囲まれた目から、涙が溢れる。
「一度目の終わりにも、二度目にも、三度目にも。次こそはと」
誰も止められなかった。
「私どもは、もう次など望んでおりません」
窓の外。
村人たちが、こちらを見ている。
「生き続けたいのではございません。救われたいのです」
エッダは胸元を強く押さえた。
「そして私どもにとっての救いは、終わることでございます」
俺は、すぐには何も返せなかった。
人の命を消せない。
そんなことはできない。
そう言うのは簡単だ。
俺が善人でいたいだけなら、消去を拒否し続ければいい。
だが、その優しさによって五度目の苦しみを生み出すなら、俺は過去のYUMAと同じことを繰り返す。
切り捨てられないという自分の感情を、村人たちへ押しつけることになる。
丘の上に立つ戻り木は、近くで見るほど普通の植物には見えなかった。
高さは二十メートルほど。
葉は一枚もない。
白い幹には、無数の名前が刻まれている。
一つの名前の上に別の名前。
その上へ、さらに別の名前。
三つのオルネで使われた、住民たちの名だった。
根は地面へ潜らず、丘の表面を這っている。
村の家々。
井戸。
畑。
家畜小屋。
礼拝堂。
村全体が、一本の木へつながっていた。
「戻り木が、オルネそのものなのですね」
ミレナが根を見下ろす。
セフは白い幹へ杖を近づけた。
「魔力の反応ではありません。第九観測鍵や旧巡回路と同じ種類の構造です」
俺が木へ近づくと、枝先の黒い実が一斉に揺れた。
風はない。
三百十二個すべてが、こちらを向いたように感じた。
黒い手帳を開く。
《記録しますか》
記録する。
『正式名称――不明』
『通称――戻り木』
『オルネ領域の住民人格、関係および歴史情報を保存する』
『第九管理人格による存在固定を確認』
やはり、過去の俺が固定している。
村が滅びても、住民の記録が失われないように。
表示が続く。
『保存情報量が上限へ到達しています』
「上限?」
『保存済み人格記録――九百三十六』
村人は三百十二人。
ちょうど三倍。
第一。
第二。
第三。
三つのオルネで保存された人格記録だ。
現在の第四オルネにいる三百十二人は、まだ戻り木へ完全には格納されていない。
「第四の住民が加われば、千二百四十八」
セフが計算する。
手帳へ新たな警告が現れた。
『最大保存可能記録――九百三十六』
「入らない」
俺は表示を見つめた。
「現在の住民を保存する場所が、もう残ってない」
「だから、村を消すのですか」
ミレナが尋ねる。
「違います」
答えたのはリアだった。
彼女は黒い果実を見上げている。
「新しい記録を追加できないのであれば、既存の記録と現在の人格を一つへまとめようとしているのではありませんか」
第一から第三まで。
一人につき、三つの人生。
それを現在の三百十二人へ押し込む。
過去の自分たちを、一人の人格へまとめる。
『圧縮処理を検出』
手帳へ赤い文字が現れる。
さらに、見覚えのない印。
複数の線が、一つの点へ束ねられる形。
リアが印を見て息を呑んだ。
「圧縮」
「読めるのか」
「夢の中で、同じ印を見ました。複数の記録を、一つへまとめる処理です」
白紙鳥や省略官とは異なる方法。
消すのではない。
複数の人生を、一つへ押し込む。
「圧縮官」
その名称を口にした瞬間、手帳が反応した。
『校正権限――圧縮』
『実行予定――明日の日没』
ミレナの顔が青ざめる。
「現在の人格は、どうなるのですか」
手帳へ問いかける。
『予測不能』
次に、
『人格維持率――一・三パーセント』
ほとんど全員が壊れる。
第一で愛した人。
第二で殺した人。
第三で失った人。
三つの人生が一度に現在へ流れ込み、自分がどの人生を生きているのか分からなくなる。
「戻り木を消せば、圧縮は止まるのか」
ガルドが尋ねる。
記録へ意識を向ける。
『戻り木は、現在のオルネ領域を維持する基盤です』
『消去した場合、領域全体が崩壊します』
戻り木を消せば、現在の村も消える。
過去の記憶だけを切り離すことはできない。
戻り木を残せば、圧縮で人格が壊れる。
消せば、全員が終わる。
再構築すれば、五度目のオルネが始まる。
どれを選んでも、誰かを救う答えにはならない。
過去の俺も、この状況を理解していたはずだ。
だから、第四でも同じ崩壊が起きたなら、次は作らないと決めた。
残酷だ。
それでも。
何度繰り返しても解決できなかった末に、残された唯一の答えだったのかもしれない。
「ユーマ」
ノエルが、戻り木の裏側から俺を呼んだ。
「こっちに何かある」
幹の一部に、人名が刻まれていない場所があった。
そこへ、小さな扉が作られている。
子供なら屈んで通れるほどの大きさ。
白い樹皮と同じ色で、注意しなければ見落としていただろう。
扉の取っ手には、木彫りの馬が結ばれていた。
俺は背負っていた鞄を下ろす。
中に入っている木彫りの馬を取り出した。
形がよく似ている。
首の角度。
脚の削り方。
同じ人物が作ったものだ。
「この馬を知っているか」
近くに立っていたエッダへ尋ねる。
木彫りの馬を見た瞬間、老婆の顔色が変わった。
両手で口元を覆う。
「エリウス」
完全な名前が出た。
「リウスではなく、エリウス?」
エッダは何度も頷いた。
「エリウス・ハーン」
黒い手帳が震える。
『仮称――リウス』
文字が揺らぎ、書き換わる。
『本名――エリウス・ハーン』
記録が完成した瞬間、小さな扉の向こうから、何かが落ちる音がした。
「エリウスは何者だ」
俺が尋ねると、エッダは扉を見つめたまま答えた。
「私の息子です」
「オルネの外へ出た人間はいないと言ったな」
「村から出ることはできません」
「だが、エリウスは北方遺跡へ向かう調査班にいた」
エッダは、ゆっくり扉へ近づいた。
「あの子は、村の外へ出たのではございません。戻り木の内側を通ったのです」
エリウスは、圧縮を止める方法を探していた。
森から外へ出ようとしても、歩き続けると村の入口へ戻される。
別の方向へ進んでも。
川を下っても。
夜まで歩いても。
オルネから逃れることはできなかった。
だが、エリウスは一つの可能性へ気づいた。
戻り木は、村人の人格を異なる世界へ移す。
ならば、木の内部には、現在のオルネの外側へ続く道が存在する。
「エリウスは、娘を救うために木へ入りました」
「手紙を書いた子供か」
「はい。ルカと申します。九歳です」
エリウスの妻は、五年前に病気で亡くなっている。
現在の二人は、父親と娘。
だが、以前のオルネでは、二人の記録が別の関係へ配置されたこともあるという。
兄と妹。
隣人。
同じ時代には存在しなかった人生。
それでも。
今のエリウスにとって、ルカは娘だった。
「エリウスは、外で俺を探そうとした?」
「第九記録者を連れて戻ると申しておりました」
戻り木の内側を通り、世界の外へ出た。
だが、オルネそのものが現在世界の正式な地図から消されている。
存在しない村の住民が外へ出た瞬間、エリウスは世界の矛盾となった。
名前を消され。
仲間の記憶からも失われ。
存在を隔離された。
それでも。
鞄。
子供からの手紙。
木彫りの馬。
娘との関係だけは残った。
「ルカは、今どこにいる」
エッダは、小さな扉へ視線を落とした。
「扉の向こうでございます」
「戻り木の中に?」
「エリウスが出た夜、父親を追って中へ入りました。それから一年、戻っておりません」
俺はエッダを見る。
「村人全員が、記録されないことを望んでいると言ったな」
「はい」
「ルカにも聞いたのか」
エッダは目を伏せた。
「聞いておりません」
「なら、村人全員の願いじゃない」
「ですが、あの子は一年も木の中に」
「それでも、生きている可能性がある」
俺は小さな扉の取っ手へ手をかけた。
動かない。
隙間もない。
《記録》を使う。
『戻り木内部保守口』
『利用権限――第九管理人格』
俺が触れると、扉の表面へ九本の線が浮かんだ。
「開けられる」
「待て」
ガルドが俺の腕を掴む。
「中がどうなっているか分からん」
「エリウスとルカがいる」
「いる可能性があるだけだ」
「だから確かめる」
「また一人で行くつもりか」
「扉が小さい」
「身体の大きさの話ではない」
ガルドの声は低かった。
「お前は、自分が過去の管理者と関係していると知ってから、すべてを自分の責任へ変えようとしている」
「この村は、過去の俺が作った」
「今のお前が、すべてを一人で背負う理由にはならん」
「でも、俺にしか開けられない」
「俺たちを記録したのは誰だ」
「俺だ」
「お前を記録したのは?」
「みんなだ」
「なら忘れるな」
ガルドは小さな扉を指した。
「これは、お前一人の物語ではない」
ノエルが扉の前へしゃがみ、大きさを確かめる。
「俺なら入れそうだ」
「身長は、それほど変わらないだろ」
「ユーマより細い」
「毎日、人の食事を盗んでるのに?」
「成長期だから、すぐ消えるんだよ」
リアも扉へ近づいた。
「内部が人格記録領域であるなら、外側の身体の大きさは関係ない可能性があります」
「全員で入れる?」
「記録権限を共有できれば」
俺は扉へ手を置いた。
『第九管理人格による保守作業を開始しますか』
開始する。
『同行記録を確認』
俺たち六人を結ぶ黒い線が浮かぶ。
『外部観測者五名との人格接続を確認』
『一時権限共有を承認』
小さな扉が開いた。
向こうにあったのは、木の内部ではなかった。
夜空。
無数の星。
足元には、木の枝のように細い道が暗闇の中へ伸びている。
枝の一本一本に、異なる村の風景が浮かんでいた。
黒い雨が降る第一オルネ。
霧に包まれた第二オルネ。
炎と白い光に呑まれる第三オルネ。
現在の第四。
そして、まだ存在しない、五本目の枝。
「第五オルネ」
リアが呟いた。
再構築は禁止されている。
それでも、次の村へ続く道は、すでに作られ始めている。
枝の先に、一人の少女が立っていた。
小さな身体。
両手には、木彫りの馬。
「ルカ!」
扉の外から、エッダが叫んだ。
少女が振り返る。
距離があり、顔ははっきり見えない。
それでも、声は届いた。
「来ないで!」
幼い声だった。
「父親を探しているんだな!」
俺が尋ねると、ルカは首を横に振った。
「お父さんは、ここにはいない!」
「どこにいる!」
少女が指を差す。
まだ存在しない五本目の枝。
その先に、新しいオルネ村の輪郭が作られていた。
家。
畑。
細い川。
小さな戻り木。
「お父さんは、五度目の村を作ってる!」
空間全体が大きく揺れた。
黒い手帳へ警告が現れる。
『第五オルネ領域の構築を確認』
『実行者――エリウス・ハーン』
「エリウスが?」
第九管理人格ではない。
校正官でもない。
ただの村人のはずだ。
五本目の枝の先。
建設途中の村の中央に、一人の男が立っていた。
荷車で見た透明な人影。
褐色の上着。
日に焼けた顔。
男の手には、一冊の黒い手帳が握られていた。
俺のものと、よく似ている。
だが、表紙の本の紋章が左右反転していた。
「どうして、エリウスが《記録》を持ってる」
ノエルが息を呑む。
エリウスが顔を上げる。
遠く離れているはずなのに、目が合った。
「遅かったですね」
彼の声が、暗い空間全体へ響く。
透明だったときとは違う、明確な意志。
そして、俺に向けられた怒りがあった。
「第九管理人格」
エリウスは、反転した手帳を開く。
「あなたが第四オルネを消す前に、私が第五オルネを完成させます」
建設途中の家々が、一斉に形を得る。
黒い手帳へ時間が表示された。
『第四オルネ圧縮処理まで』
『残り二十三時間五十一分』
続いて。
『第五オルネ構築完了まで』
『残り二十三時間五十一分』
第四の崩壊と。
第五の誕生。
二つの処理は、同時に行われる。
「エリウス!」
俺は叫んだ。
「その方法では、また同じことを繰り返す!」
「知っています」
「分かっていて、なぜ作る!」
「娘が生きるからです」
迷いのない答えだった。
「苦しみが続いても、何度人生が壊れても、名前を失っても、完全に消えるよりはいい」
エリウスは、未完成の村を見下ろした。
「私は、娘が存在し続ける未来を選びます」
エッダたちは、繰り返す苦しみから解放されるため、終わりを望んでいる。
エリウスは、苦しみが永遠に続くとしても、娘の存在を残そうとしている。
どちらも、家族や村人を想っている。
どちらも、正反対の救いを望んでいる。
黒い手帳が激しく震え、見開きのページへ四つの処理が表示された。
『第一案――終端』
『第四オルネおよび戻り木に保存された全人格記録を消去する』
『第五オルネへの再構築を禁止する』
現在の村も。
過去三回分の人格も。
何一つ残さず、ここで終わらせる。
エッダたちが望んでいるのは、これだった。
『第二案――圧縮』
『第一から第三オルネの人格記録を、第四オルネ住民へ統合する』
過去三人分の人生を、現在の一人へ押し込む。
記録は消えない。
村も残る。
だが、三つの死と三つの人生を受け入れた後、現在の人格が同じ人間でいられる可能性は、一・三パーセントしかない。
『第三案――再構築』
『第四オルネを終了し、住民情報を第五オルネへ移行する』
現在の村を一度終わらせ、新しい村へ作り直す。
記憶を整理できれば、住民は新しい人生を始められる。
過去の俺が三度選び、三度失敗した方法でもある。
そして最後。
複製官の白い仮面が、第五オルネの上空へ浮かんだことで、新たな文章が追加された。
『第四案――選択複製』
『指定された人格を複製し、独立した第五オルネへ保存する』
『指定されなかった人格は、第四オルネと共に終了する』
全員を同じ処理へ巻き込まない。
生きたい者だけを複製し、終わりたい者を残す。
一見すれば、本人ごとの希望を尊重できる案に見える。
だが、エリウスは、ルカが望んでいないにもかかわらず、娘を複製対象へ指定している。
さらに、ルカが一人にならないよう、俺たち六人まで勝手に対象へ加えた。
「第四案なら、全員を同じ結末へ送らずに済みます」
複製官の声が響く。
「終了を望む人格は終了し、継続を望む人格は複製されます」
「誰が、継続を望んでいるか決める」
俺が尋ねると、複製官はすぐに答えた。
「第九管理人格です」
「本人じゃないのか」
「最終的な処理権限は、管理人格に属します」
俺は四つの案を見た。
終わらせる。
混ぜる。
作り直す。
複製する。
方法は違う。
それでも、四つすべてに同じ問題があった。
誰かが、ほかの誰かの未来を決める。
村全体の総意。
親の判断。
管理者の権限。
世界を維持するための規則。
どの案も、三百十二人を一つの集団として扱うか、本人以外の誰かが代わりに答えを決めていた。
「この中からは選ばない」
俺が言うと、エリウスは絶望したように笑った。
「過去のあなたも、同じことをおっしゃいました」
「何?」
「誰も切り捨てたくない。もっとよい方法があるはずだと」
エッダの言葉を思い出す。
過去の俺は優しかった。
だからこそ、彼女たちを三度苦しませた。
「あなたは選べない」
エリウスは続ける。
「全員を救いたいのではありません。誰かを見捨てた自分になりたくないだけです」
否定できなかった。
俺は、目の前の四案を選びたくないだけなのかもしれない。
答えを出すことを恐れ、存在するかも分からない別の方法へ逃げようとしているだけかもしれない。
それでも、今ここで四案のどれかを選べば、ルカの意思は無視される。
ハルムの中にある矛盾した願いも。
サナがどの名前を自分だと思っているのかも。
何一つ知らないまま処理することになる。
「今度は、一人で決めない」
俺は黒い手帳を開いた。
背後には、ノエル、ガルド、ミレナ、セフ、リアがいる。
扉の外にはエッダがいる。
第四オルネには、三百十二人が生きている。
戻り木の中には、過去三回分、九百三十六の人格が保存されている。
全員が同じ答えを持っているはずがない。
「生きたい人も、終わりたい人も、まだ分からない人もいる」
「矛盾する要求を、一つの世界で実現することはできません」
複製官が告げた。
「人間は矛盾する」
俺は答えた。
「一人の中にだって、相反する願いがある。それを一つへまとめるから、誰かが消えるんだ」
黒い手帳に、新しい問いが現れた。
『既存の四案を拒否しますか』
拒否する。
『第五案を作成しますか』
作成する。
そう念じると、新しいページが開いた。
最上部に、題名だけが記される。
『第五案』
その下は、何も書かれていなかった。
消すのでもない。
混ぜるのでもない。
全員を作り直すのでもない。
誰かが選んだ者だけを複製するのでもない。
全員の意思を聞いた後でなければ、内容を書くことのできない白紙の案。
『第五案作成に必要な情報が不足しています』
当然だった。
俺は、オルネで生きる人々のことを何も知らない。
「必要な情報は、これから集める」
『第四オルネ圧縮処理まで――二十三時間五十一分』
『第五オルネ構築完了まで――二十三時間五十一分』
三百十二人の現在と。
九百三十六人分の過去。
そのすべてを、一つの答えへ押し込めない方法を探す。
俺たちに残された時間は、一日もなかった。




