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プロローグ ~五人目の椅子~

世界から一人が消えたのに、椅子だけが残っていた。


そのとき俺が最初に抱いたのは、悲しみでも恐怖でもない。


ただの、困惑だった。


「なあ」


夕暮れ亭の丸い食卓を見回しながら、俺は隣の空席を指した。


「この椅子、誰のだ?」


問いかけた瞬間、食卓を囲んでいた三人が、そろって俺を見た。


煮込んだ羊肉の匂い。


安酒と汗が染みついた床。


暖炉の中で爆ぜる薪。


窓の外では細かな雨が降り、濡れた石畳を荷馬車が軋みながら通り過ぎている。


いつもと変わらない夕暮れだった。


違っているのは、食卓の周りに、椅子が五脚あることだけだ。


俺。


ガルド。


ミレナ。


セフ。


そして。


誰も座っていない、一脚。


「椅子?」


向かいに座るガルド・バルガスが、骨付き肉を持ったまま眉を寄せた。


三十四歳の重戦士。


大柄な身体を包む革鎧には、長い冒険者生活で刻まれた無数の傷が残っている。


酒が入れば店中に響くほど声が大きくなる男だが、今夜はまだ一杯目だった。


「そこにあるだろ」


俺が空席を指し直すと、ガルドは椅子と俺の顔を交互に見た。


「宿屋なんだから、椅子くらい余るだろ」


「そういうことじゃない」


椅子は、俺たちの食卓へきちんと寄せられていた。


誰かが食事をするために置かれている。


背もたれの上には、短剣で削ったような浅い傷。


座面には、赤黒い染みが残っている。


三日前。


森で採った木苺の汁を、あいつが盛大にこぼした。


――あーあ。宿の親父に殺される。


そう笑いながら、濡らした布で、何度も座面を擦っていた。


結局、染みは落ちなかった。


「俺たちは四人だろ」


銀縁の眼鏡を押し上げながら、セフ・アルノーが面倒そうに言った。


冷めかけたスープを匙でかき混ぜている。


「四人で使う食卓に五脚あっても、別に不思議じゃない。それより明日の依頼について話せ。北門から出るなら、日の出前に――」


「ノエルは?」


口にした瞬間、暖炉の火が小さく揺れた。


雨音が急に遠ざかったような気がした。


誰かが店内の空気を、薄い膜で包み込んだようだった。


ガルドが肉を皿へ戻す。


「誰だ、それは」


低い声だった。


冗談を言っている顔ではない。


「誰って……ノエルだよ」


笑おうとした。


だが、頬が動かなかった。


「ノエル・ハース。斥候の。十六歳で、赤毛で、右耳に真鍮の輪をつけてて、口が悪くて、甘いものが好きな」


誰も反応しない。


「ユーマさん」


隣に座るミレナ・フォースが、静かに俺の名を呼んだ。


淡い青色の神官服。


優しい眼差し。


今の彼女は、重い病を告げなければならない治癒術師のような顔をしていた。


「今日は早めに休まれたほうがよいかもしれません」


「何で」


「遺跡から戻られてから、ずっと顔色がよくありません。どこかで頭を打った可能性も」


「打ってない」


思ったより強い声が出た。


ミレナが僅かに肩を揺らす。


それでも俺は止められなかった。


「ノエルは、俺たちの仲間だ」


一人ずつ顔を見る。


ガルドは困惑していた。


ミレナは俺を心配している。


セフは苛立ちを隠そうともしていない。


誰の目にも、嘘をついている色はなかった。


「灰色の雲雀は、五人パーティーだろ」


「四人だ」


ガルドが、はっきりと答えた。


「俺と、お前と、ミレナと、セフ。結成したときから四人だ」


「違う」


喉が乾く。


「最初に俺を誘ったのはノエルだ。西区の冒険者ギルドで、俺が依頼書の書き換えを見抜いたとき、あいつが声をかけてきた」


記憶を一つずつ並べる。


「初めて森狼を討伐したときは、あいつが囮になった。左腕を噛まれて、ミレナが治療した」


ミレナを見る。


彼女は知らない話を聞くような目をしていた。


「三日前には、ここで木苺をこぼした。宿の主人に黙っててくれって、俺たち全員に頼んだ」


俺は椅子を指さした。


「ほら、この染み――」


言葉が止まった。


赤黒い染みが消えていた。


古びた木製の座面。


擦れた跡はある。


だが、つい先ほどまで確かにあった木苺の染みだけが、どこにもない。


息ができなかった。


俺の記憶には、ノエルが必死に椅子を拭く姿がある。


笑い声も木苺の甘酸っぱい匂いも。


宿の主人へばれたら、ガルドのせいにしようと企んでいたことも。


全部覚えている。


なのに、証拠だけがない。


「ユーマ?」


ガルドが、椅子を引いて立ち上がった。


いつもの豪快さはない。


本気で俺を心配している声だった。


「何が見えてる」


「さっきまで」


指先が震える。


「ここに、染みが」


俺は椅子から立ち上がった。


腰の革袋を開き、一冊の黒い手帳を取り出す。


角は擦れ、表紙には泥と乾いた血が染みついている。


この世界に来た日に買ったものだ。


俺の天恵。


《記録》。


自身が見聞きしたものを、正確な文章として残す。


戦えない。


傷を治せない。


魔力も増えない。


物も生み出せない。


紙とペンがあれば必要ない。


何度も、そう笑われた能力。


震える指で、ページをめくる。


討伐した魔物。


街道の形。


食事の値段。


宿泊した部屋。


受け取った報酬。


俺たちの旅が細かな文字となって並んでいる。


十七日前。


西区冒険者ギルド。


『ノエル・ハースと出会う』


『年齢十六』


『赤褐色の髪』


『右耳に真鍮製の輪』


『冒険者等級、青銅級』


『所属パーティー、灰色の雲雀』


あった。


文字は消えていない。


十四日前。


『ノエルが森狼を引きつける』


『左腕を負傷』


『ミレナ・フォースの治癒を受ける』


三日前。


『ノエルが木苺の汁を椅子へこぼす』


『宿の主人には黙っていてほしいと頼まれる』


昨日。


『ノエルが北の遺跡で、白い扉を発見する』


『扉の向こうから、鐘の音を聞く』


ノエルはいた。


俺の頭がおかしくなったわけではない。


昨日まで。


確かに俺たちと一緒にいた。


安堵しかけた。


だが、昨日の記録の下に。


書いた覚えのない文章が増えていた。


『同日』


『世界の改変を確認』


自分の筆跡だった。


間違いなく、俺が書く文字。


それなのに、書いた記憶がない。


続く文章。


『保存対象――ノエル・ハース』


『存在固定――失敗』


『省略処理による干渉を確認』


「何だ、それは」


背後から、ガルドの声がした。


手帳を覗き込んでいる。


「ノエルの記録だ」


「どこにある」


「ここだよ」


俺はページを彼へ向ける。


「これだけ書いてあるだろ」


ガルドは目を細めた。


そして、眉間へ深く皺を寄せる。


「何も書いてないぞ」


「そんなはず――」


ミレナへ見せる。


彼女は申し訳なさそうに首を横に振った。


「私には、白紙に見えます」


「セフ」


「同じだ」


セフは手帳を受け取り、光へ透かした。


「インクの跡すらない」


三人には見えていない。


俺の目にだけ、ノエル・ハースの記録が残っている。


背中を冷たい汗が流れた。


そのとき、宿の扉に取りつけられた鈴が鳴った。


客が入ってきたのだと思った。


だが、扉は閉じたままだった。


一度。


低い音が街の遠くから響いた。


二度。


食卓の皿が僅かに震える。


三度。


店内の話し声が途切れた。


宿の鐘ではない。


街の中央にある、白鐘。


決まった時刻にしか鳴らないはずの、巨大な鐘。


今は日没を過ぎたばかりだ。


鐘が鳴る時間ではない。


四度目。


店内の客が一人ずつ動きを止めた。


杯を口へ運びかけた男。


笑いながら隣人の肩を叩こうとしていた女。


床を拭いていた宿の娘。


全員が人形のように静止している。


「ガルド?」


返事はない。


ガルドも。


ミレナも。


セフも。


動かない。


呼吸すらしていないように見える。


暖炉の中。


跳ね上がった火の粉が空中で止まっている。


俺だけが動いていた。


五度目。


窓の外から色が失われ始めた。


霧ではない。


光でもない。


向かいの建物。


石畳。


街路樹。


空。


世界全体が。


白い紙へ塗り潰されていく。


六度目。


窓ガラスに俺の姿だけが映る。


七度目。


石畳の上に一つの人影が現れた。


白い外套。


顔には。


目も。


鼻も。


口もない。


滑らかな仮面。


その右手には人の腕ほどもある、白い羽根が握られていた。


羽根の先には黒い液体が滲んでいる。


インクに似ている。


だが、雨に打たれても流れ落ちない。


八度目。


白い仮面がゆっくりとこちらを向く。


目など存在しないはずなのに、俺は見られていると分かった。


黒い手帳を胸へ抱く。


心臓の音だけが、うるさいほど響いている。


鐘は八回で止まった。


そう思った。


だが、静寂の中。


俺だけに聞こえるほど小さく。


九度目の鐘が鳴った。


白い仮面の奥から、男とも女ともつかない声が響く。


窓を隔てているはずなのに。


声は、頭の中へ直接流れ込んできた。


「未承認の記録を確認」


白い羽根が持ち上がる。


その先が、俺へ向けられた。


「省略済みの存在を、記憶する個体を発見」


手帳のページが風もないのに激しくめくれる。


ノエルの名前。


顔。


声。


笑い方。


一緒に食べたもの。


交わした言葉。


一つずつ。


頭の中から引き抜かれるような痛み。


「やめろ」


俺は手帳を抱き締めた。


「ノエルを消すな」


白い仮面は答えない。


ただ、白い羽根を紙へ文字を書くように振り下ろした。


「記録者を」


冷たい声。


「訂正する」


視界が真っ白に染まる。


その夜、俺は初めて知った。


世界は、一度作られたら終わりではない。


歴史も。


街も。


人間も。


今、この瞬間にも何者かによって書き直され続けている。


そして、書き直された世界の中で消された少年を覚えているのは。


俺一人だけだった。

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