第二章 ~灰色の雲雀~
〈灰色の雲雀〉へ正式に加わってから、五日が過ぎた。
その短い期間に、俺は三つのことを学んだ。
一つ目。
冒険者の仕事は、剣を振るい、魔物と華々しく戦うものばかりではない。
むしろ、そうではない仕事のほうが圧倒的に多かった。
薬草の採取。
隊商の荷運び。
逃げ出した家畜の捜索。
古い倉庫へ住みついた毒虫の駆除。
祭りで使う天幕の設営。
中には、酒場で酔いつぶれた商人を自宅まで運んでほしい、という依頼まであった。
「これ、本当に冒険者の仕事なのか?」
俺が泥酔した商人の右肩を担ぎながら尋ねると、反対側を支えていたノエルが笑った。
「金をもらえれば、大体は冒険だよ」
「その定義だと、俺が日本でしていた仕事も冒険になるな」
「どんな仕事だったんだ?」
「上司が間違えた数字を、誰にも気づかれないように直す仕事」
ノエルが真顔になる。
「命懸け?」
「ある意味では」
商人が突然身をよじり、俺たちは二人そろって道端の樽へぶつかった。
少なくとも、以前の仕事より体力は必要だった。
二つ目。
冒険者に必要なのは、剣の腕や魔法だけではない。
情報も立派な武器だった。
どの店の保存食が安いか。
何刻になると東門が混雑するのか。
雨の翌日には、どの街道がぬかるむのか。
森狼が縄張りを変える季節。
薬草によく似た毒草の見分け方。
依頼主が、過去に報酬を値切ったことがあるかどうか。
それらを知っているだけで、危険も出費も減らすことができる。
俺は街を歩くたび、目についたものを黒い手帳へ記録した。
『南市場、赤角亭。豆の煮込み、銅貨六枚。量は多いが塩分が強い』
『西門付近。朝の二刻目以降、荷馬車による混雑が発生』
『冒険者ギルド北側の道具屋。店主は値引きを嫌う。ただし、まとめ買いの場合は油布を無料で付ける』
記録は、日を追うごとに増えていった。
最初は《記録》を馬鹿にしていた冒険者たちも、俺が作った街の案内図を見ると、少しずつ態度を変えていった。
「ユーマ、南区で一番安い矢羽根屋はどこだ?」
「第三水路の近く。ただし、安い矢羽根は羽の向きが揃っていない。長距離には向かない」
「北門から川沿いの村まで、歩いてどれくらいだ?」
「普段なら三時間半。昨日は雨だったから、四時間は見たほうがいい」
「東市場の肉屋、本当に木の日だけ二割引きになるのか?」
「閉店前に売れ残っていれば」
ギルドの酒場で尋ねられるたび、俺は手帳を開いて答えた。
戦えない俺にとって、それは初めて実感できた役割だった。
そして、三つ目。
仲間と生活するというのは、知らなくてもよかった事実まで知ってしまうことだった。
ガルドは、猫が苦手だった。
嫌っているわけではない。
近づかれると、どう接してよいか分からなくなり、身体が硬直するのだ。
道端の猫がガルドの脚へ身体を擦りつけたとき、大男は魔物と対峙したときより深刻な表情で俺を見た。
「ユーマ」
「はい」
「これは、どうすればいい」
猫は喉を鳴らしながら、ガルドの長靴へ頬を寄せていた。
「撫でればいいと思います」
「どこを」
「頭とか」
「噛まれないか」
「多分」
ガルドは険しい表情で猫を見下ろした。
「多分で触れるほど、俺は自分の指を安く見ていない」
その場にいたノエルが猫を抱き上げ、ガルドの胸へ押しつけた。
ガルドは悲鳴を上げた。
石殻鼠の群れに囲まれたときですら聞かなかった、妙に高い声だった。
ノエルはその直後、大きな拳で頭を殴られた。
ミレナは甘いものが好きだった。
ただし、神官は質素であるべきという教会の教えを気にしているらしく、人前では滅多に食べない。
ある夜、夕暮れ亭の厨房で蜂蜜菓子を頬張っている彼女と、偶然目が合った。
ミレナは菓子の粉を口元につけたまま、静かに俺を見つめた。
「ユーマさん」
「はい」
「人には、知られたくないことがあります」
「何も見ていません」
「ありがとうございます」
俺はその場を立ち去ろうとしたが、一度だけ振り返った。
「ただ、口元に粉がついています」
ミレナは慌てて口元を拭った。
翌朝、俺の枕元には、小さな蜂蜜菓子が一つ置かれていた。
口止め料だったのだと思う。
セフは、寝起きが悪かった。
普段の彼は冷静で、理屈っぽく、身だしなみにもうるさい。
だが、朝だけは別人だった。
髪は跳ね、眼鏡をかけ忘れ、左右で違う靴を履く。
初めてその姿を見た朝、俺は無言で黒い手帳を取り出した。
眼鏡をかけていないはずのセフが、なぜか俺の動きだけは正確に捉えた。
「何を記録しようとしているのです」
「後世へ残すべき事実を」
「今すぐ消してください」
「まだ書いていない」
「では、記憶から消してください」
残念ながら、《記録》に意識的な忘却機能はなかった。
ノエルは、金が入るとその日のうちに使った。
食べ物。
賭け事。
見た目だけが派手な安物の短剣。
旅芸人への投げ銭。
見知らぬ子供に菓子を買うこともあれば、酔った勢いで自分より高価な椅子を壊すこともあった。
「明日の食事代は?」
俺が尋ねると、ノエルは胸を張った。
「明日の俺が何とかする」
「今日のお前が何とかしろ」
俺が簡単な小遣い帳を作ると、ノエルは露骨に嫌な顔をした。
「数字に管理される人生なんて、息が詰まる」
「数字を管理しなかった結果が、宿代の滞納だろ」
「それは数字が俺を裏切ったんだ」
「お前が数字を無視したんだ」
そんなやり取りを重ねながら、俺は少しずつ、五人でいることに慣れていった。
朝は、ノエルの声で起こされる。
ガルドが依頼を選ぶ。
ミレナが食料と薬を確認する。
セフが危険性と報酬の釣り合いに文句を言う。
俺が契約内容と経路を記録する。
夜になれば夕暮れ亭へ戻り、同じ食卓を囲んだ。
俺が座る場所も決まっていた。
窓側から二番目。
右隣にはノエル。
向かいにはガルド。
丸い食卓を囲む椅子は、五脚。
それが、俺たちの日常になりつつあった。
加入から六日目。
俺たちは、南西区のパン屋から冒険者ギルドへ、保存食を運ぶ依頼を受けた。
報酬は銀貨一枚と銅貨二十枚。
荷物の量を考えると安い。
だが、危険はほとんどない。
南水路の一件について調査結果が出るまでは、危険度の高い依頼を受けるなと、ヴェラ副支部長から命じられていた。
「五人で受ける仕事でしょうか」
空の荷車を押しながら、セフが不満を漏らす。
「僕たちは冒険者です。荷運び人ではありません」
荷車の縁へ腰掛けていたノエルが、軽い調子で答えた。
「まだ青銅級なんだから、依頼を選べる身分じゃないって」
「座っているあなたが言わないでください。押しなさい」
「斥候は周囲を警戒する役なんだよ」
「街中で何を警戒しているのです」
「パンを狙う鳥とか」
セフが冷たい目を向けた。
「あなたが一番パンを狙っているように見えますが」
目的の店は、鈎針通りと呼ばれる細い路地にあった。
大通りから二本奥へ入った場所。
建物の隙間を縫うように、石畳の道が斜めに延びている。
入口の壁には、釣り針のように湾曲した鉄製の飾りが取りつけられていた。
それが、通りの名前の由来らしい。
荷車一台が通るのがやっとの道幅。
左右には小さな工房や古道具屋が並び、頭上には何本もの縄が渡されている。
洗濯物から垂れた水滴が、通りを歩く人々の頭へ落ちていた。
「ここ、臭いんだよな」
ノエルが鼻をつまむ。
通りの途中に革をなめす工房があり、独特の臭いが漂っていた。
「うるさいぞ、赤毛!」
二階の窓から老婆が顔を出す。
「お前が臭いんだ!」
「朝、身体を洗ったよ!」
「先月の話だろうが!」
「先月も朝だろ!」
ノエルは、この街の至るところで顔を知られていた。
よい意味でも、悪い意味でも。
パン屋の名は、〈青い窯〉。
店の正面には、青く塗られた小さな石窯の模型が飾られていた。
扉を開けると、温かな空気と、焼いた麦の香りが身体を包む。
店の奥では、恰幅のよい女性が腕を組んで待っていた。
「あんたたち、遅いよ!」
俺は依頼書の控えを確認した。
「依頼書では、朝の三刻目となっています」
女性が壁にかけられた時計へ目を向ける。
太い眉が、ゆっくりと下がった。
「……本当だね。あたしが一刻、読み間違えてた」
自分の間違いを、素直に認められる人物らしい。
店主の名は、マレイ・リセ。
四十二歳。
三年前に夫を病気で亡くし、十二歳の娘と二人で店を切り盛りしている。
俺は無意識に、彼女の情報を手帳へ記録した。
依頼主について知ることも、仕事の一部だと思っていた。
『マレイ・リセ。〈青い窯〉店主。四十二歳。右手人差し指に火傷の痕。声が大きい。自分の間違いを認めることができる』
保存食用のパンは、通常のものより硬く焼かれていた。
木箱は十二個。
一箱につき、円盤状のパンが二十枚。
荷車へ積み込んでいると、店の奥から一人の少女が顔を出した。
茶色い髪を左右に分けて結んでいる。
右側の結び目だけ、少し低い。
「お母さん、その人たち、冒険者?」
マレイは木箱を抱えたまま娘を振り返った。
「仕事中だよ。邪魔するんじゃない」
「魔物と戦ったりするの?」
少女の質問へ、ノエルが真剣な顔で答える。
「今日はパンと戦ってる」
少女も真剣な表情で木箱を見つめた。
「パン、強い?」
「保存食用はかなり硬い。まともに殴られたら痛いぞ」
「少女へ嘘を教えないでください」
セフに指摘され、少女が口元を押さえて笑った。
彼女の名は、リナ・リセ。
マレイの一人娘だった。
最後の木箱を荷車へ積み終えると、マレイが人数分の小さなパンを持ってきた。
黒砂糖と木の実を練り込んだ、丸いパン。
表面には麦穂の形をした焼き印が押されている。
「売れ残りだ。持っていきな」
「本当に?」
ノエルが誰よりも早く手を伸ばす。
マレイは、彼の分だけ素早く引っ込めた。
「お前にはやらない」
「何でだよ」
「去年、代金を払わず三つ食べただろ」
「あれは試食だ」
「裏口から入って、棚の上に置いてあったものを食べるのは盗みっていうんだよ」
「後で払うつもりだった」
「払ってないだろ」
「今も、払う意思は残ってる」
マレイはノエルの頭を平手で叩いた。
よく響く音だった。
結局、ノエルにも一つ渡された。
俺は受け取ったパンへ視線を落とし、《記録》を発動する。
『〈青い窯〉、木の実入り黒糖パン』
『直径、およそ九センチ』
『表面に麦穂の焼き印』
食べ物まで記録する必要はないのかもしれない。
だが、元の世界の記憶が妙に曖昧なことが気になっていた。
食べたもの。
見たもの。
出会った人。
何でも記録しておけば、忘れたとしても読み返すことができる。
女神の言葉が、頭の奥へ残っていた。
――あなたが失ってはならないと思うものを。
俺たちは荷車を押し、鈎針通りを出た。
ギルドへ戻る途中、ノエルは受け取ったパンを半分食べ、残りを上着のポケットへしまった。
「全部食べないのか?」
「リナに、今度うまい菓子を持ってくるって約束したんだ。味の参考にする」
ミレナが穏やかな笑顔を向ける。
「残りを後でご自分で食べるためではありませんか?」
「俺を何だと思ってるんだよ」
俺たち四人は、答えずに歩き続けた。
「何か言えよ」
その日の依頼は、何事もなく終わった。
ギルドへ保存食を納品し、報酬を受け取る。
夕暮れ亭へ戻り、五人で食卓を囲み、いつもと同じ夜を過ごした。
翌朝。
食事の最中、ノエルが突然口元を押さえた。
「痛っ」
ミレナが心配そうに身体を寄せる。
「どうしました?」
「奥歯が欠けた」
ノエルは口の中から、小さな白い欠片を取り出した。
「昨日のパン、硬すぎるだろ」
ガルドが呆れた顔で彼を見る。
「まだ食べていたのか」
「ポケットに入れたままだったんだよ。今朝、見つけて」
ミレナの笑顔が、僅かに冷たくなる。
「リナさんへ持っていくのではなかったのですか?」
「味の研究には、資料を消費する必要があるんだ」
セフが食事から顔を上げずに言った。
「単に食べたかっただけでしょう」
ノエルは欠けた歯をミレナに治してもらいながら、マレイへ苦情を言いに行くと主張した。
治癒術の淡い光が消えると、歯は元の形へ戻っている。
「ちょうどいい」
ガルドが食後の杯を置いた。
「次の依頼に備えて、保存食を追加で注文する。午前の仕事が終わったら、〈青い窯〉へ寄るぞ」
昼前、簡単な荷運びを終えた俺たちは、再び南西区へ向かった。
大通りから一本目を曲がる。
古い井戸。
黄色い布を掲げた染物屋。
壁に描かれた赤い鳥。
昨日と同じ景色だった。
その角を曲がれば、鈎針通りがある。
そのはずだった。
先頭を歩いていたノエルが、唐突に足を止めた。
「あれ?」
目の前にあったのは、灰色の石壁だった。
左右の建物が、隙間なくつながっている。
細い路地も釣り針の形をした鉄飾りも、どこにもなかった。
「道を間違えたか」
ガルドが周囲を確認する。
「いや」
俺は、昨日歩いた経路を思い返した。
大通りから南へ。
古い井戸を左。
染物屋を右。
赤い鳥の壁画がある角。
間違いない。
「ここに路地があった」
俺が灰色の壁を指すと、四人の視線が集まった。
「鈎針通りだ。〈青い窯〉というパン屋もあった」
ガルドが怪訝そうに眉を寄せる。
「何の話だ?」
その問いに。
胸の奥で、昨夜の白鐘が微かに鳴った気がした。
だが、俺は、まだ笑って答えようとした。
「昨日来ただろ。パンの運搬依頼で」
「昨日は、ギルドの倉庫整理をしていました」
セフが淡々と答えた。
「朝から夕方まで、破損した装備と期限切れの薬品を仕分けしたはずです」
「違う」
喉が乾いていく。
「〈青い窯〉から保存食を運んだ。木箱が十二個。依頼主はマレイ。娘のリナとも話した」
ミレナは、俺を刺激しないようにするかのように、穏やかな声で答えた。
「そのような依頼は、受けていません」
「ノエル」
俺は彼を見る。
「お前はマレイから黒糖パンをもらった。今朝、それを食べて奥歯が欠けた」
ノエルは舌で、自分の奥歯を確かめた。
「欠けてないぞ」
「ミレナが治したんだ」
「今日は、まだ治癒術を使っていません」
ミレナの返答に、迷いはなかった。
俺はノエルの顔を見つめた。
「お前は昔、あの店のパンを盗み食いした。昨日もマレイに頭を叩かれた」
「俺だって、パン屋から盗むほど落ちぶれてないよ」
セフが小さく息を吐く。
「宿代を滞納している人の発言としては、説得力がありませんね」
「それとこれとは別だろ」
いつものノエルだった。
セフも。
ミレナも。
ガルドも。
昨日のことだけが、四人の中から抜け落ちている。
「待ってくれ」
俺は腰の革袋から、黒い手帳を取り出しページをめくる。
南水路。
正式加入。
その後に受けた依頼。
五日目。
『鈎針通り。大通りから二本入った細い路地。入口に釣り針型の鉄飾り』
残っていた。
『〈青い窯〉。保存食用のパンを製造する店』
『マレイ・リセ。〈青い窯〉店主。四十二歳』
『リナ・リセ。十二歳。茶色い髪を左右に結んでいる。右側の結び目が低い』
『木の実入り黒糖パン。直径、およそ九センチ。表面に麦穂の焼き印』
「ここに書いてある」
俺は手帳をガルドへ向けた。
ガルドは手帳を受け取り、ページへ目を落とした。
「昨日、地下倉庫の整理を行ったと書いてある」
「そんなはずはない」
奪うように手帳を取り返す。
俺の目には、確かに〈青い窯〉の記録が見えている。
だが、ガルドには別の記録が見えている。
「何と書いてあった?」
「廃棄予定の革鎧七。破損した盾四。期限切れの薬品十二」
セフがページを確認する。
「僕にも同じように見えます」
ミレナとノエルも頷いた。
同じ手帳。
同じページ。
それなのに、見えている内容が違う。
「ギルドへ戻ろう」
俺は手帳を閉じた。
「昨日の依頼書を確認すれば分かる」
西区ギルドの受付で昨日の依頼について尋ねると、職員は保管棚から一枚の契約書を取り出した。
〈灰色の雲雀〉。
受注依頼、地下倉庫整理。
開始、朝の三刻。
終了、夕方の一刻。
報酬、銀貨一枚と銅貨二十枚。
書類の下部には、五人分の署名が並んでいた。
ガルド。
ミレナ。
セフ。
ノエル。
そして、神崎悠真。
「こんなものは書いていない」
自分の署名へ指を触れる。
筆圧。
文字の傾き。
最後の払い。
誰かが似せて書いたとは思えない。
俺自身の字だった。
「記憶が混乱している可能性はないか」
ガルドは、周囲へ聞こえないよう声を落とした。
「異世界へ来たばかりだ。南水路では危険な目にも遭った。疲れが出ても不思議ではない」
「俺はマレイと話した。リナとも話した。パンを運んだ」
「二人が実在するなら、住民記録を調べられます」
ミレナの提案で、南西区の商店名簿を確認してもらった。
〈青い窯〉。
マレイ・リセ。
リナ・リセ。
どの名前も存在しなかった。
「鈎針通りという名称も、登録されていません」
受付職員が、古い都市地図を広げる。
南西区。
古い井戸。
染物屋。
赤い鳥の壁画。
俺が覚えている場所は存在する。
だが、鈎針通りがあった場所は、一つの大きな建物として描かれていた。
穀物商の倉庫。
建設から七十八年。
記録上、一度も路地だったことはない。
「昨日、あの場所を歩いた」
自分の声がどこか遠くから聞こえる。
「店も、人も、確かにあった」
「ユーマ」
ノエルが俺の肩へ手を置いた。
「信じてないわけじゃない」
「だったら」
「でも、俺には覚えがない」
いつもの軽い口調ではなかった。
俺を傷つけないよう、慎重に言葉を選んでいる。
それが、かえって苦しかった。
ノエルは肩から手を離さずに続けた。
「誰も覚えてない。記録も変わってる。でも、ユーマには違うものが見えてるんだろ」
「ああ」
「だったら、何か理由がある」
「俺の頭がおかしくなった可能性もある」
「それなら、それで原因を調べればいい」
ノエルは笑わなかった。
「一人で考えるなよ。五人で調べよう」
五人。
その言葉を聞いて、少しだけ呼吸が楽になった。
ガルドが地図を畳んだ。
「現場へ戻る。倉庫の所有者にも話を聞く」
セフも反対しなかった。
「何もなかったとしても、確認する価値はあります。複数の記録が不自然に一致しすぎている」
ミレナが俺を見た。
「行きましょう、ユーマさん」
少なくとも、俺が見たものを、四人は最初から否定しなかった。
問題の場所に建っていた穀物倉庫は、間近で見ると巨大だった。
灰色の石造り。
窓は少ない。
壁には何十年分もの雨と埃が、黒い筋となって残っている。
正面の扉には、束ねた麦穂を描いた商会の紋章が掲げられていた。
倉庫の管理人は、六十歳ほどの痩せた男だった。
ガルドが鈎針通りについて尋ねると、男は不機嫌そうに顔をしかめた。
「そんな通りは知らん」
「この倉庫の場所に、以前は路地がありませんでしたか」
「俺の祖父の代から、ここは倉庫だ」
「〈青い窯〉というパン屋は」
「聞いたこともない」
「マレイ・リセという女性は?」
「知らんな」
迷いのない返答だった。
許可を得て、倉庫の内部も確認した。
麻袋に詰められた小麦。
積み上げられた木箱。
荷運び用の滑車。
床も壁も古い。
昨日までパン屋や工房が並ぶ路地だったとは、とても思えなかった。
奥の壁へ近づいたとき、腰の革袋が、細かく震えた。
中に入れた黒い手帳が生き物のように振動している。
俺は手帳を取り出した。
『鈎針通り。大通りから二本入った細い路地』
文字が、淡い光を放っている。
目の前の壁へ視線を戻す。
無数の石材の中に一つだけ、不自然な石があった。
新しいわけではない。
表面には苔も水垢もあり、細かな亀裂も刻まれている。
だが、視線を外すと、その石がどこにあったのか分からなくなる。
もう一度見つけようとすると、先ほどとは僅かに違う位置にある。
見えているのに覚えられない。
「ユーマさん?」
ミレナの声が、遠くに聞こえた。
俺は石へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、焼きたてのパンの香りがした。
耳元で、少女の笑い声が響く。
――魔物と戦ったりするの?
昨日聞いた、リナの声。
視界が揺れた。
灰色の石壁が一瞬だけ透明になる。
その向こうには、鈎針通りがあった。
頭上へ渡された洗濯物。
革工房。
古道具屋。
青い石窯の模型。
そして、〈青い窯〉の前に、一人の少女が立っていた。
リナ。
彼女は壁の向こうから、俺を見ていた。
少女の唇が動く。
声は聞こえない。
それでも、何を言ったのか分かった。
――お母さんを、返して。
「リナ!」
叫んだ瞬間、路地は消えた。
目の前にあるのは、古い石壁だけだった。
「誰だ?」
ガルドが、腰の斧へ手をかける。
「今、壁の向こうにいた」
「壁の向こうは、別の倉庫だ」
管理人が怪訝そうな顔をした。
俺は石壁を叩いた。
硬い感触。
空洞の音はしない。
それでも、確かに見えた。
リナは完全に消えていない。
少なくとも、俺へ助けを求める程度には、どこかに残っている。
「この壁を壊せないか」
俺の言葉に、管理人の顔色が変わった。
「何を言っている! 他人の倉庫だぞ!」
「この向こうに人がいる」
「いるわけがない!」
「ユーマ、落ち着け」
ガルドの大きな手が、俺の肩を掴む。
「見えたんだ」
「ああ」
「信じてないだろ」
口にしてから、後悔した。
ガルドは、俺を助けようとしている。
それなのに、恐怖が言葉を鋭くしていた。
ガルドは怒らなかった。
ただ、正直に答えた。
「俺には見えなかった」
「でも」
「だが、お前が嘘をついているとも思っていない」
ガルドは壁を見上げる。
「だからこそ、今は勝手に動くな。壁を壊して何もなかった場合、お前は責任を取れるのか」
答えられなかった。
俺には金も立場もない。
異世界へ来て、まだ六日。
記憶だけを根拠に、他人の財産を壊すことなどできない。
「一度戻る」
ガルドは俺の肩から手を離した。
「手帳を調べる。セフにも確認させる。そのうえで、必要ならヴェラを動かす」
正しい判断だった。
正しいからこそ、壁の向こうにリナを残して立ち去ることが、苦しかった。
夕暮れ亭へ戻っても、夕食の味は分からなかった。
羊肉を噛む。
飲み込む。
それだけだった。
ガルドが、向かいの席から俺を見ていた。
「今日は早く休め」
「俺は病気じゃない」
「決めつけるな。記憶や精神へ影響を与える魔法もある。原因を調べることは、恥ではない」
正しい言葉だった。
だが、今の俺には受け入れられなかった。
食事を残し、一人で大部屋へ戻る。
黒い手帳を開いた。
鈎針通り。
〈青い窯〉。
マレイ。
リナ。
記録は残っている。
俺の目には見える。
だが、世界の誰にも読めない。
記録が残っていても、それを証明できないのなら。
存在しないことと、何が違うのだろう。
「何のための能力なんだよ」
消えたものを一人で覚えているだけ。
誰にも信じてもらえず自分自身さえ疑いながら、これが転生の恩恵だというのなら呪いと変わらない。
ページをめくる。
黒糖パンの記録。
『〈青い窯〉、木の実入り黒糖パン』
『直径、およそ九センチ』
『表面に麦穂の焼き印』
その文字へ指先が触れた。
温かい。
ほかのページとは違う。
紙の奥に僅かな熱が残っている。
指を離すと銀色の文字が浮かび上がった。
『記録対象との同期が可能です』
「同期?」
説明は、それだけだった。
俺は黒糖パンを思い浮かべた。
丸い形。
木の実。
黒砂糖の香り。
表面に押された、麦穂の焼き印。
マレイから受け取ったときの温かさ。
記録する。
強く念じた。
胸の奥が焼けるように熱くなった。
手帳に書かれた文字が、紙の上から浮き上がる。
黒い粒子となり空中で渦を巻く。
粒子が一つの形へ集まっていく。
俺は息を止めた。
机の上に一つのパンが現れた。
丸い黒糖パン。
直径九センチ。
表面には、麦穂の焼き印。
昨日、マレイから受け取ったものと同じだった。
恐る恐る触れる。
硬い。
黒砂糖の甘い匂いもする。
幻ではない。
「何だ、それ」
背後から声がし振り返ると、大部屋の入口に、ノエルが立っていた。
「寝たんじゃなかったのか」
「ユーマが夕飯を残したから、腹でも壊したのかと思って」
ノエルは机へ近づき、パンを覗き込んだ。
「どこで買った?」
「〈青い窯〉でもらった」
ノエルの表情が曇る。
「また、その話か」
「違う。これは、手帳の記録から出てきた」
「記録から?」
俺は、起きたことを説明した。
疑われると思った。
だが、ノエルは笑わなかった。
パンを手に取り、麦穂の焼き印を指でなぞる。
「食べてもいい?」
「証拠なんだから駄目だ」
「少しだけ」
「駄目だ」
「毒かもしれない。斥候として安全を確認しないと」
「言い訳を作るな」
ノエルが不満そうにパンを机へ戻したところで、廊下からセフの声が聞こえた。
「何を騒いでいるのです」
やがて、ガルドとミレナも部屋へ入ってきた。
俺は三人にもパンを見せる。
セフは眼鏡を押し上げ、慎重にパンを観察した。
「記録した物体を再現したのですか」
「完全に作り出したわけではないと思う」
手帳には、新たな銀色の説明が現れていた。
『記録対象の存在情報を、一時的に固定』
俺が読み上げると、セフが手帳へ顔を寄せた。
「どこに書かれているのです」
「ここに」
ページを見せる。
セフは眉を寄せた。
「何もありません」
銀色の文字は、やはり俺にしか見えない。
だが、パンそのものは、全員に見えている。
ミレナが小さな刃物で、パンの端を切った。
断面には、砕かれた木の実が混ぜ込まれている。
ガルドが匂いを確かめた。
「普通のパンに見える」
「昨日、俺たちがパン屋へ行った証拠になる」
俺の言葉に、セフはすぐには同意しなかった。
「同じパンが、別の店で売られている可能性はあります」
一度、机の上を確認してから続ける。
「ですが、ユーマが部屋へ戻った時点で何も持っていなかったことは、全員が確認しています。少なくとも、物体が突然出現したことは否定できません」
「ヴェラへ見せるか?」
ノエルの提案に、ガルドは首を横に振った。
「今夜はここで保管する。明日の朝、全員で持っていく」
パンを布で包む。
そして、消える可能性を考え、交代で見張ることになった。
最初は俺。
次にセフ。
三番目にノエル。
その後はガルド。
ミレナには、治癒術師として魔力を温存してもらう。
夜が深まった。
街の喧騒は消え。
窓の外から、風の音だけが聞こえる。
黒糖パンは机の上に残っている。
布の中から甘い香りが漂っていた。
どの程度の時間が経ったのか、俺には分からない。
やがて、膝の上に置いた黒い手帳が、突然震え始めた。
これまでよりも激しい。
表紙が勝手に開く。
ページが、次々とめくられていく。
鈎針通り。
〈青い窯〉。
マレイ。
リナ。
記録されたすべての文字が。
赤く染まっていた。
『記録対象への再干渉を確認』
机の上を見ると、パンの輪郭が薄くなっていた。
背後の布が透けて見えるほど、半透明になっている。
「セフ!」
俺は寝台へ駆け寄った。
「起きろ!」
肩を揺らす。
セフは目を開けない。
ガルドも。
ノエルも。
隣室のミレナも。
呼吸はしている。
だが、どれほど強く呼びかけても目覚めない。
窓の外から鐘の音が聞こえた。
一度。
全身の毛が逆立つ、白鐘。
二度。
パンの輪郭が、さらに薄くなる。
三度。
手帳の上に、銀色の文字が現れた。
『存在固定を継続しますか』
続ければ。
パンは消えない。
マレイとリナが。
鈎針通りが。
存在していた証拠を残すことができる。
「継続する」
答えた瞬間、鋭い痛みが胸を貫いた。
手帳から黒い文字が溢れ。
机の上のパンを包み込む。
半透明だった輪郭が、僅かに戻る。
四度。
頭の奥から、何かが引き抜かれるような感覚がした。
激痛ではない。
大切な言葉を思い出せなくなる直前。
記憶が、空白へ滑り落ちていく感覚。
五度。
俺は。
日本で暮らしていた部屋を思い浮かべた。
狭い部屋。
白い壁。
小さな台所。
窓の外に見えていた建物。
だが、どこに住んでいたのか。
住所が出てこない。
最寄り駅の名前も分からない。
六度。
部屋の間取りが曖昧になる。
ベッドが右にあったのか、左にあったのか。
カーテンは何色だったのか。
七度。
玄関の扉を開けた先に何があったのか。
廊下。
階段。
隣の部屋。
すべてが、白い霧へ沈んでいく。
「待て」
俺は頭を押さえた。
「何をしている」
誰も答えない。
八度。
黒糖パンの輪郭が完全に戻った。
同時に俺が日本で暮らしていた部屋の記憶が消えた。
どこで眠っていたのか。
どこで食事をしていたのか。
どんな窓から何を見ていたのか。
思い出そうとしても何も浮かばない。
そこに自分の生活があった。
その事実だけが残った。
そして、ほかの誰にも聞こえないほど小さく。
九度目の鐘が鳴った。
窓の外から街の色が失われていく。
建物。
空。
石畳。
すべてが、紙のような白へ変わる。
遠くの路地に何かが立っていた。
白い外套。
顔らしいものは見えない。
人間のようにも街灯へ引っかかった布のようにも見える。
その白い影がゆっくりとこちらを向いた。
黒い手帳に文字が浮かぶ。
『照合対象を確認』
次の文字は、読めなかった。
理解できない記号が、激しい勢いで流れていく。
保存。
観測。
帰還。
第九。
意味の断片だけが頭の中へ刺さった。
白い影が僅かに動く。
人の腕にも見える何かがこちらへ向けられた。
机の上のパンが、再び透け始める。
「消させない」
俺は手帳の上へ手を置いた。
「マレイも、リナもいた」
白い影は答えない。
「俺は会った」
胸の奥が焼ける。
失った部屋の記憶をさらに奥へ押し込まれるような感覚。
「誰も覚えていなくても」
手帳を掴む。
「最初から存在しなかったことにはさせない」
白い世界へ、細い亀裂が走った。
白い影が、霧のように崩れていく。
最後に声とも音ともつかないものが、頭の中へ残った。
――記録者。
次の瞬間。
世界に色が戻った。
風が吹く。
遠くで犬が吠える。
寝台の上で。
セフが寝返りを打った。
何事もなかったかのように夜が続いている。
机の上には黒糖パンが残っていた。
それと引き換えに、俺が日本で暮らしていた部屋は。
記憶の中から、完全に消えていた。
翌朝。
俺は昨夜の出来事を四人へ説明した。
白鐘。
眠りから覚めない仲間たち。
消えかけた黒糖パン。
窓の外に立っていた、白い影。
そして、失われた日本の記憶。
全員が途中で口を挟まずに聞いていた。
「信じてくれとは言わない」
俺は机の上のパンを見る。
「でも、これだけは残った」
ノエルがパンを手に取り、表面の麦穂を見つめた。
「俺」
彼の声から、いつもの軽さが消えた。
「これを知ってる気がする」
「覚えているのか?」
「分からない」
ノエルは目を閉じ、パンの匂いを吸い込んだ。
「見たことはないはずなのに。誰かに頭を叩かれたような気がする」
マレイ。
昨日、ノエルの頭を叩いた女性。
記憶は消されている。
だが、完全には失われていないのかもしれない。
ミレナも黒糖パンへ指を触れた。
「女の子の声が聞こえるような気がします」
彼女は目を伏せた。
「笑っている声です」
セフはパンの断面を観察した。
「この物体に、失われた記憶を呼び起こす性質があるのか。それとも、記憶の消去そのものが不完全なのか」
「どちらでも構わん」
ガルドが静かに言った。
「少なくとも、ユーマの話を妄想として片づけることはできなくなった」
ガルドは俺を見る。
「鈎針通りは存在した」
一つずつ、確かめるように言葉を続ける。
「〈青い窯〉も」
「マレイとリナも」
ノエルが加えた。
初めて、俺以外の人間が消された二人の存在を認めた。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
「助けたい」
俺は言った。
「リナは壁の向こうにいた。お母さんを返してほしいと言っていた」
セフが、すぐに現実的な問題を挙げる。
「戻す方法は不明です。敵の正体も、現象の仕組みも分かりません」
「だから調べるんだろ」
ノエルが黒糖パンを机へ戻した。
その顔にいつもの笑みが、少しだけ戻る。
「五人で」
ガルドが頷く。
ミレナも。
セフは眼鏡を押し上げ、小さく息を吐いた。
「反対しても、あなたたちは調査するのでしょう」
「お前も来るだろ?」
ノエルが尋ねる。
「未知の現象を、あなたたちだけに調べさせるわけにはいきません」
それが、俺たち五人が挑むことになった、最初の本当の冒険だった。
魔物を倒すためではない。
報酬を得るためでもない。
世界から消された、小さなパン屋と二人の親子。
誰も覚えていない人々を見つけるための冒険。
その日の午後。
俺は黒い手帳へ、五人で調査を始めることを記録した。
『ガルド・バルガス』
『ミレナ・フォース』
『セフ・アルノー』
『ノエル・ハース』
『神崎悠真』
並んだ五つの名前を見つめる。
しばらくすると、ノエルの名前の下へ。
細い銀色の線が浮かび上がった。
『観測状態――不安定』
「ノエル」
思わず彼の姿を確認する。
窓辺で残った黒糖パンを盗み食いしようとしていた。
「何だよ」
「いや」
そこにいる。
声も。
顔も。
右耳の真鍮の輪も。
昨日までと変わらない。
俺は手帳を閉じた。
まだ、何も起きてはいない。
だが、黒い手帳だけは知っていた。
鈎針通りの次に、世界から消されようとしているものを。
ノエル・ハースが消えるまで。
残り、十二日。




