第三章 ~過去の地図ほど新しい~
ノエル・ハースが世界から消えるまで、残り十二日。
少なくとも、その朝の俺は、まだそう考えていた。
黒い手帳の最後のページには、〈灰色の雲雀〉の五人の名前が並んでいる。
『ガルド・バルガス』
『ミレナ・フォース』
『セフ・アルノー』
『ノエル・ハース』
『神崎悠真』
ノエルの名前の下にだけ、細い銀色の線が浮かんでいた。
『観測状態――不安定』
何度ページを閉じても、時間を置いて開き直しても、文字は消えなかった。
「なあ」
目の前からノエルの声がして、俺は反射的に手帳を閉じた。
「さっきから、何を見てるんだ?」
夕暮れ亭の食堂。
曇った窓から朝の光が差し込み、丸い食卓に並べられた木皿を照らしている。
今日の朝食は、薄い麦粥と燻製肉。
味は悪くない。
ただし、ノエルの皿にだけ、肉が二枚多く乗っていた。
厨房から食卓へ運ばれてくる途中、宿の主人が目を離した隙に、自分で増やしていたのだ。
普段なら注意する。
場合によっては手帳へ記録し、後で宿代と一緒に請求する。
だが、今朝は何も言う気になれなかった。
目の前にいる少年が、もうすぐ世界から消えるかもしれない。
声も。
笑い方も。
人の皿から肉を盗む癖も。
右耳の真鍮製の輪も。
すべてが、最初から存在しなかったことになる。
「本当に、どうした?」
ノエルが身を乗り出し、俺の顔を覗き込む。
赤褐色の髪。
後頭部には寝癖。
口元には麦粥が少しついている。
「近い」
俺が額を押し返すと、ノエルは素直に椅子へ戻った。
「熱でもあるのかと思って」
「ない」
「腹が痛いとか?」
「違う」
「元の世界が恋しくなった?」
故郷。
その言葉に胸の奥が、僅かに軋んだ。
黒糖パンを固定した代償として。
俺は、日本で暮らしていた部屋の記憶を失った。
失ったことは分かる。
そこに、自分の生活があったことも覚えている。
だが、どんな部屋だったのか。
どこにあったのか。
窓から何が見えたのか。
何一つ思い出せない。
記憶を収めた本棚から、一冊だけ本を抜き取られ。
そこに空白だけが残っている。
そんな感覚だった。
「ユーマ」
向かいに座るガルドが、低い声で俺を呼んだ。
「昨夜の表示について、全員へ説明するべきだ」
食卓の空気が変わった。
セフが匙を置く。
ミレナも、麦粥の皿から顔を上げた。
ノエルだけが、何の話だという顔で、俺とガルドを見比べている。
俺は迷った。
自分が消されるかもしれないと知らされることが、本人にとって救いになるのか。
それとも、残された時間を、恐怖で塗り潰すだけなのか。
けれど、黙ったまま守れる相手ではない。
俺一人の力で、世界そのものから、ノエルを隠し続けることはできない。
「手帳に、新しい表示が出た」
俺は黒い手帳を食卓へ置いた。
五人の名前が記されたページを開く。
「全員の名前が並んでいる」
セフが身を乗り出す。
「僕には、通常のパーティー記録に見えます」
「俺にもだ」
ガルドが答える。
「銀色の文字は、またユーマさんにだけ見えているのですね」
ミレナの問いへ、俺は頷いた。
ノエルは食卓へ肘をつき、手帳を覗き込んだ。
「俺の名前に、何か出てるのか?」
「名前の下に線がある」
「線?」
「その下に」
一度、息を整える。
「観測状態、不安定と書かれている」
ノエルは、すぐには答えなかった。
食堂の別の卓では、商人らしい男たちが笑っている。
厨房からは食器のぶつかる音。
窓の外では、荷車の車輪が石畳を鳴らして通り過ぎた。
世界はいつもどおり動いている。
俺たちの食卓だけが、流れる時間から切り離されたように、静かだった。
「それって」
ノエルが自分の名前を指す。
「俺が消されるって意味か?」
「断定はできない」
嘘ではない。
だが、希望を持たせられるほど、楽観もしていなかった。
鈎針通り。
〈青い窯〉。
マレイとリナ。
世界から消されたものは、人の記憶からも、地図からも、公的な書類からも消えている。
そして、黒い手帳は。
その異変が次にノエルへ向かっていると警告している。
「白鐘が鳴ったときに、何か起きる可能性が高い」
俺が続けると、ガルドが腕を組んだ。
「次の白鐘がいつ鳴るかは分かるのか」
「前と同じ間隔なら、十二日後だと思う」
「根拠は」
セフが問う。
「正確な根拠はない。前回までの記録と、手帳に残った感覚だけだ」
セフは考え込むように目を伏せた。
「つまり、十二日という数字自体が、相手によって変更される可能性もある」
「あると思う」
「予定を信用しすぎるべきではありませんね」
ミレナはノエルを見ていた。
彼女の表情は穏やかだったが、膝の上に置かれた手は、強く握られている。
「ノエルさん」
「何?」
「怖くはありませんか」
ノエルは、自分の皿へ視線を落とした。
しばらくして、燻製肉を一枚、口へ入れた。
セフが眉を寄せる。
「こんなときに食べるのですか」
「消えるかもしれないなら、今のうちに食べたほうがいいだろ」
「質問へ答えてください」
「怖いよ」
ノエルはあっさりと認めた。
肉を噛み、飲み込む。
「自分がいなくなるのも怖い。でも、それより」
右耳の輪へ、無意識に指を触れる。
「みんなが俺を忘れるっていうのが、一番気持ち悪い」
ノエルの声には、いつもの軽さがなかった。
「俺だけ消えて。ガルドたちが四人で普通に飯を食って。最初から、それで当たり前だったって思うんだろ」
誰も否定できない。
実際、マレイとリナが消えた翌日。
俺たちは、鈎針通りへ行かなかったことになっていた。
「でも」
ノエルは、少しだけ笑った。
「怖がっていれば、消えなくなるわけでもない」
食卓の下で固く握られた彼の左手が小さく震えている。
俺は黒い手帳へ触れた。
『ノエル・ハースは』
『自身が消失する可能性を知り、恐怖を感じている』
『仲間の前では、努めて普段どおり振る舞っている』
文字が現れる。
事実だった。
「記録するなよ」
不意にノエルが言った。
俺は手帳から顔を上げる。
「分かるのか?」
「俺の顔を見ながら手帳に触るときは、大体俺のことを書いてる」
「癖になってるんだ」
「格好悪いところは残すな」
「事実しか記録できない」
「じゃあ、格好よく書け」
「嘘は書けない」
「融通の利かない能力だな」
ノエルが笑った。
今度の笑顔は、ほんの少しだけ、本物に見えた。
ガルドが食卓へ片手を置く。
「今日から、鈎針通りについて本格的に調べる」
その声に、全員の視線が集まった。
「消された場所を戻す方法が分かれば、ノエルを守る方法にもつながる。まずは過去の地図と、街の記録を確認する」
「図書院ですね」
セフが答える。
「王立西方図書院なら、ラトメア建設当時の地図も所蔵しているはずです」
「入館料は?」
ノエルが真っ先に尋ねた。
セフが冷たい目を向ける。
「あなたの命よりは安いでしょう」
「それなら、共通費から出るな」
「そういうところだけ計算が速いですね」
ノエルは残った燻製肉を口へ入れた。
「じゃあ、さっさと行こうぜ」
そして、何でもないことのように続けた。
「消される前に、俺のことをもっと記録してもらわないとな」
俺は返事をしなかった。
ただ、その言葉だけは、手帳へ残さなかった。
記録しなくても、忘れないと思いたかった。
王立西方図書院は、ラトメア北東の高台に建っていた。
交易都市であるラトメアは、王国西部における行政と学術の中心でもある。
この図書院は、王都にある王立大図書館の分院として、およそ二百年前に建設されたらしい。
白い石で築かれた、七階建ての巨大な建物。
正面から見ると、左右へ開かれた本のような形をしている。
中央棟の両側には、半円形の書庫。
入口へ続く長い階段の左右には、目を閉じた二体の女性像が立っていた。
一体は、胸に本を抱いている。
もう一体は、羽根ペンを持っていた。
「閲覧だけで銅貨五枚です」
図書院を見上げる俺へ、セフが説明した。
「資料の持ち出しには、身分証と保証金が必要になります」
「本を読むだけで銅貨五枚?」
ノエルが顔をしかめる。
「高すぎるだろ」
「本を一冊作るために、どれほどの時間と金が必要か知っていますか」
「俺が知るわけない」
「だから、あなたは無知なのです」
ノエルがセフを横目で見る。
「本を読んでも、友達の作り方は学べなかったみたいだな」
「図書院の前で喧嘩をするな」
ガルドが二人の間へ入った。
入館料は、パーティーの共通費から支払うことになった。
ノエルが自分の分だけ値切ろうとして。
受付の老人から、本当に追い出されそうになった。
図書院へ足を踏み入れる。
最初に感じたのは、古い紙の匂いだった。
革。
木。
乾いた埃。
防虫に使われる薬草の、僅かに苦い香り。
高い天井から淡い光が降り、数え切れないほどの本棚を照らしている。
棚は人の背丈をはるかに超えていた。
上段の本を取るため、いくつもの梯子が、棚へ立てかけられている。
中央には長机。
学者。
役人。
神官服を着た学生。
皆が静かに本を読んでいた。
歩く音さえ、書物の間へ吸い込まれていくような空間だった。
「すげえな」
ノエルが声を潜める。
セフが、すぐに注意する。
「声が大きい」
「小声だろ」
「あなたの小声は、普通の人間の会話と同じ音量です」
受付で鈎針通りについて調べたいと伝えると、郷土史と都市地図を保管している、第三閲覧室へ案内された。
本館の奥。
窓の少ない、小さな部屋。
壁際には、巻いた地図を保管するための、横長の棚が並んでいる。
受付台には、誰もいなかった。
ノエルが呼び鈴を鳴らす。
澄んだ音が響いた。
返事はない。
もう一度、少し強く鳴らす。
「留守かな」
ノエルは受付台の内側へ身を乗り出した。
俺は上着の襟を掴み、引き戻す。
「勝手に入るな」
「働いてる人を探すだけだって」
「本の下に隠れているわけないだろ」
そのとき、受付台の後ろへ積まれていた本の山が僅かに動いた。
正確には、本の山の向こうから、一人の少女が立ち上がった。
長い黒髪。
白い肌。
細い銀縁の眼鏡。
年齢は、十八か十九ほど。
灰色を基調とした司書服を着ている。
黒髪は首の後ろで一つに束ねられていた。
胸には、王立図書院の補助司書を示す銀色の徽章。
両腕に三冊の本を抱え、さらに二冊を脇へ挟んでいる。
「隠れていたわけではありません」
少女は感情の起伏をほとんど感じさせない声で言った。
「下段の資料を整理していました」
ノエルが目を丸くする。
「聞こえてたのか」
「この部屋では、小さな声でも奥まで響きます」
セフがノエルを指した。
「本人へ言ってあげてください」
少女は、ノエルを一度だけ見た。
そして、抱えていた本を受付台の上へ置く。
「用件を伺います」
冷たいというより、必要のない言葉を、すべて削り落としたような話し方だった。
俺は一歩前へ出た。
「鈎針通りという場所を調べています」
少女の指が、本の背表紙に触れたまま止まった。
ほんの一瞬、注意していなければ、見逃していた程度の変化。
銀縁眼鏡の奥。
淡い琥珀色の瞳が、真っすぐ俺へ向けられる。
「その名称を」
少女は僅かに声を落とした。
「どちらで知りましたか」
「知っているんですか?」
「質問したのはこちらです」
「昨日まで、南西区に存在していた」
俺は答えた。
「大通りから二本入った細い路地です。〈青い窯〉というパン屋や、革工房、古道具屋があった」
少女の視線が、俺からガルドたちへ移る。
「同行者の方々も、同じものを見たのですか」
「俺たちは覚えていない」
ガルドが正直に説明する。
「ユーマだけが、昨日まで存在していたと言っている」
少女は再び俺を見た。
「証拠はありますか」
俺は、黒い手帳を取り出した。
鈎針通りについて記録したページを開く。
「ほかの人には、改変された別の記録に見えるようです」
少女が手帳へ顔を近づける。
眼鏡の奥の瞳が僅かに見開かれた。
「読めるのか?」
俺が尋ねても少女はすぐには答えなかった。
ページの文字へ人差し指を近づける。
触れる直前、手帳の端に銀色の線が走った。
少女は反射的に手を引いた。
受付台に積まれていた本が、一冊、床へ落ちる。
静かな閲覧室へ乾いた音が響いた。
「リアさん?」
奥の扉から別の司書が顔を出した。
少女はすぐに本を拾う。
「問題ありません」
表情は変わっていない。
だが、呼吸が、僅かに速くなっている。
「この閲覧室を使用します」
少女は奥の司書へ告げた。
「しばらく、ほかの利用者を入れないでください」
「しかし、閲覧予定が」
「西方都市史の再整理です」
相手の司書は、不思議そうな顔をしながらも頷いた。
扉が閉まる。
少女――リアは自分で扉に鍵をかけた。
そして、俺へ向き直る。
「あなたの名前を」
「神崎悠真」
「出身地は」
「日本」
「その地名は、王国の記録にありません」
「異世界です」
ノエルが横から補足する。
リアは彼の説明を聞かなかったように続けた。
「天恵は」
「《記録》」
「その手帳に記されている文章を、私は完全には読めません」
「完全には?」
「鈎針通りという名称」
リアの指が文字には触れず、少し上をなぞる。
「それから、マレイ・リセ、リナ・リセという二つの名前」
俺は息を呑んだ。
初めて、俺以外の人間が改変前の記録を読んだ。
「ほかの部分は?」
「灰色の線に見えます。意味は認識できません」
セフが一歩近づいた。
「なぜ、あなたには名前が見えるのです」
「分かりません」
「過去にも、同じ現象を経験したことが?」
リアは質問へすぐには答えなかった。
受付台の下から、一冊の帳面を取り出す。
白い表紙。
題名も、図柄もない。
何度も開かれたはずなのに、不思議なほど汚れていなかった。
「私も」
リアは白い本を長机へ置いた。
「鈎針通りという名称を記録しています」
本を開く。
そこには、古い地図を写したらしい、細かな線図が描かれていた。
ラトメア南西区。
現在の地図では、巨大な穀物倉庫が建っている場所。
そこに、細い路地がある。
入口には、小さな文字。
鈎針通り。
「これは、いつ書いたものですか」
俺が身を乗り出すと、リアは地図の作製日を指した。
「三年前です」
「三年前には、鈎針通りが存在していた?」
「いいえ」
リアは首を横に振る。
「三年前に発見した、百二十年前の地図を書き写しました」
ノエルが周囲の棚を見る。
「その元の地図は?」
「存在しません」
「なくしたのか?」
「翌日、保管場所から消えていました」
リアは淡々と続けた。
「地図の所蔵記録もありません。保管していた箱には、別の地図が入っていました。担当者たちは、最初からその地図しかなかったと証言しました」
俺たちは、互いの顔を見た。
鈎針通り。
〈青い窯〉。
書き換えられた地図。
消えた記憶。
俺が経験したことと同じだった。
「なぜ、あなたは覚えているのです」
セフが尋ねる。
リアは白い本へ視線を落とした。
「正確には、すべてを覚えているわけではありません」
「どういう意味ですか」
「私は幼い頃から、存在しない場所の夢を見ます」
閲覧室が、さらに静かになったように感じた。
「地図にない街。天井のない図書館。空を覆う銀色の樹。名前を知らない人々」
リアは自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと話した。
「夢の中では、すべてを知っているはずなのです。しかし目覚めると、意味だけが失われています」
「意味?」
ミレナが優しく聞き返す。
「文字の形を覚えていても、読めない。人の顔を覚えていても、名前が分からない。悲しかったことは分かっても、何を失って悲しんでいたのか思い出せない」
リアは眼鏡を外し、眉間を軽く押さえた。
そこで初めて、彼女の顔に年相応の疲れが見えた。
「三年前。古い地図で鈎針通りという文字を見たとき、夢の中で知っていた名称だと感じました」
「それで、書き写した」
「はい」
ミレナが、リアの表情をうかがいながら尋ねる。
「誰かへ相談したことはありますか」
「あります」
「信じてもらえましたか」
「医師を紹介されました」
リアは眼鏡をかけ直す。
表情から先ほどの疲れが消えた。
「それ以降、話していません」
俺と同じだった。
自分だけが覚えている。
記録を見せても、信じてもらえない。
頭や心の病気を疑われる。
リアが人と距離を置くような話し方をする理由が、少しだけ分かった気がした。
何度も信じてもらえなかった人間は最初から相手へ期待しなくなる。
「俺は信じる」
俺が言うと、リアは僅かに眉を寄せた。
「根拠は」
「俺も、同じようなものを見ているから」
「あなたの記録が正しい保証はありません」
「あなたの白い本も同じだ」
「ですから」
リアは淡々と訂正する。
「私たちが同じ誤りを共有している可能性もあります」
「それでも」
俺は彼女の白い本と自分の黒い手帳を見比べた。
「一人で間違っているよりは、少しだけましだ」
リアは何も言わなかった。
琥珀色の瞳の奥で何かが僅かに揺れる。
それはすぐに消えた。
「鈎針通りに関する資料は、ほかにもあります」
リアは立ち上がった。
「ただし、現在の都市地図から探しても見つかりません」
「古い地図なら、残っているのでは?」
俺が尋ねるとリアは横長の地図棚へ向かった。
「古い地図ほど、見つからないのです」
リアは異なる年代に作製された都市地図を、長机へ並べた。
ラトメアでは、およそ十年ごとに、正式な都市地図が作られている。
十年前。
南西区には、穀物倉庫。
二十年前。
同じ場所に、同じ倉庫。
三十年前。
四十年前。
五十年前。
すべて同じだった。
「倉庫の管理人は、祖父の代から建っていると言っていた」
ガルドが地図を見下ろす。
「記録とも一致している」
「表面上は」
リアは五十年前の地図を指した。
「この倉庫の東側には、当時存在した城壁の補強柱が食い込むはずです」
古い城壁の設計図を都市地図へ重ねる。
確かに同じ空間へ、巨大な倉庫と、城壁の柱が描かれている。
本来、同時には存在できない二つの建造物。
「地図のどちらかが間違っている?」
ノエルが尋ねる。
セフは首を横に振った。
「行政が保管する正式図面です。多少の測量誤差はあっても、建物一つ分はずれません」
「矛盾は、それだけではありません」
リアはさらに古い地図を広げた。
六十年前。
七十年前。
八十年前。
地図が古くなるほど、描かれた線は、細かく正確になっていく。
道路の幅。
建物の壁の厚さ。
地下水路。
住民数。
井戸の深さ。
本来であれば、測量技術が発達した新しい時代の地図ほど、正確になるはずだ。
しかし、百年前の地図は。
十年前の地図より、はるかに多くの情報を持っていた。
「過去の地図ほど」
俺は地図の線を指で追う。
「新しい技術で描かれている」
「はい」
リアは地図の端を拡大鏡で示した。
紙そのものは古い。
インクも。
長い年月で茶色く変色している。
だが、線の下には、僅かな削り跡があった。
古い線を削り、上から何度も描き直している。
「この地図は」
セフが拡大鏡を受け取る。
「作られた後も修正され続けている」
「現在の街が変化するたび」
リアが静かに続けた。
「過去の地図も、現在と矛盾しない形へ描き直されているのかもしれません」
ノエルは、複数の年代の地図を見比べる。
「今の街に倉庫があるから、百年前から倉庫があったことにされた?」
「そう考えれば、記録の矛盾は説明できます」
「じゃあ、鈎針通りが描かれた地図は?」
「修正から漏れたのでしょう」
リアは、そこで一度言葉を止めた。
そして、ごく自然にこう続けた。
「校正されずに残った資料です」
俺は顔を上げる。
「校正?」
リアの表情が僅かに固まった。
「その言葉を、どこで知った」
「夢です」
声がそれまでより低くなる。
「白い場所で、誰かが繰り返していました」
リアは白い本の表紙へ手を置いた。
「校正を開始します」
「不要な記述を省略します」
「世界の一貫性を維持します」
その言葉を聞くたび。
胸の奥へ、冷たいものが落ちていく。
「それ以上は思い出せません」
「白鐘は?」
俺が尋ねた瞬間、リアの身体が動きを止めた。
「知っているんだな」
「八回鳴る鐘です」
「九回だ」
俺は即座に訂正した。
リアが息を呑む。
「最後の一回を」
琥珀色の瞳が大きく開く。
「覚えているのですか」
「ああ。街の人間は八回だと言う。でも、実際には九回鳴っている」
リアは、しばらく俺を見つめた。
やがて、受付台の奥へ戻り鍵のかかった小箱を取り出す。
首から下げた細い鎖には、三本の鍵。
そのうち一つを使い箱を開けた。
中に入っていたのは小さな銀色の円盤だった。
中心に穴。
外側へ向かって伸びる、九本の細い溝。
表面には傷も錆もない。
「これは?」
「三年前」
リアは円盤を長机へ置いた。
「鈎針通りの地図と、同じ箱に保管されていました」
「地図が消えた後も、これだけは残った?」
「はい」
円盤が置かれた瞬間、俺の黒い手帳が震えた。
表紙に刻まれた本の紋章が銀色に光る。
《記録しますか》
記録する。
材質は銀に似ている。
だが、細かな傷一つない。
九本の溝。
中心の穴。
外周には、肉眼では読めないほど、小さな文字が刻まれている。
黒い手帳へ新しい記録が現れた。
『第九観測鍵――断片』
「第九観測鍵」
無意識に読み上げた瞬間、円盤が回転した。
誰も触れていない長机の上で、ゆっくりと回る。
九本の溝から淡い光が伸びた。
光は空中で線となり複雑な形を作っていく。
街。
ラトメアの地図。
だが、現在の都市地図とは違う。
建物の配置は似ている。
城壁は二重。
中央を流れる川の位置も僅かにずれている。
そして、南西区。
現在は穀物倉庫がある場所に鈎針通りが存在していた。
「見える」
ガルドが呟く。
今度は全員が同じ地図を見ていた。
ノエルが光の地図へ顔を近づける。
「〈青い窯〉は?」
鈎針通りの一角。
小さな青い光が、明滅している。
さらにその地点から。
地下へ向かって、細い線が伸びていた。
セフは線の先を目で追う。
「南水路へつながっています」
俺たちが石殻鼠の群れから逃げた場所。
地図にない階段。
薄い壁。
「消された場所は」
リアが光の地図を見上げた。
「完全に消滅したわけではないのかもしれません」
「現在の街から切り離された?」
ミレナが尋ねる。
「別の場所へ、隔離されている可能性があります」
隔離。
その言葉に南水路で見た銀色の記録を思い出した。
『修正対象群』
『隔離領域への誘導を確認』
石殻鼠たちは、世界から消される直前、一つの場所へ集められていた。
鈎針通りも同じ場所へ移されたのだとすれば。
「入れるかもしれない」
俺は、南水路へ伸びる光の線を指した。
「ここから、鈎針通りへ」
「危険です」
リアが即座に言った。
「何が存在するのか。入った後、戻れるのかも分かりません」
「だから調べる」
「あなたは」
リアは黒い手帳へ視線を落とした。
「すでに記憶を失っているのでしょう」
俺は答えなかった。
だが、その沈黙だけで、彼女には十分だったらしい。
「次に何を奪われるか分かりません」
「このまま待っていても」
俺はノエルを見る。
「仲間が消される」
リアの視線もノエルへ向く。
「その人が?」
「俺らしい」
ノエルは軽く手を上げた。
「どうして、そのように落ち着いているのですか」
「騒げば助かる?」
「助かりません」
「だったら、落ち着いて考えたほうがいいだろ」
リアは返す言葉を失ったようだった。
ガルドが、光の地図全体を見渡す。
「鈎針通りへ行く」
リーダーの声ではっきりと告げた。
「ただし、準備を整えてからだ。水路の構造。帰還経路。白鐘が鳴った場合の対応。何も分からないまま入れば、全員まとめて消される」
「私も同行します」
リアが言った。
ガルドは間を置かずに断る。
「駄目だ」
「理由を」
「お前は冒険者ではない」
「第九観測鍵は、私が触れていなければ地図を維持できません」
リアが円盤から手を離すと光の地図が消えた。
再び触れると街が空中へ現れる。
「私は、消された文字を一部読むこともできます」
「戦えるのか」
「戦えません」
「なら、危険だ」
リアはガルドではなく、俺を指した。
「そちらの記録係も戦えないのでは?」
「俺は最近、杖で石殻鼠を殴った」
「倒してはいないでしょう」
「なぜ分かった」
「見れば分かります」
反論できなかった。
「ユーマは」
ガルドが説明する。
「俺の指示に従う」
「合理的な指示であれば、私も従います」
「合理的でなくても従え」
「理由を説明する時間がない場合に限り、承知します」
ノエルがセフを見る。
「この人、お前と似てるな」
「どこがです」
「どこがですか」
セフとリアの声が重なった。
二人は互いの顔を見る。
そして、ほぼ同時に目を逸らした。
「最悪だ」
ノエルだけが楽しそうだった。
ガルドはしばらくリアを見つめた。
「条件がある」
「伺います」
「勝手な行動をしない。危険を感じたら退く。俺が戻れと言った場合は、理由を聞く前に戻る」
「承知しました」
「その道具について、知っていることをすべて話せ」
「現時点で理解している範囲は話します」
「隠し事はするな」
リアの視線が、ほんの僅かに下がった。
「善処します」
ノエルが即座に指摘する。
「隠す気のある答えだ」
「あなたには言われたくありません」
出会ってまだ半刻も経っていない。
それでも、ノエルとリアの相性がよくないことだけは分かった。
準備には、二日を使った。
ノエルが消えるまで。
残り十日。
俺たちは表向き、南水路に関する追加調査依頼を受けることにした。
ヴェラ副支部長には、発光苔の群生地周辺をもう一度確認したいと説明した。
鈎針通り。
書き換えられた世界。
第九観測鍵。
すべてを話すことはできなかった。
証拠が足りない。
何より、ヴェラ自身の記憶も、後から書き換えられる可能性がある。
ただし、黒糖パンだけは、彼女へ見せた。
「これが」
ヴェラは、布に包まれたパンを手に取った。
「記録から出現した?」
「俺たち全員が見ています」
ガルドが答える。
「信じろと言うほうが難しい話だな」
「分かっています」
「だが」
ヴェラは机の上へ、一冊の報告書を置いた。
「南水路で、お前たちが報告した内容の一部は確認された」
新しく描かれた石灰の矢印。
発光苔の群生地。
石殻鼠の痕跡。
俺たちが破壊した壁。
すべて、現地へ残っていた。
「ただし」
ヴェラは報告書の一箇所を指した。
「地図にない階段は見つからなかった」
ノエルが身を乗り出す。
「そんなはずない。俺たちは、そこを通った」
「調査班は三度確認した。分岐を右へ進んだ先は、行き止まりだった」
まただ。
俺たちが通った道そのものが世界から消されている。
「壁を壊した場所は?」
俺が尋ねる。
「群生地の西側だ」
「北東です」
「調査報告では西側となっている」
方角まで書き換えられている。
俺は黒い手帳を開いた。
『群生地北東部』
『壁面の厚さ、およそ四十センチ』
俺の記録は変わっていない。
「この報告書を、記録しても構いませんか」
「持ち出さなければ構わん」
調査報告書へ。
《記録》を使う。
文章が黒い手帳へ写される。
その直後、銀色の文字が浮かんだ。
『校正済み情報を確認』
すでに、書き換えられた後の報告。
「ヴェラさん」
嫌な予感がした。
「調査班は、全員戻っていますか」
「どういう意味だ」
「人数を確認してください」
ヴェラは眉を寄せながら報告書の署名を確認する。
調査班代表、ドルン。
斥候、ハーゼ。
水路管理官、ジグ。
「三人だ」
俺は、黒い手帳へ問いかけるように記録した。
『南水路調査班』
『構成人数、三名』
文字は現れた。
だが、その下に銀色の小さな文字が追加される。
『記録上、三名』
『観測痕跡、四名』
「一人、足りない」
俺が言うと、ヴェラの片目が鋭く細められた。
「何だと」
「調査班には、四人いた可能性があります」
ガルドが俺を見る。
「名前は分かるか」
俺は手帳へ意識を集中した。
四人目。
誰がいた。
名前。
顔。
担当。
だが、自分が見ても聞いてもいないものは記録できない。
文字は現れなかった。
「分からない」
「なら、確認する方法がない」
ヴェラはそう言った。
だが、その表情には明確な警戒が浮かんでいる。
完全に信じてはいない。
それでも、無視できる話ではなくなった。
「南水路への立ち入りを許可する」
ヴェラは依頼書へ印を押した。
「ただし、日没前に戻れ」
「理由は?」
ガルドが尋ねる。
ヴェラは、一度、部屋の扉を確認してから声を落とした。
「昨夜。水路の東側で、鐘を聞いたという報告があった」
俺たちは黙った。
「鐘楼の音ではない。水路の奥から聞こえたそうだ」
「報告者は?」
「水路の保守作業員だ」
「今はどこに?」
ヴェラは答えようとして口を開いた。
だが、声が出なかった。
眉間へ深い皺が寄る。
「名前は?」
俺が尋ねる。
「名前が」
ヴェラは机の名簿をめくる。
作業員の登録簿。
宿泊記録。
昨夜の報告書。
どこにも、報告をした人物の名前がなかった。
「妙だ」
ヴェラは自分自身へ問いかけるように呟いた。
「私は」
片目に初めて恐怖が浮かぶ。
「誰から報告を受けた?」
冷たい沈黙が調査室へ落ちた。
世界の書き換えは終わっていない。
今も人が一人ずつ、記録から消されている。
「急いだほうがいい」
俺は黒い手帳を閉じた。
ノエルが消えるまで、残り十日。
そう考えていた。
だが、それは次の白鐘が十日後まで鳴らないという意味ではない。
俺たちが鈎針通りを探すことで予定が早まる可能性もある。
こちらが動けば、世界を書き換えている何者かも俺たちを見つける。
南水路へ入る当日、リアは司書服ではなく。
濃紺の旅装を着て、夕暮れ亭の前へ現れた。
厚手の上着。
膝まである革靴。
腰には、小さな鞄。
長い黒髪も普段より高い位置で結ばれている。
ノエルは彼女の全身を見て、意外そうな顔をした。
「まともな装備だな」
「何を想像していたのですか」
「本を十冊くらい抱えてくるかと思った」
「三冊しか持っていません」
「持ってきたのかよ」
リアは腰の鞄から、三冊の本を取り出した。
ラトメア地下水路図。
古代文字一覧。
西方地域の消失伝承。
「必要な資料です」
ノエルが、本へ指を近づける。
「水に落としたら終わりだぞ」
「防水布で包んでいます」
「転んだら?」
「転びません」
南水路へ入って。
十五分後。
リアは濡れた石へ足を取られた。
隣を歩いていた俺の外套を掴み、二人そろって壁へぶつかる。
先頭のノエルが振り返った。
「転ばないんじゃなかったのか」
リアは俺の外套を強く握ったまま、立ち上がった。
「転んでいません」
「いや、転んだだろ」
「ユーマさんが体勢を崩したため、支えました」
「俺が支えたように見えたけど」
「見間違いです」
俺の腕にはリアの指の跡が、はっきりと残っていた。
だが、本人の尊厳のため記録しないことにした。
《記録》は。
目に入ったものをすべて、自動で残す能力ではない。
記録するか残さないか。
俺自身が選ぶことができる。
その事実に少しだけ安心した。
すべてを記録できるとしても、すべてを残さなければならないわけではない。
やがて、俺たちは以前通った分岐へ到着した。
右側。
地図にない階段があった場所。
今は石壁で完全に塞がれている。
ノエルが壁へ手を触れた。
「ここだ」
珍しく、迷いのない声だった。
「絶対に、ここに道があった」
俺は黒い手帳へ記録された水路図と。
目の前の構造を比較する。
『現状との不一致を確認』
明確な表示、壁へ手を当てる。
冷たい石。
だが、目を閉じると向こうから風を感じた。
焼いたパン。
革をなめす薬品。
遠くで誰かが笑っている。
「向こうにある」
俺は目を開けた。
「鈎針通りは、この壁の先だ」
リアが第九観測鍵を取り出した。
銀色の円盤を壁へ近づける。
九本の溝から淡い光が伸びた。
光が石壁の表面を走り、一つの形を描く。
縦長の長方形。
人一人が通れるほどの扉。
その中央へ、円盤と同じ大きさの窪みが現れた。
「鍵穴ですね」
セフが杖を抜く。
リアが円盤を窪みへはめ込む。
ぴたりと一致した。
「開けます」
「待て」
ガルドが全員の位置を確認する。
先頭はガルド。
次にノエル。
俺。
リア。
ミレナ。
最後尾にセフ。
「何があるか分からん」
ガルドは一人ずつ顔を見る。
「ノエルは、俺より十歩以上先へ出るな。ユーマとリアは離れるな。ミレナは防護術を維持。セフは撤退路を確保する」
全員が頷く。
ガルドがリアを見る。
「開けろ」
リアは円盤を右へ回した。
一度。
動かない。
二度。
変化はない。
三度目。
壁の奥から巨大な歯車が回転するような音が響いた。
石の継ぎ目から白い光が漏れ出す。
同時に頭上から、鐘の音が鳴った。
一度。
「白鐘!」
ミレナが叫ぶ。
ノエルが天井を見上げる。
「まだ昼だぞ!」
二度。
水路の流れが止まった。
落下していた水滴が空中で静止する。
セフが作り出した魔法の明かりも揺らめきを失った。
それでも、俺たち六人は動いていた。
三度。
石壁の扉がゆっくりと開き始める。
扉の向こうにあったのは、暗闇ではなかった。
夕暮れ。
水路の内部に開いた扉の先へ、赤い空が広がっている。
細い石畳。
頭上に渡された洗濯物。
革工房。
古道具屋。
青い窯の模型。
鈎針通りが、昨日見た姿のまま残っていた。
ただし、人の姿はない。
建物の扉も。
窓も。
開いたまま。
焼きかけのパン。
道端へ落ちた桶。
干されたままの服。
住民だけが。
一瞬で消えたような光景。
四度。
「入るぞ!」
ガルドが扉の向こうへ踏み込む。
ノエル。
俺。
リア。
ミレナ。
セフ。
全員が続いた。
俺が鈎針通りへ足をつけた瞬間、黒い手帳へ文字が浮かんだ。
『隔離領域への侵入を確認』
『領域――ラトメア南西区・旧第三区画』
『観測残存数、四十七』
「四十七人」
俺は周囲を見回した。
「この場所に、四十七人分の痕跡が残ってる」
ノエルが空の通りへ目を凝らす。
「どこに?」
人影はない。
声もない。
五度。
鈎針通りの奥で何かが動いた。
小さな影。
〈青い窯〉の扉から。
一人の少女が顔を出す。
茶色い髪。
左右に分けた髪の、右側だけ低い結び目。
「リナ!」
俺は駆け出そうとした。
ガルドの腕が胸の前へ出る。
「待て」
リナは昨日と同じ服を着ていた。
俺たちを見ている。
「リナ」
今度はその場から動かずに尋ねる。
「お母さんは、どこにいる」
少女は答えなかった。
ゆっくりと右手を持ち上げる。
そして、俺たちの背後を指した。
六度。
振り返る。
水路へ続く扉が閉じ始めていた。
「セフ!」
ガルドの声が飛ぶ。
「止めています!」
セフが杖を扉へ向ける。
風の魔法が閉じる隙間へ入り込み、押し返す。
しかし、扉の力のほうが強い。
石が軋む。
魔法の風が少しずつ押し潰されていく。
七度。
鈎針通りの建物から白い霧が流れ出した。
〈青い窯〉。
革工房。
古道具屋。
窓。
排水口。
石畳の亀裂。
霧は通りの中央へ集まり人の形を作っていく。
一人。
二人。
十人。
二十人。
数十の、白い人影。
顔はない。
服の模様も。
身体の色もない。
輪郭だけがそこに存在している。
黒い手帳に表示された、四十七という数字。
鈎針通りから消された人々。
彼らは声を発しない。
ただ、一斉に俺たちを向いた。
八度。
隣にいたリアが突然、頭を押さえた。
膝から力が抜ける。
「リア!」
ミレナが倒れる前に身体を支える。
リアは白い人影を見つめていた。
「知っている」
声が震えている。
「私は、この場所を知っています」
「以前、鈎針通りへ来たことが?」
「違います」
リアの目から一筋の涙が流れた。
本人はそれに気づいていないようだった。
「もっと前」
「もっと前って」
「この通りになる前です」
白い人影の向こうで鈎針通りの景色が揺らいだ。
石造りの街が薄れ、別の景色が重なる。
空へ伸びる銀色の柱。
透明な橋。
光で描かれた文字。
人の姿はある。
だが、どれも輪郭しか見えない。
リアが夢で見たという地図に存在しない街。
「この場所は」
リアはこめかみを押さえたまま呟く。
「一度ではありません」
「何が?」
「何度も」
琥珀色の瞳へ見知らぬ光景が映っている。
「消されている」
そして、九度目の鐘が鳴った。
鈎針通りの奥。
白い人影の向こうに、一つの存在が立っていた。
白い外套。
滑らかな仮面。
右手には巨大な白い羽根。
先端から、黒い液体が滴っている。
仮面の額には古い文字が一つだけ刻まれていた。
俺には、その文字の意味が分かった。
省略。
黒い手帳が激しく震える。
『校正権限を確認』
『第一校正官』
『省略官』
白い仮面の奥から、男とも女ともつかない声が響いた。
「隔離領域への再侵入を確認」
声は通り全体から聞こえてくる。
「未承認の記録者」
顔のない仮面が、俺へ向けられる。
「第九観測鍵の保持者」
次にリアを見る。
「旧い閲覧権限の残滓」
リアの表情が固まった。
「規定に基づき」
省略官が白い羽根を持ち上げる。
四十七人の白い影が、一斉にこちらを向く。
「当該領域を」
羽根が空中へ文字を引くように振られる。
「再省略します」
世界から音が消えた。
直後、ノエルの身体が透けた。
最初は右手の指先。
腕。
肩。
赤褐色の髪。
身体の端から。
白い紙を水へ浸したように、色が抜け落ちていく。
「ノエル!」
俺は手を伸ばした。
ノエルは半透明になった自分の手を見つめていた。
その顔へ、驚きが浮かぶ。
次に恐怖。
それでも、俺と目が合うと、無理に口元を持ち上げた。
「予定より」
声まで僅かに遠く聞こえる。
「早かったみたいだな」
黒い手帳へ赤い文字が浮かび上がった。
『省略処理を開始』
『対象――ノエル・ハース』
『存在記録の分離を確認』
『処理完了まで』
数字が赤く点滅する。
『残り九分』
ノエルが世界から消えるまで、残り十二日ではなかった。
俺たちに残された時間は九分だった。




