第五章 ~母の顔を忘れた朝~
母の顔を思い出せない。
その事実を、本当の意味で理解したのは、鈎針通りから生還した翌朝だった。
夢を見た。
雨が降っていた。
幼い俺は、黄色い傘の下で水たまりを見つめている。
道端には、羽を濡らした小鳥が落ちていた。
俺の隣には、誰かがいた。
大人の女性。
白い指。
細い腕。
小さな俺の手を包む、柔らかな温度。
その人が、何かを言った。
優しい声だった。
俺の名前を呼んだのだと思う。
けれど、顔がない。
目も。
鼻も。
口も。
声には、音がなかった。
人の形をした白い空白だけが、雨の中で俺の手を握っている。
「母さん」
そう呼んだ瞬間、白い人影は、雨へ溶けるように消えた。
目を開けると、見慣れ始めた夕暮れ亭の天井があった。
古びた梁。
雨漏りの跡らしい薄い染み。
小さな窓から差し込む朝の光。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
身体を起こし、隣の寝台を見る。
ノエルが、毛布を蹴飛ばして眠っていた。
上着はめくれ、腹が出ている。
赤褐色の髪にはひどい寝癖。
右耳には、真鍮製の輪。
寝息に合わせて、胸がゆっくり上下している。
生きている。
消えていない。
その姿を確認しただけで、胸の奥に詰まっていたものが、僅かにほどけた。
俺は枕元から黒い手帳を取った。
日本について記録したページを開く。
『神崎悠真』
『日本と呼ばれる世界で生活していた』
『父親と母親に該当する人物が存在したと認識している』
それだけだった。
名前がない。
年齢もない。
容姿も。
声も。
どこで暮らしていたのかも書かれていない。
母親について記録しようとする。
雨の日。
黄色い傘。
濡れた小鳥。
手を握っていた女性。
しかし、ページには何も現れなかった。
「記録できないのか」
《記録》は、分からないことを事実として残さない。
母親に当たる人物がいたと、俺が認識していたことは記録できる。
だが、その人が本当に母親だったのか。
どんな人物だったのか、今の俺には確かめられない。
顔も声もない誰か。
血縁関係を示す項目だけが残り、一人の人間としての姿は、記憶から失われていた。
「何してるんだ?」
声に顔を上げる。
ノエルが寝台の上で、片目だけを開けていた。
「起こしたか」
「いや。腹が減って起きた」
ノエルは大きな欠伸をしながら、身体を起こした。
昨日、世界から消えかけた少年。
けれど今は、寝癖も、眠そうな目も、革鎧の下に隠れている古い傷も。
以前と変わらず、そこにある。
「何を書いてたんだ?」
「母親について記録しようとしていた」
ノエルの欠伸が止まった。
「思い出せないのか」
「ああ」
「顔も?」
「分からない」
「声は」
「何も」
ノエルは黙った。
普段なら、気まずくなれば、何かしら軽口を言う。
だが、今は言葉が見つからないようだった。
やがて、膝の上で両手を握り、小さく言う。
「悪かった」
「何が」
「俺のせいで消えた」
「お前のせいじゃない」
「でも、俺を残すために使ったんだろ」
「俺が選んだことだ」
「それでも」
「ノエル」
俺は手帳を閉じた。
「お前が謝ると、俺がした選択が間違いだったみたいになる」
ノエルが唇を噛む。
「そんなつもりじゃない」
「分かってる」
母親だと思っていた人物の顔を失ったことは、苦しい。
記憶に残った空白へ触れるたび、胸の一部が、内側へ沈んでいく。
それでも、目の前にはノエルがいる。
声がある。
呼吸がある。
昨日、消えたくないと叫んだ少年が、今朝は腹を空かせて起きている。
その事実を残すためにしたことを間違いだったとは思いたくなかった。
「後悔はしてない」
俺が言うと、ノエルは何かを言いかけた。
だが、結局、口を閉じた。
しばらく考えた後、寝台から降りる。
「じゃあ」
「何だ」
「俺が覚えておく」
意味が分からず、ノエルの顔を見る。
「何を?」
「ユーマが、大事な人の顔を忘れたこと」
「忘れたことを覚えて、どうする」
「いつか取り戻せるかもしれないだろ」
ノエルは当然のことのように言った。
「そのとき、ユーマが忘れたことまで忘れてたら、探そうともしない」
失ったことさえ忘れる。
以前、ノエル自身が言っていた。
人間は、悲しいことも。
嬉しいことも。
大切だった人の声も忘れる。
やがて、忘れたという事実さえ、忘れてしまう。
「だから、俺が覚えとく」
ノエルは、自分の胸を指した。
「ユーマには、母親だと思っていた人がいた。雨の日の記憶があった。黄色い傘と、濡れた小鳥が出てきた」
俺が「母親」と断定せずにいることまで。
ノエルは、きちんと聞いていたらしい。
「俺の代わりに記録するのか」
「俺は手帳じゃないぞ」
「お前の記憶は信用できない」
「ひどくないか?」
「昨日の朝食を覚えてるか」
「肉だった」
「麦粥だ」
「肉もあった」
「宿の主人に隠れて、お前が増やした分だ」
ノエルが胸を張る。
「ほら。覚えてるじゃん、俺」
「自分が盗んだ肉だけだろ」
ノエルが笑った。
俺も僅かに笑った。
失われた記憶は戻らない。
それでも、自分以外の誰かが。
失ったものの存在を覚えてくれる。
それは、俺がノエルへしたことと、少し似ているのかもしれなかった。
俺は黒い手帳を開く。
『ノエル・ハースは』
『神崎悠真が、母親だと認識していた人物に関する記憶を失ったことを、覚えておくと約束した』
文字は問題なく現れた。
ノエルが横からページを覗く。
「結局、記録するのかよ」
「お前が忘れるかもしれないからな」
「信用ないな、俺」
「日頃の行いだ」
ノエルは不満そうだったが、手帳に残された文章を、何度も読み返していた。
朝食を終えた後、俺たちは夕暮れ亭の奥にある、狭い物置へ集まった。
酒樽。
壊れた椅子。
使われていない燭台。
古い掃除道具。
本来は、それらを置いておくための部屋だ。
宿の主人へ銀貨一枚を支払い、数日間、会議室代わりに借りることになった。
「物置に銀貨一枚は高くないか?」
ノエルが小声で文句を言う。
閉じた扉の向こうから、宿の主人の怒鳴り声が飛んできた。
「お前の未払い分を考えれば安い!」
ノエルが扉を見た。
「聞いてたのかよ」
「この宿で俺に聞こえない話をしたければ、街の外へ行け!」
ノエルはさらに声を落とす。
「地獄耳だな」
扉が勢いよく開き、木製のお玉が飛んできた。
ノエルは反射的に身を屈める。
お玉は背後の酒樽へ当たり、床へ落ちた。
「聞こえてるぞ!」
扉が閉まる。
俺たちは、しばらく無言で、落ちたお玉を見つめた。
「本題に入る」
ガルドが咳払いをした。
中央へ置いた木箱を机代わりにし、その上へラトメア北部の地図を広げる。
ラトメア北方遺跡。
正式な名称は「古代神殿跡地、北部第七遺構」
ラトメアから北へ、およそ百六十キロ。
山間部に存在する、数百年前から放棄された遺跡だった。
通常の街道を使えば、徒歩で四日。
荷馬車でも、山道を含むため三日はかかる。
黒い手帳によれば、ノエルを恒久的に残すために必要な「原記録」の最終観測痕跡が、その遺跡にある。
問題は、次の白鐘が、いつ鳴るのか分からないことだった。
「鐘が鳴る間隔に、規則はないのか」
ガルドがリアを見る。
リアは、王立西方図書院から持ってきた白い本と消失伝承をまとめた資料を開いた。
「伝承として確認できる範囲では、最短が三日。最長は十一年です」
セフが顔をしかめた。
「差がありすぎます」
「地域によって記録が異なります。同じ夜、王都では鐘が聞こえず、西部だけで異変が起きた例もあります」
「世界全体を、同時に書き換えているわけではない?」
俺が尋ねると、リアは頷いた。
「鈎針通りで確認したような、特定地域だけを対象とする処理があるのでしょう」
「次の白鐘が、ノエルを対象にするとは限らない」
セフが言う。
「だが」
ガルドは地図に記された北方遺跡を指した。
「時間があるとは考えない。可能な限り早く出発する」
「北方遺跡について、何か分かっていることは?」
俺の問いに、リアが資料を一枚広げた。
現在の地図よりも古い、五十年前に作られた遺跡周辺図だった。
「地上部分は、石柱と祭壇跡のみ。地下には複数の通路がありますが、大部分が崩落しています」
「魔物は?」
ガルドが尋ねる。
「灰狼、岩蜥蜴、洞窟蜘蛛。過去には、下層で人型の石像が動いたという記録もあります」
ノエルが地図へ顔を寄せる。
「白い扉は?」
「正式な調査記録にはありません」
「でも、手帳はそこにノエルの記録があると言ってる」
俺は黒い手帳を机へ置いた。
「遺跡の中に、地図や報告書へ残されていない区画があるはずだ」
「鈎針通りと同じですね」
ミレナが呟く。
「存在しているのに、記録から切り離された場所」
「第九観測鍵は壊れた」
ガルドがリアを見る。
「遺跡でも、同じ鍵が必要になる可能性はあるか」
「あります」
リアの指が、机に置かれた白い本の表紙へ触れる。
「ただし、観測鍵は完全に失われたわけではないと思います」
「砕けて水路へ流れただろ」
ノエルが言う。
「物体としては、です」
リアは俺の黒い手帳を見た。
「ユーマさんは、壊れる前の観測鍵を記録しています。鈎針通りから脱出した際も、一時的に再現できました」
「何度でも使えるのか?」
「分かりません」
「俺の記録から再現するたびに、何かを失う可能性もある」
黒糖パン。
第九観測鍵。
記録から存在を再現できることは分かった。
だが、何もないところから、自由に物を作っているわけではない。
どこから情報や領域を得ているのか。
どんな代償が発生するのか。
まだ分からない。
「必要になるまで使わない」
ガルドが判断した。
「遺跡へ入り、通常の方法で進めるところまで進む。記録鍵の再現は最後の手段だ」
全員が頷いた。
その後、ガルドはリアへ目を向けた。
「お前は本当に来るのか」
「そのつもりです」
「鈎針通りで分かったはずだ。俺たちが相手にしているのは、人間でも魔物でもない」
「理解しています」
「図書院へ戻れば、これまでの生活を続けられる」
「戻れません」
迷いのない返答だった。
リアは、腰の鞄から一枚の紙を取り出した。
王立西方図書院が発行した職員証明書。
氏名。
役職。
勤務開始日。
書類の中央には。
リア・エルセインと記されている。
だが、出生地。
家族構成。
推薦者。
採用に至った経緯。
それらの欄は、すべて空白だった。
「以前は、何か書かれていたのか」
ガルドが尋ねる。
「昨日までは」
「内容は覚えている?」
俺が聞くと、リアは職員証から目を逸らさなかった。
「いいえ」
物置に静かな空気が落ちる。
「空欄になっていることへ気づくまで、私は自分の出生地を思い出せないことに気づきませんでした」
「幼い頃の記憶は?」
ミレナが、刺激しないように穏やかな声で尋ねる。
「七歳以前の記憶がありません」
リアは淡々と答えた。
「私は、王立西方図書院の裏門で倒れていたそうです。自分の名前が書かれた紙だけを持っていました」
「家族は」
「見つかっていません」
ノエルが職員証の空白を見つめる。
「それを、今まで不思議に思わなかったのか?」
「正確には」
リアは僅かに目を伏せた。
「不思議に思おうとしなかったのかもしれません」
七歳の身元不明の少女が、なぜ王立施設の裏門で倒れていたのか。
誰が名前を書いた紙を持たせたのか。
どうして、家族も出身地も分からない子供が、図書院で育てられたのか。
疑問に思うべきことは、いくらでもある。
だが、リア自身も周囲の人間も、それを当然のこととして受け入れていた。
記録だけではない。
疑問を抱くことさえ、校正によって取り除かれる可能性がある。
「省略官は」
リアが続ける。
「私を、旧い閲覧権限の残滓と呼びました」
「意味は分からない」
俺が言う。
「はい」
リアは顔を上げた。
「だから確かめます」
銀縁眼鏡の奥。
琥珀色の瞳には、恐怖があった。
それでも、逃げるつもりはないらしい。
「私が何者なのか。なぜ、消された文字を読めるのか。白鐘の九回目を知っていたのか」
「図書院に残れば」
ガルドが言う。
「次に消される可能性もある」
「その可能性がある以上、何も知らずに待つつもりはありません」
「俺が記録する」
言葉が、考えるより先に出た。
リアが俺を見る。
「名前も。姿も。話したことも。今から残せるものは記録する」
「私を固定するため、あなたが記憶を差し出すことになる可能性があります」
「固定するかどうかは、そのとき全員で考える」
俺は黒い手帳を開いた。
「記録することと。勝手に誰かの人生を背負うことは、同じじゃない」
俺はノエルを救うため、代償を払うと決めた。
あのときは、ほかに時間も方法もなかった。
だが、これからも同じことを続ければ、いつか記録される側の意思まで無視することになる。
誰を残すのか。
どんな代償を払うのか。
俺一人で決めてよいことではない。
「ただ」
俺はリアを見た。
「何も記録しなければ。選ぶ機会そのものがなくなる」
リアは少しだけ黙った。
やがて、小さく頷く。
「合理的です」
「素直に、お願いしますとは言えないのか」
ノエルが口を挟む。
リアは彼を見ずに答えた。
「必要性を認めただけです」
俺は《記録》を発動した。
『リア・エルセイン』
『年齢、十九歳と申告』
『王立西方図書院、補助司書』
『黒髪』
『琥珀色の瞳』
『銀縁眼鏡』
『消された文字の一部を認識できる』
『幼少期の記録が欠落している』
そこまで記した後、もう一つ。
『水路で転びかけた際、自分が転んだことを認めなかった』
リアが即座にページへ顔を近づけた。
「最後の記録は不要です」
「確認した事実だ」
「物語の進行に関係ありません」
「残すかどうかを選べると、さっき言ったばかりだろ」
「では、削除してください」
「後から削除できるかは、まだ分からない」
リアの表情が僅かに引きつった。
ノエルが声を上げて笑う。
「よかったな、リア。千年後まで残るぞ」
「あなたが南水路で三度転倒したことも記録します」
「俺は転んでない」
「一度目は水へ落ちました」
「押されたんだよ」
「二度目は壁に衝突しました」
「暗かったからだ」
「三度目は、何もない場所で足を滑らせました」
「何で全部見てるんだよ」
「観察は司書の基本です」
二人が言い争う。
ミレナが、口元へ手を当てて笑った。
ガルドは眉間を押さえる。
セフだけは、地図を見つめたまま呟いた。
「同行者は六人になりますね」
ガルド。
ミレナ。
セフ。
ノエル。
俺。
そして、リア。
ノエルがリアを見る。
「〈灰色の雲雀〉へ入る?」
「入りません」
即答だった。
「なぜ」
「名前が安直です」
「俺が考えたんだぞ」
「納得しました」
「どういう意味だよ」
騒がしい会話を聞きながら、俺は黒い手帳の最後のページを開いた。
『根本記録可能数――四』
ノエルを暫定固定しても、数字は減らなかった。
この四回が何を示すのか、まだ分からない。
指先で数字へ触れる。
一瞬、四という数字の下から、細い銀色の線が伸びた。
四本。
一本は、北。
北方遺跡がある方向。
一本は、東。
一本は、遥か南西。
そして、最後の一本だけは。
手帳に記された、神崎悠真という名前へつながっていた。
瞬きをすると線は消えた。
北方遺跡へ向かうには、少なくない準備が必要だった。
食料。
防寒具。
山道用の靴。
灯具。
縄。
治療薬。
崩落した遺跡で使う鉄杭。
鈎針通りで損傷した装備の修理。
さらに、六人分の移動費。
〈灰色の雲雀〉の共同資金を数える。
銀貨三十四枚。
ノエルの宿代滞納分を返せば、二十六枚。
「どうして、この状況で俺の借金を差し引くんだよ」
ノエルが銀貨の山を抱き締めた。
ガルドは、一本ずつ指を外していく。
「払うべき時期が来たからだ」
「北方遺跡から戻ってからでもいいだろ」
「戻らなければ、踏み倒すことになる」
「戻るつもりなんだから問題ないじゃん」
「予定と支払い義務は別だ」
背後では、宿の主人が腕を組んでいる。
ノエルは抵抗した。
だが、最終的には、銀貨八枚を手放した。
「俺の銀貨……」
「最初から俺の銀貨だ!」
主人は満足そうに銀貨を回収した。
北方遺跡まで荷馬車を借りれば、御者を含め、最低でも銀貨二十五枚。
装備と食料を購入すれば完全に足が出る。
徒歩なら費用を抑えられるが、四日以上かかる。
次の白鐘がいつ鳴るか分からない以上、時間を優先するしかない。
「護衛か、同行調査の依頼を探す」
ガルドが提案した。
「目的地が同じなら、報酬を受け取りながら移動できる」
俺たちは、冒険者ギルドへ向かった。
掲示板には、北方に関する依頼が、いくつか貼られていた。
薬草採取。
山道の魔物討伐。
北部宿場までの商人護衛。
そして、最上段。
通常の依頼書とは異なる、赤い縁取りの紙。
『緊急調査支援』
『依頼主――ラトメア神殿・遺構調査室』
『目的地――北部第七遺構』
『先発調査班との合流、および物資搬送』
『先発班からの定期報告が途絶えたため、状況を確認すること』
北方遺跡。
俺たちの目的地と同じだった。
「これしかないな」
ノエルが依頼書へ手を伸ばす。
俺は、その手首を掴んだ。
「内容を確認する」
「今回は書き換えられてないだろ」
「お前は一章から何も学んでないのか」
依頼書を記録する。
先発調査班。
出発は、五日前。
構成人員。
神殿所属の調査員二名。
水路技師一名。
護衛冒険者三名。
合計六名。
だが。
依頼書の下部に記された名前は、五人分しかなかった。
「一人足りない」
俺の言葉に、ガルドが依頼書を覗く。
「人数は六名とある」
「名前は五人です」
セフも確認した。
「単純な記入漏れの可能性は」
「それなら、手帳は反応しない」
黒い手帳に、銀色の文字が浮かんでいた。
『構成人員の不一致を確認』
『先発調査班――記録上五名』
『観測痕跡――六名』
南水路の調査班と同じだ。
一人。
人数からも記録からも消されている。
俺たちは依頼書を持ち、ギルドの調査受付へ向かった。
担当していたのは、ヴェラ副支部長だった。
彼女は俺たちの顔を見ると、露骨に嫌そうな表情を浮かべた。
「また厄介な依頼を選んだな」
「北方遺跡へ行く必要があります」
ガルドが答える。
「理由は聞かないでおこう。聞いた後、私の記憶が消える可能性がある」
冗談ではなかった。
ヴェラは、南水路の作業員に関する記憶が消されたことを覚えている。
正確には、誰かを忘れたという事実だけを覚えている。
「先発調査班について確認したい」
俺は依頼書を机へ置いた。
「六人と書かれているのに、名前が五人しかありません」
ヴェラは書類へ目を落とした。
「調査班は五人だ」
「人数欄は六人です」
「これは」
ヴェラの指が止まる。
数字の六。
名前は五つ。
明らかな矛盾。
それでも、今まで誰も気づいていなかった。
ヴェラは棚から、先発班に関する書類を取り出した。
装備支給表。
食料受領書。
北門通過記録。
宿泊予定表。
すべてを机へ広げる。
「食料は六人分です」
ミレナが指摘した。
「寝袋も六つ」
セフが数える。
「灯具も六個支給されています」
ガルドが北門の通行記録へ目を落とす。
「馬は三頭。二人ずつ乗ったと考えるのが自然だ」
「六人いた」
俺は黒い手帳へ手を置いた。
「その一人だけが、途中で消された」
ヴェラは、先発班から届いた最後の報告書を取り出した。
北方遺跡へ到着する前、第二宿営地から送られたもの。
『全員、異常なし』
『翌朝、遺跡への移動を開始する』
報告書の最後、署名欄には五人分の名。
だが、用紙の一番下に僅かに削られた跡がある。
誰かの署名が消されている。
「この人物の荷物は残っていますか」
俺が尋ねると、ヴェラは記録を調べた。
「先発班が出発する前。荷物の一部が、ギルド倉庫へ置き忘れられている」
倉庫から、小さな布製の鞄が運ばれてきた。
中には着替え、乾燥果実、小さな木彫りの馬。
そして、一通の手紙が入っていた。
宛名はない。
封は、すでに開かれている。
子供が書いたらしい不揃いな文字。
『おとうさんへ』
『いせきからかえったら、こんどこそ、いっしょにうまをみにいってください』
文章の最後。
父親の名前が書かれていたはずの場所だけが白く抜け落ちていた。
誰かの父親。
王都ではなく、北方遺跡へ向かった人物。
帰還した後、子供と馬を見に行く約束をしていた。
それだけは、まだ残っている。
「この鞄を知っている人は?」
ヴェラが職員を集めて尋ねた。
誰も持ち主を知らなかった。
「先発班の忘れ物として、倉庫にあっただけです」
受付職員が答える。
「誰が持ち込んだのかは?」
「記録がありません」
以前の俺なら、自分の記憶や推測を疑っただろう。
だが、もう知っている。
世界の記録が間違っていることがある。
記憶も。
書類も。
人々の常識も。
現在の形へ合わせて書き換えられる。
俺は手紙を黒い手帳へ記録した。
『北方遺跡の先発調査班には、記録から失われた六人目が存在した』
『当該人物には、子供がいる可能性が高い』
『遺跡から帰還後、子供と馬を見に行く約束をしていた』
その下へ、銀色の文章が現れた。
『未確定存在を記録しました』
『対象情報が不足しています』
『仮称を設定してください』
「仮の名前?」
俺が読み上げる。
リアが、木彫りの馬を見た。
「エクウス」
「何だ、それ」
ノエルが尋ねる。
「古い言葉で、馬を意味します」
「人の名前にしていいのか?」
「本名が分かるまでの識別名です。本人の名前ではありません」
それは重要な区別だった。
仮の呼び名を本当の名前として扱ってはいけない。
俺は手帳へ記録する。
『仮称――エクウス』
『本名ではない』
『木彫りの馬と、子供からの手紙を手掛かりとして設定』
文字が定着した。
その瞬間、部屋の隅に置かれた椅子が小さく軋んだ。
誰も座っていないはずの座面がほんの僅かに沈む。
人の重さが加わったように。
次の瞬間、椅子は元へ戻った。
「今」
ノエルが短剣へ手をかける。
「誰かいたよな」
全員が見ていた。
姿も。
輪郭もない。
それでも、一瞬だけ確かに誰かが、そこに座った。
「完全には消えていない」
俺は木彫りの馬を握った。
「鈎針通りの住民と同じだ。どこかに隔離されている可能性がある」
「先発調査班が消えた場所は」
ガルドは地図の北方遺跡を見た。
「俺たちの目的地と同じだ」
ヴェラは机に広げられた書類を、しばらく見つめていた。
やがて、赤い縁の依頼書へ、承認印を押す。
「この依頼を、お前たちへ任せる」
「出発は?」
「物資を積んだ荷車が、明朝北門を出る。御者と神殿の連絡員が同行する」
「今日出ることはできないか」
ノエルの問いに、ヴェラが首を横に振る。
「山道へ入るには、北部駐屯所の通行証が必要だ。発行は明朝になる」
一日、待たなければならない。
その一日がノエルに残されているのか。
俺は黒い手帳へ触れた。
『対象――ノエル・ハース』
『暫定固定状態を確認』
『白鐘発生予測――』
文字が揺れる。
消え。
再び現れる。
『七日以内』
北方遺跡まで、通常なら三日。
まだ数字だけを見れば間に合う。
だが、白鐘の予測は確定ではない。
三日後ではなく、明日鳴る可能性もある。
「明朝、出る」
ガルドが決めた。
「それまでに装備を整える。今夜は全員、交代でノエルの状態を確認する」
「俺、病人じゃないぞ」
「お前は次の白鐘で消える可能性がある」
「言い方が直球すぎない?」
「事実だ」
ノエルは、不満そうに俺を見る。
「ユーマが二人いるみたいで嫌だな」
「何がですか」
セフとリアが同時に反応した。
ノエルは、二人を見比べる。
「やっぱり似てるだろ」
「似ていません」
再び、声が重なった。
翌朝。
日が昇る前、俺たちはラトメア北門へ集まった。
空は、まだ深い青色。
城壁の上では衛兵たちが松明を持って歩いている。
門前には、物資を積んだ二台の荷車が並んでいた。
一台目には。
食料。
縄。
灯油。
木材。
交換用の工具。
二台目には。
薬品。
調査器具。
神殿が封印した、小さな木箱。
依頼主側の責任者は、中央神殿遺構調査室のバルツ・オーンという男だった。
四十代半ば。
短く整えた黒い髪。
細い口髭。
褐色の外套。
話し方は丁寧だが。
視線は絶えず、人員と荷物の数を確認している。
「〈灰色の雲雀〉の皆様ですね」
バルツは、ガルドたちの冒険者札を一人ずつ確認した。
「五名と伺っていますが」
「彼女は図書院からの協力者です」
ガルドがリアを示す。
リアは小さく頭を下げた。
「リア・エルセインです」
バルツは同行者名簿を確認する。
「確かに、追加協力者として登録されています」
名簿には俺たち六人。
御者二人。
バルツ。
神殿の若い連絡員。
全員の名前が並んでいた。
その一番下、空白の欄が一つある。
正確には何かを書いた後で、削り取ったような跡。
「この欄は?」
俺が尋ねる。
バルツが首を傾げる。
「予備ではありませんか」
「最初から空白でしたか」
「そのはずです」
《記録》を使う。
『北方遺跡補給隊同行者名簿』
『署名欄――十一名分』
『現同行者――十名』
また、一人足りない。
「出発前に、誰かが消えている」
俺の言葉に、ガルドたちの表情が変わった。
バルツは困惑したように名簿を確認する。
「同行予定者は、ここにいる者だけですが」
「荷物を確認してください」
俺たちは、二台の荷車を調べた。
食料。
水。
寝具。
すべて。
現在の人数に合わせられている。
だが、二台目の荷車。
薬品箱の陰に。
一足の革靴が置かれていた。
片方だけ、小さな泥がついている。
サイズは成人男性用。
「これは誰のものですか」
御者たちは首を横に振る。
バルツにも覚えがない。
靴を記録する。
『成人男性用の革靴』
『使用痕あり』
『持ち主不明』
文字が現れる。
その下に銀色の警告。
『校正経路への接続を確認』
「校正経路」
俺が読み上げる。
セフが眼鏡を押し上げた。
「ここから北方遺跡までの経路自体が、書き換えの対象になっている?」
「先発班だけではありません」
リアが北門の外を見る。
「今から進む道の途中でも、人が消されている」
朝靄の向こう。
北へ続く街道。
旅人。
農民の荷車。
駐屯所へ向かう兵士。
異常は見えない。
それでも、同行するはずだった誰かが。
出発前から、すでに消えている。
「出発を延期しますか」
バルツがガルドへ尋ねた。
ガルドは俺を見た。
〈灰色の雲雀〉の判断をするのは、ガルドだ。
だが今回は《記録》が示しているものを、俺がどう受け取るか待っている。
黒い手帳には二つの警告がある。
『白鐘発生予測――七日以内』
『校正経路への接続を確認』
出発すれば危険。
残っても、ノエルを恒久的には救えない。
先発班のエクウスも既に消されている。
誰かが、俺たちを北方遺跡から遠ざけようとしているのか。
それとも、遺跡へ誘い込もうとしているのか。
まだ分からない。
「出発する」
俺は答えた。
「この靴も、先発班の鞄も持っていく」
バルツが眉を寄せる。
「持ち主が不明な荷物を?」
「不明ではありません」
俺は片方だけの革靴を布で包んだ。
「名前が消されただけです」
ガルドが頷き、バルツへ出発の合図を送る。
北門の巨大な扉が開いた。
まだ低い朝日が城壁の向こうから差し込む。
馬が歩き始める。
車輪が石畳を踏み、一定の音を刻む。
ラトメアの街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
ノエルは荷車の後方へ座り、城壁を見つめていた。
「初めてだ」
「何が?」
「ラトメアから、こんなに離れるの」
いつもの笑顔。
だが、膝の上で握った拳には、力が入っている。
この旅の目的はノエルの存在を完全に取り戻すこと。
本人が最も強く、戻れない可能性を理解している。
「旅の最初の一歩だな」
俺が隣へ座るとノエルは振り返った。
「記録しておいてくれよ」
「ああ」
「北方遺跡の次は、海だからな」
「原記録を見つけてから考えろ」
「一年中燃えてる山も」
「話を聞け」
「夜だけ現れる街も」
「まず遺跡だ」
「空まで伸びる樹は、最後でいい」
「順番の問題じゃない」
ノエルが笑う。
俺は、その姿を記録した。
『ノエル・ハース』
『ラトメアを出発する』
『北方遺跡へ向かう』
『世界を旅するための、最初の一歩であると認識している』
文字は問題なく現れた。
その下へ銀色の文章が浮かぶ。
『対象の暫定固定を確認』
『白鐘発生予測――六日以内』
昨日より一日減っている。
予定どおり進めば、北方遺跡へは三日。
まだ間に合う、そう考えた直後。
手帳が勝手に別のページを開いた。
ラトメア北部の地図。
現在の街道とは別に細い銀色の線が浮かんでいる。
通常の街道から外れ山間部を真っすぐ北へ進む道。
現在の地図には存在しない。
『推奨経路を表示します』
「近道?」
俺が地図をガルドへ見せる。
セフとリアも、荷車の中から覗き込んだ。
「どれほど短縮できますか」
リアの問いへ手帳が答える。
『通常経路――推定三日』
『推奨経路――推定一日半』
「半分になる」
ノエルが目を輝かせた。
「こっちへ行こう」
「待ってください」
リアが、すぐに制止する。
「手帳の推奨が、安全を意味するとは限りません」
「名前は?」
セフが尋ねた。
銀色の線へ意識を向ける。
文字が現れる。
『旧第九巡回路』
第九。
また、その数字。
「知っているか?」
俺がリアを見る。
リアは地図へ指を触れ目を閉じた。
しばらくして、顔色が変わった。
「夢で見たことがあります」
「どんな道だ」
ガルドが尋ねる。
リアは目を閉じたまま答えた。
「白い石で作られています」
声が僅かに震えている。
「道の両側には、文字の消えた石碑が並んでいます」
「墓標か?」
「分かりません」
リアは目を開けた。
「ただ、夢の中の私は。その道を歩くたびに、石碑の数を数えていました」
「何の数だ?」
ノエルが尋ねる。
リアは、すぐには答えなかった。
やがて掠れた声で言う。
「終わらせた世界の数です」
荷車の中が静まり返った。
馬車は北へ進む。
朝靄の先、街道の分岐に一つの古い道標が立っていた。
大きな矢印は、北部駐屯所と、山間の宿場を指している。
だが石の側面には。
ほかの人間には見えていないらしい、小さな九本目の矢印が刻まれていた。
北東。
現在の地図には道がない方向。
荷車が近づくにつれ、石の表面へ、古い文字が浮かぶ。
『第九接続者専用』
『北部観測区画』
『帰還経路』
帰還。
省略官は、俺を転生者ではなく、帰還者に近い存在として照合していた。
女神は新しい能力を与えるとは言わなかった。
俺に返還できるものは一つだけだと言った。
返還。
帰還。
新しく得たのではない。
元から俺のものだった。
「何と書いてあるのですか」
リアが尋ねる。
彼女には、文字の一部だけが見えているようだった。
俺は道標へ浮かぶ言葉を見つめた。
「この道は」
喉が乾く。
「俺が通ることを、想定して作られている」
言葉にした瞬間、道標の九本目の矢印へ細い亀裂が走った。
音もなく石が割れる。
内部から一羽の白い鳥が飛び出した。
羽毛ではない、白い紙を折り曲げて作ったような鳥。
二羽。
十羽。
百羽。
次々と道標から溢れ出す。
白い鳥の群れが朝の空を覆った。
「止まれ!」
ガルドの声で御者が馬を止める。
紙の鳥たちは、馬車の周囲を円を描くように飛び始めた。
その中の一羽が、荷車に置かれていた同行者名簿へ舞い降りる。
紙の嘴が記された名前の一つを啄んだ。
『ノエル・ハース』
最初の一文字が白く欠ける。
「やめろ!」
俺は鳥を払い落とした。
手へ触れた瞬間、紙の身体へ黒い文字が浮かぶ。
『校正経路への侵入を確認』
『不要な同行記録を削除します』
空を埋め尽くした白い鳥が、一斉に首を動かす。
そして、すべての嘴がノエルへ向けられた。
黒い手帳に赤い警告が現れる。
『対象――ノエル・ハース』
『暫定固定への再干渉を確認』
『記録欠損率――一パーセント』
ノエルが消えるのは、次の白鐘が鳴ったときだと思っていた。
だが、世界は鐘を待つつもりなどなかった。
白い鳥の群れが、一斉に俺たちへ降り注いだ。




