表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/15

第六章 ~白紙鳥~

紙の嘴が、ノエルの名前を啄んだ。


補給隊の同行者名簿に記された文字の一部が、音もなく白く欠ける。


『ノエル・ハース』


その末尾にあった「ス」の文字だけが、最初から書かれていなかったかのように消えていた。


同時に、隣に立っていたノエルの身体が大きく揺れた。


「ノエル!」


倒れかけた肩を支えると、ノエルは額へ手を当てた。身体は透けていない。呼吸もある。それでも、焦点の合わない目で俺を見ている。


「大丈夫か」


「ああ。多分」


「名前を言え」


「ノエル」


「全部だ。家名まで」


ノエルは口を開いた。


すぐに答えると思った。自分の名前なのだから、考える必要などないはずだった。


だが、声は出なかった。


「俺の家名……何だった?」


背筋が冷たくなる。


紙の鳥が消したのは、名簿に書かれた文字だけではない。ノエル・ハースという名前から、ハースという家名そのものを切り離したのだ。


黒い手帳には、赤い警告が浮かんでいた。


『対象――ノエル・ハース』


『暫定固定への再干渉を確認』


『記録欠損率――一パーセント』


空を覆う白い鳥たちが、無数の羽音を響かせている。


一羽一羽は、手のひらに載るほど小さい。薄い紙を折り曲げただけのような身体で、目も爪もない。


それでも、群れ全体がこちらを見ていると分かった。


先頭の鳥に浮かんでいた文字が消える。


『経路上の不要記録を削除します』


次の瞬間、白い群れが一斉に降ってきた。


「全員、荷車から離れろ!」


ガルドの声が飛ぶ。


鳥たちは人間へ襲いかかるのではなく、二台の荷車へ殺到した。


同行者名簿。


物資の受領書。


食料の一覧。


神殿が発行した通行証。


荷箱に取りつけられた木札。


北方遺跡までの地図。


文字が記されたものへ群がり、紙の嘴を突き立てていく。


バルツが名簿を抱えて逃げようとしたが、三羽が紙の端へ取りついた。


「この書類は、北部駐屯所を通るために必要なものです!」


「手を離せ!」


ガルドが鳥を払い落とそうと、斧の柄を振るった。


一羽が空中で二つに裂ける。


白い紙片が地面へ落ちた。


倒したように見えた。


だが、二枚の紙はそれぞれ折れ曲がり、元より小さな二羽の鳥へ姿を変えた。


「増えたぞ!」


「切るな!」


ガルドが叫ぶ。


その警告が届くより早く、神殿の若い連絡員が短剣で一羽を刺していた。穴の開いた鳥は地面へ落ち、今度は二羽となって飛び上がる。


「物理的に破壊すると分裂します!」


リアが叫んだ。


ガルドが白い群れを睨む。


「先に言え!」


「私も今、確認しました!」


「セフ、火で燃やせ!」


ノエルの声に反応し、セフが杖を構えた。


「燃えろ!」


赤い魔法陣から炎が走る。


紙の鳥の群れが火に包まれ、焼けた紙の臭いが辺りへ広がった。十数羽が黒い灰となり、風に流されていく。


「効いた!」


ノエルが声を上げる。


しかし、燃えた灰が荷車へ降り注いだ。


灰に触れた木箱から、中央神殿の紋章が消えた。


その箱を押さえていたバルツが、怪訝そうに首を傾げる。


「これは、誰の荷物ですか」


「あなたが用意した調査物資です!」


ミレナが答えた。


「私が?」


バルツは木箱を見つめた。


自分で積み込んだはずの荷物。それでも、所有しているという記憶が抜け落ちている。


御者のミゼンも、手綱を握ったまま荷車を振り返った。


「何のために、こんな量の薬品を運んでいるんだ」


「灰にも触れるな!」


俺は叫んだ。


「燃やされた記録が、別の記憶を巻き込んで消している!」


「では、どうすればよいのです!」


セフは風の膜を作り、灰を空中へ押しとどめた。額には汗が浮かんでいる。


鳥は切れば増える。


燃やせば灰となり、周囲の記録を奪う。


これは魔物ではない。


破壊されることまで、最初から想定して作られた存在だ。


「校正補助具」


リアが、白い群れを見上げながら呟いた。


「何だ、それは」


「鳥の身体に浮かんでいる文字です。すべては読めませんが、世界の校正を補助するための道具と記されています」


省略官が持っていた巨大な羽根。


白い紙で作られた鳥。


どちらも、文字を扱うための道具を模している。


あいつらにとって、世界は一冊の文章なのだ。


人の人生も、街の歴史も、仲間との思い出も。


文章の一部でしかない。


矛盾が生じれば、削ってよい記述として扱われる。


一羽の白紙鳥が、俺の胸元へ向かってきた。


黒い手帳を抱え、身体を捻る。


紙の嘴は外套を掠めただけだった。布には傷一つついていない。


代わりに、手帳の一ページから文字が消えた。


『ラトメア北門を出発』


その一文だけが、白い空白になっている。


「記録を食べてる」


さらに一羽。


その後ろから三羽。


白紙鳥たちは、ほかの書類を無視し、俺の手帳へ向きを変え始めた。


「記録者を狙っています!」


リアが警告する。


ガルドが俺の前へ立った。


斧は使わない。大きな外套を広げ、自分の身体で白紙鳥を遮る。


「ガルド!」


紙の嘴が、肩当てに刻まれた冒険者の紋章へ触れた。


革鎧に傷はない。


だが、〈灰色の雲雀〉を示す鳥の紋章だけが、綺麗に消えた。


ガルドの身体が一瞬固まる。


「俺は……何を守っていた」


「俺たちだ!」


俺は黒い手帳へ手を置いた。


「ガルド・バルガス。〈灰色の雲雀〉の代表で、重戦士。俺たちの仲間だ!」


文字が現れ、黒い光となってガルドへ流れ込む。


彼の目へ、意識が戻った。


「そうだ。俺はガルド・バルガスだ」


だが、記録した文章へ紙の鳥が群がる。


一羽を払っても、二羽目が来る。さらに三羽、五羽と増えていく。


書き直した端から食べられていた。


「ユーマ!」


セフが十数羽を風の球体へ閉じ込めている。鳥は内部を飛び回り、紙の嘴で透明な膜を突いていた。


「長くは保ちません!」


ミレナは、バルツと御者たちを荷車の陰へ誘導している。


若い神殿の連絡員は、自分の手に握られた短剣を見つめていた。


「なぜ、私は武器を持っているのでしょう」


「あなたは神殿遺構調査室の連絡員です!」


ミレナが答える。


「名前はエダン。北方遺跡まで、バルツさんを補佐する役目です!」


「エダン……」


名前を聞いても、本人の表情には確信がなかった。


別の場所では、御者のミゼンが、同僚のベックを警戒している。


「お前は誰だ」


「何を言ってる! ベックだ!」


「知らない」


「十年、一緒に馬車を引いてるだろ!」


白紙鳥は名前と役割だけでなく、人間同士の関係まで剝がし始めていた。


このままでは、誰も自分が何者か分からなくなる。


仲間を敵だと思い込み、北方遺跡へ向かう目的も失う。


俺は手帳を開き、白紙鳥そのものを記録しようとした。


『白い紙を折った鳥型の存在』


『文字および記憶へ干渉し――』


文章が途中から消えた。


何度記録しても、同じだった。


手帳へ書く限り、鳥が食べる速度のほうが速い。


「ユーマ!」


ノエルの声に振り返る。


名簿に白紙鳥が群がっていた。


『ノエル・ハー』


さらに一文字が消える。


『ノエル・ハ』


ノエルは両手で頭を押さえていた。


「俺は、ノエル……」


「ハースだ!」


俺は叫んだ。


「お前の名前は、ノエル・ハース!」


「ハース」


ノエルが繰り返す。


だが、自分の名前を誰かから教えられているだけだった。


その表情には、まだ確信がない。


名前や外見だけでは足りない。


鈎針通りで分かったはずだ。


一人の人間は、記号や経歴だけでは形作れない。


他者との関係。


本人の望み。


誰かと過ごした時間。


それらが重なり、初めて一人の人格になる。


手帳だけでは駄目だ。


俺一人が覚えているだけでは、記録を食べる鳥に奪われる。


「ガルド!」


俺は叫んだ。


「ノエルの名前を言ってくれ!」


ガルドが、白紙鳥を外套で受け止めながら声を張った。


「ノエル・ハース!」


「ミレナ!」


「ノエル・ハースです!」


「セフ!」


「ノエル・ハース!」


「リア!」


リアは第九観測鍵を収めた鞄を抱き、ノエルをまっすぐ見た。


「ノエル・ハースです。騒がしく、無計画で、他人の危険を見過ごせない人です!」


四人の声が重なる。


ノエルの身体へ、細い黒い線が現れた。


右手首を囲む腕輪のような線。


黒い手帳にも、新たな文字が浮かび上がる。


『複数観測者による同一記録を確認』


『分散記録を実行しますか』


分散記録。


一冊の手帳だけへ記録を集めるのではない。


同じ事実を知る人間へ、記録を分けて残す。


「実行する!」


黒い手帳から、一つの文章が浮かび上がった。


『ノエル・ハース』


文字は空中で五つに分かれ、俺、ガルド、ミレナ、セフ、リアの胸へ入った。


熱い。


身体の内側へ、文字を直接刻まれたような感覚だった。


名簿の上では、白紙鳥がノエルの最後の文字を啄んでいる。


『ノエル・ハ』


『ノエル・』


名簿から、家名が完全に消えた。


それでも、ノエルは倒れなかった。


彼は自分の胸へ手を当てる。


「俺の名前は、ノエル・ハースだ」


今度の言葉には確信があった。


名簿から消されても、手帳から食べられても、俺たち五人の中には名前が残っている。


白紙鳥の群れが、甲高い音を発した。


鳥の鳴き声ではない。


大量の紙を一度に破いたような音だった。


群れの半分が、一斉に俺たちへ向きを変える。


「効いてる!」


ノエルが短剣を構えた。


「どうしたんだ?」


「俺たち全員へ、お前の記録を分けた!」


「俺も誰かを記録できるのか?」


「分からない。でも、言葉にしろ!」


近くでは、御者のミゼンが、ベックから距離を取っていた。


「ミゼン!」


ベックは、手綱を放り出して相棒へ近づく。


「俺だ。ベックだ!」


「知らない。近づくな」


「お前はミゼン・ロウ! 北街道の御者で、馬に名前をつけるくせに、本人の前では絶対に呼ばない!」


ミゼンの目が揺れる。


「知らない」


「二年前、雪道で馬車が横転したとき、俺を荷台から引っ張り出した! 助けた後で、荷物のほうが重かったって文句を言った!」


「そんなことを……」


「酒を飲むと、亡くなった奥さんの話をする! 朝は必ず左の馬から餌をやる! 右の馬が拗ねると、後でこっそり林檎をやってる!」


「なぜ、それを知っている」


「俺がお前の相棒だからだ!」


ベックは白紙鳥を恐れず、ミゼンの肩を掴んだ。


「ミゼン・ロウ。俺と十年、同じ馬車を引いてきた男だ!」


俺は二人の言葉を記録する。


『ベックは、ミゼン・ロウを十年来の相棒として認識している』


『ミゼン・ロウは、雪道でベックを助けた』


文章を二人へ分ける。


黒い線が、それぞれの手首へ現れた。


ミゼンの目に光が戻る。


「ベック」


「そうだ」


「亡くなった妻の話まで、皆の前でする必要があったか」


「思い出した最初の言葉がそれか!」


そのやり取りを聞き、俺は補給隊全体へ叫んだ。


「隣にいる人の名前を呼んでください! 名前だけではなく、その人について自分が知っていることを話すんです!」


バルツが、不安そうにこちらを見る。


「それで記憶を守れるのですか」


「一人の記録は消されても、複数の人間の間へ残った関係は、一度には消せないみたいです!」


正確な仕組みは分からない。


それでも、今は試すしかない。


バルツは最初に声を上げた。


「エダン・クロウ!」


混乱していた神殿の連絡員へ向けて叫ぶ。


「遺構調査室の見習い連絡員! 書類の封を曲がって押す癖がある!」


エダンが顔を上げる。


「バルツ・オーン」


今度はエダンが答えた。


「遺構調査室の物資管理担当。荷箱の数を三度確認しなければ眠れない。自分は甘いものが嫌いだと言いながら、机の引き出しに蜂蜜菓子を隠しています!」


「余計な情報まで言わなくていい!」


二人の間へ黒い線が伸びる。


ミレナも、ほかの者たちへ声をかけた。


「名前だけではなく、共に過ごした記憶を話してください。失敗でも、癖でも、喧嘩したことでも構いません!」


補給隊の中で、声が次々と上がる。


「お前は朝食前だけ機嫌が悪い!」


「あんたは妻へ手紙を書くたび、私に綴りを聞く!」


「薬草を数えるとき、必ず十三を飛ばす!」


「お前が横で話しかけるからだ!」


名前。


癖。


失敗。


秘密。


助けられたこと。


腹を立てたこと。


誰かと誰かの間へ積み重なった、小さな事実が言葉となっていく。


黒い手帳のページが、激しくめくられた。


俺が一人で記録しているのではない。


全員の言葉が、一度手帳へ集まり、そのまま語った本人と語られた相手へ分かれていく。


手首。


胸元。


額。


黒い細線となって、人と人を結んでいく。


『分散記録対象――二名』


『分散記録対象――六名』


『分散記録対象――十名』


人数が増えていく。


紙の鳥が書類の名前を消しても、荷札を白紙にしても、人々は互いの名前を呼び続けた。


「お前は誰だ!」


「ベックだ!」


「何者だ!」


「お前が壊した馬車の修理代を、三年経っても請求し続けている男だ!」


「それは忘れていい!」


「絶対に忘れさせない!」


恐怖に満ちていたはずの空気に、笑い声が生まれた。


僅かな時間だったが、その笑いも人々をつないだ。


白紙鳥が、人々を結ぶ黒い線へ嘴を突き立てる。


触れた瞬間、紙の先端が焦げたように縮んだ。


「人間そのものではありません」


リアが呟いた。


「この鳥が消せないのは、個人ではない」


「関係だ」


俺は答えた。


書類へ記された名前は消せる。


一人の記憶も書き換えられる。


だが、複数の人間の間に存在するものは、一箇所を削るだけでは消えない。


誰かが覚えている限り。


誰かが名前を呼ぶ限り。


その人間を完全な白紙にはできない。


「ノエル!」


俺はノエルを見る。


「今度は、お前が俺を記録しろ!」


「何を言えばいい!」


「お前が知ってる俺のことを言え!」


ノエルは白紙鳥を避けながら叫んだ。


「神崎悠真! 二十八歳!」


一瞬、言葉が止まる。


「多分!」


「そこは確定してる!」


「異世界から来た記録係! 戦えないくせに、危ない場所へ先に首を突っ込む!」


「もっと良い情報はないのか!」


「飯を食うのが遅い! 俺の金を勝手に計算する! 寝る前には、必ず手帳を開く!」


ノエルから俺へ、黒い線が伸びる。


胸の奥が熱くなった。


「それから!」


ノエルの声が、白い羽音の中を通る。


「俺が世界から消えそうになったとき、自分の大事な記憶を使って助けた!」


その言葉が、胸の空白へ深く刺さった。


母親だと思っていた女性の顔は思い出せない。


声も。


手の温かさも。


それでも、俺が何かを失ったことを、ノエルが覚えている。


記憶を奪われた場所へ、別の人間が持つ記録が重なっていく。


『神崎悠真は、母親だと認識していた人物に関する重要な記憶を失っている』


『その喪失を、ノエル・ハースが記憶している』


俺とノエルを結ぶ黒い線が太くなった。


一羽の白紙鳥が、俺の胸へ突進する。


黒い線へ触れた瞬間、鳥の身体へ亀裂が走った。


裂けた紙は増殖しなかった。


文字の記された破片となり、そのまま地面へ落ちる。


「増えなかった」


セフが叫んだ。


リアは落ちた紙片へ視線を向ける。


「関係の記録へ触れたことで、校正する側の情報が上書きされたのかもしれません!」


「それなら、鳥を線へ誘導する!」


ノエルが両腕を広げ、白紙鳥の群れの前へ出た。


「こっちだ、紙くず!」


セフが呆れたように声を上げる。


「挑発が通じる相手ですか!」


白紙鳥の群れが、一斉にノエルへ向いた。


「通じたみたいだぞ!」


「あなたは、人間以外を怒らせる才能もあるのですか!」


「褒めるなよ!」


「褒めていません!」


群れがノエルへ殺到する。


俺たち五人とノエルを結ぶ黒い線が、網のように広がった。


ガルド。


ミレナ。


セフ。


リア。


俺。


六人の間にある関係へ、白紙鳥が次々と触れる。


触れた鳥から亀裂が走り、白い紙片となって落ちていった。


百羽近くいた群れは、急速に数を減らしていく。


五十。


二十。


十。


最後に残った数羽が、急に方向を変えた。


二台目の荷車。


その奥に積まれている、小さな布製の鞄。


北方遺跡へ向かった先発調査班。


記録から消された六人目。


仮称エクウスの荷物。


「鞄を狙ってる!」


俺は走った。


一羽の白紙鳥が、開いた鞄の中へ飛び込む。


子供から父親へ送られた手紙。


小さな木彫りの馬。


紙の嘴が手紙へ向かう。


間に合わない。


鳥の先端が、子供の文字へ触れた。


『おとうさんへ』


最初の一文が白く消え始める。


そのとき、誰も座っていないはずの荷台が沈んだ。


見えない手が、白紙鳥の身体を掴む。


鳥は空中でもがいた。


白い紙へ、五本の指の跡だけが浮かんでいる。


少しずつ、人の輪郭が現れた。


腕。


肩。


荷台へ腰掛ける身体。


色はなく、透明なガラスで作られた人影のようだった。


それでも。


そこに誰かがいる。


透明な男は、手の中の白紙鳥を握り潰した。


鳥は分裂しない。


文字の刻まれた紙片となり、指の隙間から落ちていく。


「エクウス」


リアが、仮の名を呼んだ。


透明な人影が、僅かに顔を上げた。


俺たちを見たような気がする。


胸元には、神殿調査員が着る褐色の上着。


年齢は、三十代後半か四十代。


腰には小さな革袋。


顔も。


本当の名前も分からない。


だが。


父親だった。


誰かが帰りを待っている人間だ。


透明な男は、子供からの手紙へ触れた。


『いせきからかえったら、こんどこそ、いっしょにうまをみにいってください』


子供の文字が淡く光る。


俺は黒い手帳へ手を置いた。


「この人には、帰りを待っている子供がいる」


文章が現れる。


『仮称エクウスには、北方遺跡からの帰還を待つ子供がいる』


『子供と馬を見に行く約束をしている』


「ほかに何か覚えている人はいませんか!」


補給隊の全員へ呼びかける。


皆が、透明な男を見ていた。


失われた記憶を探るように顔をしかめる。


バルツが、こめかみを押さえた。


「荷台の座席が、一つ多かった」


「ほかには?」


「出発前。私は、十一人分の荷物を数えた気がします」


御者のベックが口を開く。


「昨夜、干し肉を一人分多く積んだ。数え間違いだと思っていた」


エダンが、透明な男の上着を見る。


「誰かが、封印箱の紐を結び直しました。私は手が離せなかったので、調査員の一人へ頼んだはずです」


名前も顔も残っていない。


それでも、男が行動した痕跡はある。


余った座席。


一人分多い食料。


結び直された紐。


子供からの手紙。


俺は一つずつ記録した。


黒い文字が透明な人影へ集まる。


身体へ、僅かに色が戻った。


褐色の上着。


日に焼けた手。


左手の薬指には、細い指輪。


顔だけは、まだ白い。


男の口が動く。


声は出なかった。


それでも、何を求めているかは分かった。


――名前を。


「すまない」


俺は首を横に振った。


「まだ、本当の名前は分からない」


男は手紙を握り、僅かに肩を落とした。


だが、次に顔を上げると、自分の胸元を指した。


上着の内側。


俺は透明な指が示す場所を探った。


布地の裏へ、小さな金属板が縫いつけられている。


神殿遺構調査室の通行許可証だった。


表面の名前は削除されている。


しかし、裏側には、摩耗した文字が僅かに残っていた。


『――リウス』


「リウス」


その音を口にすると、透明な人影の輪郭が震えた。


反応している。


「本名の末尾かもしれません」


リアが金属板を覗き込む。


「エクウスという仮名より、本人に近い情報です」


「完全な名前ではない」


「それでも、何もないよりは強いはずです」


俺は黒い手帳を開いた。


『仮称を変更』


『旧仮称――エクウス』


『新仮称――リウス』


『本名の一部である可能性が高い』


文字が固定された。


透明な男の顔に、口元だけが現れる。


笑っていた。


次の瞬間、男の身体が黒い文字へ変わった。


消滅したのではない。


文字は手紙と木彫りの馬へ吸い込まれていく。


子供の手紙の最後へ、大人の筆跡が一行だけ現れた。


『必ず帰る』


ノエルが、手紙へ顔を近づける。


「本人が書いたのか?」


「分からない」


だが、記録することはできた。


『仮称リウスは、子供の元へ帰還する意思を持っている』


名前を奪われた調査員。


世界から省略された父親。


彼も完全には消えていない。


北方遺跡に残る原記録を見つけられれば、戻せる可能性がある。


ノエルだけではない。


鈎針通りの四十七人。


南水路の調査員。


これまで世界から消された人々。


彼らも、どこかに痕跡が残っているのかもしれない。


それは希望だった。


同時に、恐ろしくもあった。


一人を残すだけで、俺は大切な記憶を失った。


すべての人間を取り戻すには、どれだけの代償が必要になるのか。


俺一人の記憶だけで、足りるはずがなかった。


白紙鳥の群れが消えた後、地面には、文字の刻まれた紙片が大量に残っていた。


風に飛ばされないよう集め、厚い布袋へ入れる。


新しい白紙。


黄ばんだ羊皮紙。


焼け焦げた紙。


青い繊維を含む薄片。


黒い金属のようなものまで混じっている。


「すべて同じ材料ではありません」


リアが、一枚ずつ紙片を確認する。


セフも光へ透かし、紙の厚さを比べていた。


「鳥の姿をしていたときは、同じ白い紙に見えました」


「表面だけを同じ状態へ整えていたのでしょう」


俺は一枚を《記録》する。


『白紙鳥の残骸』


『原材料――削除済み記録』


「消した記録から、自分たちの身体を作ってる」


人の名前。


街の歴史。


存在しなかったことにされた契約。


忘れられた出来事。


それらを白紙へ戻し、次の校正へ使っている。


一枚の紙片へ触れた瞬間。


頭の中へ、声が流れ込んだ。


――寒い。


子供の声。


一瞬だけ、紙の表面に、雪の中へ建つ家が見えた。


すぐに消える。


別の紙片。


――城壁が崩れる。


男の叫び。


さらに一枚。


――明日になれば、この争いは最初からなかったことになる。


誰かの泣き声。


「ユーマ」


ノエルが俺の腕を掴んだ。


「顔色が悪いぞ」


俺は紙片から手を離した。


声は聞こえなくなる。


「この中には、消された記憶が残ってる」


白紙ではない。


見えない状態へ変えられているだけだ。


紙片の一枚一枚に、誰かが生きた痕跡がある。


「持っていく」


俺は布袋の口を閉じた。


「北方遺跡で調べる」


ミレナが不安そうに紙片を見る。


「再び鳥へ戻る可能性はありませんか」


「分散記録に触れた鳥は、機能を失ったように見えた。少なくとも、今すぐ動く様子はない」


確実ではない。


それでも、捨てることはできなかった。


消された誰かの記録をもう一度、見なかったことにはしたくない。


白紙鳥によって、補給隊の書類は大きな損害を受けていた。


荷札の半分が白紙になり、どの箱を誰が管理していたのか分からなくなっている。


北方遺跡までの経路図も、一部が丸ごと消されていた。


バルツは、白紙となった物資一覧を前に立ち尽くしている。


「これでは、遺跡へ到着しても、何を届けたのか証明できません」


「俺の手帳に、出発前の情報が一部残っています」


積み込まれた食料。


薬品。


調査器具。


灯油。


木材。


数まですべて記録しているわけではない。


だが、バルツたちが互いの記憶を持ち寄れば、かなりの情報を戻せるはずだ。


「一人で思い出そうとしないでください」


俺は言った。


「自分に分からなくても、別の人が覚えている可能性があります。全員で確認して、同じ内容を複数の場所へ残しましょう」


バルツは、自分の手首に刻まれた黒い線を見る。


「先ほどの力を、もう一度使えるのですか」


「恐らく」


「恐らくですか」


「今日、初めて使ったので」


バルツは不安そうだった。


それでも、ほかに方法はない。


荷箱を一つずつ開ける。


薬品の匂い。


瓶の形。


包装紙の印。


箱の角についた傷。


断片的な記憶を持ち寄り、所有者と内容を確認していく。


俺の黒い手帳だけではない。


荷箱の内側。


木製の札。


バルツの帳面。


リアの白い本。


複数の場所へ、同じ情報を残した。


一つが消されても、別の記録から戻せるように。


「記録は、一箇所へ集めないほうがよいでしょう」


セフが、復元した物資一覧を見ながら言った。


「これまでのユーマは、ほとんどすべてを黒い手帳へ記録していました」


「一冊なら管理しやすい」


「同時に、その一冊が奪われれば、すべてを失います」


反論できなかった。


俺の《記録》は、世界の改変に耐えられる。


その強さに頼り、すべてを自分一人へ集めていた。


だが、俺が消え手帳を奪われれば。


そこに記録されたものまで失う可能性がある。


一人がすべてを覚えることは。


強さではなく、危険でもある。


「これからは、重要な記録を分ける」


俺は仲間たちを見た。


「俺の手帳だけではなく、皆にも覚えてもらう」


ガルドが尋ねる。


「言葉を聞くだけでいいのか」


「同じ事実を、自分の意思で真実だと認める必要があるみたいだ」


ノエルを存在固定したとき。


ガルドたちは、それぞれが自分しか知らないノエルを語った。


俺から聞かされた情報ではない。


実際に関わり、自分の目で知ったことだった。


それが強い記録になった。


リアが、復元した物資一覧へ視線を落とす。


「人間一人を理解するには、本を一冊読むより時間がかかります」


ノエルがすぐに反応した。


「人間と本を比べるなよ」


「本は勝手に嘘をつきません」


「この世界の本は書き換わるだろ」


「だから困っているのです」


「俺は書き換わらないぞ」


リアは、ノエルを一度見る。


「昨日と今日で借金の額が変わっています」


「増える方向にな」


「誇ることではありません」


二人の言い争いを聞きながら、俺は手帳を開いた。


ただし、今回は文字として残すだけではない。


「リア・エルセインとノエル・ハースは、会話を始めると高い確率で言い争う」


「不要です」


リアが即座に答えた。


ノエルは楽しそうに笑う。


「俺は覚えたぞ」


二人の手首を結ぶ黒い線が、僅かに強くなった。


こんな事実でも、二人の間にしか存在しない関係の一部だった。


残された問題は、進む道だった。


白紙鳥の襲撃によって、すでに二時間近く失っている。


通常の北街道を進めば、北方遺跡まで三日。


黒い手帳が示す白鐘の予測は、六日以内。


数字の上では間に合う。


だが、白紙鳥のように、鐘を待たずにノエルへの干渉が始まっている。


少しでも早く、原記録へたどり着かなければならない。


俺は黒い手帳の地図を開いた。


通常の北街道から外れ、北東へ伸びる細い銀色の線。


現在の地図には存在しない道。


『旧第九巡回路』


推定所要時間。


一日半。


「この道を使えば、遺跡へ早く着ける」


バルツへ地図を見せると、彼は露骨に顔をしかめた。


「その道は、公的な地図に存在しません」


「今は使われていないだけです」


「使われていない道へ、荷車二台を入れるのですか」


「入口は確認しています」


「路面の状態も、水場も、魔物の情報もありません」


商人ではなく、物資管理を任された人間として当然の判断だった。


補給隊には、補給隊の目的がある。


荷物を安全に運び、先発調査班へ届ける。


ノエル一人を救うために、ほかの人間の命を危険へさらす義務はない。


「分かりました」


俺は頷いた。


「俺たち六人だけで旧道へ入ります」


ガルドが低い声を出す。


「荷車を離れるのか」


「遺跡へ着くまでに、また干渉されるかもしれない」


「徒歩で一日半という保証はない」


「それでも、通常の道より早い可能性がある」


ガルドは反対したいのだろう。


地図へ向けた目が険しい。


だが、ほかに確実な方法もない。


「食料を分けてください」


俺はバルツへ頼んだ。


「護衛報酬はいりません。俺たちの分の物資だけ持って、旧道へ入ります」


バルツは黙り込んだ。


自分の手首にある黒い線。


白く欠けた地図。


仮称リウスの手紙。


それらを順番に見る。


やがて、小さく息を吐いた。


「補給隊も、旧道へ入ります」


聞き間違いかと思った。


「荷車ごと?」


「勘違いしないでください。あなた方へ恩を返すためではありません」


バルツは、白紙になった北街道の地図を広げた。


「現在の経路が安全であるという保証も、すでに失われています」


地図の一部。


橋。


宿場。


山道の分岐。


白紙鳥に食べられ、情報が欠けている。


「それに」


バルツは、黒い線が刻まれた手首を見る。


「この状態で、あなたから離れるほうが危険だと判断しました」


合理的な答えだった。


バルツらしい。


「ただし、条件があります」


「何ですか」


「旧道が荷車で進めない場合、すぐに引き返します。危険が大きすぎると私が判断した場合も同様です」


「分かりました」


「もう一つ」


バルツは、仮称リウスの鞄を見る。


「先発調査班について何か分かった場合、我々にも知らせてください」


「もちろんです」


「本当の名前も」


俺は頷いた。


「必ず取り戻します」


割れた道標から北東へ進む。


最初にあったのは、何の変哲もない草原だった。


踏み固められた道はない。


二台の荷車が草を倒し、細い車輪の跡を作っていく。


黒い手帳へ表示される銀色の線だけを頼りに進んだ。


一時間。


二時間。


景色は、ほとんど変わらない。


御者台へ座ったノエルが、草原の先を見渡した。


「本当に道があるのか?」


「記録では、この先だ」


「間違ってたら?」


「草原で野宿だな」


「いつもと変わらない」


「荷車二台と、神殿の調査物資があること以外は」


さらに進むと、前方に白いものが見えた。


最初は、岩が並んでいるのだと思った。


近づくにつれ、それが一直線に続いていることが分かる。


白い石。


幅は、荷車二台が並んで進めるほど広い。


継ぎ目が見えないほど滑らかな道が。


草原の中を、北東へ伸びていた。


旧第九巡回路。


ミレナが荷車から降り、白い路面へ手を触れる。


「ひびが一つもありません」


セフも杖の先で表面を叩いた。


石ではなく、金属に近い高い音が響く。


「長い間使われていないはずなのに、草も土もありません」


リアは、白い道を見つめたまま動かなかった。


「夢で見たものと同じです」


道の両側。


一定の間隔で、細長い白い石柱が並んでいる。


人の腰ほどの高さ。


墓標のような形をしているが。


文字も名前も刻まれていない。


「名前のない墓標」


ノエルが低い声で呟く。


リアは、自分の両腕を抱いた。


「数えないでください」


「なぜだ」


ガルドが尋ねる。


「分かりません。ただ、数えてはいけない気がします」


白い道は地平線の先まで続いていた。


見えるだけでも百本以上。


その先には、さらに数え切れないほどの石柱が並んでいる。


馬たちは白い路面へ乗ることを嫌がった。


鼻を鳴らし、後ずさる。


御者が手綱を引いても、前足を踏み出さない。


俺は一人で荷車を降り、先に白い道へ足を置いた。


冷たい。


その瞬間、道全体が淡い光を帯びた。


足元から白い線が走り、地平線の向こうまで伸びていく。


黒い手帳へ文字が現れる。


『第九接続者を確認』


『帰還経路を起動します』


馬たちが静かになった。


先ほどまでの抵抗が嘘のように、白い道へ足を踏み入れる。


「やはり」


ミレナが俺を見る。


「ユーマさんを認識しているのですね」


嬉しくはなかった。


俺が生まれるより前から存在する道。


神崎悠真という人間が来ることを、待っていたかのような経路。


自分が日本から転生したという認識とあまりにも矛盾している。


最初の石柱の横を通る。


何も刻まれていない白い表面。


だが、黒い手帳が僅かに震えた。


『第一観測区画』


『記録閉鎖』


二本目。


『第二観測区画』


『記録閉鎖』


三本目。


『第三観測区画』


『記録閉鎖』


「墓ではない」


俺は足を止めた。


リアが白い石柱へ近づく。


「何と書かれているのですか」


「観測区画。記録は閉鎖されてる」


「区画?」


「それ以上は、まだ読めない」


一つの石柱が、一人の墓ではない。


何らかの場所。


あるいは、一つの状態を記録している。


俺が最初の石柱へ手を伸ばした。


「触らないほうが」


リアの制止より先に指先が白い表面へ触れた。


視界が、一瞬で塗り替えられる。


見知らぬ街。


高い塔。


青い空。


広場を歩く人々。


子供が笑っている。


次の瞬間、街全体が白い光へ呑まれた。


悲鳴さえ残らない。


別の光景。


海上に浮かぶ建物。


大きな波。


崩れる橋。


さらに別の景色。


深い森。


雪原。


砂漠。


どの場所にも、人々の生活があった。


喜び。


争い。


食事。


別れ。


そのすべてが、最後には白く消えた。


俺は石柱から手を離した。


呼吸が乱れている。


「ユーマ!」


ノエルが身体を支えた。


「何を見た」


「消された場所だ」


「鈎針通りみたいな?」


「分からない」


映像は断片的でどの場所も、一瞬しか見えなかった。


だが、鈎針通りよりも、遥かに広い場所だった。


街。


島。


森。


「この石には」


俺は息を整えながら答える。


「一度、存在していたものが消える瞬間が記録されてる」


リアは両側に並ぶ白い石柱を見渡した。


その数を今度は誰も数えようとしなかった。


黒い手帳のページが、勝手に開く。


『帰還経路への接続を確認』


『過去情報の閲覧は制限されています』


『現在の接続状態では、詳細を開示できません』


詳細は分からない。


だが、この道が。


単なる古い街道ではないことだけは確かだった。


荷車を進める。


しばらくすると、白い石柱の中に、一つだけ色の異なるものが見えた。


黒い石柱。


道の中央へ立ち進路を塞いでいる。


その表面には、文字が刻まれていた。


今回は俺だけではない。


リアも。


ガルドたちも。


薄く浮かんだ文章を読むことができた。


『帰還者照合地点』


その下、名前を記すための場所だけが、削られている。


俺が近づくと削られた跡へ、黒い文字がゆっくりと浮かんだ。


『神崎悠真』


誰も言葉を発しなかった。


自分の名前。


この世界へ来てから、まだ十日も経っていない俺の名前が。


いつ作られたのかも分からない石柱へ現れている。


「ユーマ」


ノエルが俺を呼ぶ。


俺は答えられなかった。


石柱の最下部へ、さらに文章が浮かぶ。


『照合情報――不一致』


『帰還者記録――欠損』


『現在人格――未登録』


「未登録?」


声に出した瞬間、遠くから低い鐘の音が聞こえた。


一度。


俺たち全員が、同時に空を見上げる。


白鐘。


ノエルの暫定固定が切れるはずの鐘。


俺は慌てて黒い手帳を確認した。


だが、表示された対象は、ノエル・ハースではなかった。


『帰還者照合の異常を確認』


『緊急修正を開始します』


その下へ、赤い文字で名前が現れる。


『対象――神崎悠真』


今度、世界から消されようとしているのは。


俺だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ