第四章 ~九分間の存在証明~
『省略処理を開始』
『対象――ノエル・ハース』
『処理完了まで、残り九分』
黒い手帳に浮かんだ赤い文字を見た瞬間、俺の頭から、ほかのすべてが消えた。
鈎針通り。
四十七人の白い住民。
白い仮面をつけた省略官。
頭を押さえたまま、過去の光景を見ているリア。
閉じ始めた帰還の扉。
どれも、今だけは後回しだった。
ノエルが消える。
あと九分で。
「ノエル!」
俺は少年へ駆け寄り、透け始めた右手を掴んだ。
触れることはできた。
だが、感触が薄い。
濡れた布越しに手を握っているような、輪郭の曖昧な感覚だった。
「大丈夫だって」
ノエルは、どうにか笑おうとしていた。
だが、口元は引きつっている。
声も、いつもより遠く聞こえた。
「まだ足は残ってる」
「冗談を言ってる場合か!」
「怒鳴るなよ。俺だって、どうしたらいいか分からないんだから」
ノエルの指先から、少しずつ色が抜けていく。
皮膚だけではない。
爪も服の袖も。
身体へ触れているものすべてが、一緒に薄れていた。
通りの奥では、省略官が白い羽根を持ち上げている。
羽根の先から滴る黒い液体が、空中へ線を引いた。
一画。
二画。
俺には読めない文字が完成するたび、ノエルの輪郭が薄くなる。
「セフ、あいつを止めろ!」
ガルドは盾を構え、省略官へ向かって走った。
「言われなくても分かっています!」
セフが杖を突き出す。
先端の魔晶石から、三つの火球が放たれた。
炎は白い人影の間を抜け、省略官へ迫る。
省略官は避けなかった。
白い羽根を、横へ一度払っただけだった。
火球が消えた。
弾かれたのではない。
爆発したわけでもない。
炎も。
熱も。
煙も。
最初から魔法など放たれなかったかのように、何一つ残らなかった。
「僕は……」
セフが杖を構えたまま、動きを止める。
眼鏡の奥の目が、困惑に揺れた。
「今、何をしようとしていたのですか」
彼の記憶からも、火球を放った事実が抜け落ちている。
黒い手帳へ、新たな文章が現れた。
『火炎魔法の発動記録が省略されました』
「魔法を消したんじゃない!」
俺が声を上げると、ガルドが走りながら振り返った。
「何だと!」
「魔法を使った事実そのものを消している!」
「対抗方法は!」
「分からない!」
「なら考えろ!」
ガルドは一切速度を緩めなかった。
「それがお前の役目だ!」
省略官の目前まで踏み込み、片手斧を振り下ろす。
刃は、白い仮面の肩を確かに捉えた。
そう見えた。
次の瞬間、ガルドは、省略官から三歩離れた位置に立っていた。
斧を振り上げる前の姿勢で。
「俺は」
ガルドは、自分の足元を見た。
「なぜ、ここで止まっている」
斧を振った行動も。
省略官へ近づいた過程も。
ガルドの中から消されていた。
省略官の声が、隔離領域全体から響く。
「無駄です」
顔はない。
抑揚もない。
「校正対象に含まれる行為は、結果へ到達しません」
四十七人の白い住民が、動き始めた。
顔のない人影が、ゆっくりと俺たちを取り囲む。
敵意は感じられない。
怒りも、憎しみもない。
それでも、白い手へ触れられれば、俺たちも何かを失う。
直感ではなく、手帳に浮かんだ警告が、それを示していた。
『未固定記録との接触を回避してください』
最初の白い手が伸びる。
ミレナが、俺とノエルの前へ踏み出した。
胸の前で両手を組み、短い祈りを唱える。
淡い青色の光が円状に広がり、俺たち六人を包み込んだ。
「聖域よ。迷う魂と、ここに生きる者を隔ててください」
白い住民の手が、防護膜へ触れる。
青い光が激しく揺れた。
ミレナは奥歯を噛みしめ、両足で石畳を踏みしめる。
「長くは保てません!」
「リア!」
ガルドが、省略官から距離を取りながら叫んだ。
「扉を維持しろ!」
リアは水路へ続く石の扉の前で、第九観測鍵へ両手を添えていた。
扉は、僅かな隙間を残して止まっている。
だが、円盤から伸びる九本の光は、一本ずつ弱まっていた。
「鍵の固定情報が書き換えられています」
「分かる言葉で言え!」
「このままでは閉じます!」
「最初からそう言え!」
ガルドが白い住民を斧の柄で押し戻す。
俺はノエルへ視線を戻した。
右腕だけではない。
肩から胸にかけても、身体が透け始めている。
腰に下げた短剣。
右耳の真鍮製の輪。
着ている革鎧。
すべてが、ノエルという存在に巻き込まれるように消えかけていた。
手帳の赤い数字が変わる。
『残り八分』
「記録すれば、固定できる」
俺は自分へ言い聞かせるように呟いた。
黒糖パンを残したときと同じだ。
記録した対象を世界から消えないように固定する。
ノエルについては、出会った日から何度も記録している。
俺は黒い手帳を開き、少年の名前を強く意識した。
「ノエル・ハース」
ページから黒い文字が浮き上がる。
「十六歳。赤褐色の髪。右耳に真鍮製の輪。青銅級冒険者。役割は斥候。〈灰色の雲雀〉の一員」
文字が、ノエルの身体へまとわりついた。
透けていた指先へ。
一瞬だけ、色が戻る。
「効いてる!」
ノエルが、自分の右手を見た。
俺は記録を続ける。
「短剣を二本使う。右利きだが、細かな作業は左手のほうが得意。金が入るとすぐに使う。宿代を滞納している。賭け事に弱い。甘いものが好きで――」
「今、それを全部残す必要あるか!?」
「確認できた事実しか記録できないんだ!」
「もう少し格好いい事実もあるだろ!」
黒い文字は、次々とノエルへ集まった。
しかし、戻った色は、すぐに白く抜け落ちていく。
省略の速度を遅らせることはできても止められていない。
黒い手帳に、銀色の文章が現れた。
『個体情報が不足しています』
「不足?」
名前も。
姿も。
年齢も。
行動も記録した。
それでも、ノエルを残すには足りない。
「記録者」
省略官が、白い仮面を俺へ向けた。
「外見と経歴を保存しても、人格を保持することはできません」
「だったら、何を記録すればいい!」
「回答する権限はありません」
「だったら黙ってろ!」
『残り七分』
省略官が、白い羽根を振る。
ミレナの防護膜の一部が消えた。
穴が開いたのではない。
その場所だけ、最初から防護術が存在しなかったことになっている。
白い住民の腕が、防護膜の内側へ入り込んだ。
「下がれ!」
ガルドが盾で白い腕を受け止める。
住民の手が盾の表面へ触れた。
中央に刻まれていた紋章が消える。
次に縁を補強していた金属。
革の留め具。
木板を接合していた構造。
触れられた場所から、盾を形作る情報そのものが失われていく。
ガルドは壊れかけた盾を手放し、白い人影へ体当たりした。
大きな身体は、人影を押し返すことなく、白い輪郭を通り抜けた。
その瞬間、ガルドの左腕が、肘から先だけ透けた。
「ガルドさん!」
ミレナが駆け寄り、左腕へ治癒術をかける。
青い光は傷を探すように周囲を巡るだけで、何も治さなかった。
「反応しません」
ミレナの声に焦りが混じる。
「これは傷ではありません」
「分かっている!」
ガルドは透けた腕を押さえた。
「だが、ほかに何ができる!」
もう一度白い住民が近づく。
ガルドは右手だけで斧を構えた。
それでも、視線は俺へ向いていた。
「ユーマ。ノエルを記録しろ」
「してる!」
「違う」
ガルドの声は短く、強かった。
「お前が見たノエルだけではない」
斧の柄で白い腕を受け止めながら、彼は続ける。
「俺たちが知っているノエルも残せ」
その言葉で。
ばらばらだったものが、俺の中でつながった。
俺の《記録》は、俺が見聞きし、理解した事実しか残せない。
だが、人間は一人の目から見える情報だけで作られているわけではない。
俺の知らないノエルがいる。
ガルドの知るノエル。
ミレナの知るノエル。
セフの知るノエル。
本人でさえ意識していない顔を、誰かが覚えている。
それらが重なって、一人の人間を形作っている。
「ガルド!」
俺は手帳を構えた。
「お前しか知らないノエルを話してくれ!」
「何を話せばいい」
「何でもいい! 出会ったときのことでも、腹が立ったことでも!」
ガルドは一瞬だけ考えた。
白い住民を斧の柄で退けながら、口を開く。
「五年前だ」
ノエルが顔を上げる。
「それ、今話すのかよ」
「黙って聞け」
ガルドの声は荒い。
だが、その目には僅かに懐かしさがあった。
「冬の朝だった。北市場の裏で、こいつは干し肉を盗もうとして捕まっていた」
「盗んでない。落ちてたんだ」
「店主の腰袋に落ちていた干し肉があるか」
「変な場所に落ちることもあるだろ」
「ノエル!」
俺が怒鳴ると、少年は口を閉じた。
ガルドが続ける。
「店主は、こいつの右手を切り落とそうとしていた。この街では、二度目の盗みに認められている罰だ」
俺は、透けかけたノエルの右手を見る。
「俺が罰金を払った。理由はない」
ガルドは言い切った後、僅かに言葉を止めた。
「弟と、同じくらいの年に見えたからかもしれん」
弟。
ガルド本人は弟がいたことを思い出せない。
世界から消された弟。
だが、記憶がなくても。
失った誰かの痕跡は、彼の選択へ残っていた。
「翌朝」
ガルドの右手が、斧を握り直す。
「宿を出ると、ノエルが立っていた。借りを返すと言ってな」
「返しただろ」
「一日、俺の後ろを歩いただけだ」
「護衛だよ」
「俺より弱い護衛があるか」
ガルドの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
「それから五年だ。何度追い払っても戻ってきた。俺が冒険者を辞めようとしたときも、勝手に次の依頼を取ってきた」
俺は、ガルドの言葉を記録した。
『ガルド・バルガスにとって、ノエル・ハースは、五年前に助けた少年である』
文字は現れた。
さらに、俺が意図していなかった文章が、その下へ加わる。
『同時に、ガルド・バルガスが冒険者を続ける理由となった人物である』
ガルドが、僅かに目を見開いた。
「俺は、そこまで言っていない」
「でも、嘘じゃないんだろ」
ガルドは答えなかった。
黒い文字が、ノエルへ流れ込む。
透けていた右肩へ色が戻った。
『関係記録を確認』
『存在固定率――十四パーセント』
「戻ってる」
ノエルが、自分の肩へ触れる。
だが、まだ十四パーセント。
『残り六分』
「次、ミレナ!」
ミレナは祈りを続けながら、ノエルへ顔を向けた。
額には汗。
両腕は、防護膜を保つために震えている。
「私は」
彼女は一度息を吸った。
「ノエルさんと初めて会った日、財布を盗まれました」
「盗んでばっかりだな、俺!」
「黙ってろ!」
俺とセフの声が重なった。
ミレナは緊迫した状況にもかかわらず、少しだけ笑った。
「ですが、財布の中身を確認すると、すぐに返してくれました」
「金が入ってなかったからだろ」
ノエルの言葉に、ミレナは首を横に振る。
「違います。妹から届いた手紙が入っていたからです」
ミレナが神官となるため、故郷を離れた直後に届いた手紙。
幼い妹が覚えたばかりの文字で書いたもの。
金銭的な価値はない。
けれどミレナには、何より大切な手紙だった。
「ノエルさんは」
ミレナの声が柔らかくなる。
「雨で手紙が濡れないよう、自分の服の内側へ入れて返してくれました」
「財布を盗まなければ、濡れる心配もなかったのでは」
セフが指摘する。
「結果として守っただろ」
「その日の夜」
ミレナは、ノエルの軽口を遮らずに続けた。
「あなたは治癒院の前にいました」
ノエルが視線を逸らす。
「中に入りづらかっただけだよ」
「冬でした」
「寒さには強い」
「唇が紫色になっていました」
ノエルは何も言わなくなった。
ミレナの声が僅かに震える。
「私は、神殿の教えへ迷いを感じることがあります」
白い住民が防護膜を押し、青い光に亀裂が走った。
ガルドが右手だけで斧を振るい、膜へ伸びた腕を退ける。
「祈れば救われると教わりました。それでも、祈りだけでは救えない人が大勢います」
ミレナは、ノエルをまっすぐ見た。
「ノエルさんは神を信じていません。善行を積めば、死後に報われるとも思っていません」
「だって、見たことないし」
「それでも」
ミレナは言葉を重ねる。
「目の前で困っている人がいれば、損得を考える前に身体を動かします」
俺は記録した。
『ミレナ・フォースにとって、ノエル・ハースは、信仰を持たずに善を選べる人物である』
その下へ、もう一つの文章が現れる。
『ミレナ・フォースが、自らの信仰を問い直す理由となった人物である』
ノエルの胸元に色が戻る。
『存在固定率――三十一パーセント』
『残り五分』
「セフ!」
俺が呼ぶと、セフは杖を構えたまま、険しい表情を浮かべた。
「僕には、話すことなどありません」
「あるだろ!」
「毎日、言い争っているだけです」
「その毎日を話せ!」
「記録する価値が――」
省略官の羽根が動く。
次の瞬間、セフの右手から杖が消えた。
落としたのではない杖を持っていたという事実そのものが、省略された。
空になった手を見つめ、セフの顔が青ざめる。
「僕の杖は」
「先端に赤い魔晶石!」
俺は叫びながら手帳を開いた。
「柄には銀色の線が七本! 二日前、夜中まで磨いていた杖だ!」
記録へ反応し、空中へ黒い文字が集まる。
文字が杖の形を作り、一瞬だけ、セフの右手へ戻った。
「掴め!」
セフは素早く杖を握った。
だが、輪郭は絶えず揺らいでいる。
「消された物体も、記録から戻せるのですか」
「一時的だ! 早くノエルのことを話せ!」
セフは奥歯を噛みしめた。
しばらく迷った後、低い声で話し始める。
「二年前。僕は魔術師協会の昇級試験を受けました」
ノエルが僅かに目を見開く。
「僕は、自分が天才だと思っていた。試験に落ちる可能性など、考えてもいなかった」
「落ちたのか」
ノエルの問いに、セフの眉間へ深い皺が寄る。
「黙って聞きなさい」
「はい」
「最終試験で魔法陣の構築に失敗しました。術式が暴発し、観客の前で笑われた」
普段のセフは、自尊心が高い。
自分の失敗を口にすることを嫌う。
今も言葉を重ねるたび、声が硬くなっていた。
「僕は宿へ戻りませんでした。杖を会場へ捨て、街を出ようとしました」
「門の前で見つけた」
ノエルが小さく言った。
「この人に捕まりました」
セフは、ノエルを睨む。
「それから三日間、つきまとわれた」
「飯を食わないと死ぬぞって言っただけだ」
「頼んでいません」
「でも食っただろ」
ノエルは、失敗について何も尋ねなかった。
慰めもしない。
頑張れとも言わない。
ただ、食べ物を持ってきた。
一日目は硬いパン。
二日目は冷めたスープ。
三日目は焦げた肉。
そして、四日目。
「僕の杖を持ってきた」
セフは、記録によって一時的に戻った杖を見つめた。
「試験会場へ捨てたはずの杖を」
「高そうだったから」
「あなたは僕へ言いました」
セフが顔を上げる。
眼鏡の奥の視線がノエルを捉えた。
「失敗した魔術師が、杖を持ってはいけないという規則があるのか、と」
ノエルは本当に覚えていないような顔をする。
「そんなこと言ったっけ」
「言いました」
セフの声が強くなった。
「僕が、忘れるわけがない」
俺は二人の関係を記録する。
『セフ・アルノーにとって、ノエル・ハースは、失敗した自分を慰めなかった人物である』
一度、文章が途切れる。
やがて、その下に続きが現れた。
『ただし、失敗した後も自分を同じ人間として扱った、最初の人物である』
セフは何も言わずに目を伏せた。
黒い文字がノエルへ流れ込む。
腰から下の透明化が止まった。
『存在固定率――四十九パーセント』
まだ、半分にも届かない。
『残り四分』
「リア!」
俺が振り返ると、リアは第九観測鍵へ手を添えたまま、首を横に振った。
「私は、その人と出会ってから二日しか経っていません」
「何でもいい! お前が見たノエルを話してくれ!」
「外見や行動だけでは、固定情報として不足するのでしょう」
「だったら、今感じていることを!」
リアはノエルを見る。
ノエルも彼女を見る。
二人が交わした会話の多くは。
意見の食い違いか、言い争いだった。
「私は」
リアは言葉を探すように、一度視線を落とした。
第九観測鍵から、銀色の火花が弾ける。
石の扉が、さらに狭まる。
「私は、この人を理解できません」
「悪口かよ」
「黙ってください」
「はい」
リアは真剣だった。
「自分が消されると知ったのに。どうして、他人のことを気にする余裕があるのですか」
「別に、気にしてない」
「図書院を出るとき、受付の職員が落とした鍵を拾い、本人へ気づかれないよう机へ置きました」
ノエルの目が泳ぐ。
「拾ったものを戻しただけだ」
「南水路の門番へ、靴紐が切れかけていると教えました」
「転んだら危ないから」
「私が足を滑らせたとき、最初に手を伸ばしたのもあなたです」
「ユーマの外套を掴んでたじゃん」
「それでもです」
リアは信じてもらえなかった経験を繰り返し、自分から他人との間へ線を引いてきた。
その彼女が、ノエルを見つめたまま、はっきりと言った。
「私は、あなたを騒がしく、無計画で、理解しがたい人物だと思っています」
「良いところが一つもないな」
「ですが」
リアの声が、僅かに柔らかくなる。
「あなたの近くでは、誰かを信じることを、完全に諦めなくてもよいのではないかと思えます」
ノエルは何も言わなかった。
俺は記録する。
『リア・エルセインにとって、ノエル・ハースは理解しがたい人物である』
その下へ、別の一文が現れた。
『同時に、他者を信じることを諦めなくてもよいと感じさせた人物である』
『存在固定率――五十七パーセント』
「俺の魅力を、もう少し理解してくれない?」
ノエルが不満そうに尋ねる。
「出会って二日です。十分でしょう」
「消える前に、もっと良いところを探してくれよ」
「今後の観察対象とします」
言い合う二人を見ながら、俺は奥歯を噛みしめた。
五十七パーセント。
全員の関係を記録しても、まだ足りない。
『残り三分』
省略官が白い住民たちの間を歩き始めた。
住民は道を開けるように左右へ分かれる。
「関係情報による固定」
白い仮面の奥から声が響く。
「低位の記録権限としては、適切な対処です」
「感想を聞いてるんじゃない!」
俺は黒い手帳を胸元へ引き寄せた。
「なぜ、これでも足りない!」
「対象が他者から、どのように観測されているか」
白い羽根がノエルへ向けられる。
「それだけでは、人格を構成できません」
「本人の記録」
リアが、小さく呟いた。
俺も同じ答えへたどり着く。
「ノエル」
俺はノエルの両肩を掴んだ。
「お前自身が、自分をどう思っているかだ」
ノエルは困ったように眉を寄せた。
「急に言われても」
「自分は何者なのか。何を望んでるのか。何が怖いのか」
「俺はノエル・ハース。冒険者で、斥候で――」
「それは俺が記録した!」
ノエルの左脚から再び色が抜け始める。
革靴の向こうに石畳が見えている。
『残り二分三十秒』
「肩書きじゃない! お前自身のことを話せ!」
「分からないよ!」
ノエルが初めて声を荒らげた。
笑顔が消える。
「俺だって、そんなこと分からない!」
右手の指が白い霧のように崩れていく。
「親の顔も知らない! どこで生まれたのかも分からない! 盗んで、逃げて、ガルドに拾われた。それだけだ!」
「それだけじゃない!」
「何があるんだよ!」
ノエルは透けた拳を握った。
「俺がいなくなっても、街は困らない! 世界が俺を消すって決めたなら、消しても困らない人間だったってことだろ!」
「違う!」
「何が違うんだ!」
「俺たちが困る!」
考えるより先に言葉が出た。
「お前がいなくなったら、ガルドが猫に触れないままだ!」
「最初に出るのがそれ?」
「ミレナが隠れて菓子を食べてることを、からかう奴もいなくなる!」
ミレナが、防護膜を維持しながら困った顔をした。
「ユーマさん。今、その話を出しますか」
「セフの寝癖を笑う奴もいない!」
「それは必要ありません」
「リアと喧嘩する奴もだ!」
「それも必要ありません」
「夕暮れ亭の食卓が静かになる!」
ノエルは、俺を見ていた。
いつものように笑ってはいなかった。
「世界全体から見れば、小さな違いかもしれない」
俺は、肩を掴む手へ力を込めた。
「でも、俺たちには違う。お前がいることで変わったものがある」
「そんなの」
「それで十分だ!」
『残り二分』
俺はノエルへ問いかけた。
「お前は、これから何をしたい」
「旅をしたい」
掠れた声。
「もっと大きな声で言え!」
「この世界を旅したい!」
ノエルが叫んだ。
「海の向こうに行きたい! 空まで伸びる樹を見たい! 一年中燃えてる山も、夜だけ現れる街も見たい!」
黒い手帳から大量の文字が溢れ出す。
「金を稼いで、船に乗って、知らない国へ行く! ガルドたちも連れていく!」
ガルドが、戦いながら呟く。
「俺たちもか」
「嫌なら置いていく!」
「続けろ!」
俺が促す。
「そこで見たものを、ユーマに全部記録させる!」
ノエルの目から涙が流れていた。
本人は気づいていないようだった。
透明になりかけた涙は、頬から落ちる前に白く消える。
「爺さんになったら、みんなで記録を読む!」
声が震える。
「こんなこともあったって笑う! だから」
ノエルは、初めて恐怖から目を逸らさずに言った。
「まだ、消えたくない」
俺はその言葉を記録した。
『ノエル・ハースは、世界を旅することを望んでいる』
『仲間と共に未知の場所を訪れ、その記憶を残すことを望んでいる』
『ノエル・ハースは、自らの消滅を恐れている』
『それでも、恐怖より先に未来を望んでいる』
黒い文字が強く輝き、ノエルの身体を包み込む。
『自己認識情報を確認』
『存在固定率――七十九パーセント』
「まだ足りない!」
『残り一分三十秒』
省略官が白い羽根を、俺たちへ向ける。
「固定基準へ到達しません」
「あと何が必要なんだ!」
「対象を保持するための領域です」
「領域?」
「世界が保持できる情報には限界があります」
省略官は。
初めて、こちらの問いへ明確に答えた。
「すべてを残すことはできません」
四十七人の白い住民。
鈎針通り。
マレイ。
リナ。
彼らも。
同じ理由で切り離されたのだろう。
世界が保てるものを選び。
残りを不要として捨てた。
「存在する場所を得るには」
省略官が続ける。
「別の領域を空けなければなりません」
「人を消すための理由を、世界の都合で作るな」
俺は吐き捨てた。
「人が存在していいかどうかを、役に立つかで決めるな」
「価値ではありません」
「同じだ」
俺は黒い手帳を握る。
「誰を残すかを、お前たちだけで決めている」
省略官は否定も肯定もしなかった。
『残り一分』
手帳に表示が現れる。
『存在固定に必要な記録領域が不足しています』
黒糖パンを固定した夜と同じ。
記録は情報を残すだけでは成立しない。
世界の中に、その存在が在り続ける場所を作らなければならない。
前回、俺は日本で暮らしていた部屋の記憶を失った。
「俺の記憶を使え」
「ユーマさん!」
ミレナが悲鳴に近い声を上げた。
防護膜に、幾つもの亀裂が走っている。
「何を失うか、選べないのですよ!」
「ほかに方法がない!」
「勝手に決めるな!」
ノエルが、俺の腕を振り払おうとした。
だが、手にはほとんど力が残っていない。
透けた指が俺の服を半ばすり抜けた。
「俺のために、ユーマの記憶まで消える必要はないだろ!」
「必要があるかは、俺が決める」
「俺の記憶じゃないんだぞ!」
「お前だって、俺へ聞かなかった」
「何を」
「南水路で、俺を助けたときだ!」
石殻鼠が、俺へ飛びかかった。
あの瞬間、ノエルは理由を尋ねなかった。
損得も危険も考えず。
俺へ体当たりして助けた。
「今度は俺の番だ」
『残り四十五秒』
黒い手帳へ手を置く。
『記録領域を提供しますか』
提供する。
そう念じた。
頭の奥に無数の記憶が浮かび上がった。
日本。
学校。
会社。
駅。
雨の日。
小さな手。
黄色い傘。
その中で一つの記憶が強く光った。
幼い俺。
四歳か五歳。
雨が降っている。
頭上には、黄色い傘。
誰かが俺の手を握っている。
大人の女性だった。
俺はその人を母親だと思っていた。
だが、なぜそう思っていたのか。
今となっては、確かめる手段がない。
女性の顔。
声。
手の温かさ。
道端には、雨に濡れた小鳥が落ちている。
女性はしゃがみ込み、小鳥を両手ですくい上げた。
何か俺に言っている。
――悠真は、ちゃんと見ているのね。
そう聞こえた気がした。
消えそうなものへ気づくこと。
誰も見ない小さな違いを、見過ごせないこと。
神崎悠真という人間の原点に近い記憶。
「これを使う」
口にした瞬間、胸が潰れそうになった。
失いたくない、この記憶を失えば。
自分の性格が、どこから生まれたのか分からなくなる。
だが、手を離せばノエルが消える。
『残り三十秒』
「やめろ、ユーマ!」
ノエルが叫ぶ。
俺は目を閉じた。
「記録を開始する」
雨音が遠ざかっていく。
黄色い傘。
女性の横顔。
繋いだ手。
一つずつ、輪郭を失っていく。
『提供情報を記録領域へ変換』
「待ってくれ」
最後にもう一度、女性の顔を見ようとした。
声を聞こうとした。
けれど思い出せない。
黄色い傘。
雨。
濡れた小鳥。
誰かと手を繋いでいた。
光景の断片だけが残る。
その女性が本当に母親だったのか。
どんな顔をしていたのか。
どのような声で俺の名前を呼んだのか。
もう、確かめることはできなかった。
「保存しろ!」
俺は黒い手帳へ叫んだ。
「ノエル・ハースを、この世界に残せ!」
失われた記憶が、白い光へ変わる。
光は黒い文字と混ざり、ノエルの身体へ流れ込んだ。
十秒。
身体に色が戻り始める。
九。
八。
赤褐色の髪。
七。
右耳の真鍮製の輪。
六。
傷だらけの手。
五。
使い込まれた二本の短剣。
四。
泥のついた革靴。
三。
涙を隠そうとして。
うまく笑えていない顔。
二。
「ユーマ!」
一。
『存在固定――完了』
赤い文字が消えた。
ノエルの身体が急に重みを取り戻し、倒れ込んでくる。
受け止めきれず、二人で石畳へ転がった。
「ノエル」
腕の中に確かな感触がある。
体温。
呼吸。
速く打つ心臓。
「生きてるか」
「多分」
「多分じゃ分からない」
「うるさいな。人が感動してるときに、細かいこと言うなよ」
声が近い。
身体がある。
ノエル・ハースはここにいる。
安堵した直後、頭上から硬いものが割れる音が響いた。
ミレナの防護膜が一斉に砕け散る。
白い住民たちが、俺たちへ迫った。
「終わっていません!」
リアが叫ぶ。
水路へ続く扉は、ほとんど閉じていた。
残された隙間は、腕一本が通る程度。
第九観測鍵にも、幾つもの亀裂が走っている。
「ノエルを固定したことで、領域の閉鎖が早まりました!」
ガルドが俺とノエルを立たせる。
「脱出するぞ!」
セフは扉へ杖を向けた。
「開きません! 鍵の構造が崩れています!」
「別の出口は!」
「観測地図にはありません!」
リアが鍵を回そうとする。
だが、円盤の亀裂から銀色の火花が散るだけだった。
通りの奥。
省略官は、俺たちを追おうとはしなかった。
白い仮面のまま、ただこちらを見ている。
「存在固定を確認」
感情のない声。
「記録領域は、記録者の中核情報から提供されました」
「だから何だ」
俺はノエルを支えながら、省略官を睨む。
「規定外の処理です」
仮面の額に刻まれた文字が一瞬だけ揺らいだ。
「第九接続の可能性を再照合します」
「第九?」
女神の白い空間。
割れた鑑定水晶。
一瞬だけ見えた文字。
第九管理。
「お前は、俺の何を知っている」
省略官は答えない。
白い羽根を地面へ突き立てる。
鈎針通り全体が白く光った。
黒い手帳が、勝手に開く。
ノエルの記録ではない、俺自身を記したページ。
『神崎悠真』
『年齢――二十八』
『種族――人間』
その文字が激しく乱れた。
『前生記録――照合不能』
『転生記録――該当なし』
「何だよ、これ」
手帳の文字と省略官の声が重なる。
「帰還者の照合に失敗しました」
「帰還者?」
「あなたの起点は、承認された現在世界に存在しません」
「俺は日本から転生した」
「転生処理は確認できません」
「女神に会った」
「該当する処理記録は存在しません」
周囲の音が遠ざかっていく。
ノエルの重さ。
仲間たちの声。
迫る白い人影。
すべてが、別の世界の出来事のように感じられた。
俺は本当に転生者なのか。
日本で働いていた。
会社員だった。
そう答えればいい。
だが、勤務していた会社の名前を思い出せない。
自分の部屋も家族の顔も曖昧だ。
たった今、母親だと思っていた女性の顔と声まで失った。
「ユーマ!」
ノエルが俺の肩を強く掴んだ。
「今は帰るぞ!」
その声で、目の前の世界へ引き戻された。
石の扉は完全に閉じる寸前。
白い住民は、あと数歩まで迫っている。
「リア!」
俺は第九観測鍵を指した。
「最初に見た鍵を記録してある!」
リアが意図を理解し、俺を見る。
「壊れる前の状態を再現を?」
「一時的にしか保たない!」
「それで十分です!」
俺は黒い手帳を開く。
王立西方図書院で、初めて円盤を見たときの記録。
九本の溝。
中心の穴。
外周の細かな文字。
傷一つない表面。
『第九観測鍵――断片』
記録を同期させる。
黒い文字が亀裂の入った円盤を包み込む。
割れていた箇所が一時的に塞がった。
「今だ!」
リアが円盤を回す。
石の扉が僅かに開いた。
身体を横にすれば、どうにか一人ずつ通れる幅。
「ノエルから行け!」
ガルドが叫んだ。
「でも」
「行け!」
ノエルが扉の向こうへ身体を滑り込ませる。
続いて。
リア。
ミレナ。
セフ。
俺が扉へ向かおうとした瞬間、白い住民の一人が、俺の手首を掴んだ。
冷たい。
触れられた場所から頭の中の何かが薄れていく。
「ユーマ!」
扉の向こうから、ノエルが手を伸ばしている。
俺は白い腕を振りほどこうとした。
そのとき、目の前の人影に一瞬だけ色が戻った。
四十代ほどの女性。
恰幅のよい身体。
右手の人差し指に、火傷の痕。
「マレイ」
〈青い窯〉の主人。
マレイ・リセ。
彼女は俺の手首を掴んだまま、唇を動かした。
音は聞こえない。
それでも、意味は分かった。
――娘を。
「リナは、どこにいる」
白く濁った瞳が。
〈青い窯〉の二階へ向く。
窓の奥。
小さな影が立っていた。
リナ。
俺たちを黙って見ている。
「必ず戻る」
俺はマレイへ言った。
「今度は、証拠だけじゃない。二人とも、ここから出す」
マレイの白い顔が僅かに笑ったように見えた。
手首を掴んでいた力が緩む。
俺はノエルの手を掴んだ。
強く引かれ、石の扉の向こうへ転がり込む。
最後にガルドが扉を抜けた。
直後、石壁が閉じる。
白い光。
省略官。
四十七人の住民。
鈎針通り。
すべてが壁の向こうへ消えた。
水路へ戻った瞬間。
第九観測鍵が砕けた。
銀色の破片が足元の水へ落ちる。
リアが追おうとしたが、ガルドが肩を掴んで止めた。
「鍵が」
「今は出る」
「ですが、あれがなければ再び入れません」
「生きていれば、別の方法を探せる」
石壁の向こうから、巨大なものが打ちつけられる音がした。
壁全体が震える。
ガルドが振り返り、短く命じた。
「走れ!」
俺たちは水路を走った。
何度も転び、冷たい水を飲み。
背後から響く鐘の残響に追われた。
出口の鉄格子を抜け、地上へ転がり出た頃には、空が夕暮れの色へ変わっていた。
街はいつもどおりだった。
荷馬車が通る。
子供たちが走る。
露店の商人が客を呼ぶ。
この街の一部から、四十七人もの人間が消されたことを誰も知らない。
俺たちは川沿いの土手へ座り込んだ。
しばらく、誰も話さなかった。
やがて、ガルドがノエルを呼ぶ。
「名前を言え」
ノエルは、疲れた顔で眉を寄せた。
「ノエル・ハース」
「年齢」
「十六」
「所属」
「〈灰色の雲雀〉」
「望みは」
ノエルは少しだけ笑った。
「世界中を旅すること」
ガルドは大きく息を吐いた。
ミレナは目元を押さえる。
セフは眼鏡を外し、汚れを拭くふりをして顔を逸らした。
リアは地面へ座り込んだまま、ノエルの姿を見つめている。
「本当に」
彼女は静かに言った。
「残ったのですね」
「ああ」
俺は黒い手帳を開いた。
ノエルの記録。
名前。
姿。
行動。
関係。
本人の望み。
すべてが残っている。
ガルドが俺の横からページを覗く。
「読める」
ミレナも。
セフも。
リアも。
ノエルの名前を認識できている。
「成功した」
安堵が遅れて身体へ広がった。
だが、最後のページを見た瞬間。
その安堵は止まった。
『根本記録可能数――四』
数字は変わっていない。
俺はノエルを固定した。
大切な記憶も差し出した。
それでも、四という数字は、一つも減っていない。
「どうしてだ」
ノエルの固定は、この四回には含まれていない。
ページの下に銀色の文字が浮かぶ。
『対象の恒久固定は完了していません』
「恒久固定……?」
さらに、文章が続く。
『現在状態――暫定固定』
『有効期限――次回白鐘まで』
俺はノエルを見る。
身体は完全に戻っている。
透けてもいない。
声も。
体温もある。
それでも、次の白鐘が鳴れば再び省略される。
「何て書いてあるんだ?」
ノエルが尋ねる。
俺が答える前に新しい文章が現れた。
『恒久固定条件』
『対象の原記録を確認し、現在の人格との接続を確立すること』
『対象――ノエル・ハース』
『最終観測痕跡――ラトメア北方遺跡』
北の遺跡。
白い扉。
俺たちの次の目的地が、黒い手帳によって示されていた。
「ノエル」
俺は手帳を閉じた。
「悪い知らせがある」
「消えるより悪い?」
「同じくらいだ」
ノエルは、露骨に嫌そうな顔をした。
「じゃあ、聞きたくないな」
「北の遺跡へ行く」
「北の?」
「お前が消される前の記録が、そこにつながっている」
ノエルは、しばらく黙っていた。
やがて、いつものように笑う。
「初めての遺跡探索だな」
声は明るい。
けれど、恐怖を隠していることは、もう記録しなくても分かった。
俺たちは、まだ知らなかった。
北の遺跡にある白い扉がノエルの記録だけにつながるものではないことを。
その扉の奥には、鈎針通りよりも、ラトメアよりも。
遥かに大きなものが隠されている。
そして、俺を転生者ではなく、別の名で呼ぶ存在が待っていた。
――帰還者。
その言葉が何を意味するのか。
このときの俺には、まだ知る由もなかった。




