第一章 ~ハズレスキル《記録》~
話は、あの空席に気づく十八日前へ遡る。
俺が初めて異世界の空を見たとき、その色は薄い紫だった。
夕暮れでも、夜明けでもない。
澄んだ水へ紫色の絵の具を一滴落とし、ゆっくりとかき混ぜたような空。
そこに、大小二つの月が浮かんでいる。
大きな白い月。
その斜め下へ寄り添う、小さな青い月。
風が吹くたび、草原を覆う銀色の穂が波のように揺れた。
遠くには、石造りの街が見える。
高い城壁。
赤い屋根。
いくつもの細い塔。
最も高い塔の先端には、鳥が翼を広げた形の旗が翻っていた。
きれいだと思った。
同時に、どうしようもなく心細かった。
「本当に、異世界なんだな」
口にした声は、草原を渡る風にさらわれた。
俺の名前は、神崎悠真。
二十八歳。
日本では、従業員が百人にも満たない物流会社で事務職をしていた。
特別な資格はない。
学生時代に何かを成し遂げた経験もない。
人へ熱心に語れる趣味もなければ、恋人もいなかった。
仕事は、会議の議事録。
在庫表。
事故報告書。
上司が間違えた数字を、誰にも気づかれないよう修正すること。
目立たず。
怒られず。
嫌われず。
自分が誰かの役に立っているのかも分からないまま、一日を終える。
そんな人生だった。
死因は、正確には思い出せない。
覚えているのは、夜の会社へ一人で残っていたこと。
頭上の蛍光灯が、何度か明滅したこと。
机の上に積まれていた報告書が、風もないのにめくれたこと。
そして、誰もいないはずの背後から、女の声が聞こえたこと。
――記録を開始します。
振り返った先には、白い光があった。
次に目を開けたとき、俺は何もない白い空間に立っていた。
床も。
壁も。
天井もない。
距離も、方向も分からない。
目の前には、一人の女性がいた。
腰まで届く銀色の髪。
汚れ一つない白い衣。
紫色の瞳。
頭上には、細い光の輪が浮かんでいる。
女神。
そう呼ぶ以外に、表現のしようがない姿だった。
『神崎悠真』
女神は、俺の名前を知っていた。
『あなたの前生は終了しました』
死亡しました。ではなかった。
そのときの俺には、言葉の違いを気にする余裕などなかった。
「終了……つまり、俺は死んだんですか」
『現在のあなたは、元の世界へ戻ることができません』
質問への答えになっていない。
だが、死んだ人間が元の世界へ戻れないのは当然だと思った。
『あなたには、新たな世界で生きる権利が与えられます』
「転生というやつですか」
『その理解で、大きな問題はありません』
大きな問題はない。
小さな問題ならあるような言い方だった。
女神が胸の前で両手を重ねる。
白い空間に、無数の光が浮かび上がった。
剣。
盾。
杖。
炎。
雷。
翼。
さまざまな形の紋章が、星のように瞬いている。
異世界転生を扱った物語を、それほど多く読んできたわけではない。
それでも、この場面が何を意味するかくらいは分かった。
特別な能力。
いわゆる転生特典だ。
「この中から、好きな能力を選べるんですか」
『いいえ』
期待する暇もなく、即答された。
「違うんですか」
『魂に適合しない権限を与えれば、あなたという人格が損傷します』
権限。
能力ではなく。
女神は、そう表現した。
『あなたに返還できるものは、一つだけです』
返還。
初めて与えるのではなく。
俺が以前持っていたものを、返すような言い方だった。
女神が右手を上げる。
周囲へ浮かんでいた紋章が、一斉に消えた。
最後に残ったのは、小さな本の形をした、地味な紋章だった。
剣でもない。
炎でもない。
光り方さえ、ほかの紋章より弱い。
『天恵、《記録》』
「記録?」
『自身が見聞きした事柄を、正確な文章として保存する能力です』
しばらく、返事ができなかった。
「それだけですか」
『現段階では』
「身体能力が上がったりは」
『しません』
「魔法を使えたり」
『しません』
「傷を治したり、物を収納したり」
『しません』
女神は、淡々と答える。
俺は最後の希望を込めて尋ねた。
「……紙とペンでよくないですか」
女神は答えなかった。
紫色の瞳で。
ただ、俺を見つめている。
その顔に浮かんでいたものが。
哀れみだったのか。
恐れだったのか。
今でも分からない。
やがて、女神は俺の胸へ、本の紋章を押し込んだ。
冷たい感覚が身体の中心を貫く。
視界の端へ、淡い文字が浮かび上がった。
《記録》
見聞きした事象を保存する。
それだけだった。
「もう少し詳しい説明はないんですか」
『記録してください』
女神が言った。
『あなたが、失ってはならないと思うものを』
「失う?」
白い空間に、細い亀裂が走った。
『時間がありません』
初めて、女神の声に焦りが混じった。
『まもなく接続が切断されます』
「待ってください。新しい世界について、まだ何も聞いていません」
『剣と魔法が存在します。人類に近い種族が複数生活しています。あなたの言語認識は、現地言語へ自動的に変換されます』
白い空間の亀裂が増える。
「危険は?」
『あります』
「俺みたいな普通の人間でも、生きていけるんですか」
女神は。
ほんの一瞬だけ目を伏せた。
『今度こそ』
かすかな声だった。
「今度こそ?」
『すべてを、忘れないでください』
白い空間が砕けた。
女神の姿が遠ざかる。
彼女の背後で何か巨大なものが動くのが見えた。
柱のようでもあり。
歯車のようでもある。
幾重にも重なる円。
無数の光の線。
そして、女神の頭上に浮かんでいた光の輪が、一瞬だけ文字へ変わった。
――第八補助人格。
そう読めた気がした。
次の瞬間。
俺は紫色の空の下に立っていた。
「……説明不足にもほどがあるだろ」
当然、返事はなかった。
城壁までは、歩いて一時間ほどかかった。
途中、空を魚のような生き物が泳いでいた。
半透明の身体。
細長い尾。
翼はない。
俺が見上げると、視界の端に小さな文字が浮かぶ。
《記録しますか》
試しに、記録すると念じた。
胸の奥が、僅かに温かくなる。
同時に、文章が頭の中へ浮かび上がった。
『紫色の空を、半透明の生物が飛行している』
『全長は、およそ三メートル』
『魚類に似た形状』
『翼は確認できない』
「本当に、それだけなんだな」
忘れないことは便利だ。
だが、異世界で生き残るための能力としては弱すぎる。
空を飛ぶ魚に襲われた場合、俺にできるのは、正確な襲撃記録を残すことだけだ。
やがて、城壁の大きな門へたどり着いた。
槍を持った門兵が、俺の前へ立つ。
「身分証を」
「持っていません」
「商業証は」
「ありません」
「所属領は」
「ええと……異世界です」
門兵の手がゆっくり槍へ伸びた。
「冗談を言っているのか」
「違います。気がついたら、そこの草原にいました」
俺は両手を上げる。
幸い、この世界では、異なる場所から突然現れる人間は、完全に前例のない存在ではなかった。
俺の服装を調べた門兵たちは、しばらく相談した後、城門脇にある小さな礼拝所へ俺を連れていった。
礼拝所には白髭の司祭と、青い水晶が置かれていた。
「漂着者か」
司祭は泥のついた俺のスーツを、珍しそうに眺める。
「漂着者?」
「稀に現れる。異なる土地、異なる時代、時には異なる世界から、神々の導きによって流れ着く者だ」
転生者ではなく、漂着者。
この世界では、そう呼ばれているらしい。
「天恵を確認する。水晶へ手を置きなさい」
言われたとおり、青い水晶へ触れる。
冷たい水晶の内部に、淡い光が灯った。
細かな文字が浮かび上がる。
『神崎悠真』
『種族――人間』
『年齢――二十八』
『天恵――記録』
『等級――最下級』
礼拝所にいた若い門兵が、堪えきれず吹き出した。
「記録?」
隣の門兵も笑う。
「帳簿屋には向いているんじゃないか」
「最下級なら、珍しくもないだろ」
司祭だけは笑わなかった。
青い水晶を見つめ、眉間へ深い皺を寄せている。
そのとき、水晶の奥へ、別の文字が浮かんだ。
『第九管理――』
そこまで見えた瞬間、水晶に亀裂が走った。
乾いた音が礼拝所へ響く。
青い光が消える。
「壊したのか!」
門兵が俺の腕を掴んだ。
「触っただけです」
「この水晶がいくらすると思っている!」
「待て」
司祭が門兵を制した。
床へ落ちた水晶の欠片を拾い、光へ透かす。
その指が僅かに震えていた。
「今」
俺は司祭の顔をうかがう。
「何か、別の文字が見えませんでしたか」
「いいや」
「第九管理と」
「見間違いだ」
答えが早すぎた。
司祭は欠片を布へ包み、俺から隠すように箱へしまった。
「この者の天恵は《記録》。最下級。戦闘能力なし。教会の保護対象には該当しない」
「保護してくれないんですか」
「強力な天恵を持つ漂着者なら、王国が衣食住を保証することもある。だが、すべての漂着者を養う余裕はない」
正論だった。
異世界へ来れば、王様や貴族が、当然のように面倒を見てくれる。
そんな都合のよい話はないらしい。
司祭から渡されたのは銅貨五枚。
そして、この街の簡単な地図だけだった。
それが、神崎悠真が異世界で手にした、最初の全財産だった。
街の名は、ラトメア。
王国西部の交易都市。
中央を大きな川が流れ、川沿いには倉庫と商店が並んでいる。
城壁の外から見たときは美しい街だと思った。
中へ入ると現実の匂いがした。
泥。
家畜の糞。
焼いた肉。
香辛料。
汗。
排水路。
石畳を歩く人々の服装は、想像していた中世の衣装に近い。
だが、耳の長い人。
額に角のある人。
背丈が俺の腰ほどしかない人。
人間とは異なる種族も混じっていた。
通りの向こうでは、杖を持った女性が、指先から小さな炎を出している。
露店の炭へ火をつけるための魔法だった。
本当に魔法がある。
少しだけ胸が躍った。
その直後、腹が鳴った。
異世界でも腹は減る。
銅貨五枚で買えるのは、固い黒パンが二つ程度。
安宿へ泊まれば、それだけで全財産が消える。
俺は地図へ記されていた冒険者ギルドを目指した。
この世界で仕事を探す場所として、それ以外に思いつかなかった。
西区冒険者ギルドは、二階建ての大きな石造りの建物だった。
中へ入る。
酒場と役所を、無理やり一つにしたような空間が広がっていた。
武器を持った冒険者。
依頼書の貼られた掲示板。
酒を運ぶ給仕。
傷の手当てを受ける男。
受付前には長い列ができている。
三十分ほど待ち。
ようやく自分の番が回ってきた。
「冒険者登録ですね」
受付の女性は、営業用の笑顔を浮かべていた。
赤茶色の髪を、一つに束ねている。
「登録料は銀貨一枚になります」
「銅貨しか持っていないんですが」
「銅貨ですと百枚です」
所持金。
五枚。
話にならない。
「登録料を稼ぐための仕事はありませんか」
「ギルドを通した依頼は、登録者のみ受注できます」
受付嬢の笑顔が少し困ったものへ変わった。
そのとき。
隣の窓口から、少年の怒鳴り声が聞こえた。
「だから、報酬が違うって言ってるんだ!」
一人の少年が依頼書を受付台へ叩きつけていた。
赤褐色の髪。
右耳には真鍮製の輪。
年齢は、十六歳ほど。
小柄な身体を軽装の革鎧で包み、腰には短剣を下げている。
「依頼を受けたときは銀貨十二枚だった。何で達成報告をしたら八枚になるんだよ」
対応している受付職員は表情を変えなかった。
「契約書には、銀貨八枚と記載されています」
「そんなはずない。俺は数字を確認した」
「では、こちらをご覧ください」
受付職員が依頼書を示す。
報酬。
銀貨八枚。
確かにそう書かれている。
少年の後ろには、三人の冒険者がいた。
大柄な戦士。
神官服の女性。
銀縁眼鏡をかけた魔術師。
「ノエル」
大柄な戦士が、少年の肩を掴んだ。
「もういい。今回は、俺たちの確認不足だ」
「ガルドまで何を言ってるんだよ。十二枚だったって」
「証拠がない」
眼鏡の魔術師が、冷たく言い放つ。
「受注時に控えを取らなかった。僕たちの失敗だ」
「でもよ」
少年はどうしても納得できない様子だった。
俺は依頼書へ目を向けた。
報酬欄。
銀貨八枚。
その横に。
小さな染みがある。
インクの色がほかの文字と僅かに違う。
「すみません」
気づけば声をかけていた。
四人の冒険者と受付職員が一斉に俺を見る。
「その依頼書」
俺は報酬欄を指した。
「書き換えられているかもしれません」
受付職員の顔から笑みが消えた。
「根拠は?」
「報酬欄だけ、インクの色と乾き方が違います。それに、八の左側へ、羊皮紙を削った跡がある」
近くで確認させてもらう。
報酬欄の表面だけ、薄く毛羽立っている。
「元の文字を削って、上から書き直したんだと思います。裏から強い光を当てれば、前の文字が見えるかもしれません」
受付職員は半信半疑のまま、依頼書を窓辺へ運んだ。
夕日の光へ透かす。
削られた文字の跡がゆっくりと浮かび上がった。
十二。
周囲がざわめく。
「どういうことだ」
ガルドと呼ばれた戦士の声が低くなる。
受付職員の顔は青ざめていた。
その後、責任者が呼ばれ、簡単な調査が行われた。
依頼主が報酬をごまかすため、提出後の書類を書き換えていたことが判明した。
四人には当初の契約どおり、銀貨十二枚が支払われた。
「助かった」
ギルドを出たところで先ほどの赤毛の少年が、俺を追いかけてきた。
「よく気づいたな」
「仕事で、ああいう書類をよく見ていたから」
「仕事?」
「事務職」
「ジムショク?」
説明が難しい。
「紙へ文字を書いたり、数字の間違いを探したりする仕事だ」
「書記みたいなものか」
「たぶん、それでいい」
少年は、俺の服装を上から下まで眺めた。
「見ない格好だな。冒険者か?」
「なろうとしたけど、登録料が払えなかった」
「天恵は?」
答えるのを一瞬ためらった。
「《記録》」
少年は目を丸くした。
そして、笑った。
礼拝所の門兵と同じ反応。
また、馬鹿にされる。
そう思った。
だが、少年の口から出た言葉は、まったく違った。
「最高じゃん」
「……最高?」
「見たものを、正確に残せるんだろ」
「文章にできるだけだ」
「十分だよ。遺跡の道も、魔物の特徴も、依頼の契約も残せる」
少年は当然のことのように言った。
「帰り道を記録しておけば、迷わなくて済む。今日だって、依頼書をちゃんと残していれば、あんな揉め方はしなかった」
後になって思う。
ノエル・ハースは最初から、そういう少年だった。
誰も価値を認めなかったものを面白そうだと拾い上げる。
道端に落ちた光る石。
欠けた短剣。
売れ残った焼き菓子。
そして、何の役にも立たない天恵を持った異世界人。
「俺はノエル」
少年が右手を差し出す。
「ノエル・ハース。斥候をやってる」
俺はその手を握った。
小さく傷だらけの手だった。
「神崎悠真」
「カンザキ・ユーマ?」
「ユーマでいい」
「じゃあ、ユーマ」
ノエルは歯を見せて笑った。
「俺たちのパーティーに入らないか?」
出会って数分の少年から誘われ、俺はすぐに返事ができなかった。
異世界へ来てから、まだ半日も経っていない。
街の常識も知らない。
武器もない。
泊まる場所もない。
所持金は黒パン一つ分ほど。
そんな人間を冒険者パーティーへ誘う理由が分からない。
「人手が足りないのか?」
尋ねると、ノエルはあっさり首を横に振った。
「全然。前衛がガルド。後衛がセフ。回復がミレナ。斥候が俺。今の四人で役割は揃ってる」
「だったら、俺を入れる必要はないだろ」
「必要がなかったら、仲間を増やしちゃ駄目なのか?」
逆に聞かれた。
言葉に詰まる。
ノエルは腰へ両手を当てた。
「ユーマは、書類の書き換えに気づいた。俺たちは四人とも気づかなかった」
彼は、まるで簡単な計算の答えを示すように続ける。
「だったら、俺たちにできなくて、ユーマにできることがあるってことだろ」
単純な理屈だった。
だが、俺には簡単に受け入れられない言葉だった。
以前の会社では、人の価値は、誰にでも分かる数字で決まった。
売上。
処理件数。
資格の数。
残業へ対応できる時間。
俺のように誰かの間違いへ気づき、問題になる前に直す人間の仕事は最初から何も起きなかったことになる。
評価されない。
記録にも残らない。
それが、当たり前だと思っていた。
「おい、ノエル」
背後から低い声が飛んでくる。
先ほどの大柄な戦士。
ガルドが、腕を組んで立っていた。
近くで見ると、さらに大きい。
身長は二メートル近い。
首も腕も太く、革鎧の隙間から見える肌には、古い傷がいくつも残っている。
「勝手に決めるな。パーティーへ入れるなら、全員で話し合う」
「じゃあ、今から話し合おう」
「お前は、先に口を動かす癖を直せ」
「足が速いから、口も速いんだよ」
「意味が分からん」
二人のやり取りを見ながら、神官服の女性が小さく笑った。
「立ったままでは何ですから、少し場所を移しませんか」
彼女は胸元へ手を当て、丁寧に頭を下げた。
「ミレナ・フォースと申します。治癒術を担当しています」
「神崎悠真です」
「カンザキ様が家名で、ユーマ様がお名前でしょうか」
「はい。ただ、ユーマで構いません」
「では、ユーマさんと」
柔らかく微笑まれる。
見ず知らずの相手から、これほど穏やかな声を向けられたのは、久しぶりだった。
「僕は反対だ」
最後の一人。
銀縁眼鏡の魔術師が、冷静な声で告げた。
「セフ」
ミレナがたしなめる。
「事実を言っているだけです。僕たちは慈善団体ではない」
セフ・アルノー。
細身の青年。
年齢は、二十歳ほどに見える。
濃紺の外套には、銀糸で幾何学模様が刺繍され、腰には短い杖を下げている。
整った顔立ちだが、眉間には常に皺が寄っていた。
セフは俺の姿を頭から靴まで確かめる。
「武器を持っていない。防具もない。冒険者登録もしていない。天恵は、戦闘能力のない《記録》」
そこまで確認した後、彼は眼鏡を押し上げた。
「同行させれば、守る対象が一人増えるだけです」
「そのとおりです」
俺が答えると、セフは少し意外そうな顔をした。
「反論しないのですか」
「できません。実際、俺は戦えない」
「だったら」
「だから、お試しでいいだろ」
ノエルが俺とセフの間へ入り込んだ。
「一度だけ一緒に依頼を受ける。役に立たなかったら、それで終わり。役に立ったら入れる。簡単だろ」
セフは納得していない。
「登録料はどうするのです」
「俺が貸す」
「君は先週、全財産を鼠の競走へ使ったでしょう」
「あれは賭けじゃない。未来への投資だ」
「銀貨三枚を投資して、一匹も完走しなかったと聞きましたが」
「だから未来なんだよ。今じゃない」
「ノエル」
ミレナが笑顔のまま名前を呼んだ。
ノエルの背筋が伸びる。
「はい」
「次に賭け事をした場合、治癒術を使う際、少しだけ痛みが残るかもしれません」
「聖職者が言っていい台詞じゃないだろ、それ」
ミレナは微笑みを崩さなかった。
ガルドが大きく息を吐く。
「登録料は俺が出す」
俺が驚いて彼を見ると、ガルドは太い指を一本立てた。
「ただし貸しだ。最初の報酬から返してもらう」
「分かりました」
「俺たちは明日、南水路の調査と採取依頼を受ける。危険度は低い。そこで、お前の動きを見る」
ガルドの表情が厳しいものへ変わる。
「命令を聞くこと。勝手に動かないこと。危険だと思ったら、迷わず逃げること」
「はい」
「戦えないことを恥じるな」
その声には、長い経験から生まれた重みがあった。
「戦えない人間が、戦えるふりをするほうが迷惑だ」
ガルドは俺のスーツを指した。
「それから、その格好では水路へ入る前に死ぬ。装備を揃えるぞ」
自分の姿を見下ろす。
草原を歩いた革靴は泥だらけ。
シャツの襟元は汗で湿っている。
この世界で背広姿の冒険者は、確かに無理があった。
「ようこそ、灰色の雲雀へ」
ノエルが俺の背中を叩く。
「まだ仮入団です」
セフが訂正した。
「細かいことを言うと、髪が抜けるぞ」
「君の舌を引き抜けば、少なくとも静かにはなります」
「魔術師って怖いな、ユーマ」
「俺に振るな」
思わず答える。
ノエルが、楽しそうに笑った。
こうして俺は異世界へ来たその日のうちに。
冒険者パーティー〈灰色の雲雀〉の、仮の一員となった。
冒険者登録は驚くほど事務的に進んだ。
氏名。
年齢。
種族。
出身地。
天恵。
犯罪歴。
読み書きの可否。
指定された項目を羊皮紙へ記入し。
最後に、血を一滴落とす。
血が淡く光り、文字の一部へ染み込んだ。
「これで登録契約が成立します」
受付嬢が木製の小さな札を差し出す。
表面には、俺の名前と鳥の紋章が焼きつけられていた。
色は白。
冒険者の最下級である、白木級を示す色らしい。
ガルドたち四人は、すでに一つ上の青銅級だった。
「白木級の方を戦闘依頼へ同行させる場合、責任はパーティー代表者へ帰属します」
受付嬢の説明にガルドが頷く。
「承知している」
「死亡時の遺体回収は別料金です」
思わず聞き返した。
「そこまで説明する必要があるんですか」
受付嬢は変わらない笑顔で答えた。
「最初にお伝えしないと、後でご家族と揉めますので」
異世界へ来た実感が別の角度から重くのしかかった。
剣と魔法。
冒険。
魔物。
言葉だけなら胸が躍る。
だが、この世界では、冒険者が死ぬことも業務上の手続きの一つなのだ。
登録後、ギルドに併設された売店へ連れていかれた。
使い古しの革靴。
厚手の服。
小さな背負い袋。
傷だらけの革手袋。
ガルドが必要な金を立て替えてくれた。
「借金が増えていく……」
「最初は誰でもそうだ」
ガルドは装備の留め具を確認しながら答えた。
「装備に金を惜しんだ人間から死ぬ。覚えておけ」
「武器は?」
ノエルが、壁に並ぶ短剣を指した。
「ユーマにも、一本あったほうがいいんじゃないか」
「扱えない武器は、自分を傷つける」
ガルドが首を横に振る。
「まずは、これでいい」
渡されたのは、俺の身長ほどある木製の杖だった。
先端には小さな鉄の輪がついている。
「これで戦うんですか」
「戦うな。転ばないために使え」
筋の通った説明だった。
最後に俺は、自分の銅貨を三枚使い。
売店の隅へ積まれていた手帳を一冊買った。
黒い革を縫い合わせた表紙。
紙は厚く、少し黄ばんでいる。
手のひらより一回り大きい程度の安物の手帳だった。
「何に使うんだ?」
ノエルが、肩越しに覗き込む。
「《記録》を試したい」
最初のページへ手を触れた。
ラトメアへ来る途中で見た、空を泳ぐ生物を思い浮かべる。
《記録しますか》
頭の中へ問いが浮かんだ。
記録する指先が僅かに熱くなる。
紙の上へ黒い文字が滲み出した。
インクではない。
紙そのものが変色し、俺が読める文字を形作っていく。
『紫色の空を、半透明の生物が飛行している』
『全長は、およそ三メートル』
『魚類に似た形状』
『翼は確認できない』
「すげえ!」
ノエルが子供のように目を輝かせた。
ミレナも興味深そうに手帳へ顔を寄せる。
「本当に、文字が現れました」
セフは眼鏡の奥の目を細めた。
「見聞きした内容が、自動的に文章化されるのですか」
「たぶん」
「記録量に限界は?」
「分からない」
「複数の対象を同時に記録できる?」
「分からない」
「魔力消費は」
「それも分からない」
セフの眉間の皺が深くなる。
「あなたは、自分の天恵について何も知らないのですか」
「今日、受け取ったばかりだから」
「天恵は、生まれたときから魂へ宿るものです。受け取るという表現は」
途中でセフが口を閉じる。
俺が漂着者であることを思い出したらしい。
「とにかく、検証が必要です」
「反対だったわりに、興味津々じゃん」
ノエルが笑う。
「未知の天恵を調べるのは、魔術師として当然です」
「ユーマじゃなくて、能力に興味があるだけ?」
「君よりは興味深い」
「ひどいな」
二人が言い争う横で俺は手帳の文字を見つめていた。
気になる点があった。
俺は空飛ぶ生物を見ただけだ。
全長を測ってはいない。
それなのに、手帳には、およそ三メートルと具体的に記されている。
天恵が推測したのか。
それとも、俺が無意識に目測していたのか。
ページの右下へ、細い銀色の線が浮かんだ。
文字。
『観測領域への登録――』
読み終える前に銀色の線は消えた。
「今、何か見えたか」
俺が尋ねると、ノエルは文字を指した。
「記録なら、ちゃんと見えてるぞ」
「そうじゃなくて。ページの端に、銀色の文字が」
四人は、そろって首を横に振った。
疲れているのだろう。
異世界へ来たばかりで、目も頭も、休まっていない。
俺は手帳を閉じた。
その日の宿は、夕暮れ亭という名前だった。
西区の端に建つ古びた三階建ての宿屋。
壁には蔦が絡まり、入口の看板には、夕日へ向かって飛ぶ鳥が描かれている。
「安い。飯が多い。親父がうるさい」
宿の前で、ノエルが指を三本立てた。
「冒険者に必要なものが全部揃ってる」
「三つ目はいらないでしょう」
セフが呆れたように返す。
宿の主人は、ノエルの説明どおり、よく通る声をした禿頭の男だった。
「またお前か、赤鼠!」
ノエルを見るなり、店中へ響く声で怒鳴る。
「客に向かって鼠はないだろ、親父」
「先月の酒代を払ってから客を名乗れ!」
「俺たちの間へ、金銭なんて野暮なものを持ち込むなよ」
「今すぐ持ち込め! 銅貨百四十二枚だ!」
ノエルは、俺の背後へ隠れた。
「紹介するよ、親父。今日から仲間になったユーマだ」
「仮です」
セフが、すかさず訂正する。
俺が頭を下げると。、主人は俺の顔から靴までを眺めた。
「金は」
「ありません」
「正直なのはいい。だが、正直者の腹が膨れるとは限らん」
「宿代は俺が持つ」
ガルドが銀貨を置いた。
「大部屋に一人追加だ」
主人は銀貨を指で弾き、音を確かめる。
「また拾ったのか」
「拾ったのはノエルだ」
「そいつが拾ったものを最後に世話するのは、いつもお前だろうが」
ガルドは否定しなかった。
夕食は羊肉と豆を煮込んだ料理だった。
塩気は強く、肉も少し硬い。
それでも、朝から何も食べていなかった俺には、ごちそうだった。
黒パンを煮汁へ浸し、夢中で口へ運ぶ。
「うまいか?」
向かいに座るノエルが尋ねた。
「うまい」
「だろ。親父の料理は見た目が泥みたいだけど、味はいいんだ」
厨房から、木製のお玉が飛んできた。
ノエルは、首を傾けただけで避ける。
「聞こえてるぞ、赤鼠!」
「客に物を投げる宿屋があるか!」
「酒代を払わない奴は客じゃねえ!」
騒がしい。
それなのに、不思議と居心地が悪くなかった。
食事が半分ほど進んだところで、ガルドが卓上へ地図を広げた。
「明日の依頼を確認する」
ラトメアを流れる大きな川。
そこから枝分かれした水路。
南門近くの地下へ続く入口。
「南水路で、発光苔を採取する」
「発光苔?」
俺が聞き返すと、ミレナが説明してくれた。
「暗い場所で青く光る苔です。乾燥させると、治癒薬や魔力回復薬の材料になります」
「採取だけなら危険は少ない」
ガルドが、水路の地図を指でなぞる。
「ただし、石殻鼠が出る」
「鼠?」
「犬くらいの大きさだ」
「それを鼠と呼んでいいのか」
「見れば鼠だって分かるよ」
ノエルが笑う。
「でかいけど」
石殻鼠。
背中が石のように硬い殻で覆われた魔物。
一匹なら青銅級冒険者でも簡単に倒せる。
ただし、群れになれば危険。
狭い水路で囲まれれば、熟練者でも足を食いちぎられることがある。
「ユーマは中央を歩け」
ガルドが地図へ指を置いた。
「先頭はノエル。次に俺。ユーマ。ミレナ。最後尾がセフ」
「僕は前でも構いません」
セフが口を挟む。
ガルドは彼を見ずに返した。
「暗闇で敵に驚き、味方の背中へ火球を撃ったのは誰だ」
「あれは三年前です」
「三年程度で、人間の性質は変わらん」
セフは不満そうだったが、それ以上は反論しなかった。
「俺は、何をすればいい」
ノエルがすぐに答える。
「道を記録してくれ。南水路は増築を繰り返して、ギルドの地図が当てにならない。分かれ道を残しておけば、帰るときに役立つ」
役目がある。
その言葉だけで、胸の奥に、小さな明かりが灯った。
「分かった」
食事を終え、俺たちは二階の大部屋へ移動した。
寝台が六つ並ぶだけの簡素な部屋。
窓が一つ。
壁には古びた剣と色褪せた鳥の絵が飾られている。
ミレナは隣の女性用客室へ移った。
俺は一番端の寝台を借りる。
藁を詰めた敷布は硬く、毛布も少し埃っぽい。
だが、横になれるだけでありがたかった。
「ユーマ」
隣の寝台から、ノエルが顔を覗かせた。
「元の世界って、どんなところだった?」
「魔物はいない」
「魔法は?」
「ない」
「じゃあ、何があるんだ」
「高い建物。鉄の箱みたいな乗り物。遠くの人と話せる道具。空を飛ぶ乗り物もある」
ノエルの目が輝く。
「魔法よりすごいじゃん」
「向こうでは、ほとんど誰でも使える」
「王様じゃなくても?」
「俺の国に王様はいなかった」
「変な国だな」
ノエルは、枕へ顎を乗せた。
「帰りたい?」
答えようとして言葉に詰まる。
帰りたい。
そう答えるのが当然だと思った。
けれど、思い浮かべようとした元の生活には、輪郭がなかった。
会社の机。
明滅する蛍光灯。
コンビニの弁当。
終電近くの電車。
それらは思い出せる。
だが、帰ったところで誰が俺を待っているのか。
はっきりと思い浮かぶ顔がない。
両親はいたはずだ。
学生時代の友人も何人かいた。
それなのに名前を思い出そうとすると、記憶へ薄い霧がかかる。
異世界へ来た混乱のせいだと思った。
「分からない」
正直に答えた。
「変なの」
「自分でもそう思う」
ノエルは、天井を見上げる。
「俺は、この街から出てみたい」
「どこへ」
「海を越えたところに、空まで伸びる樹があるんだってさ。北には一年中燃えてる山があって、東の砂漠には夜だけ現れる街がある」
「行ったことは?」
「ない」
「行けばいい」
「簡単に言うなよ。旅には金がかかる」
ノエルは、それでも楽しそうに笑った。
「だから冒険者になった。稼いで、いつか全部見に行く」
その横顔は、年相応の少年に見えた。
俺が十六歳だった頃。
あれほど明確に望むものがあっただろうか。
「そのときは、記録してくれよ」
ノエルが俺を見る。
「空まで伸びる樹も。燃える山も。夜だけの街も」
少しだけ照れくさそうに彼は続けた。
「ユーマが記録してくれたら、俺が爺さんになって忘れても見返せる」
「自分で覚えておけばいいだろ」
「人間なんて、すぐ忘れるよ」
何気ない言葉だった。
だが、後になって。
その言葉は何度も俺の中で繰り返されることになる。
人間は忘れる。
悲しいことも。
嬉しいことも。
大切だった人の声も。
やがて、忘れたことさえ忘れる。
「分かった」
俺は答えた。
「全部、記録しておく」
「約束な」
ノエルは満足そうに目を閉じた。
数分もしないうちに寝息を立て始める。
俺は黒い手帳を取り出した。
今日あったことを最初から記録する。
女神。
紫色の空。
二つの月。
ラトメア。
冒険者ギルド。
ガルド。
ミレナ。
セフ。
そして。
ノエル・ハース。
一人ずつ思い浮かべるたび。
手帳へ文章が現れる。
『ノエル・ハース』
『年齢十六』
『赤褐色の髪』
『右耳に真鍮製の輪』
『青銅級冒険者』
『役割、斥候』
『口数が多く、金銭管理に問題がある』
思わず笑ってしまう。
天恵は、俺が抱いた印象まで、正確に文章へするらしい。
その下へ、一文を加えようとした。
『信用できる人間である』
文字は現れなかった。
「どうしてだ」
もう一度念じるが、やはり書かれない。
まだ出会ったばかりで、本当に信用できる人物か、確認できていないからだろうか。
代わりに、別の文章が浮かんだ。
『神崎悠真は』
『ノエル・ハースを信用したいと考えている』
願望を事実としては記録しない。
実際に起きたこと。
確認できたこと。
その時点で、真実だと理解していること。
それ以外は記録できない。
便利なようで不自由な能力だった。
ページを閉じようとしたとき新しい文字が現れた。
『本日の白鐘』
『観測されず』
「白鐘?」
そんなものを記録した覚えはない。
小声で読んだ瞬間。
遠くから、低い鐘の音が響いた。
一度。
寝台で、ガルドが寝返りを打つ。
二度。
セフもノエルも起きない。
三度。
俺は窓へ近づいた。
街は夜の闇に包まれている。
雲の隙間から二つの月が見えた。
四度。
窓の向こう。
石畳の路地に、一人の老人が立っていた。
灰色の外套。
曲がった背中。
右手には、小さな籠を持っている。
老人は、鐘が鳴るたびに、怯えたように周囲を見回していた。
五度。
老人と目が合う。
彼は驚いた顔で窓辺の俺を指さした。
唇が動く。
声は聞こえない。
だが、何と言ったのかは分かった。
――どうして、起きている。
六度。
老人が走り出した。
路地の奥から、白い霧が流れてくる。
霧に触れた家々の輪郭が、一瞬だけ薄くなった。
七度。
老人が転ぶ。
籠が落ち、中から赤い果実が石畳へ転がった。
八度。
老人は立ち上がらず、両手を組み何かへ祈った。
助けなければ。
そう思った。
それなのに、足が動かなかった。
窓の外が現実ではないように見えた。
夢。
疲労。
幻覚。
そう思いたかった。
鐘は八度で止まった。
白い霧が消える。
老人の姿もなくなっていた。
石畳には、赤い果実が一つだけ残されている。
「ノエル」
呼びかける。
返事はない。
肩を揺らそうとした、そのとき。
黒い手帳が淡く光った。
『本日の白鐘』
『八回』
確かに八回だった。
そう思った。
だが、胸の奥に。
小さな違和感が残る。
何かが足りない。
数え間違えたような。
最後にもう一度だけ鳴るはずだったような。
耳を澄ますが、何も聞こえない。
それでも頭の奥で。
極めて小さな振動があった。
九度目。
音ではなく記憶だけが残るような鐘。
窓を開ける。
冷たい風が部屋へ流れ込んだ。
石畳を見下ろす。
赤い果実は消えていた。
老人もいない。
最初から誰もいなかったように。
静かな路地だけが残っている。
黒い手帳へ、新しい文字が現れる。
『軽微な修正を確認』
読み終えた直後、その文章は消えた。
何も書かれていない白い余白。
俺は、しばらくそのページを見つめていた。
翌朝、宿の主人へ、灰色の外套を着た老人について尋ねた。
「そんな爺さん、この辺りには住んでないぞ」
果物を売り歩く老人はいないかと聞いても、主人は首を横に振る。
「朝から何の話だ」
「昨日の夜、路地にいたんです」
「酔っ払いでも見たんだろ」
俺は酒を飲んでいない。
鐘について尋ねると、主人は露骨に嫌そうな顔をした。
「余所者が、くだらん迷信を気にするな」
「迷信?」
「白鐘が八回鳴る夜は、窓の外を見るな。誰かに呼ばれても返事をするな。朝になったら全部忘れろ。昔からある子供騙しだ」
「実際に鳴るんですか」
「鳴るわけがない。街の鐘楼は、日没後には鐘を鳴らさん」
主人は、それ以上話したくないというように、厨房へ戻っていった。
俺は黒い手帳を開く。
『本日の白鐘』
『八回』
文字は残っている。
その下には何もない。
昨夜の老人。
白い霧。
消えた文章。
気になることは、いくつもあった。
だが、そのときの俺は異世界のすべてが珍しかった。
二つの月がある。
空を魚が飛ぶ。
夜中に不思議な鐘が聞こえることくらいあるのかもしれない。
そう自分を納得させた。
「ユーマ、行くぞ!」
宿の外から、ノエルの声が響く。
「遅れたら、発光苔を別の連中に採られる!」
俺は黒い手帳を革袋へしまった。
誰も老人を覚えていない街で人々は昨日と変わらない朝を迎えていた。
南水路の入口は街の南門近くにあった。
石造りの階段が地下へ続いている。
入口には鉄格子が設けられ、ギルドの職員が管理していた。
ガルドが依頼書と冒険者札を見せる。
職員は五人を順番に確認した。
俺の白木札を見て僅かに眉を上げる。
「新人か」
「今日が初めてです」
「水へ落ちても暴れるな。流れがある場所で暴れると、余計に沈む」
「覚えておきます」
「噛まれた場合、無理に引き抜くな。肉が裂ける」
「それも覚えておきます」
「石殻鼠の巣を見つけても、絶対に覗き込むな」
「なぜです?」
「上から降ってくる」
帰りたくなってきた。
鉄格子が開かれる。
地下から、湿った冷気が吹き上がった。
階段を下りるにつれ、朝の光が遠ざかる。
ノエルが腰の小さな灯具へ火を入れた。
青白い光が濡れた石壁を照らす。
水路は人が三人並んで歩けるほどの幅だった。
中央には膝下ほどの水が流れ。
両側へ細い通路が続いている。
天井から水滴が落ちる。
遠くでは、金属を擦るような音が響いていた。
「道を記録してくれ」
ガルドの指示に従い、俺は黒い手帳を開く。
入口。
階段の数。
水路の幅。
水の流れる方向。
壁へ刻まれた記号。
見えるものを、順番に記録する。
手帳には文章だけでなく、簡単な線図まで浮かび上がった。
「地図も作れるのか」
ノエルが、灯具を近づける。
「俺も、今知った」
セフは、地図を注意深く確認した。
「距離は正確ですか」
「入口からここまで、およそ百二十七メートル」
「歩数を数えたのですか」
「いや」
俺自身、驚いていた。
記録しようとすると、距離や角度まで文章になる。
《記録》が視覚から得た情報を分析しているらしい。
最初の分かれ道。
右は上り。
左は下り。
正面の壁には。
白い矢印が描かれている。
「左だ」
ノエルが言った。
「ギルドの地図では、発光苔の群生地は下層にある」
「待ってくれ」
俺は、壁の矢印を見つめた。
周辺だけ、石の色が僅かに違う。
《記録》を使う。
『白色の矢印』
『描画後、二日以内と推定』
『周辺の水垢より新しい』
「この矢印」
俺はガルドへ伝えた。
「最近描かれたものみたいです」
ガルドが近づき、指で矢印を擦る。
白い粉が付着した。
「石灰だな」
セフが匂いを確かめる。
「水路の正式な管理標識には使いません」
ノエルは、その場へしゃがみ込んだ。
灯具を床へ近づける。
泥の中に小さな足跡がいくつも残っていた。
「石殻鼠だ」
足跡は左の通路へ続いている。
一匹ではない。
数十匹分。
ミレナが声を潜める。
「誰かが、冒険者を巣のほうへ誘導しようとしたのでしょうか」
「冒険者の悪戯かもしれません」
セフは慎重だった。
「どちらにせよ」
ガルドが判断する。
「左は避ける。右へ進む」
そこから先はギルドの地図と異なっていた。
あるはずの通路が塞がれ。
ないはずの階段がある。
増築されたのだろうとノエルは最初に考えた。
だが。、壁の古さを見る限り新しい階段には見えない。
「変だな」
ノエルが呟く。
「何がです?」
セフが振り返る。
「俺、一度ここへ来たことがある。でも、こんな階段はなかった気がする」
「記憶違いでは」
「かもな」
ノエルは、簡単に引き下がった。
俺は黒い手帳へ記録する。
『ノエル・ハースは』
『南水路の構造が、以前と異なる可能性を指摘した』
文字は現れた。
ノエルがそう発言したことは事実。
だが、水路が本当に変化したかはまだ分からない。
階段を上ると広い空間へ出た。
天井近くの壁一面に青い苔が生えている。
星空のような淡い光が地下空間を照らしていた。
濡れた床にも光が映る。
無数の星が足元へ広がっているようだった。
「発光苔です」
ミレナの声が僅かに弾む。
ノエルとミレナが。
採取を始めた根を傷つけず。
表面だけを小刀で切り取る。
俺も手順を教わりながら、苔を籠へ入れた。
「採りすぎるな」
ガルドは周囲を警戒しながら指示する。
「群生地を枯らせば、次の仕事がなくなる」
採取が半分ほど終わったとき。
俺は音に気づいた。
硬いものが、石を引っかく音。
小さい。
だが、一定の間隔で繰り返されている。
「何かいる」
全員の動きが止まった。
ノエルが指を唇へ当てる。
灯具を消した。
発光苔の青い光だけが残る。
音は壁の向こうから聞こえていた。
ガリ。
ガリ。
ガリ。
ガルドが盾を構える。
セフは杖を抜き、先端へ赤い光を集める。
ミレナが、自然な動作で俺の前へ立った。
「ユーマさんは、後ろへ」
壁の一部が内側から崩れた。
石片が飛び散る。
穴から、犬ほどの大きさの鼠が飛び出した。
背中は灰色の岩に似た殻で覆われている。
前歯は短剣ほど長く、目は白く濁っていた。
石殻鼠。
一匹目がガルドへ飛びかかる。
盾が受け止める。
鈍い音。
ガルドは片手斧を振り下ろし、殻の隙間へ刃を叩き込んだ。
鼠が甲高い悲鳴を上げる。
二匹目。
三匹目。
次々に。
壁の穴から現れた。
「セフ!」
ガルドの声。
「分かっています!」
セフの杖から赤い線が走った。
石殻鼠の前方へ炎の壁が立ち上がる。
魔物たちが怯み、動きを止める。
「ノエル、数を!」
「見えてるのは七! 穴の中に、まだいる!」
「撤退する!」
ガルドの指示で俺たちは来た道へ戻ろうとした。
その瞬間、背後の通路からも引っかく音が聞こえた。
「後ろから三匹!」
ノエルが短剣を抜く。
一匹が床を蹴った。
俺へ向かってくる。
身体が動かなかった。
白く濁った目。
大きく開かれた口。
黄色い前歯。
逃げなければ。
杖を構えなければ。
頭では分かっている。
それなのに、足が石のように固まっていた。
鼠が跳ぶ。
横から、ノエルが体当たりした。
俺は床へ倒れ。
石殻鼠が頭上を通り過ぎる。
「ぼさっとするな!」
ノエルが叫ぶ。
鼠が方向を変え、今度はノエルへ飛びかかる。
俺は反射的に杖を突き出した。
先端の鉄輪が、鼠の顔へ当たる。
倒すほどの力はない。
だが、軌道が僅かに逸れた。
ノエルが転がって避け、短剣を殻のない腹へ突き刺す。
「助かった!」
息をつく暇はなかった。
壁の穴から、さらに鼠が出てくる。
十匹。
十五匹。
発光苔の青い光の中で。無数の白い目が動く。
「こんな数、聞いていません!」
炎を放ちながら、セフが叫んだ。
「僕の魔力も無限ではない!」
「出口を探す!」
ノエルが壁際を走る。
しかし、来た道は鼠の群れに塞がれていた。
俺は黒い手帳を開いた。
何か...何かないか。
記録した地図。
空間の広さ。
壁の状態。
水の音。
文章を追う。
『群生地北東部』
『壁面の厚さ、およそ四十センチ』
『壁面の向こうから、流水音』
壁の向こうに別の水路がある。
「ガルド!」
北東の壁を指さす。
「この向こうに別の水路があります! 壁も薄い!」
「確かか!」
「記録には、そう出ています!」
ガルドが。
一瞬だけ俺を見た。
疑う時間はなかった。
「セフ、壊せるか!」
「鼠の群れを焼き切るよりは安い!」
セフが杖を壁へ向ける。
「全員、伏せてください!」
赤い光が、一点へ集まり弾けた。
轟音。
壁が崩れる。
向こう側から大量の水が流れ込んだ。
足元をすくわれる。
石殻鼠の群れが水へ押され、悲鳴を上げながら転がっていく。
「入れ!」
ガルドが崩れた穴へ飛び込む。
俺たちも続いた。
向こう側は腰ほどの深さがある水路だった。
流れが速い。
俺はすぐに足を取られた。
身体が沈む。
暴れてはいけない。
入口の職員の言葉を思い出す。
それでも、恐怖で腕が動く。
「暴れないでください!」
ミレナが。
俺の腕を掴んだ。
力を抜く。
ガルドが反対側から手を伸ばし、二人に引かれて。
どうにか立ち上がった。
「進め!」
俺たちは、流れに沿って走った。
正確には、何度も転びながら進んだ。
石へ足をぶつける。
肺が焼けるように痛む。
背後では、鼠の鳴き声と。
崩れた壁の音が響いている。
やがて、前方に光が見えた。
鉄格子。
その向こう、朝の街。
ノエルが格子横の留め具を外す。
全員で、外へ転がり出た。
そこは、川沿いの排水口だった。
俺たちは、泥と水にまみれたまま。
しばらく誰も動けなかった。
最初に笑ったのはノエルだった。
「ひどい顔」
ミレナが自分の頬へ触れる。
指先に黒い泥がつく。
「ノエルさんもです」
「俺は格好いいだろ」
「鼻の先だけは、きれいですね」
ガルドが、仰向けのまま笑い始める。
ミレナもノエルも笑った。
俺も、なぜか笑っていた。
怖かった。
死ぬかと思った。
膝は。
まだ震えている。
それでも、生きて外へ出られた。
「ユーマ」
ガルドが上体を起こした。
「お前の地図がなければ、危なかった」
「でも」
泥に汚れた手を見る。
「最初に襲われたとき、動けませんでした」
「初めて魔物を見て、すぐに動ける人間のほうが珍しい」
「俺は動けたぞ」
ノエルが胸を張る。
ガルドは、呆れたように彼を見る。
「お前は昔、角兎を見て木へ登り、半日降りられなかっただろう」
「昔の話だ!」
「二年前ですね」
ミレナが静かに補足する。
「みんな、昔の失敗ばかり覚えてるな」
不満そうに言いながら、ノエルが俺へ手を差し出した。
昨日、ギルドの前で差し出したのと同じ手。
「どうだった?」
「何が」
「冒険者」
俺は、その手を掴み立ち上がった。
服は濡れて重い。
手袋は破れている。
借金は増えた。
報酬を受け取っても、手元にはほとんど残らないだろう。
それでも、昨日までの俺は。
誰かの後ろで起きた出来事を書類へまとめるだけだった。
今日は、自分がその出来事の中にいた。
「悪くない」
そう答えると、ノエルは笑った。
ギルドへ戻った俺たちは、奥にある調査室へ通された。
報告を聞いたのは、西区支部の副支部長。
ヴェラ・グレン。
短く切った灰色の髪。
左目を覆う黒い眼帯。
現役時代は銀級冒険者だったらしい。
ガルドが南水路で起きた出来事を説明する。
新しく描かれた矢印。
地図にない通路。
発光苔の群生地。
そこへ集められていた石殻鼠。
ヴェラは途中で口を挟まず。
指先で机を叩きながら聞いていた。
「証拠は?」
説明が終わると最初にそう尋ねた。
魔物の死骸は水へ流された。
採取した苔も。
逃げる途中でほとんど失った。
矢印の石灰も持ち帰っていない。
「俺が記録しています」
黒い手帳を机へ置く。
ヴェラの右目が俺へ向く。
「今日登録した漂着者か」
「神崎悠真です」
「天恵《記録》。最下級」
「そうです」
彼女が手帳を開く。
水路の地図。
通路の距離。
鼠の数。
発光苔の状態。
俺たちが、どのように移動したか細かく記録されている。
「この記録が正確だと証明できるか」
「できません」
「なら、証拠にはならん」
予想していた答えだった。
「ですが」
俺は手帳を見た。
「現場を調べる理由にはなると思います」
ヴェラが、僅かに目を細める。
しばらく、何も言わなかった。
「水路の管理班を送る」
やがて、彼女は手帳を閉じた。
「ただし、虚偽報告だった場合、調査費用はお前たちの報酬から引く」
「構わない」
ガルドが即答する。
「それから」
ヴェラはガルドだけを部屋へ残し。
俺たちを外へ出した廊下の長椅子へ。
四人で並んで座る。
「怒られるな」
ノエルが呟く。
ミレナは笑顔のまま彼を見る。
「誰のせいでしょうね」
「でも、全員無事だったからいいじゃん」
「結果だけで判断していると、いつか死にます」
ミレナの声は穏やかだった。
だが、本気で怒っていることは俺にも分かった。
「治癒術で元に戻せるのは、生きている人だけです」
ノエルが少しだけ俯く。
「悪かった」
今度はふざけずに頭を下げた。
「次から気をつける」
「約束ですよ」
「ああ」
二人のやり取りを見ていると、長く一緒にいる仲間なのだと感じる。
互いの失敗を知っている。
怒り方を知っている。
謝り方も知っている。
俺は、その輪の少し外側にいる。
当然だ。
出会って、まだ一日しか経っていない。
それでも、以前の職場で感じていた疎外感とは違った。
あの場所では、何年働いても、自分の席が借り物のようだった。
ここでは、まだ仲間でもないのに、不思議と居心地が悪くない。
調査室の扉が開く。
ガルドが廊下へ出てきた。
「話は終わった」
ノエルがすぐに立ち上がる。
「いくら請求される?」
「まだ分からん」
「パーティー編成の話は?」
ガルドは俺へ目を向けた。
「神崎悠真」
「はい」
「本日より、お前を〈灰色の雲雀〉の正式な一員とする」
一瞬、意味を理解するのが遅れた。
「正式に?」
「嫌なら断ってもいい」
「嫌ではありません。でも、今日の俺は、ほとんど何も」
「地図を作った」
ガルドが太い指を一本立てる。
「偽の標識へ気づいた。退路を見つけた」
二本目。
三本目。
「魔物を一匹倒すより、価値のある働きだ」
「僕は」
セフが口を挟む。
「まだ、全面的に賛成したわけではありません」
「おい」
ノエルが睨む。
セフは気にせず、俺を見た。
「ですが、《記録》の有用性は認めます。少なくとも、足手まといと決めつけたことは訂正します」
ノエルが、俺の耳元へ顔を近づけた。
「今の、セフなりの大絶賛」
「聞こえています」
ミレナが、俺の前へ立つ。
「改めて、よろしくお願いします。ユーマさん」
差し出された手を握る。
「こちらこそ」
セフも手を差し出した。
握手だと思って手を伸ばすと彼は掌を上へ向けた。
「手帳を」
「そっちか」
「能力の検証を続けます。記録可能距離、情報精度、発動条件、魔力消費、記録媒体による差異。調べることは多い」
「俺への歓迎の言葉は?」
「足を引っ張らないでください」
「十分だろ」
ガルドが笑う。
最後に、ノエルが俺の肩へ腕を回した。
「これで五人だな」
五人。
その言葉が不思議なほど胸へ残った。
俺は黒い手帳を開く。
『灰色の雲雀』
『構成員、五名』
『ガルド・バルガス』
『ミレナ・フォース』
『セフ・アルノー』
『ノエル・ハース』
『神崎悠真』
五つの名前が同じページへ並ぶ。
その下へ、これからも五人で冒険を続ける。
そう記録しようとした。
文字は現れなかった。
未来はまだ事実ではない。
代わりに、ページの最下部へ。
俺の意思とは関係なく銀色の文字が浮かび上がった。
『根本記録可能数――四』
「え?」
思わず、声が漏れた。
瞬きをすると、銀色の文字は消えている。
「どうした?」
ノエルが手帳を覗き込んだ。
「今」
俺は消えた場所を指した。
「変な文章が出た」
「どんな?」
「根本記録可能数、四」
ノエルが首を傾げる。
「あと四人、仲間を増やせるってことか?」
「九人パーティーは多すぎます」
セフが真面目な顔で否定した。
「報酬の分配率が下がります」
「お前、意外と金に細かいな」
「魔術書は高いのです」
四人は。
表示上の不具合だと考えた。
俺も、そう思うことにした。
黒い手帳を閉じる。
五人の名前は消えずに残っていた。
このときの俺は、まだ知らなかった。
銀色の数字が仲間にできる人数を示したものではないことを。
この世界の決まりを記録によって書き換えられる回数。
その残りを示していたことを。
そして、十八日後。
世界からノエル・ハースが消えた夜。
俺が支払うことになる代償は、その数字ではなかった。
世界が最初に奪ったのは――
俺を神崎悠真という人間にしていた、最も古い記憶だった。




