第十一章 ~優しさを分ける~
『当該情報を外部化した場合、現人格――神崎悠真の救済判断が低下します』
『他者の消失に対する心理的抵抗が減少します』
黒い実に浮かんだ文章は、何度読み返しても変わらなかった。
第五案を完成させるには、戻り木に残された最後の記録を取り除かなければならない。
それは、過去の第九管理人格から分離された判断領域。
誰も見捨てたくない。
全員を救いたい。
今回救えなくても、次の世界を作ればいい。
次でも失敗したなら、さらに次を作ればいい。
誰もが救われるまで、処理を終えてはならない。
その願いが戻り木の中へ残されていたから、オルネは滅びるたびに再構築された。
優しさが、終わらない苦しみを生み出していた。
「外す」
俺が答えると、五人が一斉に反応した。
「待て」
ガルドの大きな手が、俺の肩を掴んだ。
省略官に触れられてから、彼の左腕には冷たい痺れが残っている。
それでも、掴む力は以前と変わらず強かった。
「最後まで確認してください」
リアも黒い実の前へ進み出る。
「確認しても、答えは同じだ」
戻り木の内部に広がる暗い空間。
枝の先では、第五から第九まで増殖したオルネが、不安定な白い光を放っている。
この判断領域を残せば、第五案は成立しない。
第四オルネの三百十二人は、過去の人格を押し込まれて壊れる。
あるいは、現在の村を終わらされ、同じ苦しみを抱えたまま次のオルネへ送られる。
第五。
第六。
第七。
正しい村ができるまで、同じ人々が何度も作り直される。
「俺の感情一つで、三百十二人の人生が壊れるんだ」
「感情一つではない」
ガルドが答えた。
「お前を、お前にしているものだ」
「全部なくなるわけじゃない。手帳には低下するとしか書かれていない」
誰かを助けたいと思わなくなるわけではない。
ただ、必要だと判断すれば、誰かを切り捨てられるようになる。
一人を消せば、千人が助かる。
一つの街を捨てれば、国が残る。
今後、同じような選択を迫られたとき、迷わず処理できる人間になる。
管理者としては、そのほうが正しいのかもしれない。
「むしろ、今より役に立つ可能性もある」
「何がですか」
ミレナの声には、明確な怒りが含まれていた。
「俺は選べない」
エッダの言葉が、頭から離れなかった。
過去のあなたは優しかった。
だからこそ、私たちを三度苦しませた。
エリウスにも言われた。
過去のあなたも、同じように別の方法を探すと言った。
誰も失いたくない。
まだ、もっとよい方法があるかもしれない。
その言葉で判断を先延ばしにした結果、人々は新しい村で同じ苦しみを繰り返した。
「俺が本当に管理する側の存在なら、これから先も同じ場面が来る。そのたびに誰も選べず、苦しみだけを長引かせるなら、切り捨てられるようになったほうがいい」
「選択できることと、正しく選択できることは別です」
セフが、銀の飾りを一本失った杖を地面へついた。
白紙鳥との戦いの後、応急修理した杖だ。
「君は感情が薄くなれば、合理的な判断ができると思っている」
「違うのか?」
「感情を失っただけの君が、正しい計算をできる保証はありません」
「過去の管理人格は、それをしてきた」
「そして、成功したのですか」
答えられなかった。
過去のYUMAは、今の俺よりも多くの知識と権限を持っていたはずだ。
それでも、オルネを救えなかった。
世界を書き換える者たちを止めることもできなかった。
「過去の管理人格が、この判断領域を完全に消去せず、戻り木へ保管したことにも意味があるはずです」
セフは黒い実を見上げる。
「不要な感情なら、なぜ残したのです」
「捨てきれなかっただけかもしれない」
「あるいは、失ってはならないと理解していたのかもしれません」
「このまま外すだけでは、過去と同じことを繰り返します」
リアが言った。
「なら、どうする」
「別の保存先を作ります」
「戻り木の外へ出せば、俺の人格も影響を受ける」
「一人の中へ保存するからです」
リアは俺ではなく、ガルドたちを見た。
「私たちへ分けます」
誰もすぐには言葉の意味を理解できなかった。
「ノエルさんを存在固定したとき、ユーマさん一人の記録だけでは足りませんでした」
名前と外見。
過去。
本人の望み。
そして、仲間との関係。
ガルドが知るノエル。
ミレナが知るノエル。
セフとリアが知るノエル。
複数の人間が、それぞれ異なる角度から一人の少年を記録したからこそ、ノエルは現在の世界へ残ることができた。
「ユーマさんの人格も、すでに私たちへ分散されています」
旧第九巡回路で、俺自身が緊急修正の対象になったとき、俺は自分を記録できなかった。
五人が、神崎悠真という人間を語り、現在の俺を世界へつなぎ止めた。
俺が存在しているのは、俺の中だけに神崎悠真がいるからではない。
「救済判断を、俺たちの中へ分けるということか」
「正確には、感情そのものを移すのではありません」
リアは黒い実へ手を伸ばし、触れる寸前で止めた。
「ユーマさんが、誰かを見捨てる前に立ち止まる理由。それを関係記録として分散します」
雨の日。
黄色い傘。
羽を濡らした小鳥。
母親だと思っていた女性の手。
その記憶は、もう俺の中にない。
それでも、消えそうなものへ手を伸ばす行動だけは残っている。
「分散すれば、お前たちにも影響が出る」
「当然です」
リアは平然と答えた。
「ユーマさん一人だけが別人になるより、公平です」
「公平かどうかの問題じゃない」
「では、何の問題ですか」
「俺のせいで、お前たちまで変わる」
「また、それですか」
リアの声が、珍しく強くなった。
「あなたは、自分だけが犠牲になれば、ほかの人間を守れると考えています」
「実際に、オルネは助かる」
「そして、私たちは別人になったあなたと旅を続けるのですか」
琥珀色の瞳が揺れていた。
「誰かが消えても仕方がないと考えるあなたと。必要な犠牲だと、迷わず判断できるようになったあなたと」
「それは……」
「私たちは、それを救われたとは思いません」
リアは黒い実の前へ立った。
「私たちにも選ばせてください」
俺が彼女たちを記録したように、彼女たちも俺を構成しているものを支える。
ノエルがリアの隣へ進んだ。
「俺は賛成」
「内容を理解しているのですか」
セフが疑わしそうに尋ねる。
「ユーマの面倒くさいところを、みんなで少しずつ持つんだろ」
「表現は雑ですが、間違ってはいません」
「だったら、今と大して変わらない。もう十分、面倒に巻き込まれてる」
「影響の程度が分からない」
俺が言うと、ノエルは肩をすくめた。
「ユーマも分からないまま、自分だけで引き受けようとしただろ」
「それは――」
「俺が消えそうになったとき、母親の記憶を使った」
責める声ではなかった。
だからこそ、重かった。
「今度は、俺たちが選ぶ番だ」
ガルドも黒い実の前へ立った。
「俺は、名前も顔も思い出せない誰かを失っている」
ガルドには、守れなかった弟がいた可能性がある。
本人は、その名前も顔も思い出せない。
それでも、大切な誰かを失った痛みだけは残っている。
「誰かを失う苦しみなら、すでに知っている」
ミレナも隣へ並ぶ。
「私は、祈っても救えない人がいることを知っています。それでも、祈りだけで終わらせたくないと考えるようになりました」
セフは大きく息を吐いた。
「僕は、すべてを理解してから判断することなど不可能だと、ようやく認めました」
最後に、リアが黒い実へ手を触れた。
表面へ小さな波紋が広がる。
「私は、誰にも覚えてもらえないことが怖いです」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「七歳以前の自分を、誰も知りません。私自身も知りません。いつか現在の私まで消えたとき、誰にも気づかれないのではないかと考えます」
リアは俺を見る。
「だから、消えそうな存在を見捨てたくないという思いは、すでに私の中にもあります」
五人の手が黒い実へ置かれた。
「待ってくれ」
俺は、まだ触れられずにいた。
「これを分散すれば、全員が俺と同じようになるかもしれない」
「何でも手帳へ書くようになるのか?」
ノエルが尋ねる。
「そういう話じゃない」
「他人の小遣い帳を勝手に作る?」
「それは今後も作る」
「なら、あまり変わらないな」
「問題はある」
軽口を返しながらも、五人は手を引かなかった。
俺だけが、自分を数の外へ置いている。
助ける人間。
犠牲になる人間。
記録する人間。
自分を、守られる側の一人として扱っていなかった。
「ユーマ」
ガルドが呼ぶ。
「記録には、本人の同意が必要なのだろう」
ノエルを救ったとき、本人が生きたいと望んだ。
過去の人格を外へ移すときも、一人ずつ意思を聞いた。
この救済判断も俺の一部なら、最後に選ぶのは俺でなければならない。
「一人で失うか、六人で支えるか」
セフが言った。
「影響を受けるのは、俺以外の五人だ」
「君も含めて六人です」
自分を、また数から外していた。
「分かった」
俺は黒い実へ手を伸ばした。
五人の手の上へ、自分の右手を重ねる。
「六人へ分散する」
黒い実が、心臓のように脈打った。
『人格構成情報――救済保留判断』
『分散保存を実行しますか』
実行する。
そう念じた瞬間、黒い殻へ無数の亀裂が走った。
内部から光が溢れ出す。
温かな光ではなかった。
痛みだった。
胸を内側から引き裂かれるような痛み。
数え切れない人間の悲鳴を、一度に聞かされたような苦しさ。
鈎針通り。
白い住民たち。
マレイ。
リナ。
白紙鳥に名前を奪われた人々。
仮称でしか呼べなかったエリウス。
存在を消されかけたノエル。
これまで目にした、失われそうな人々の姿が一度に流れ込んでくる。
苦しんでいるのは、俺だけではなかった。
ガルドが歯を食いしばる。
ミレナは声を上げずに涙を流している。
セフの眼鏡へ細い亀裂が入った。
リアは胸元を強く押さえた。
ノエルは片膝をつき、それでも黒い実から手を離さなかった。
「これが」
ノエルが苦しそうに息を吐いた。
「ユーマが、ずっと感じてたものか」
誰かが消えるかもしれない。
そう知っただけで、胸が締めつけられる。
会ったことのない人間でも。
名前の一部しか分からなくても。
助けられる保証がなくても。
合理的な判断より先に、手を伸ばしたくなる。
「重いな」
ガルドが言った。
「だから、一人で持とうとした」
「馬鹿か」
「否定はしない」
黒い実が、六つの小さな種へ分かれた。
一つが俺の胸へ入る。
残りの五つも、それぞれの胸元へ吸い込まれていった。
『救済保留判断を分散しました』
『神崎悠真への単独負荷を軽減』
『分散記録者への影響を確認します』
最初に表示されたのは、ガルドだった。
『ガルド・バルガス』
『保護対象の認識範囲が拡張されます』
ガルドは、仲間を守るためなら自分が傷つくことを恐れない。
一方で、仲間を生かすためなら、知らない人間を切り離す判断もできる男だった。
それは間違いではない。
誰もが全員を救えるわけではないからこそ、守る範囲を決める必要がある。
ガルドは、丘の下にいる三百十二人を見た。
「全員を、隔離領域の外へ連れ出せないだろうか」
小さく呟く。
以前なら、危険性と補給物資を計算し、不可能であれば撤退を選んだだろう。
今も、無理なものは無理だと判断する。
ただし、切り離す前に別の可能性を探そうとしている。
次はミレナ。
『ミレナ・フォース』
『救済不能者に対する心理的負担が増加します』
ミレナは、祈りが届かなかった人々を前に、神の意思だったと自分へ言い聞かせてきた。
それは信仰であると同時に、自分が立ち続けるために必要な言葉だった。
「神がお望みになったから」
ミレナは口にし、途中で止める。
「違いますね」
自分で、その言葉を否定した。
「私は、自分が諦めたことを認めたくなくて、神の御心という言葉へ預けていました」
続いて、セフ。
『セフ・アルノー』
『合理判断における個別情報の優先度が上昇します』
セフは手帳に表示された数字を見た。
三百十二。
九百三十六。
保存容量。
残り時間。
成功率。
彼は常に、数字へ置き換えられるものから判断してきた。
「三百十二名ではない」
セフが小さく呟く。
「三百十二人です」
言葉の違いは小さい。
だが、彼にとっては大きな変化だった。
リアの表示が続く。
『リア・エルセイン』
『削除対象への共感性が上昇します』
リアは、黒い実のあった場所を見つめている。
「怖いです」
珍しく、感情を隠さずに言った。
「何が?」
「これから消された記録を見るたび、すべてを助けなければならないと思ってしまいそうです」
「俺も同じだ」
「どうやって耐えていたのですか」
「耐えられてない」
即答した。
「だから、みんなに頼った」
リアは俺を見た後、少しだけ安心したように息を吐いた。
最後に、ノエルの名前が現れる。
『ノエル・ハース』
しかし、続く文章が乱れた。
『暫定固定状態との競合を確認』
「ノエル?」
少年は胸を押さえていた。
顔色が悪い。
一度世界から省略されかけたノエルは、俺たちの記録によって仮の保存領域へ固定されている。
そこへ新しい人格構成情報を加えたことで、均衡が崩れ始めていた。
「大丈夫だ」
声が掠れている。
「大丈夫には見えない」
「少し胸が痛いだけ」
「それを大丈夫とは言いません」
ミレナが治癒術を使う。
淡い青色の光がノエルを包んだが、肉体の傷ではないため効果は薄い。
黒い手帳へ警告が現れた。
『ノエル・ハースの個体保存領域が不足しています』
「俺の分を戻せ」
「嫌だ」
ノエルは即座に拒んだ。
「このままだと、お前自身の人格が変質する」
「俺だけ外すな」
強い目だった。
「みんなで持つって決めた」
「固定状態が不完全なんだ」
「だったら、俺の中に別の場所を作れ」
「簡単に言うな」
「難しく考えるのは、ユーマとセフとリアの仕事だろ」
「人をまとめて扱わないでください」
セフは文句を言いながらもノエルへ近づき、胸元の魔力と存在情報を確認した。
「救済判断の記録が、ノエル自身の人格へ混ざろうとしています」
「混ざったら、もっと優しい性格になる?」
「多少変わったほうがよい可能性はあります」
「ひどくないか?」
軽口を言う余裕は残っている。
それでも、長く放置すれば危険だった。
「外部化します」
リアが言った。
「ノエルさんへ入った救済判断だけを」
「どこへ保存する?」
戻り木へ戻せば、再び『全員を救うまで処理を終えない』という命令が動き始める可能性がある。
別の人間へ移せば、今度はその人間の容量を圧迫する。
「人ではありません」
リアは、俺とノエルを見た。
「関係へ保存します」
白紙鳥との戦いで、人と人を結ぶ黒い線が、名前や記憶を守った。
情報は、人間一人の中だけに存在するわけではない。
二人の間にも、保存できる。
「ノエルさん一人が持つのではありません。ユーマさんとノエルさんの関係へ移します」
「そんなことができるのか」
「すでに保存領域として成立しています」
ノエルが消えかけたとき、俺は母親の記憶を失った。
ノエルは、俺が何を失ったかを覚えている。
俺はノエルの存在を記録し。
ノエルは、俺が失ったものの存在を記録している。
リアが俺とノエルの手を取った。
「互いに相手の喪失を保存している。その関係そのものを使います」
俺は黒い手帳を開いた。
『関係記録』
『神崎悠真は、ノエル・ハースの存在を固定した』
『ノエル・ハースは、神崎悠真が母親と認識していた人物の記憶を失ったことを覚えている』
その下へ、新しい文章を加える。
『両者は、相手が世界から消えることを望まない』
文章が黒く光った。
俺とノエルの間へ、一本の線が現れる。
ノエルの胸へ入った小さな種の一部が、黒い線へ流れ込んだ。
個人ではなく。
二人の間に存在する判断。
ノエルの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
『関係領域への保存に成功』
「これだ」
俺は、六人を結ぶ線を見た。
一人の中へ保存できないなら、関係へ分ける。
六人の間には、十五通りの関係がある。
俺とガルド。
俺とミレナ。
俺とセフ。
俺とリア。
俺とノエル。
ガルドとミレナ。
ガルドとセフ。
ガルドとリア。
ガルドとノエル。
さらに残るすべての関係。
信頼。
反発。
恩。
秘密。
約束。
一緒に失敗した記憶。
誰かを守れなかった後悔。
「救済判断を、十五の関係へ分散する」
一人がすべてを抱えない。
誰か一人が変わっても、関係の記録から判断を戻せるようにする。
「全員を必ず救うと決めるわけじゃない」
俺は言った。
「でも、数字だけを見て消さない」
「名前を確認する」
ガルドが続ける。
「本人の意思を聞きます」
ミレナ。
「異なる人生を、同じ答えへ統合しない」
セフ。
「記録されない選択も認めます」
リア。
最後にノエルが言った。
「一人で決めない」
十五本の線が光った。
黒い実は完全に崩れ、中に残されていた救済判断が、六人の関係へ分かれていく。
『第五案――第六原則』
『救済判断を、単独の管理人格へ集中させない』
『複数の記録者が異なる観点から意思決定へ参加する』
『最終判断は、対象者本人の意思と分散記録を基礎として行う』
戻り木全体が震えた。
幹。
枝。
地面の下へ伸びる根。
第四オルネの家々へつながる白い線。
そこにこびりついていた黒い染みが、一つずつ剥がれていく。
『全人格を救済するまで、処理終了を承認しない』
過去の命令が消える。
代わりに、新しい命令が刻まれた。
『本人の選択が確定するまで、処理を保留する』
戻り木本来の機能。
判断保留領域。
救い方が分からない人格を一方的に消さず、勝手に作り直さず、本人が選択できる状態になるまで守るための場所。
「圧縮処理は?」
黒い手帳へ問いかける。
『停止しました』
「第五オルネは?」
『構築権限を失いました』
暗闇の中で、五本目の枝が崩れ始めた。
家。
畑。
井戸。
礼拝堂。
複製された住民たち。
すべてが白い光の粒となり、戻り木へ吸い込まれていく。
第六。
第七。
第八。
第九の枝も消えていった。
ただ、一人だけが五本目の枝に残っている。
エリウス。
反転した黒い手帳を抱え、崩れていく村の中央へ立っていた。
その背後には、複製官の白い仮面が浮かんでいる。
「第五オルネの構築を継続してください」
複製官が告げた。
「権限を失いました」
エリウスが答える。
「複製権限を追加付与します」
「必要ありません」
仮面が僅かに傾いた。
「娘を保存するのではありませんか」
「保存したい」
エリウスは、戻り木の前に立つルカを見た。
「今も、その気持ちは変わりません」
「では、構築を継続してください」
「ですが、私が作りたい未来と、ルカが生きたい未来は違います」
複製官の声は変わらない。
「子供の判断は不完全です」
「私の判断も不完全でした」
「保護者として、正しい選択を行ってください」
「何が正しいか、今の私には分かりません」
エリウスは、反転した手帳を閉じた。
「だから、娘の代わりに決めることをやめます」
「第五領域を放棄した場合、ルカ・ハーンの生存は保証されません」
「分かっています」
「死亡する可能性があります」
エリウスの顔が歪んだ。
最も恐れていた言葉。
それでも、父親は手帳から手を離した。
「ルカの人生を、私の恐怖だけで決めません」
反転した黒い手帳が砕けた。
複製官から与えられた第五オルネ構築機能が、白い破片となって空間へ散る。
同時に、エリウスの身体が透け始めた。
「お父さん!」
ルカが手を伸ばす。
エリウスも手を伸ばしたが、二人の指は届かない。
彼は現在世界へ正式に登録されていない。
先発調査班から名前を消され。
同行者の記憶からも失われ。
戻り木の領域でのみ、存在を維持していた。
第五オルネを捨てれば、身体を支える場所もなくなる。
「ユーマ!」
ルカが叫ぶ。
「お父さんを助けて!」
俺は黒い手帳を開いた。
エリウス・ハーン。
エッダの息子。
ルカの父親。
北部第七遺構へ向かった先発調査班の六人目。
娘から届いた手紙を持ち、王都へ戻った後、一緒に馬を見に行く約束をしていた。
名前も。
関係も。
本人の意思もある。
だが、恒久固定には足りなかった。
『恒久的な存在固定には、原記録が必要です』
ノエルと同じだ。
原記録は、北部第七遺構の白い扉の先にある可能性が高い。
この場でできるのは、暫定固定だけ。
「エリウス・ハーンを保存する!」
『保存領域が不足しています』
俺一人の手帳では足りない。
ならば、関係領域を使う。
エッダ。
ルカ。
補給隊のバルツたち。
エリウスを知っていた者。
だが、この場所で彼について最も多くを語れるのは、一人しかいなかった。
「ルカ!」
俺は叫ぶ。
「お父さんについて、君しか知らないことを話して!」
「今?」
「何でもいい!」
エリウスの足元が消え始める。
ルカは泣きながら、必死に言葉を探した。
「お父さんは、料理が下手!」
最初に出てきたのは、立派な言葉ではなかった。
「卵を焼くと、いつも真っ黒にする!」
黒い文字が生まれる。
「でも、私が残すと、もったいないって全部食べる!」
エリウスの足へ輪郭が戻る。
「夜に怖い夢を見たら、朝まで隣にいてくれる!」
腰。
胸。
「お母さんの話をするときは笑うけど、その後、一人で泣いてる!」
腕に色が戻る。
「馬に乗れないのに、乗れるって嘘をついた!」
「それは、今言わなくても」
エリウスが、消えかけた顔で僅かに笑った。
「お父さんは!」
ルカの声が大きく震える。
「私を守ろうとして、私の話を聞かなくなった!」
エリウスの顔へ色が戻る。
「でも、今は聞いてくれた!」
黒い手帳へ、ルカの記録が現れた。
『ルカ・ハーンによる人物記録』
『エリウス・ハーンは、娘を守ろうとして誤った選択をした父親である』
『娘の言葉を聞き、自らの選択を変更した』
『ルカ・ハーンは、エリウス・ハーンと共に現在の世界を生きたいと望んでいる』
俺たち六人も、知っているエリウスを語った。
「エリウスは、存在を消された後も、鞄と手紙を残した」
俺の記録。
「姿が見えない状態でも、荷物の紐を結び直した」
ガルド。
「補給隊の食料が落ちないよう、荷台を支えていました」
ミレナ。
「不完全な情報から、戻り木の内部を通る方法を見つけました」
セフ。
「隔離領域を越え、外部へ助けを求めようとしました」
リア。
「透明なまま、白紙鳥を素手で掴んだ」
ノエル。
複数の記録がエリウスへ集まる。
消えていた身体が、少しずつ完全な形へ戻った。
ただし、色はまだ薄い。
暫定固定。
次の本格的な白鐘が鳴れば、再び消される可能性がある。
それでも、今は触れられる。
ルカが父親へ飛びついた。
エリウスが、その小さな身体を受け止める。
「お父さん」
「ごめん」
「何が?」
「お前の話を聞かなかった」
「うん」
「怖かったんだ」
「私も怖かった」
互いに泣きながら抱き合う父と娘へ、エッダも近づいた。
今度は、腕が身体を通り抜けなかった。
三人が、同じ場所で互いに触れている。
それだけで十分だった。
戻り木から過去の人格が外部化されたことで、第四オルネの住民たちにも変化が起きていた。
第一オルネで負った火傷。
第二オルネで受けた刃傷。
第三オルネの身体へ刻まれた縫合痕。
現在の人生では負っていない傷だけが、少しずつ薄くなっていく。
記憶は、本人が望んだ形で残る。
本。
手紙。
石板。
閉じられた箱。
声を保存した小瓶。
あるいは、何も残さない空白。
現在の人格は、現在の身体へ残る。
過去と混ぜられず、別の人生へ作り直されることもない。
「成功した」
ノエルが言った。
俺は黒い手帳を確認した。
第五案の六つの原則が、すべて記録されている。
その最下部に、最後の問いがあった。
『第五案を確定しますか』
まだ、正式な実行には承認が必要だった。
「俺が決めるのか」
「違います」
リアが、六人を結ぶ十五本の黒い線を見た。
救済判断は、もう俺一人の中にはない。
「全員で決めます」
俺たち六人は黒い手帳の前へ集まった。
ただし、その前に確認するべき相手がいる。
俺は丘の下にいる村人たちを見た。
「これでいいか」
代表者だけではない。
三百十二人全員へ問いかけた。
戻り木の力が、俺の声を村中へ運ぶ。
「過去の人格は、それぞれが望んだ形で残る。現在の皆は、現在の人格のまま人生を続ける」
死を望んでいた人もいる。
その願いを、結果として変えることになる者もいる。
「村全体を強制的に終わらせることはしない。ただし、今後どう生きるかは、一人ずつ自分で決められる」
住民たちは、すぐには答えなかった。
ハルムが、一冊の黒い本を抱えている。
『第一オルネのハルム』
生きたいと願った十二歳の少年の記録。
老人は、まだ本を開いていない。
「私は、終わりを望みました」
「今も?」
「分かりません」
正直な答えだった。
「この本を読むのが怖い。ですが、私がかつて生きたいと願ったことまで、なかったことにする必要はないと思います」
「読まなくてもいい」
「いつか、読みたいと思う日が来るかもしれません」
サナも、三つの人生の記録を抱えている。
「私は、今の夫と、最初から話し直します」
隣に立つ男性へ視線を向ける。
「過去の夫たちを忘れるのか?」
「いいえ。ただ、現在の夫を、過去に失った誰かの代わりにはしません」
村の中から、一人の女性が手を上げた。
「私は、過去の記録を読まずに生きたいです」
別の男が続く。
「私は、第二の自分と対話することを選びます」
さらに老人が言った。
「私は、今夜で自分の人生を終えたい」
ミレナの身体が反応する。
それでも、彼女は老人の意思を遮らなかった。
生きることを強制しない。
村を一括して消去する処理は止める。
しかし、その後の人生をどうするかは、本人の選択だ。
「村は残る」
俺は伝えた。
「ただし、ここに住み続ける義務はない。出たい人がいるなら、外へ出る方法を探す」
「残りたい人は?」
エッダが尋ねる。
「残れる」
「まだ決められない人は?」
ルカが尋ねた。
「決められるまで、ここにいていい」
第五案は、全員を一つの未来へ送る方法ではない。
それぞれが、異なる未来を選ぶための時間と場所を残す方法だった。
「私どもは、終わりを望んでおりました」
エッダが言う。
「分かってる」
「ですが、本当に終わらせたかったものは、私どもの存在ではなかったのかもしれません」
老婆は、息子と孫を見る。
「同じ苦しみを繰り返すことを、終わらせたかったのです」
存在ではなく、繰り返しを。
「明日を見た後で、もう一度考えてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ」
住民たちの意思が、一つではない形で戻り木へ届いていく。
『第四オルネ住民による第五案への同意を確認』
『賛成――三百九名』
『反対――三名』
「全員一致ではない」
ガルドが言った。
三人が村人の中から前へ出る。
年老いた夫婦と、一人の青年。
「私たちは、村と戻り木の完全消去を望みます」
老人が言った。
「第五案には、個人として消去を選ぶ権利も含まれている」
「それでは意味がありません」
老婆が続ける。
「戻り木が残れば、また誰かが利用します」
複製官。
ほかの校正官。
世界を管理する仕組み。
強力な人格保存装置を、そのまま放置するとは限らない。
「第五案は、現在の危機を止めるだけです」
青年が言った。
「未来の危険は残ります。木そのものを消すべきです」
正しい指摘だった。
俺は手帳へ確認する。
『戻り木を消去した場合、第四オルネ領域の存在固定が解除されます』
「今、木を消せば村そのものが崩壊する」
「住民を外の世界へ移せませんか」
リアが尋ねる。
『全住民を承認世界へ登録する必要があります』
オルネは現在の地図に存在しない。
住民三百十二人も、正式な世界の記録から外れている。
原記録が北部第七遺構に残されているなら、取り戻すことで彼らを現在世界へ登録できる可能性がある。
「今は木を消せない」
俺は三人へ答えた。
「北部第七遺構で原記録を見つけ、皆を世界へ登録できた後、戻り木をどうするか改めて決める」
「先送りですか」
青年が尋ねた。
以前なら、その言葉に怯んだかもしれない。
また過去と同じことをしているのではないかと。
「保留だ」
俺は答えた。
「答えがないのに再構築を続けることとは違う。危険性を記録し、監視し、必要な条件が揃うまで処理を止める」
戻り木が本来持っていた、決定保留という機能。
決められないことを、無理に一つの答えへ押し込まない。
「ただし、お前たちが個人として完全消去を望むなら、その意思は尊重する」
老夫婦と青年は、互いに顔を見合わせた。
「木と共に消えることに意味がありました」
青年が答える。
「自分だけなら、まだ決められません」
「急いで決めなくていい」
三人も、反対したまま第五案の保留対象へ加えられた。
全員の意見を同じにする必要はない。
反対者を消す必要もない。
「第五案を確定する」
俺たち六人が、黒い手帳へ手を置いた。
一人ずつ、自分の名前を口にする。
「神崎悠真」
「ガルド・バルガス」
「ミレナ・フォース」
「セフ・アルノー」
「リア・エルセイン」
「ノエル・ハース」
誰が決めたのか、後で分からなくならないように。
責任を、一人だけへ押しつけないように。
「第五案を承認する」
六人の声が重なった。
黒い手帳から文字が浮かび、オルネの空へ広がっていく。
『第一から第三オルネの保存人格を、本人が選択した形で外部化する』
『記録を望まない人格の完全消去を承認する』
『人格統合は、双方の同意がある場合のみ実行する』
『第四オルネ住民の現在人格を維持する』
『圧縮処理を停止する』
『第五以降のオルネ再構築を禁止する』
『戻り木を判断保留領域へ復旧する』
『救済判断を、分散記録者へ委譲する』
最後に。
『第五案――実行』
戻り木から、すべての音が消えた。
枝の動きが止まる。
残っていた黒い実が枝から離れ、地面へ触れる前に、それぞれの記録へ変わっていく。
本。
手紙。
石板。
小瓶。
箱。
白い羽根。
そして、何も残さないことを望んだ者の空白。
幹へ刻まれていた文字も変わった。
『第一オルネ』
『第二オルネ』
『第三オルネ』
過去の村を示す文字が消える。
代わりに、一つの文章が現れた。
『第四オルネ』
『現在進行中』
終わっていない。
完成もしていない。
ただ、今を生きている。
村の空が変わった。
三重に浮かんでいた太陽の輪が消え、薄い黄色だった空が本来の青へ戻る。
森の外から風が吹き込んだ。
村人たちの服を揺らし。
畑の麦を波立たせる。
閉ざされていたオルネには、外から風が入ったことがなかった。
「道がある」
ノエルが丘の下を指した。
三重の森を構成する黒、赤、白の木々が左右へ分かれている。
その間に、村の外へ続く道が生まれていた。
先には、旧第九巡回路の白い路面が見える。
「外へ出られる」
ルカが呟いた。
エリウスは娘の手を握る。
「馬を見に行こう」
「乗れるの?」
「練習する」
「本当は乗れないんだよね」
「それは、誰から聞いた?」
「さっき全員が記録した」
エリウスが俺を見る。
「その情報だけ、消していただけませんか」
「確認された事実だから無理だ」
「俺が教えてやるよ」
ノエルが笑う。
リアが冷静に尋ねた。
「ノエルさんは馬へ乗れるのですか」
「見たことはある」
「乗れないのですね」
「馬の気持ちは分かる」
「あなたから逃げたいと考えているでしょう」
普段と変わらない会話だった。
その中で、エリウスの身体が一瞬だけ透ける。
暫定固定。
問題は、まだ解決していない。
ノエルも。
エリウスも。
原記録がなければ、次の白鐘で再び消される。
黒い手帳へ新しい警告が現れた。
『第四オルネ領域における、未承認処理を確認』
『上位校正権限による再審査を開始します』
「再審査?」
空に、七本の白い線が現れた。
線は円を描きながら広がり、それぞれ一枚の仮面へ変わる。
『省』
『替』
『飾』
『圧』
『隠』
『複』
そして、最後の一枚。
『終』
七つの校正権限。
省略官。
置換官。
修辞官。
圧縮官。
隠蔽官。
複製官。
最終化官。
これまで別々の場所で痕跡を見せていた存在たちが、オルネの空へ同時に現れた。
「第九接続者による未定義処理を確認」
七つの声が重なる。
「第五案は、管理規定に存在しません」
「今、作った」
俺は答えた。
「未承認の処理です」
「村人が同意した」
「住民意思は、世界保存における最優先条件ではありません」
「なら、条件へ加えろ」
「変更権限が不足しています」
空へ、巨大な文字が浮かぶ。
『第五案を無効化しますか』
七つの校正権限による審査。
省略官。
『賛成』
置換官。
『賛成』
修辞官。
『保留』
圧縮官。
『賛成』
隠蔽官。
『賛成』
複製官。
『賛成』
最終化官だけは、すぐに答えなかった。
すでに五つの賛成。
最後の判断を待つまでもなく、第五案は無効になる。
「第五案を無効化します」
空の文字が白く染まった。
停止したはずの戻り木が、再び震え始める。
「ふざけるな!」
ノエルが空へ叫んだ。
「全員で決めたんだぞ!」
「管理規定外の意思決定です」
「人間を壊す規定なら変えろ!」
「規定は、世界維持のために必要です」
「変更できるのは誰だ」
俺が尋ねる。
「第九管理人格にのみ、規定変更権限が付与されています」
七つの仮面が、俺を見下ろした。
「ただし、現在の神崎悠真は、正式な第九管理人格ではありません」
黒い手帳に、二つの選択肢が現れた。
『第九管理権限を回復しますか』
『条件――現人格・神崎悠真の終了』
『旧管理人格の復元』
第五案を守るには、第九管理権限が必要。
権限を戻すには、仲間たちが記録してくれた現在の神崎悠真を終わらせなければならない。
「選択してください」
七つの声が響く。
「第四オルネ住民の意思を無効化するか」
「現在人格・神崎悠真を終了するか」
黒い手帳に、簡略化された二つの選択肢が並んだ。
『第五案を放棄する』
『神崎悠真を終了する』
俺は手帳を閉じた。
「その二つからは選ばない」
「選択回避を確認」
七校正官の声が冷たくなる。
「過去の第九管理人格と同一傾向です」
「違う」
「何が異なりますか」
俺は隣にいる五人を見た。
十五本の関係記録。
オルネの三百十二人。
外部化された過去の人格。
「今回は、俺一人で答えない」
黒い手帳を開く。
第五案へ同意した人々の記録を表示する。
六人。
三百十二人。
本や手紙として残った過去の人格。
消去を選び、何も残さなかった者のための空白もある。
白紙鳥との戦いで、複数の人間が一人の存在を記録し、世界の改変へ抵抗した。
ならば。
世界の規定も、一人の管理者ではなく、多くの人間が記録できるかもしれない。
「規定そのものを分散記録するつもりですか」
セフが息を呑んだ。
「できるかは分からない」
「失敗した場合は?」
「ここにいる全員が校正対象になる」
「最近は、だいたいそうだな」
ノエルが笑う。
「最近だけで済ませるな」
リアが黒い手帳へ手を置いた。
「第五案の内容を、全員へ共有してください。一人で決めないと記録したばかりです」
ガルド。
ミレナ。
セフ。
ノエルも、手を重ねる。
丘の下では、ハルムが『第一オルネのハルム』を抱えたまま前へ出た。
サナ。
エッダ。
エリウス。
ルカ。
村人たちも、自分たちが選んだ原則を声へ出す。
「異なる人生を、一つへ混ぜない」
「記録されたくない者は、消去を選べる」
「人格統合には、双方の同意が必要」
「現在の人生は、現在の本人へ残す」
「答えが出ないなら、保留できる」
「一人の管理者だけで決めない」
三百人以上の声が重なった。
記録として残った人格も、文字や光となって第五案へ加わる。
『複数観測者による規定記録を確認』
七つの仮面が揺れた。
「規定は、管理権限によってのみ作成されます」
「それも、誰かが作った規定だろ」
俺は答えた。
「誰が決めた」
「初期管理者です」
「その初期管理者は、今ここにいない」
「規定は現在も有効です」
「でも、規定の中で生きている人間は変わり続けている」
最初に作られた規則だけで、後から生まれたすべての人生を処理することはできない。
「規則は、守られる側も変更へ参加できる」
そう記録しようとする。
だが、文字は現れなかった。
まだ、世界の事実ではない。
なら、現在の意思として記録する。
『神崎悠真は、世界規定に住民意思による変更手続きを加えることを望む』
ガルド。
『同意する』
ミレナ。
『同意します』
セフ。
『条件付きで同意する』
「条件は?」
俺が尋ねる。
「判断に必要な情報が、本人たちへ公開されることです」
リア。
『同意します』
ノエル。
『細かいことは分からないが、同意する』
「最後の文章は必要か?」
「事実です」
村人たちの意思も、手帳へ集まる。
黒かった文字が、少しずつ銀色へ変わっていく。
『規定変更要求を受理』
七校正官が一斉に反応した。
「受理は不可能です」
「正式な第九管理人格は存在しません」
「変更要求を発行できる個体は――」
声が途中で止まる。
黒い手帳の表紙。
閉じていた本の紋章が、ゆっくりと開いた。
内部から、九本の銀色の線が伸びる。
『第九管理権限』
『一部回復』
俺は、現在人格を終了していない。
それでも、失われていた管理権限の一部が戻っている。
「なぜ」
省略官の声に、初めて明確な動揺が混じった。
「第九管理権限は、単独人格へ付与される権限です」
「今は、単独じゃない」
俺は十五本の関係を見た。
三百十二人の意思。
過去の人格が選んだ記録。
「分散されてる」
一人の管理者が、すべてを決める構造そのものが変わり始めている。
黒い手帳へ、新たな問いが現れた。
『第五案を、第四オルネ領域の暫定規定として登録しますか』
今度は、俺だけで答えなかった。
六人。
三百十二人。
残された記録。
全員の意思が一つの要求へ集まる。
「登録する」
黒い光が空へ走り、七つの仮面を貫いた。
『第五案』
『人格保存における本人意思尊重規定』
『暫定登録』
『適用範囲――第四オルネ領域』
世界全体ではない。
現在は、オルネだけ。
それでも初めて、人間の意思によって世界の規定が一つ変更された。
七校正官の審査結果が無効化される。
圧縮処理は停止。
第五以降のオルネは消滅。
戻り木は判断保留状態へ移行した。
空の仮面が、一つずつ薄れていく。
省略官。
「規定変更を記録しました」
置換官。
「代替処理を検討します」
修辞官。
「意味の変化を観測します」
圧縮官は、何も言わない。
隠蔽官。
「認識範囲の拡大を警戒します」
複製官は、エリウスを見た。
「複製個体間の差異発生を確認しました」
最後に、額へ『終』を刻んだ仮面だけが空へ残った。
最終化官。
「第九接続者」
低い声が、村全体へ響く。
「今回の規定変更を、世界保存に対する重大な逸脱として記録します」
「好きにしろ」
「規定逸脱が上限へ達した場合、現在世界を最終化します」
「最終化とは何だ」
仮面は答えない。
代わりに、黒い手帳へ説明が現れた。
『最終化』
『再構築および追加校正の可能性を破棄し、現在状態を永続的に確定する処理』
一見すれば、悪いことには見えない。
現在の世界を確定し、これ以上書き換えない。
再構築もしない。
しかし、説明は続いた。
『確定時点において、正式登録されていない存在は消去されます』
ノエル。
エリウス。
鈎針通りの住民。
隔離された場所へ残されている人々。
そして、正式な転生記録を持たない俺。
世界が今の状態で固定されれば、登録されていない者は矛盾として消される。
「いつ実行される」
俺が尋ねる。
『規定逸脱値が上限へ達した時点』
『現在値――十二パーセント』
第五案を一つ登録しただけで、十二パーセント。
「単純に考えたら、あと七、八回か?」
ノエルが尋ねる。
「変更規模によって上昇量は異なるはずです」
セフが答えた。
最終化官の仮面が薄くなる。
「北部第七遺構へ来てください」
消える直前、声が響いた。
「第九接続者の原記録」
「あなたが保存しようとしている者たちの原記録」
「白い扉の奥で、すべてを用意して待っています」
仮面が消えた。
オルネの空が青へ戻る。
俺たちは、一つの村を救った。
同時に。
世界が現在の形で固定される時を、十二パーセント近づけた。
黒い手帳の最後のページへ、新しい表示が現れる。
『規定逸脱値――十二パーセント』
『北部第七遺構までの推奨到着期限――三日以内』
ノエルとエリウスの暫定固定。
最終化の危険。
原記録。
すべてを考えれば、立ち止まっている時間はなかった。
「急ぐぞ」
ガルドが言った。
村人たちは、俺たちを見送るため森の出口へ集まった。
エッダ。
エリウス。
ルカ。
ハルム。
サナ。
それぞれが、自分で選んだ記録を抱えている。
「管理者様」
エッダが呼んだ。
「神崎悠真でいい」
「では」
老婆は少し迷った後、初めて役職ではなく名前を呼んだ。
「悠真様」
「様もいらない」
「それは難しゅうございます」
「次に来るまでに慣れてくれ」
次。
その言葉を、今度は恐れなかった。
同じ苦しみを繰り返すための次ではない。
今日とは異なる明日。
エッダは、僅かに笑った。
「お待ちしております」
「待たなくていい」
「では、どうすれば?」
「先に生きていてくれ」
俺たちは村を出た。
黒い木。
赤い木。
白い木。
三重の森を抜け、旧第九巡回路へ戻る。
振り返ると、オルネは消えていなかった。
地図には、まだ存在しない。
外の世界にも、完全には承認されていない。
それでも、村へ続く道がある。
風が通る。
三百十二人が、それぞれの明日を選ぼうとしている。
俺は黒い手帳へ記録した。
『第四オルネ』
『住民――三百十二名』
『現在、生存中』
文字は消えなかった。
その下へ、銀色の文章が加わる。
『本記録は、第四オルネ暫定規定によって承認されています』
初めて、黒い手帳だけではない世界が、消された人々の存在を認めた。
だが、さらに下へ別の記録が現れる。
『七校正官による処理報告を、北部第七遺構へ送信しました』
『報告記録名』
『第九接続者――規定逸脱開始』
世界を守る側から見れば。
俺たちは、正式に規則を破った。
北部第七遺構の白い扉で待っているのは、原記録だけではない。
世界の敵と記録された俺たちを処理するための、次の校正だった。




