第六章 ~白紙鳥~
紙の嘴が、ノエルの名前を啄んだ。
補給隊の同行者名簿に記された文字の一部が、音もなく白く欠ける。
『ノエル・ハース』
その末尾にあった「ス」の文字だけが、最初から書かれていなかったかのように消えていた。
同時に、隣に立っていたノエルの身体が大きく揺れた。
「ノエル!」
倒れかけた肩を支えると、ノエルは額へ手を当てた。身体は透けていない。呼吸もある。それでも、焦点の合わない目で俺を見ている。
「大丈夫か」
「ああ。多分」
「名前を言え」
「ノエル」
「全部だ。家名まで」
ノエルは口を開いた。
すぐに答えると思った。自分の名前なのだから、考える必要などないはずだった。
だが、声は出なかった。
「俺の家名……何だった?」
背筋が冷たくなる。
紙の鳥が消したのは、名簿に書かれた文字だけではない。ノエル・ハースという名前から、ハースという家名そのものを切り離したのだ。
黒い手帳には、赤い警告が浮かんでいた。
『対象――ノエル・ハース』
『暫定固定への再干渉を確認』
『記録欠損率――一パーセント』
空を覆う白い鳥たちが、無数の羽音を響かせている。
一羽一羽は、手のひらに載るほど小さい。薄い紙を折り曲げただけのような身体で、目も爪もない。
それでも、群れ全体がこちらを見ていると分かった。
先頭の鳥に浮かんでいた文字が消える。
『経路上の不要記録を削除します』
次の瞬間、白い群れが一斉に降ってきた。
「全員、荷車から離れろ!」
ガルドの声が飛ぶ。
鳥たちは人間へ襲いかかるのではなく、二台の荷車へ殺到した。
同行者名簿。
物資の受領書。
食料の一覧。
神殿が発行した通行証。
荷箱に取りつけられた木札。
北方遺跡までの地図。
文字が記されたものへ群がり、紙の嘴を突き立てていく。
バルツが名簿を抱えて逃げようとしたが、三羽が紙の端へ取りついた。
「この書類は、北部駐屯所を通るために必要なものです!」
「手を離せ!」
ガルドが鳥を払い落とそうと、斧の柄を振るった。
一羽が空中で二つに裂ける。
白い紙片が地面へ落ちた。
倒したように見えた。
だが、二枚の紙はそれぞれ折れ曲がり、元より小さな二羽の鳥へ姿を変えた。
「増えたぞ!」
「切るな!」
ガルドが叫ぶ。
その警告が届くより早く、神殿の若い連絡員が短剣で一羽を刺していた。穴の開いた鳥は地面へ落ち、今度は二羽となって飛び上がる。
「物理的に破壊すると分裂します!」
リアが叫んだ。
ガルドが白い群れを睨む。
「先に言え!」
「私も今、確認しました!」
「セフ、火で燃やせ!」
ノエルの声に反応し、セフが杖を構えた。
「燃えろ!」
赤い魔法陣から炎が走る。
紙の鳥の群れが火に包まれ、焼けた紙の臭いが辺りへ広がった。十数羽が黒い灰となり、風に流されていく。
「効いた!」
ノエルが声を上げる。
しかし、燃えた灰が荷車へ降り注いだ。
灰に触れた木箱から、中央神殿の紋章が消えた。
その箱を押さえていたバルツが、怪訝そうに首を傾げる。
「これは、誰の荷物ですか」
「あなたが用意した調査物資です!」
ミレナが答えた。
「私が?」
バルツは木箱を見つめた。
自分で積み込んだはずの荷物。それでも、所有しているという記憶が抜け落ちている。
御者のミゼンも、手綱を握ったまま荷車を振り返った。
「何のために、こんな量の薬品を運んでいるんだ」
「灰にも触れるな!」
俺は叫んだ。
「燃やされた記録が、別の記憶を巻き込んで消している!」
「では、どうすればよいのです!」
セフは風の膜を作り、灰を空中へ押しとどめた。額には汗が浮かんでいる。
鳥は切れば増える。
燃やせば灰となり、周囲の記録を奪う。
これは魔物ではない。
破壊されることまで、最初から想定して作られた存在だ。
「校正補助具」
リアが、白い群れを見上げながら呟いた。
「何だ、それは」
「鳥の身体に浮かんでいる文字です。すべては読めませんが、世界の校正を補助するための道具と記されています」
省略官が持っていた巨大な羽根。
白い紙で作られた鳥。
どちらも、文字を扱うための道具を模している。
あいつらにとって、世界は一冊の文章なのだ。
人の人生も、街の歴史も、仲間との思い出も。
文章の一部でしかない。
矛盾が生じれば、削ってよい記述として扱われる。
一羽の白紙鳥が、俺の胸元へ向かってきた。
黒い手帳を抱え、身体を捻る。
紙の嘴は外套を掠めただけだった。布には傷一つついていない。
代わりに、手帳の一ページから文字が消えた。
『ラトメア北門を出発』
その一文だけが、白い空白になっている。
「記録を食べてる」
さらに一羽。
その後ろから三羽。
白紙鳥たちは、ほかの書類を無視し、俺の手帳へ向きを変え始めた。
「記録者を狙っています!」
リアが警告する。
ガルドが俺の前へ立った。
斧は使わない。大きな外套を広げ、自分の身体で白紙鳥を遮る。
「ガルド!」
紙の嘴が、肩当てに刻まれた冒険者の紋章へ触れた。
革鎧に傷はない。
だが、〈灰色の雲雀〉を示す鳥の紋章だけが、綺麗に消えた。
ガルドの身体が一瞬固まる。
「俺は……何を守っていた」
「俺たちだ!」
俺は黒い手帳へ手を置いた。
「ガルド・バルガス。〈灰色の雲雀〉の代表で、重戦士。俺たちの仲間だ!」
文字が現れ、黒い光となってガルドへ流れ込む。
彼の目へ、意識が戻った。
「そうだ。俺はガルド・バルガスだ」
だが、記録した文章へ紙の鳥が群がる。
一羽を払っても、二羽目が来る。さらに三羽、五羽と増えていく。
書き直した端から食べられていた。
「ユーマ!」
セフが十数羽を風の球体へ閉じ込めている。鳥は内部を飛び回り、紙の嘴で透明な膜を突いていた。
「長くは保ちません!」
ミレナは、バルツと御者たちを荷車の陰へ誘導している。
若い神殿の連絡員は、自分の手に握られた短剣を見つめていた。
「なぜ、私は武器を持っているのでしょう」
「あなたは神殿遺構調査室の連絡員です!」
ミレナが答える。
「名前はエダン。北方遺跡まで、バルツさんを補佐する役目です!」
「エダン……」
名前を聞いても、本人の表情には確信がなかった。
別の場所では、御者のミゼンが、同僚のベックを警戒している。
「お前は誰だ」
「何を言ってる! ベックだ!」
「知らない」
「十年、一緒に馬車を引いてるだろ!」
白紙鳥は名前と役割だけでなく、人間同士の関係まで剝がし始めていた。
このままでは、誰も自分が何者か分からなくなる。
仲間を敵だと思い込み、北方遺跡へ向かう目的も失う。
俺は手帳を開き、白紙鳥そのものを記録しようとした。
『白い紙を折った鳥型の存在』
『文字および記憶へ干渉し――』
文章が途中から消えた。
何度記録しても、同じだった。
手帳へ書く限り、鳥が食べる速度のほうが速い。
「ユーマ!」
ノエルの声に振り返る。
名簿に白紙鳥が群がっていた。
『ノエル・ハー』
さらに一文字が消える。
『ノエル・ハ』
ノエルは両手で頭を押さえていた。
「俺は、ノエル……」
「ハースだ!」
俺は叫んだ。
「お前の名前は、ノエル・ハース!」
「ハース」
ノエルが繰り返す。
だが、自分の名前を誰かから教えられているだけだった。
その表情には、まだ確信がない。
名前や外見だけでは足りない。
鈎針通りで分かったはずだ。
一人の人間は、記号や経歴だけでは形作れない。
他者との関係。
本人の望み。
誰かと過ごした時間。
それらが重なり、初めて一人の人格になる。
手帳だけでは駄目だ。
俺一人が覚えているだけでは、記録を食べる鳥に奪われる。
「ガルド!」
俺は叫んだ。
「ノエルの名前を言ってくれ!」
ガルドが、白紙鳥を外套で受け止めながら声を張った。
「ノエル・ハース!」
「ミレナ!」
「ノエル・ハースです!」
「セフ!」
「ノエル・ハース!」
「リア!」
リアは第九観測鍵を収めた鞄を抱き、ノエルをまっすぐ見た。
「ノエル・ハースです。騒がしく、無計画で、他人の危険を見過ごせない人です!」
四人の声が重なる。
ノエルの身体へ、細い黒い線が現れた。
右手首を囲む腕輪のような線。
黒い手帳にも、新たな文字が浮かび上がる。
『複数観測者による同一記録を確認』
『分散記録を実行しますか』
分散記録。
一冊の手帳だけへ記録を集めるのではない。
同じ事実を知る人間へ、記録を分けて残す。
「実行する!」
黒い手帳から、一つの文章が浮かび上がった。
『ノエル・ハース』
文字は空中で五つに分かれ、俺、ガルド、ミレナ、セフ、リアの胸へ入った。
熱い。
身体の内側へ、文字を直接刻まれたような感覚だった。
名簿の上では、白紙鳥がノエルの最後の文字を啄んでいる。
『ノエル・ハ』
『ノエル・』
名簿から、家名が完全に消えた。
それでも、ノエルは倒れなかった。
彼は自分の胸へ手を当てる。
「俺の名前は、ノエル・ハースだ」
今度の言葉には確信があった。
名簿から消されても、手帳から食べられても、俺たち五人の中には名前が残っている。
白紙鳥の群れが、甲高い音を発した。
鳥の鳴き声ではない。
大量の紙を一度に破いたような音だった。
群れの半分が、一斉に俺たちへ向きを変える。
「効いてる!」
ノエルが短剣を構えた。
「どうしたんだ?」
「俺たち全員へ、お前の記録を分けた!」
「俺も誰かを記録できるのか?」
「分からない。でも、言葉にしろ!」
近くでは、御者のミゼンが、ベックから距離を取っていた。
「ミゼン!」
ベックは、手綱を放り出して相棒へ近づく。
「俺だ。ベックだ!」
「知らない。近づくな」
「お前はミゼン・ロウ! 北街道の御者で、馬に名前をつけるくせに、本人の前では絶対に呼ばない!」
ミゼンの目が揺れる。
「知らない」
「二年前、雪道で馬車が横転したとき、俺を荷台から引っ張り出した! 助けた後で、荷物のほうが重かったって文句を言った!」
「そんなことを……」
「酒を飲むと、亡くなった奥さんの話をする! 朝は必ず左の馬から餌をやる! 右の馬が拗ねると、後でこっそり林檎をやってる!」
「なぜ、それを知っている」
「俺がお前の相棒だからだ!」
ベックは白紙鳥を恐れず、ミゼンの肩を掴んだ。
「ミゼン・ロウ。俺と十年、同じ馬車を引いてきた男だ!」
俺は二人の言葉を記録する。
『ベックは、ミゼン・ロウを十年来の相棒として認識している』
『ミゼン・ロウは、雪道でベックを助けた』
文章を二人へ分ける。
黒い線が、それぞれの手首へ現れた。
ミゼンの目に光が戻る。
「ベック」
「そうだ」
「亡くなった妻の話まで、皆の前でする必要があったか」
「思い出した最初の言葉がそれか!」
そのやり取りを聞き、俺は補給隊全体へ叫んだ。
「隣にいる人の名前を呼んでください! 名前だけではなく、その人について自分が知っていることを話すんです!」
バルツが、不安そうにこちらを見る。
「それで記憶を守れるのですか」
「一人の記録は消されても、複数の人間の間へ残った関係は、一度には消せないみたいです!」
正確な仕組みは分からない。
それでも、今は試すしかない。
バルツは最初に声を上げた。
「エダン・クロウ!」
混乱していた神殿の連絡員へ向けて叫ぶ。
「遺構調査室の見習い連絡員! 書類の封を曲がって押す癖がある!」
エダンが顔を上げる。
「バルツ・オーン」
今度はエダンが答えた。
「遺構調査室の物資管理担当。荷箱の数を三度確認しなければ眠れない。自分は甘いものが嫌いだと言いながら、机の引き出しに蜂蜜菓子を隠しています!」
「余計な情報まで言わなくていい!」
二人の間へ黒い線が伸びる。
ミレナも、ほかの者たちへ声をかけた。
「名前だけではなく、共に過ごした記憶を話してください。失敗でも、癖でも、喧嘩したことでも構いません!」
補給隊の中で、声が次々と上がる。
「お前は朝食前だけ機嫌が悪い!」
「あんたは妻へ手紙を書くたび、私に綴りを聞く!」
「薬草を数えるとき、必ず十三を飛ばす!」
「お前が横で話しかけるからだ!」
名前。
癖。
失敗。
秘密。
助けられたこと。
腹を立てたこと。
誰かと誰かの間へ積み重なった、小さな事実が言葉となっていく。
黒い手帳のページが、激しくめくられた。
俺が一人で記録しているのではない。
全員の言葉が、一度手帳へ集まり、そのまま語った本人と語られた相手へ分かれていく。
手首。
胸元。
額。
黒い細線となって、人と人を結んでいく。
『分散記録対象――二名』
『分散記録対象――六名』
『分散記録対象――十名』
人数が増えていく。
紙の鳥が書類の名前を消しても、荷札を白紙にしても、人々は互いの名前を呼び続けた。
「お前は誰だ!」
「ベックだ!」
「何者だ!」
「お前が壊した馬車の修理代を、三年経っても請求し続けている男だ!」
「それは忘れていい!」
「絶対に忘れさせない!」
恐怖に満ちていたはずの空気に、笑い声が生まれた。
僅かな時間だったが、その笑いも人々をつないだ。
白紙鳥が、人々を結ぶ黒い線へ嘴を突き立てる。
触れた瞬間、紙の先端が焦げたように縮んだ。
「人間そのものではありません」
リアが呟いた。
「この鳥が消せないのは、個人ではない」
「関係だ」
俺は答えた。
書類へ記された名前は消せる。
一人の記憶も書き換えられる。
だが、複数の人間の間に存在するものは、一箇所を削るだけでは消えない。
誰かが覚えている限り。
誰かが名前を呼ぶ限り。
その人間を完全な白紙にはできない。
「ノエル!」
俺はノエルを見る。
「今度は、お前が俺を記録しろ!」
「何を言えばいい!」
「お前が知ってる俺のことを言え!」
ノエルは白紙鳥を避けながら叫んだ。
「神崎悠真! 二十八歳!」
一瞬、言葉が止まる。
「多分!」
「そこは確定してる!」
「異世界から来た記録係! 戦えないくせに、危ない場所へ先に首を突っ込む!」
「もっと良い情報はないのか!」
「飯を食うのが遅い! 俺の金を勝手に計算する! 寝る前には、必ず手帳を開く!」
ノエルから俺へ、黒い線が伸びる。
胸の奥が熱くなった。
「それから!」
ノエルの声が、白い羽音の中を通る。
「俺が世界から消えそうになったとき、自分の大事な記憶を使って助けた!」
その言葉が、胸の空白へ深く刺さった。
母親だと思っていた女性の顔は思い出せない。
声も。
手の温かさも。
それでも、俺が何かを失ったことを、ノエルが覚えている。
記憶を奪われた場所へ、別の人間が持つ記録が重なっていく。
『神崎悠真は、母親だと認識していた人物に関する重要な記憶を失っている』
『その喪失を、ノエル・ハースが記憶している』
俺とノエルを結ぶ黒い線が太くなった。
一羽の白紙鳥が、俺の胸へ突進する。
黒い線へ触れた瞬間、鳥の身体へ亀裂が走った。
裂けた紙は増殖しなかった。
文字の記された破片となり、そのまま地面へ落ちる。
「増えなかった」
セフが叫んだ。
リアは落ちた紙片へ視線を向ける。
「関係の記録へ触れたことで、校正する側の情報が上書きされたのかもしれません!」
「それなら、鳥を線へ誘導する!」
ノエルが両腕を広げ、白紙鳥の群れの前へ出た。
「こっちだ、紙くず!」
セフが呆れたように声を上げる。
「挑発が通じる相手ですか!」
白紙鳥の群れが、一斉にノエルへ向いた。
「通じたみたいだぞ!」
「あなたは、人間以外を怒らせる才能もあるのですか!」
「褒めるなよ!」
「褒めていません!」
群れがノエルへ殺到する。
俺たち五人とノエルを結ぶ黒い線が、網のように広がった。
ガルド。
ミレナ。
セフ。
リア。
俺。
六人の間にある関係へ、白紙鳥が次々と触れる。
触れた鳥から亀裂が走り、白い紙片となって落ちていった。
百羽近くいた群れは、急速に数を減らしていく。
五十。
二十。
十。
最後に残った数羽が、急に方向を変えた。
二台目の荷車。
その奥に積まれている、小さな布製の鞄。
北方遺跡へ向かった先発調査班。
記録から消された六人目。
仮称エクウスの荷物。
「鞄を狙ってる!」
俺は走った。
一羽の白紙鳥が、開いた鞄の中へ飛び込む。
子供から父親へ送られた手紙。
小さな木彫りの馬。
紙の嘴が手紙へ向かう。
間に合わない。
鳥の先端が、子供の文字へ触れた。
『おとうさんへ』
最初の一文が白く消え始める。
そのとき、誰も座っていないはずの荷台が沈んだ。
見えない手が、白紙鳥の身体を掴む。
鳥は空中でもがいた。
白い紙へ、五本の指の跡だけが浮かんでいる。
少しずつ、人の輪郭が現れた。
腕。
肩。
荷台へ腰掛ける身体。
色はなく、透明なガラスで作られた人影のようだった。
それでも。
そこに誰かがいる。
透明な男は、手の中の白紙鳥を握り潰した。
鳥は分裂しない。
文字の刻まれた紙片となり、指の隙間から落ちていく。
「エクウス」
リアが、仮の名を呼んだ。
透明な人影が、僅かに顔を上げた。
俺たちを見たような気がする。
胸元には、神殿調査員が着る褐色の上着。
年齢は、三十代後半か四十代。
腰には小さな革袋。
顔も。
本当の名前も分からない。
だが。
父親だった。
誰かが帰りを待っている人間だ。
透明な男は、子供からの手紙へ触れた。
『いせきからかえったら、こんどこそ、いっしょにうまをみにいってください』
子供の文字が淡く光る。
俺は黒い手帳へ手を置いた。
「この人には、帰りを待っている子供がいる」
文章が現れる。
『仮称エクウスには、北方遺跡からの帰還を待つ子供がいる』
『子供と馬を見に行く約束をしている』
「ほかに何か覚えている人はいませんか!」
補給隊の全員へ呼びかける。
皆が、透明な男を見ていた。
失われた記憶を探るように顔をしかめる。
バルツが、こめかみを押さえた。
「荷台の座席が、一つ多かった」
「ほかには?」
「出発前。私は、十一人分の荷物を数えた気がします」
御者のベックが口を開く。
「昨夜、干し肉を一人分多く積んだ。数え間違いだと思っていた」
エダンが、透明な男の上着を見る。
「誰かが、封印箱の紐を結び直しました。私は手が離せなかったので、調査員の一人へ頼んだはずです」
名前も顔も残っていない。
それでも、男が行動した痕跡はある。
余った座席。
一人分多い食料。
結び直された紐。
子供からの手紙。
俺は一つずつ記録した。
黒い文字が透明な人影へ集まる。
身体へ、僅かに色が戻った。
褐色の上着。
日に焼けた手。
左手の薬指には、細い指輪。
顔だけは、まだ白い。
男の口が動く。
声は出なかった。
それでも、何を求めているかは分かった。
――名前を。
「すまない」
俺は首を横に振った。
「まだ、本当の名前は分からない」
男は手紙を握り、僅かに肩を落とした。
だが、次に顔を上げると、自分の胸元を指した。
上着の内側。
俺は透明な指が示す場所を探った。
布地の裏へ、小さな金属板が縫いつけられている。
神殿遺構調査室の通行許可証だった。
表面の名前は削除されている。
しかし、裏側には、摩耗した文字が僅かに残っていた。
『――リウス』
「リウス」
その音を口にすると、透明な人影の輪郭が震えた。
反応している。
「本名の末尾かもしれません」
リアが金属板を覗き込む。
「エクウスという仮名より、本人に近い情報です」
「完全な名前ではない」
「それでも、何もないよりは強いはずです」
俺は黒い手帳を開いた。
『仮称を変更』
『旧仮称――エクウス』
『新仮称――リウス』
『本名の一部である可能性が高い』
文字が固定された。
透明な男の顔に、口元だけが現れる。
笑っていた。
次の瞬間、男の身体が黒い文字へ変わった。
消滅したのではない。
文字は手紙と木彫りの馬へ吸い込まれていく。
子供の手紙の最後へ、大人の筆跡が一行だけ現れた。
『必ず帰る』
ノエルが、手紙へ顔を近づける。
「本人が書いたのか?」
「分からない」
だが、記録することはできた。
『仮称リウスは、子供の元へ帰還する意思を持っている』
名前を奪われた調査員。
世界から省略された父親。
彼も完全には消えていない。
北方遺跡に残る原記録を見つけられれば、戻せる可能性がある。
ノエルだけではない。
鈎針通りの四十七人。
南水路の調査員。
これまで世界から消された人々。
彼らも、どこかに痕跡が残っているのかもしれない。
それは希望だった。
同時に、恐ろしくもあった。
一人を残すだけで、俺は大切な記憶を失った。
すべての人間を取り戻すには、どれだけの代償が必要になるのか。
俺一人の記憶だけで、足りるはずがなかった。
白紙鳥の群れが消えた後、地面には、文字の刻まれた紙片が大量に残っていた。
風に飛ばされないよう集め、厚い布袋へ入れる。
新しい白紙。
黄ばんだ羊皮紙。
焼け焦げた紙。
青い繊維を含む薄片。
黒い金属のようなものまで混じっている。
「すべて同じ材料ではありません」
リアが、一枚ずつ紙片を確認する。
セフも光へ透かし、紙の厚さを比べていた。
「鳥の姿をしていたときは、同じ白い紙に見えました」
「表面だけを同じ状態へ整えていたのでしょう」
俺は一枚を《記録》する。
『白紙鳥の残骸』
『原材料――削除済み記録』
「消した記録から、自分たちの身体を作ってる」
人の名前。
街の歴史。
存在しなかったことにされた契約。
忘れられた出来事。
それらを白紙へ戻し、次の校正へ使っている。
一枚の紙片へ触れた瞬間。
頭の中へ、声が流れ込んだ。
――寒い。
子供の声。
一瞬だけ、紙の表面に、雪の中へ建つ家が見えた。
すぐに消える。
別の紙片。
――城壁が崩れる。
男の叫び。
さらに一枚。
――明日になれば、この争いは最初からなかったことになる。
誰かの泣き声。
「ユーマ」
ノエルが俺の腕を掴んだ。
「顔色が悪いぞ」
俺は紙片から手を離した。
声は聞こえなくなる。
「この中には、消された記憶が残ってる」
白紙ではない。
見えない状態へ変えられているだけだ。
紙片の一枚一枚に、誰かが生きた痕跡がある。
「持っていく」
俺は布袋の口を閉じた。
「北方遺跡で調べる」
ミレナが不安そうに紙片を見る。
「再び鳥へ戻る可能性はありませんか」
「分散記録に触れた鳥は、機能を失ったように見えた。少なくとも、今すぐ動く様子はない」
確実ではない。
それでも、捨てることはできなかった。
消された誰かの記録をもう一度、見なかったことにはしたくない。
白紙鳥によって、補給隊の書類は大きな損害を受けていた。
荷札の半分が白紙になり、どの箱を誰が管理していたのか分からなくなっている。
北方遺跡までの経路図も、一部が丸ごと消されていた。
バルツは、白紙となった物資一覧を前に立ち尽くしている。
「これでは、遺跡へ到着しても、何を届けたのか証明できません」
「俺の手帳に、出発前の情報が一部残っています」
積み込まれた食料。
薬品。
調査器具。
灯油。
木材。
数まですべて記録しているわけではない。
だが、バルツたちが互いの記憶を持ち寄れば、かなりの情報を戻せるはずだ。
「一人で思い出そうとしないでください」
俺は言った。
「自分に分からなくても、別の人が覚えている可能性があります。全員で確認して、同じ内容を複数の場所へ残しましょう」
バルツは、自分の手首に刻まれた黒い線を見る。
「先ほどの力を、もう一度使えるのですか」
「恐らく」
「恐らくですか」
「今日、初めて使ったので」
バルツは不安そうだった。
それでも、ほかに方法はない。
荷箱を一つずつ開ける。
薬品の匂い。
瓶の形。
包装紙の印。
箱の角についた傷。
断片的な記憶を持ち寄り、所有者と内容を確認していく。
俺の黒い手帳だけではない。
荷箱の内側。
木製の札。
バルツの帳面。
リアの白い本。
複数の場所へ、同じ情報を残した。
一つが消されても、別の記録から戻せるように。
「記録は、一箇所へ集めないほうがよいでしょう」
セフが、復元した物資一覧を見ながら言った。
「これまでのユーマは、ほとんどすべてを黒い手帳へ記録していました」
「一冊なら管理しやすい」
「同時に、その一冊が奪われれば、すべてを失います」
反論できなかった。
俺の《記録》は、世界の改変に耐えられる。
その強さに頼り、すべてを自分一人へ集めていた。
だが、俺が消え手帳を奪われれば。
そこに記録されたものまで失う可能性がある。
一人がすべてを覚えることは。
強さではなく、危険でもある。
「これからは、重要な記録を分ける」
俺は仲間たちを見た。
「俺の手帳だけではなく、皆にも覚えてもらう」
ガルドが尋ねる。
「言葉を聞くだけでいいのか」
「同じ事実を、自分の意思で真実だと認める必要があるみたいだ」
ノエルを存在固定したとき。
ガルドたちは、それぞれが自分しか知らないノエルを語った。
俺から聞かされた情報ではない。
実際に関わり、自分の目で知ったことだった。
それが強い記録になった。
リアが、復元した物資一覧へ視線を落とす。
「人間一人を理解するには、本を一冊読むより時間がかかります」
ノエルがすぐに反応した。
「人間と本を比べるなよ」
「本は勝手に嘘をつきません」
「この世界の本は書き換わるだろ」
「だから困っているのです」
「俺は書き換わらないぞ」
リアは、ノエルを一度見る。
「昨日と今日で借金の額が変わっています」
「増える方向にな」
「誇ることではありません」
二人の言い争いを聞きながら、俺は手帳を開いた。
ただし、今回は文字として残すだけではない。
「リア・エルセインとノエル・ハースは、会話を始めると高い確率で言い争う」
「不要です」
リアが即座に答えた。
ノエルは楽しそうに笑う。
「俺は覚えたぞ」
二人の手首を結ぶ黒い線が、僅かに強くなった。
こんな事実でも、二人の間にしか存在しない関係の一部だった。
残された問題は、進む道だった。
白紙鳥の襲撃によって、すでに二時間近く失っている。
通常の北街道を進めば、北方遺跡まで三日。
黒い手帳が示す白鐘の予測は、六日以内。
数字の上では間に合う。
だが、白紙鳥のように、鐘を待たずにノエルへの干渉が始まっている。
少しでも早く、原記録へたどり着かなければならない。
俺は黒い手帳の地図を開いた。
通常の北街道から外れ、北東へ伸びる細い銀色の線。
現在の地図には存在しない道。
『旧第九巡回路』
推定所要時間。
一日半。
「この道を使えば、遺跡へ早く着ける」
バルツへ地図を見せると、彼は露骨に顔をしかめた。
「その道は、公的な地図に存在しません」
「今は使われていないだけです」
「使われていない道へ、荷車二台を入れるのですか」
「入口は確認しています」
「路面の状態も、水場も、魔物の情報もありません」
商人ではなく、物資管理を任された人間として当然の判断だった。
補給隊には、補給隊の目的がある。
荷物を安全に運び、先発調査班へ届ける。
ノエル一人を救うために、ほかの人間の命を危険へさらす義務はない。
「分かりました」
俺は頷いた。
「俺たち六人だけで旧道へ入ります」
ガルドが低い声を出す。
「荷車を離れるのか」
「遺跡へ着くまでに、また干渉されるかもしれない」
「徒歩で一日半という保証はない」
「それでも、通常の道より早い可能性がある」
ガルドは反対したいのだろう。
地図へ向けた目が険しい。
だが、ほかに確実な方法もない。
「食料を分けてください」
俺はバルツへ頼んだ。
「護衛報酬はいりません。俺たちの分の物資だけ持って、旧道へ入ります」
バルツは黙り込んだ。
自分の手首にある黒い線。
白く欠けた地図。
仮称リウスの手紙。
それらを順番に見る。
やがて、小さく息を吐いた。
「補給隊も、旧道へ入ります」
聞き間違いかと思った。
「荷車ごと?」
「勘違いしないでください。あなた方へ恩を返すためではありません」
バルツは、白紙になった北街道の地図を広げた。
「現在の経路が安全であるという保証も、すでに失われています」
地図の一部。
橋。
宿場。
山道の分岐。
白紙鳥に食べられ、情報が欠けている。
「それに」
バルツは、黒い線が刻まれた手首を見る。
「この状態で、あなたから離れるほうが危険だと判断しました」
合理的な答えだった。
バルツらしい。
「ただし、条件があります」
「何ですか」
「旧道が荷車で進めない場合、すぐに引き返します。危険が大きすぎると私が判断した場合も同様です」
「分かりました」
「もう一つ」
バルツは、仮称リウスの鞄を見る。
「先発調査班について何か分かった場合、我々にも知らせてください」
「もちろんです」
「本当の名前も」
俺は頷いた。
「必ず取り戻します」
割れた道標から北東へ進む。
最初にあったのは、何の変哲もない草原だった。
踏み固められた道はない。
二台の荷車が草を倒し、細い車輪の跡を作っていく。
黒い手帳へ表示される銀色の線だけを頼りに進んだ。
一時間。
二時間。
景色は、ほとんど変わらない。
御者台へ座ったノエルが、草原の先を見渡した。
「本当に道があるのか?」
「記録では、この先だ」
「間違ってたら?」
「草原で野宿だな」
「いつもと変わらない」
「荷車二台と、神殿の調査物資があること以外は」
さらに進むと、前方に白いものが見えた。
最初は、岩が並んでいるのだと思った。
近づくにつれ、それが一直線に続いていることが分かる。
白い石。
幅は、荷車二台が並んで進めるほど広い。
継ぎ目が見えないほど滑らかな道が。
草原の中を、北東へ伸びていた。
旧第九巡回路。
ミレナが荷車から降り、白い路面へ手を触れる。
「ひびが一つもありません」
セフも杖の先で表面を叩いた。
石ではなく、金属に近い高い音が響く。
「長い間使われていないはずなのに、草も土もありません」
リアは、白い道を見つめたまま動かなかった。
「夢で見たものと同じです」
道の両側。
一定の間隔で、細長い白い石柱が並んでいる。
人の腰ほどの高さ。
墓標のような形をしているが。
文字も名前も刻まれていない。
「名前のない墓標」
ノエルが低い声で呟く。
リアは、自分の両腕を抱いた。
「数えないでください」
「なぜだ」
ガルドが尋ねる。
「分かりません。ただ、数えてはいけない気がします」
白い道は地平線の先まで続いていた。
見えるだけでも百本以上。
その先には、さらに数え切れないほどの石柱が並んでいる。
馬たちは白い路面へ乗ることを嫌がった。
鼻を鳴らし、後ずさる。
御者が手綱を引いても、前足を踏み出さない。
俺は一人で荷車を降り、先に白い道へ足を置いた。
冷たい。
その瞬間、道全体が淡い光を帯びた。
足元から白い線が走り、地平線の向こうまで伸びていく。
黒い手帳へ文字が現れる。
『第九接続者を確認』
『帰還経路を起動します』
馬たちが静かになった。
先ほどまでの抵抗が嘘のように、白い道へ足を踏み入れる。
「やはり」
ミレナが俺を見る。
「ユーマさんを認識しているのですね」
嬉しくはなかった。
俺が生まれるより前から存在する道。
神崎悠真という人間が来ることを、待っていたかのような経路。
自分が日本から転生したという認識とあまりにも矛盾している。
最初の石柱の横を通る。
何も刻まれていない白い表面。
だが、黒い手帳が僅かに震えた。
『第一観測区画』
『記録閉鎖』
二本目。
『第二観測区画』
『記録閉鎖』
三本目。
『第三観測区画』
『記録閉鎖』
「墓ではない」
俺は足を止めた。
リアが白い石柱へ近づく。
「何と書かれているのですか」
「観測区画。記録は閉鎖されてる」
「区画?」
「それ以上は、まだ読めない」
一つの石柱が、一人の墓ではない。
何らかの場所。
あるいは、一つの状態を記録している。
俺が最初の石柱へ手を伸ばした。
「触らないほうが」
リアの制止より先に指先が白い表面へ触れた。
視界が、一瞬で塗り替えられる。
見知らぬ街。
高い塔。
青い空。
広場を歩く人々。
子供が笑っている。
次の瞬間、街全体が白い光へ呑まれた。
悲鳴さえ残らない。
別の光景。
海上に浮かぶ建物。
大きな波。
崩れる橋。
さらに別の景色。
深い森。
雪原。
砂漠。
どの場所にも、人々の生活があった。
喜び。
争い。
食事。
別れ。
そのすべてが、最後には白く消えた。
俺は石柱から手を離した。
呼吸が乱れている。
「ユーマ!」
ノエルが身体を支えた。
「何を見た」
「消された場所だ」
「鈎針通りみたいな?」
「分からない」
映像は断片的でどの場所も、一瞬しか見えなかった。
だが、鈎針通りよりも、遥かに広い場所だった。
街。
島。
森。
「この石には」
俺は息を整えながら答える。
「一度、存在していたものが消える瞬間が記録されてる」
リアは両側に並ぶ白い石柱を見渡した。
その数を今度は誰も数えようとしなかった。
黒い手帳のページが、勝手に開く。
『帰還経路への接続を確認』
『過去情報の閲覧は制限されています』
『現在の接続状態では、詳細を開示できません』
詳細は分からない。
だが、この道が。
単なる古い街道ではないことだけは確かだった。
荷車を進める。
しばらくすると、白い石柱の中に、一つだけ色の異なるものが見えた。
黒い石柱。
道の中央へ立ち進路を塞いでいる。
その表面には、文字が刻まれていた。
今回は俺だけではない。
リアも。
ガルドたちも。
薄く浮かんだ文章を読むことができた。
『帰還者照合地点』
その下、名前を記すための場所だけが、削られている。
俺が近づくと削られた跡へ、黒い文字がゆっくりと浮かんだ。
『神崎悠真』
誰も言葉を発しなかった。
自分の名前。
この世界へ来てから、まだ十日も経っていない俺の名前が。
いつ作られたのかも分からない石柱へ現れている。
「ユーマ」
ノエルが俺を呼ぶ。
俺は答えられなかった。
石柱の最下部へ、さらに文章が浮かぶ。
『照合情報――不一致』
『帰還者記録――欠損』
『現在人格――未登録』
「未登録?」
声に出した瞬間、遠くから低い鐘の音が聞こえた。
一度。
俺たち全員が、同時に空を見上げる。
白鐘。
ノエルの暫定固定が切れるはずの鐘。
俺は慌てて黒い手帳を確認した。
だが、表示された対象は、ノエル・ハースではなかった。
『帰還者照合の異常を確認』
『緊急修正を開始します』
その下へ、赤い文字で名前が現れる。
『対象――神崎悠真』
今度、世界から消されようとしているのは。
俺だった。




