第七章 ~神崎悠真という人間~
『帰還者照合の異常を確認』
『緊急修正を開始します』
『対象――神崎悠真』
白鐘の一度目が、旧第九巡回路を通り抜けた。
その音が身体へ届いた瞬間、俺の右手が消えた。
透けたのではない。白く変色したわけでも、少しずつ輪郭を失ったわけでもなかった。
手首から先だけが、何の前触れもなく存在しなくなった。
痛みはない。血も出ていない。俺の腕は最初からそこまでしかなかったように途切れ、右袖だけが力なく垂れ下がっている。
「ユーマ!」
ノエルが俺の名を呼んだ。
声は聞こえている。それなのに、妙に遠い。
右手がないと理解しているはずなのに、失ったという感覚さえ曖昧だった。
「動かないでください!」
ミレナが駆け寄り、消えた手首へ両手を近づける。
淡い青色の治癒光が灯るより先に、リアが彼女の腕を掴んだ。
「治癒術では戻りません。傷ではないのです」
「分かっています。それでも、ほかにできることがありません!」
ミレナの声には焦りが滲んでいた。
ノエルの省略処理と同じだ。
存在そのものが消されている。
ただし、ノエルのときよりも速い。あのときは身体の端から徐々に透けていったが、今回は一部が突然なくなった。
俺は左手で腰の革袋を開き、黒い手帳を取り出した。
「神崎悠真を記録する」
表紙へ触れ、強く念じる。
しかし、何も起きなかった。
《記録しますか》という問いも、胸の奥に感じるはずの熱もない。
俺は手帳を開き、自分について知っている情報を口にする。
「名前は神崎悠真。年齢二十八。種族は人間。日本と呼ばれる世界から――」
ページは白いままだった。
「どうしてだ」
もう一度、自分の名を意識する。
それでも文字は現れない。
代わりに、銀色の文章が白紙の中央へ浮かび上がった。
『記録主体を、同一の記録対象へ指定することはできません』
「自分自身は記録できない?」
リアが、俺の横から文章を確認しようとする。
彼女には銀色の表示の一部しか読めていないようだった。
「記録者は、自分を観測対象として扱えないらしい」
「以前、ご自身について記録していたはずです」
セフの問いに、俺は白紙を見つめた。
これまでも、自分の名前や年齢は記録していた。
ただし、それらは過去に確認した情報だった。
鑑定水晶に表示された名前。
女神と交わした会話。
日本から来たという自分の認識。
出来事の中に存在する神崎悠真を、後から記録しただけだ。
今まさに消されている自分自身を、現在進行形の観測対象にはできない。
目は、自分自身の目を見ることができない。
記録者は、自らが存在することを証明できない。
白鐘の二度目が鳴った。
左脚から力が抜けた。
膝から下の感覚が消え、身体が大きく傾く。白い道へ倒れかけた俺を、ガルドが片腕で受け止めた。
「何をしている! ノエルのときと同じように固定しろ!」
「できない。自分のことが記録できない!」
「手帳を寄越せ」
セフが俺の手から黒い手帳を受け取り、ページをめくる。
「僕が書けばよいのですか」
「書くだけでは駄目だ。《記録》として保存されなければ、世界の修正には耐えられない」
セフが手帳へ魔力を流す。
魔晶石の赤い光がページへ走ったが、文字は一つも現れなかった。
「天恵の使用権限が、ユーマに限定されています」
「だったら、ユーマを通せばいい」
ノエルが俺の肩を掴む。
「白紙鳥のとき、俺たちの記憶を手帳へつないだだろ」
「あれは、ユーマの《記録》が動いていたからです」
セフは苛立ちを隠さず答えた。
「今は、記録機能そのものが対象を拒絶している」
銀色の文章が増える。
『帰還者修正は、通常記録処理に優先します』
『現在人格は、登録情報と一致しません』
「現在人格?」
俺が表示を読み上げると、黒い手帳の表紙に刻まれた本の紋章が明滅した。
新たな一文が現れる。
『返還機能による介入を停止します』
女神の言葉を思い出す。
――あなたに返還できるものは、一つだけです。
《記録》は与えられた能力ではない。
返されたもの。
もし本当に元から俺の機能だったのなら、この手帳は俺を守るための道具ではない。
俺に何かをさせるための道具だ。
世界を観測し、記録し、必要なら書き換える。その役割を終えた管理者自身が不要になれば、同じ仕組みで消去する。
「ユーマ、俺を見ろ!」
ノエルが両手で俺の頬を挟んだ。
「名前を言え!」
「神崎――」
言葉が途切れた。
神崎。
その先に、もう一つ音が続くはずだ。
喉まで出かかっている。それなのに、どうしても声にならない。
ノエルの表情が変わった。
「悠真だ!」
「悠真」
「全部言え!」
「神崎悠真」
自分の名前のはずだった。
だが、ノエルから教えられた音を、そのまま繰り返しているだけのように感じた。
白鐘の三度目が鳴る。
視界の左側が消えた。
暗くなったのではない。
左側に何かが存在するという概念ごと、認識できなくなった。
目の前にいるノエルの顔は半分しか見えない。
ガルドも、ミレナも、セフも、リアも、途中から先が存在しない。
荷車も。
白い道も。
石柱も。
世界が中央で切断されていた。
「全員、ユーマから離れるな!」
ガルドが補給隊へ向かって叫んだ。
「バルツ、荷車を後ろへ下げろ! ほかの者は道から降りるな!」
「承知しました!」
バルツが御者たちへ指示を出す。
馬と荷車がゆっくり後退し、俺たち六人の周囲が空けられた。
ガルドは俺の身体を支えたまま、セフへ目を向ける。
「分散記録を使う」
「手帳が反応しません」
「反応させろ」
「魔術ではないのです!」
二人の声が耳へ届く。
だが、言葉の意味を理解するまでに時間がかかる。
赤い髪の少年。
大きな男。
神官服の女性。
眼鏡をかけた青年。
黒髪の少女。
知っている人たちだ。
大切な人たちだった気がする。
けれど、名前が出てこない。
俺は誰と一緒にいたのだろう。
なぜ、この白い道を進んでいた。
どこへ行こうとしていた。
「俺たちは、何をしてたんだっけ」
口にした瞬間、五人の顔が凍りついた。
「ユーマ」
赤い髪の少年が、俺の肩を強く掴む。
「北方遺跡へ行くんだ」
「どうして」
「俺の原記録を探すためだ!」
少年の。
原記録。
その言葉を聞いても、何も思い出せない。
「君は、誰だ」
自分の声が、ひどく平坦に聞こえた。
ノエルの顔から血の気が引いた。
俺を掴む指が、小さく震える。
「ノエルだ」
「ノエル」
「ノエル・ハース。お前の仲間だ」
仲間。
それは、人と人との関係を示す言葉だ。
意味は分かる。
だが、目の前の少年へ向ける感情が出てこない。
白鐘の四度目が、身体の内側から響いた。
胸の中央に、空白が生まれる。
肉体には穴など開いていない。皮膚も服も残っている。
それでも、心臓の鼓動が遠くなった。
感情の一部が抜け落ちたのだ。
ノエルが、今にも泣きそうな顔をしている。
それを見ても、胸が痛まない。
悲しんでいる相手を心配するべきだという知識だけが残り、感情が伴わなかった。
「名前を呼べ!」
ノエルが振り返る。
「全員で、ユーマの名前を呼べ!」
「神崎悠真!」
ガルドの低い声。
「神崎悠真さん!」
ミレナが俺の消えかけた左手を握る。
「神崎悠真!」
セフは黒い手帳を胸の前へ掲げた。
「神崎悠真」
リアの静かな声。
最後に、ノエルが自分の額を俺の額へ押しつけた。
「神崎悠真。俺たちの記録係だ!」
五人の声が重なった。
しかし、黒い手帳は白いままだ。
「名前だけでは足りない」
リアがページを見つめながら言った。
「ノエルを固定したときと同じです。名前と外見だけでは、一人の人格を定義できません」
他者との関係。
本人の望み。
どのような選択をしたのか。
人間一人を残すためには、その人が何者なのかを複数の方向から示さなければならない。
だが、俺自身は自分を語れない。
神崎悠真という人間が何者なのか。
それを知っているのは、残された五人だった。
「ガルド!」
ノエルが叫ぶ。
「ユーマのことを話してくれ!」
ガルドは俺を支えながら、僅かに迷った。
「俺は、こいつと出会って十日も経っていない」
「日数なんて関係ない!」
次の鐘まで、どれだけ時間があるのか分からない。
ノエルが省略されたときは、九分という表示があった。
今回は何もない。
帰還者の修正は、本来の処理なのかもしれない。廃棄される対象へ、残り時間を教える必要さえないのだろう。
ガルドは俺の顔を見た。
「神崎悠真は、戦えない」
最初に出てきたのは、褒め言葉ではなかった。
「武器の扱いを知らず、身体も鍛えていない。南水路で石殻鼠に襲われたときには、恐怖で足が動かなかった」
ノエルが口を挟もうとしたが、ガルドは続けた。
「だが、戦えないことを隠さなかった。自分を強く見せるために、できないことをできるとは言わなかった」
ガルドの声が、身体の奥へ届く。
「地図を作り、偽の標識を見つけ、退路を探した。戦えないなら、戦わずに役割を果たす方法を考えた」
黒い手帳の中央に、小さな黒い点が現れた。
インクの一滴ほどの点。
『外部観測を受信』
銀色の文字だった。
「反応しました!」
セフが声を上げる。
ガルドは俺の肩を強く握った。
「神崎悠真は、自分の弱さを認めたうえで、それでも仲間の役に立とうとする人間だ。俺は、こいつなら背中を任せてもよいと思った」
黒い点から、一本の線が伸びた。
『ガルド・バルガスによる人物記録』
『神崎悠真は、自らの弱さを隠さず、その時点で可能な役割を探そうとする人物である』
消えた右手首に、僅かな感覚が戻った。
手は見えない。
それでも、そこに指があるはずだという感覚だけが蘇る。
「次は私が話します」
ミレナが俺の前へ膝をついた。
消えかけている左手を両手で包む。
触れられている感覚は薄いが、温かさは分かった。
「ユーマさんは、優しい方です」
「曖昧です」
セフが即座に指摘する。
「感情ではなく、具体的な行動を」
「分かっています」
ミレナは少しだけ笑った。
「初めて夕暮れ亭で食事をした日、ユーマさんは自分のパンをノエルさんに取られました」
「俺の話も必要?」
ノエルが聞く。
「黙っていてください」
「はい」
ミレナは俺へ視線を戻した。
「その翌日も、ノエルさんは自分の分を先に食べ終え、ユーマさんの皿を見ていました。ユーマさんは何も言わず、パンを半分渡しました」
そんなことをしただろうか。
今の俺には思い出せない。
「最初は、断れない方なのだと思いました」
「多分、正しい」
「はい。争いを避け、自分が我慢すればよいと考えるところがあります」
褒められているのか、欠点を説明されているのか分からない。
「ですが、南水路で私が足を滑らせたとき、ユーマさんは石殻鼠との間へ入ろうとしました」
「逆じゃなかったか」
「ユーマさんは覚えていないのですね」
ミレナの声が僅かに揺れた。
「怖くて足が震えていたのに、杖を持って私の前へ出ました。結局、ノエルさんに助けられましたが」
「最後は必要?」
ノエルが尋ねる。
「事実です」
ミレナは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それから、私が隠れて蜂蜜菓子を食べていたことを、誰にも言いませんでした」
「今、全員へ言ってるぞ」
「ノエルさんは黙っていてください」
ミレナの頬が赤くなる。
それでも、俺を包む手は離れなかった。
「ユーマさんは、他人の知られたくない弱さを見つけても、それを自分のために利用しません」
黒い手帳に新たな文章が現れた。
『ミレナ・フォースによる人物記録』
『神崎悠真は、他者の弱さを知ったとき、それを責めるのではなく、守ろうとする人物である』
胸の空白に、痛みが戻った。
ノエルの顔を見る。
悲しそうな表情を見た瞬間、胸が苦しくなった。
感情がある。
まだ、俺の中に残っている。
白鐘の五度目が鳴った。
今度は頭上からではない。
白い道の両側へ並んだ石柱の内部から、無数の鐘が一斉に鳴ったような音だった。
文字のない石柱が、こちらを向いた気がした。
石が動いたわけではない。
それでも、数え切れない視線を感じる。
男。
女。
老人。
子供。
大勢の声が、頭の中へ直接流れ込んだ。
――お前が閉じた。
――お前が選んだ。
――お前は管理者だ。
知らない景色が、視界へ重なる。
崩れる街。
燃える大地。
海へ沈む建物。
白い空間。
そこには、俺とよく似た輪郭の人物が立っていた。
顔は見えない。
目の前に浮かぶ無数の光へ手を伸ばし、感情のない声で何かを決定している。
『保存継続を断念』
『対象領域を閉鎖』
白い光が街を覆う。
人の姿が消える。
声が消える。
「やめろ」
頭を押さえようとするが、左手しか動かない。
「俺じゃない」
――お前だ。
――YUMA。
――私たちを閉じた。
「違う!」
叫んだ瞬間、道の中央に立つ黒い石柱へ亀裂が入った。
内部から、影のような液体が流れ出す。
黒い液体は白い路面を這い、人の形へ集まっていった。
俺と同じ身長。
同じ体格。
顔だけがない。
胸元には、銀色の文字が浮かんでいる。
『不一致人格』
黒い影が、ゆっくりと立ち上がった。
「対象情報の再登録を確認」
口はない。
それでも、平坦な声が道全体へ響く。
「外部観測による人物定義は、帰還者情報と一致しません」
ノエルが短剣を抜く。
「何だ、あれ」
「分からない」
俺は影を見つめた。
自分から切り離されようとしている何か。
本来の帰還者情報が、現在の俺を修正するために形を得たものかもしれない。
影が右手を上げた。
白い石柱の一本が砕け、内部から細長い銀色の道具が現れる。
剣ではない。
巨大な羽根ペン。
省略官が使っていたものと、よく似ていた。
「神崎悠真という現在人格は、帰還者の目的に不要です」
「ユーマは不要じゃない!」
ノエルが影へ飛びかかった。
「待て!」
俺の制止が間に合わない。
ノエルの短剣は、影の胸を何の抵抗もなく通り抜けた。
その瞬間、ノエルの足元にある白い道が消える。
路面が崩れたのではない。
そこに道が存在したという情報が、四角く切り取られた。
黒い空間へ落下しかけたノエルを、ガルドが片腕で掴む。
「攻撃するな!」
俺が叫ぶ。
「こいつは魔物じゃない。俺を修正する処理そのものだ!」
「では、どうすれば止められる!」
ガルドはノエルを引き上げながら怒鳴った。
「今、考えてる!」
影が羽根ペンを動かす。
白い空間へ、一つの文章が書かれた。
『神崎悠真は、人間として登録されていない』
文字が完成した瞬間、身体から体温が抜け始めた。
皮膚の感覚が薄くなる。
呼吸を続ける理由が分からなくなり、心臓の音が機械のような一定の間隔へ変わった。
黒い手帳に記されていた『種族――人間』という文字へ、亀裂が入る。
「ユーマさん」
ミレナが俺の腕へ触れ、息を呑んだ。
「身体が冷たい」
「照合結果は正常です」
影が告げる。
「帰還者識別名――YUMA」
「それは、俺なのか」
「現在の神崎悠真は、登録情報の一部から派生した人格です」
「派生?」
「詳細情報は閉鎖されています」
明確な答えではない。
それでも、現在の俺と帰還者として登録されたYUMAが、同じではないことだけは分かった。
日本。
会社。
母親だと思っていた人物。
俺が自分の人生だと信じていた記憶。
それらも、本当に自分が経験したものなのか分からない。
「俺は、誰かの偽物なのか」
影は感情なく答えた。
「現在人格の真偽は、帰還処理に影響しません」
真偽。
本物か偽物かさえ、処理には関係がない。
必要なのは、登録された帰還者へ戻すこと。
今の俺がどう感じ、何を望むかは考慮されていない。
「だったら」
自分の声が、ひどく遠く聞こえる。
「俺は、人間じゃないのかもしれない」
黒い手帳の『種族――人間』が、さらに崩れた。
「だから何だよ」
ノエルの声がした。
俺は顔を上げる。
ガルドに引き上げられたノエルが、俺の前へ立っていた。
「人間じゃなかったら、何なんだ」
「今、聞いただろ。登録された情報から派生した人格で」
「飯は食うか?」
「食う」
「腹は減る?」
「減る」
「眠いと機嫌が悪くなる?」
「それはセフだ」
「僕を巻き込まないでください」
セフが苛立った声を出した。
ノエルは俺の胸を指で突く。
「怖いと足が震える?」
南水路。
初めて石殻鼠へ襲われた日。
「震える」
「大事な記憶を失って、悲しかった?」
俺は答えられなかった。
母親だと思っていた人物の顔も、声も思い出せない。
その悲しみだけは、今も胸の中に残っている。
「俺を助けて、後悔した?」
「してない」
「だったら、俺にとっては人間だ」
「お前が決めることじゃない」
「お前が自分で決められないなら、今は俺が決める」
ノエルは影へ向き直った。
「神崎悠真は人間だ!」
羽根ペンが動く。
『根拠が不足しています』
「人間だからだ!」
「それは根拠になっていません!」
セフが叫んだ。
ノエルが振り返る。
「分かりやすいだろ!」
「世界の規則へ感情だけをぶつけても通りません!」
「なら、お前が理屈をつけろ!」
「言われなくても考えています!」
二人の言い争い。
この状況でも変わらない。
聞き慣れたやり取りだった。
俺が知っている仲間たちの声。
「人間の定義は何ですか」
リアが影へ尋ねた。
「生物分類についての質問ですか」
「あなたが、神崎悠真を人間として登録できないと判断した基準です」
「帰還者情報に、現人格は登録されていません」
「登録されていないことと、人間ではないことは同じですか」
影が僅かに沈黙した。
リアは続ける。
「あなたは、記録に存在しないものを誤りと判断しています。しかし、現在の神崎悠真はここにいます。私たちと会話し、食事をし、恐怖を感じ、自分で選択しています」
「現在状態は、一時的な人格偏差です」
「では、偏差が意思を持つことは認めますか」
「処理上、考慮されません」
「考慮されないことと、存在しないことも同じではありません」
影は答えない。
リアは、俺へ視線を向けた。
「神崎悠真が転生者なのか。帰還者なのか。何者かの記憶から生まれた人格なのか。今は判断できません」
「俺自身にも分からない」
「分からないのであれば、分からないまま記録すればよいのです」
琥珀色の瞳が、真っすぐ俺を捉える。
「正体が不明であることは、現在のあなたが存在しない証明にはなりません」
リアは黒い手帳へ手を置いた。
白紙のページに、新しい文字が現れる。
『リア・エルセインによる人物記録』
『神崎悠真は、自らの正体に疑問を持つ存在である』
『正体は、現在確認できない』
『ただし、正体が不明であることと、現在の人格が存在しないことは同義ではない』
最後に。
『リア・エルセインは、現在の神崎悠真を、一人の人間として認識している』
文字が強く光った。
身体へ体温が戻る。
心臓が一度、大きく打った。
次に、不規則な二度目。
胸が痛い。
肺へ冷たい空気が流れ込む。
俺は咳き込みながら息を吸った。
生きている。
少なくとも。
今の俺は、そう感じている。
「次は僕です」
セフは黒い手帳を持ったまま、影と俺を交互に見た。
「初めに言っておきますが、僕はこの男の能力を評価していませんでした」
「今、それを言うのか?」
ノエルが眉を上げる。
「最後まで聞きなさい」
セフは眼鏡を押し上げた。
「《記録》。紙とペンがあれば代用できる。戦闘能力もなく、魔力も増えない。冒険者へ加える価値はないと思っていました」
実際、本人からはっきりそう言われた。
「ですが、南水路で僕の判断が誤っていたと証明されました」
「何が間違っていた」
自分でも、そう尋ねていた。
掠れた声。
それでも、セフには届いた。
「僕は、自分が理解できるものにしか価値を認めていませんでした」
魔術師は、見える現象を術式へ分解する。
理解し。
再現し。
制御する。
セフは、自分が理解できない《記録》を、価値のない能力だと決めつけた。
「僕が失敗したとき、周囲の人間は、魔術師としての価値がないと判断しました。僕は、その判断を今でも許していません」
セフは一度、ノエルを見る。
「それにもかかわらず、僕は同じことをユーマへしました。理解できなかったから、価値がないと決めた」
「それは反省してるのか?」
ノエルが聞く。
「君の存在を省略する方法はありませんか」
「俺まで消すなよ」
普段どおりの言い争いが聞こえる。
そのことが、なぜか嬉しかった。
セフは俺を見る。
「白紙鳥に襲われたとき、ユーマは自分一人で記録する方法を捨て、ほかの人間へ頼りました。自分の能力が不完全だと認めたうえで、別の方法を探した」
黒い手帳へ文字が現れる。
『セフ・アルノーによる人物記録』
『神崎悠真は、自分の判断が誤っている可能性を認めることができる』
『未知を恐れながらも、理解するために他者の知識を求められる人物である』
消えていた右手に、半透明の輪郭が戻った。
指を動かす。
まだ感触は薄いが、思ったとおりに曲がった。
左脚にも、少しずつ力が戻ってくる。
それでも、修正処理は止まらない。
白鐘の六度目が鳴った。
影が羽根ペンを振る。
空中へ、新たな文章が刻まれる。
『現在人格は、帰還者の管理目的を阻害する』
「管理目的とは何だ」
俺の問いへ、影は答えなかった。
『開示権限がありません』
「人を消す理由も。俺を戻そうとする理由も。何一つ説明しないのか」
『帰還者に説明は不要です』
俺は、帰還者と呼ばれている。
けれど、今の俺にとって、この世界は帰る場所ではない。
来たばかりの場所だ。
「残るのは俺だな」
ノエルが言った。
俺を見る。
先ほどまでの勢いが、僅かに弱くなる。
何を話すべきか、迷っているらしい。
「何でもいい」
俺はノエルへ言った。
「お前が知ってる俺を話してくれ」
「多すぎるんだよ」
「出会って十日程度だろ」
「十日あれば十分だ」
ノエルは鼻の下を指で擦った。
「初めて会ったとき、ユーマは変な服を着てた」
日本から着てきたスーツ。
泥と傷で使えなくなり、今は夕暮れ亭の荷物箱に入れてある。
「金もない。冒険者登録もできない。天恵は《記録》。放っておいたら、次の日には路地裏で倒れてると思った」
「それで誘ったのか」
「書類の書き換えを見つけただろ」
ギルドの依頼書。
報酬を誤魔化した依頼主。
「俺たち四人が見逃したものを、ユーマだけが見つけた。だから、使えると思った」
「拾ったとは言わないんだな」
「ガルドに怒られるから」
「俺は人間を拾った覚えはない」
ガルドが低い声で訂正する。
ノエルは僅かに笑い、続けた。
「ユーマは何でも記録する。道、食べ物、依頼、俺の借金、セフの寝癖、リアが転びかけたこと」
「最後の記録は削除してください」
リアが即座に反応した。
「今は大事な場面だから、少し黙ってて」
「あなたが言い出したのですが」
ノエルの表情から、笑みが消える。
「誰も覚えていない人のことも、ユーマは覚えてる」
鈎針通り。
マレイとリナ。
仮称リウス。
世界から名前や居場所を奪われた人々。
「知らない人なのに、助けようとする」
「記録が残っているからだ」
「違う」
ノエルは即座に否定した。
「記録が残ってるだけなら、手帳を閉じれば終わる」
言い返せなかった。
「ユーマは、閉じない」
ノエルの声が震える。
「忘れたほうが楽でも、見なかったことにしない。怖くても、分からなくても、ページを閉じない」
母親だと思っていた人物の記憶。
日本で暮らしていた部屋。
失ったものは戻っていない。
それでも、
「俺が消えそうになったときも、閉じなかった」
ノエルは、半透明に戻った俺の右手を握った。
今度は、はっきり感触があった。
「神崎悠真は、世界が忘れた俺を、覚えていてくれた人だ」
黒い手帳へ文字が増える。
『ノエル・ハースによる人物記録』
『神崎悠真は、誰にも覚えられていない存在を、記録が残る限り見捨てない人物である』
『ノエル・ハースにとって、神崎悠真は、自分が存在したことを証明した人物である』
そして、
『神崎悠真は、〈灰色の雲雀〉の記録係である』
五人分の人物記録が、ページを埋めた。
ガルド。
ミレナ。
セフ。
リア。
ノエル。
黒い手帳が激しく震える。
『外部観測による現在人格定義を確認』
『対象――神崎悠真』
『帰還者登録情報と、現在人格定義が競合しています』
影が羽根ペンを振り上げた。
『未登録の定義を削除します』
「させるか!」
ノエルが黒い手帳へ手を置いた。
ガルド。
ミレナ。
セフ。
リア。
全員の手が続く。
俺の手帳へ、五人の手が重なる。
「分散記録を実行する!」
叫んだのは、俺ではない。
ノエルだった。
彼に《記録》の天恵はない。
それでも、手帳は反応した。
『現在の記録主体から、処理要求を受信できません』
一度、拒絶の文字が現れる。
しかし、その下に別の文章が追加された。
『外部観測者五名による、共同要求を確認』
『一時記録権限を付与しますか』
俺は答えようとした。
だが、言葉が出るより先に、ノエルが叫ぶ。
「よこせ!」
「命令が雑すぎます!」
セフが怒鳴る。
それでも。
黒い手帳は五人の要求を受け入れた。
『一時記録者』
『ガルド・バルガス』
『ミレナ・フォース』
『セフ・アルノー』
『リア・エルセイン』
『ノエル・ハース』
黒い文字が手帳から浮き上がった。
今度は俺の身体へ入るのではない。
五つに分かれ、仲間たちの胸へ吸い込まれていく。
神崎悠真が、どのような人間なのか。
その記録を、俺自身ではなく、五人が保存する。
右手が戻り始めた。
皮膚。
指。
爪。
細かな傷。
左脚に体重が乗る。
視界が左右へ広がる。
胸に鼓動が戻り、身体の隅々へ温かな血が流れ始める。
影が羽根ペンを振り下ろした。
『神崎悠真は、人間として登録されていない』
白い文章が俺へ迫る。
その直前、黒い手帳から別の文章が飛び出した。
『訂正要求を受信』
俺の意思ではない。
仲間たちが保存した俺の記録が、世界の定義へ反論している。
白い文章の下へ、黒い文字が追加された。
『ただし、五名の外部観測者は、現在の神崎悠真を人間として認識している』
白い文章へ亀裂が入った。
影の身体が揺らぐ。
「主観情報は、帰還者定義を変更しません」
「知るか!」
ノエルが叫んだ。
「人間かどうかを決めるのに、誰の許可がいるんだ!」
「世界の一貫性に反します」
「だったら、世界のほうを直せ!」
「簡単に言うな!」
セフも叫んだが、手帳からは手を離さなかった。
「ですが、主張には同意します!」
五人から俺へ伸びる黒い線が、全身を包む。
『現人格の分散記録を開始』
『保存対象――神崎悠真』
『現在人格定義』
文字が並んでいく。
『〈灰色の雲雀〉の記録係』
『日本と呼ばれる世界から来たと認識している』
『自らの正体を知らない』
『戦闘能力は低い』
「そこは必要なのか」
俺が聞くと、リアが淡々と答えた。
「事実です」
さらに文字が続く。
『他者の弱さを、自らの利益のために利用しない』
『未知を理解するため、他者の知識を求めることができる』
『世界から忘れられた存在を見捨てない』
『仲間の存在を守るため、自らの重要な記憶を差し出した』
最後に、一つの文章が現れた。
『現在の神崎悠真は、帰還者識別名YUMAと関係する可能性がある』
胸が冷える。
だが、文章はそこで終わらなかった。
『ただし、未確認の過去情報のみを理由として、現在人格を削除することを認めない』
黒い光が弾けた。
影の羽根ペンへ亀裂が入り、銀色の破片となって砕ける。
道の両側へ並ぶ石柱も揺れ、幾つかの表面に細いひびが走った。
「修正処理を停止」
影の声が乱れる。
「現在人格定義は、帰還者規定に存在しません」
「今、作った」
俺は戻った右手で、黒い手帳を受け取った。
「人間は、最初から決められた文章のとおりに生きるわけじゃない」
「帰還者に個人的人格は不要です」
「俺には必要だ」
「帰還目的を阻害します」
「だったら」
俺は黒い手帳を、影へ向ける。
「目的のほうが正しいのか、最初から調べ直す」
自分でも驚くほど、言葉に迷いがなかった。
帰還者と呼ばれる存在が、過去に何をしたのかは分からない。
白い石柱に記録された街を、俺に似た誰かが消した可能性もある。
それでも、今の俺は消された一人を見捨てることさえできない。
非合理的だとしても。
世界を守る役割へ向いていないとしても。
この人格を捨てるつもりはなかった。
「神崎悠真を記録する」
今度、手帳が反応した。
自分自身を直接記録したのではない。
五人が観測し、言葉にした神崎悠真を俺が自分のこととして受け入れる。
「俺は、〈灰色の雲雀〉の記録係だ」
黒い文字が影へ巻きつく。
「日本から来たと思っている。けれど、それが本当かどうかは分からない」
影の胸へ亀裂が入る。
「戦えない。怖がりだ。何度も間違える」
「余計なことまで記録するな!」
ノエルが叫ぶ。
「事実しか残せない」
いつもノエルへ言っている言葉を、そのまま返す。
「それでも、誰かが世界から消されるなら、俺は記録する」
影の顔に、初めて二つの目が現れた。
俺と同じ形の目。
「俺が誰かの記憶から作られた存在でも、帰還者の一部でも、世界を傷つけた管理者でも」
影の目が俺を見つめる。
「今の俺が何を選ぶかは、俺が決める」
黒い文字が影の胸へ入った。
『現在人格――神崎悠真』
『外部観測記録との接続を確認』
『緊急修正を拒否』
影の身体が崩れた。
黒い霧となり、白い道の上へ散る。
石柱から聞こえていた無数の声も、少しずつ遠ざかっていく。
七度目。
八度目。
白鐘は続けて鳴った。
だが、もう身体は消えなかった。
最後に九度目の鐘が鳴り、その余韻が白い道の先へ消えると、旧第九巡回路に静寂が戻った。
俺は立っていた。
右手も。
左脚も。
視界も。
心臓もある。
ノエルが、俺の肩を拳で殴った。
「痛い」
「生きてる?」
「確認方法が乱暴すぎる」
「痛いなら生きてるだろ」
「お前も試すか」
「俺は昨日から何度も消されかけてるんだから、優しく扱えよ」
ミレナが、その場へ座り込んだ。
「よかった」
ガルドは大きく息を吐き、斧を路面へ下ろす。
セフは眼鏡を外し、額の汗を袖で拭った。
リアだけは、俺の手にある黒い手帳を見つめていた。
「完全に終了したのですか」
「分からない」
手帳を確認する。
『緊急修正――中断』
完了ではない。
中断。
「処理そのものが消えたわけじゃない。今の俺を、五人の記録へ分けて残しただけだ」
「つまり?」
ノエルが尋ねる。
黒い手帳に、新たな表示があった。
『現在人格記録先』
『ガルド・バルガス』
『ミレナ・フォース』
『セフ・アルノー』
『リア・エルセイン』
『ノエル・ハース』
「俺一人では、今の人格を証明できない」
自分の名前が書かれたページを見つめる。
「お前たちの記録が失われれば、また修正される可能性がある」
ノエルの表情から笑みが消えた。
「全員が忘れたら?」
答えは表示されていない。
それでも。
何が起こるかは想像できた。
「今の俺は消える」
誰も軽口を言わなかった。
俺はノエルを記録し、世界へつなぎ止めた。
今度は、ノエルたちが俺を記録し、神崎悠真という人格を存在させている。
記録者と記録対象。
守る側と、守られる側。
その境界は、もうなくなっていた。
「なら、忘れなければいい」
ガルドが言った。
セフがすぐに反論する。
「簡単ではありません。敵は、記憶そのものを書き換えます」
「だから、何度でも確認する」
ガルドは俺を見る。
「お前が俺たちへしてきたように」
ミレナも頷く。
「毎日、互いの名前と記憶を確認しましょう」
リアが尋ねる。
「具体的には、何を確認するのですか」
「名前と、その人について自分が知っていることです」
「朝礼みたいだな」
俺が言うと、リアが首を傾げた。
「以前の世界でも行っていたのですか」
「会社にはあった。偉い人の話を聞いて、全員で同じ言葉を言わされる」
「嫌そうな顔をしていますね」
「嫌だったからな」
ノエルが笑った。
「じゃあ、楽しいやつにしようぜ。一人ずつ、ほかの奴の恥ずかしい話をする」
「記憶を消される前に、君を消したくなりました」
セフが杖を握る。
いつものやり取りだった。
俺は黒い手帳へ記録する。
『神崎悠真、ガルド・バルガス、ミレナ・フォース、セフ・アルノー、ノエル・ハース、リア・エルセインは、互いの名前と関係を定期的に確認することを決めた』
文字は六人へ分かれた。
細い黒い線が、俺たち全員を結ぶ。
緊急修正の影響は、俺たちだけに留まらなかった。
旧第九巡回路の両側に並ぶ石柱のうち、幾つかが崩れている。
内部から、淡い光が漏れ出していた。
「何か出てきます!」
エダンの声に、補給隊の者たちが身構える。
ガルドとノエルが武器へ手を伸ばしたが、現れたのは魔物ではなかった。
半透明の景色。
薄い膜のような光景が、石柱の上へ浮かんでいる。
雪に覆われた街。
海上へ築かれた都市。
巨大な樹の幹に造られた村。
夜空には、見たことのない数の月。
それぞれが別の場所だった。
どれも一瞬だけ映り、すぐに白い光へ覆われて消える。
「本当に存在した場所なのか」
ノエルが、雪の街を見つめる。
「記録としては残ってる」
「人もいた?」
「ああ」
半透明の光景の中で、人々が歩いている。
会話し。
食事をし。
子供たちが道を走る。
過去の映像。
失われた場所の記録。
一つの光景に、見覚えのある女性が映った。
腰まで伸びる銀色の髪。
白い衣。
紫色の瞳。
俺をこの世界へ送った女神だった。
彼女は白い空間へ立ち、こちらには見えない何かへ話しかけている。
『第八補助人格より報告』
声は聞こえない。
それでも、言葉の意味だけが頭の中へ入ってきた。
女神の頭上には、あのとき一瞬だけ見えた表示が浮かんでいる。
『帰還者の人格分離を確認』
『現在人格の安定化は未完了』
映像が激しく乱れた。
女神の横に、別の人影が一瞬だけ映る。
机。
白い光。
黒い手帳。
人物の顔は見えない。
ただ。
手元だけが俺とよく似ていた。
『現在人格が独立した意思を獲得した場合』
表示の途中から、文字が白く塗り潰される。
最後に一文だけが残った。
『北部第七遺構へ向かってください』
「北方遺跡」
俺たちが向かっている場所。
映像の中の女神が、突然こちらを見た。
過去の記録であるはずなのに、紫色の瞳が今の俺を捉えたように感じる。
『この記録を見ているあなたが、神崎悠真を名乗っているなら』
全員が動きを止めた。
『現在人格は、まだ失われていません』
文字が乱れる。
『白い扉を探してください』
『扉の奥に、あなたが最初に記録した――』
そこで映像は途切れた。
最後の言葉は、白い欠損に覆われて読めない。
ノエルが、消えた映像を見つめる。
「俺の原記録のことかな」
「分からない」
「ユーマの記録かもしれません」
リアが白い本を開き、先ほど見た文章を書き留めていた。
「少なくとも、北方遺跡へ進む判断は間違っていません」
「女神も、俺を知っている」
俺は消えた光景を見つめた。
だが知っているのは、今の俺なのか、帰還者と呼ばれるYUMAなのか。
その答えは示されなかった。
白い道の先から、別の音が聞こえた。
鐘ではない。
馬の蹄。
木製の車輪。
人の話し声。
「誰か来る」
ガルドが斧を構える。
白い霧の向こうから、一台の馬車が現れた。
屋根には乾いた藁が積まれ、木製の車輪には泥が付着している。
継ぎ目一つない白い道には、不釣り合いな農村用の馬車だった。
御者台には、白髪の老婆が座っている。
「止まってください!」
バルツが声をかける。
老婆は手綱を引き、俺たちの少し前で馬車を止めた。
護衛するガルドたち。
補給物資を積んだ荷車。
バルツやエダン。
最後に老婆の視線が俺へ向けられる。
深く刻まれた皺の中で、両目が大きく開いた。
「記録者様」
掠れた声だった。
俺たちは一斉に身構える。
「俺を知っているのか」
老婆は馬車から降りた。
足元は覚束ない。それでも、杖も使わず俺の前まで歩いてくる。
首元には、木製の小さな札が下がっていた。
表面へ刻まれた文字。
『オルネ』
「オルネという村から来たのですか」
俺の問いに、老婆は頷いた。
「この道の先にございます」
現在の地図にも、リアが持っている古い地図にも、その名の村はない。
老婆は俺の顔を見上げた。
目から涙が溢れている。
喜びではなかった。
恐怖。
怒り。
長い時間を耐えてきた者だけが持つ、深い疲労。
それらが混ざった涙だった。
「お待ちしておりました」
「俺を?」
「はい」
老婆の震える手が、俺の戻った右手を掴む。
「記録者様が、再びご自分の名を選ばれる日を」
意味は分からなかった。
「オルネで、何が起きている」
老婆は答えようとした。
だが、何度も言葉を呑み込んだ後、その場へ膝をついた。
白い路面へ額をつける。
ガルドが一歩近づいた。
「立って話せ。俺たちは誰かを跪かせるために来たわけではない」
「いいえ」
老婆は顔を上げなかった。
「立ったままでは、お願いできません」
俺は老婆の前へしゃがむ。
「何をしてほしい」
ノエルを始め、これまで出会った消された人々は、存在することを望んでいた。
マレイは、娘を助けてほしいと願った。
仮称リウスは、子供の元へ帰りたいと記録した。
だから、老婆の口から出た言葉を、すぐには理解できなかった。
「どうか、私たちを記録なさらないでください」
風が、白い石柱の間を通り抜ける。
「オルネの名も、村人の顔も、私たちが生きてきた日々も」
老婆の指が、白い道へ食い込んだ。
「今度こそ、何も残さないでください」
黒い手帳が震えた。
勝手にページが開く。
『未登録観測領域を確認』
『識別名――オルネ』
『住民数――三百十二名』
最後に、赤い文字が浮かび上がった。
『住民全員が、記録を拒否しています』
記録することが、消された人間を救う唯一の方法だと思っていた。
その俺の前に。
初めて、忘れられることを望む人々が現れた。




