第十二章 ~誰にも見えない同行者~
旧第九巡回路へ戻ったとき、補給隊は出発時とほとんど同じ場所にいた。
人格記録の中で過ごした時間まで含めれば、俺たちは六日以上オルネに滞在していたことになる。
しかし、外の世界で経過したのは七時間ほどだった。
空は夕暮れに近づき、白い道の脇には二台の荷車が停められている。
商人たちは火を起こし、干し肉と豆を煮込んでいた。
俺たちへ最初に気づいたのは、御者のミゼンだった。
「戻ったぞ!」
声を聞き、補給隊の人々が一斉に顔を上げる。
バルツが煮込み鍋の前から立ち上がり、こちらへ歩いてきた。
その視線が、一人ずつ人数を確認していく。
ガルド。
ミレナ。
セフ。
リア。
ノエル。
そして俺。
「日没までに戻るとは聞いていましたが、随分と疲れているようですね」
「少し長い話を聞いてきた」
俺が答えると、ノエルが白い道へ腰を下ろした。
「少しじゃないだろ。俺の感覚では六日間、ほとんど休んでないぞ」
「人格記録の中では、肉体的な睡眠は必要ありませんでした」
リアが冷静に訂正する。
「頭の中が疲れてるんだよ。精神で六日働いたなら、六日分食べてもいいよな?」
「胃は七時間分しか活動していません」
「夢がないな」
「食費の問題です」
「俺の金じゃないだろ?」
「共通資金です。つまり、あなた以外の金でもあります」
二人の会話を聞き、バルツの表情が僅かに緩んだ。
しかし、俺たちの後ろにいる父娘へ気づくと、再び眉を寄せる。
エリウス。
そして、九歳の娘ルカ。
エリウスの身体は完全に戻ったように見える。
日に焼けた顔。
短く切られた黒髪。
褐色の上着。
腰には、中央神殿遺構調査室が発行した先発調査班の金属札が下がっている。
ただし、その存在は暫定的に固定されているだけだ。
次の白鐘が鳴れば、再び省略処理が始まる可能性がある。
「そちらのお二人は?」
バルツが尋ねた。
エリウスの表情が強張る。
本来なら、バルツは彼を知っているはずだった。
エリウスは先発調査班へ同行し、補給隊が出発する前にも荷車を確認している。
それでも、バルツの中に彼の記憶は残っていない。
「エリウス・ハーン」
俺が紹介する。
「北部第七遺構へ向かった先発調査班の六人目です」
「六人目?」
「こちらは娘のルカ。エリウスは、地図から消されたオルネ村の住民でもある」
ルカは、父親の手を強く握っていた。
バルツはエリウスの顔を見つめる。
疑っているというより、思い出せない何かを探しているようだった。
「エリウス・ハーン……」
名前を口にしても、記憶は戻らない。
そのとき、ミゼンがエリウスの左手を見て目を細めた。
「その結び方」
「何でしょうか」
「荷車の綱だ」
ミゼンが二台目の荷車を指した。
荷箱を固定する太い綱が、複雑に交差している。
乱雑に見えるが、一か所を引くだけですべてを解ける形だ。
「今朝、誰が結び直したのか思い出せなかった」
ミゼンは、自分の手で綱へ触れる。
「お前か?」
「はい。右側の留め具が緩んでいました」
「なぜ先に言わなかった」
「直したので、問題ないかと思いました」
「そういうところだ」
ミゼンは呆れたように息を吐いた。
「何がですか」
「誰にも言わず、気づかれない場所を勝手に直す奴がいた気がする」
思い出したわけではない。
記憶の形を失ったまま、エリウスがそこにいた痕跡へ気づいただけだ。
バルツも腰の帳面を開いた。
白紙鳥の襲撃後、補給隊全員で作り直した積荷記録。
その余白に、バルツ自身には書いた覚えのない注意書きが残っていた。
『第二荷車、右後輪の軸に摩耗あり。北部第七遺構到着後、交換を推奨』
「この文字は?」
バルツが帳面を差し出す。
エリウスは一目見ると答えた。
「私です」
「いつ書いたのです」
「出発前です」
「私は、あなたへ点検を頼みましたか」
「いいえ」
「では、勝手に?」
「街道の途中で壊れそうだったので」
バルツはしばらく黙り込んだ。
やがて、小さく息を吐く。
「確かに、我々の一行にいそうな人物です」
「思い出したのか?」
ノエルが尋ねた。
「いいえ」
「じゃあ、いそうって何だよ」
「白枝会には、気づかれない場所を勝手に修理し、報告だけを忘れる人間が何人かいます」
「褒められているのでしょうか」
エリウスが恐る恐る尋ねる。
「修理したことは評価します。報告しなかったことは評価しません」
バルツは一般同行者名簿を開いた。
先発調査班の欄。
記録上は五人。
しかし、その下には不自然な空白が残されている。
エリウスが羽根ペンを受け取り、空白へ名前を書いた。
『エリウス・ハーン』
確かに文字は現れた。
だが、数秒後、右端から白く薄れ始める。
「消える……」
ルカが父親の腕へしがみついた。
俺は黒い手帳を開く。
『エリウス・ハーン』
『暫定固定状態』
『承認された現在世界に、照合可能な原記録が存在しません』
本人が自分で名前を書いても、世界はその文字を正式な情報として受け入れない。
「ルカ」
俺は少女へ羽根ペンを渡した。
「お父さんの名前の横へ、君が知っていることを書いてくれ」
「私が?」
「ああ。名前だけじゃなくていい」
ルカは少し考え、父親の名前の隣へ小さな字を書いた。
『ルカ・ハーンの父』
消えかけていた文字が止まった。
完全には戻らない。
それでも、辛うじて読める濃さで残っている。
「個人としては承認されなくても、関係記録は残る」
リアが名簿を観察する。
「オルネでルカさんとの関係が暫定規定へ登録されたためです」
バルツも羽根ペンを受け取った。
『白枝会補給隊の荷車を修理した者』
続いて、ミゼン。
『第二荷車の綱を結び直した者』
俺たちも、知っているエリウスを追加していく。
『北部第七遺構へ助けを求めに向かった者』
『消された後も、娘からの手紙を守った者』
『ルカの言葉を聞き、自分の選択を変更した者』
一行増えるたび、エリウスの名前は少しずつ濃くなった。
個人としての原記録はない。
それでも、誰かとの間に残した行動が、現在の世界へ一時的な居場所を作っている。
「北部第七遺構へ着いたら、原記録を探す」
俺は言った。
「ノエルとエリウス。二人分だ」
「鈎針通りの住民もです」
リアが付け加える。
「オルネの住民を現在世界へ正式に登録するための記録も必要になります」
「増えたな」
ノエルが名簿を覗き込む。
「最初は俺一人を助けに行く旅だったのに」
「嫌なのか?」
「逆だよ」
ノエルはエリウスとルカを見た。
「俺だけ助かるより、ずっといい」
その言葉を聞き、胸が僅かに痛んだ。
以前なら、それを素直に優しさだと思っただろう。
今は違う。
救済判断を六人の関係へ分散したことで、その言葉が持つ危険も全員へ伝わっている。
助ける対象が増えれば、作業も危険も増す。
全員を同時に救おうとすれば、誰一人間に合わなくなる可能性がある。
「優先順位は決める」
ガルドが言った。
「まず、次の白鐘で消される危険が高いノエルとエリウスを恒久固定する」
「鈎針通りは?」
「隔離領域として残っていることは確認できている。放置するとは言っていない」
「でも――」
「助ける順番を決めることと、見捨てることは違う」
ガルドの声は厳しかった。
俺たち六人を結ぶ関係記録へ、小さな痛みが走る。
以前なら俺一人が抱えていた、誰かを後回しにする苦しさ。
今は全員が同じ痛みを感じている。
ミレナが胸元へ手を置いた。
「苦しいですね」
「ああ」
俺は認めた。
「それでも、必要な判断だ」
誰も見捨てないという言葉は、全員を同時に救うという意味ではない。
今すぐ助けられない人の名前を残す。
後で戻る場所を記録する。
手が届かない間も、最初から存在しなかったことにはしない。
それも、記録係の役割だった。
バルツへ、オルネで起きたことを説明した。
四度作り直された村。
戻り木。
住民の人格。
複製官。
そして第五案。
管理人格や世界の再構築については、まだ詳しく話さなかった。俺自身にも確かな説明ができないからだ。
ただし、地図から消された村が存在すること。
三百十二人の住民が、現在も生きていること。
エリウスとルカが、その村の出身であることは伝えた。
「通常であれば」
説明を聞き終えたバルツは、疲れたように額を押さえた。
「あなた方を補給隊から降ろします」
「通常ならな」
ノエルが頷いた。
「あなたが納得することではありません」
「じゃあ、降ろすのか?」
「白紙鳥に襲われた時点で、通常ではありません」
バルツは、北へ続く白い道を見た。
「それに、北部第七遺構へ続く経路を正確に知っているのは、神崎さんの手帳だけです」
「俺たちの話を信用するのか」
「信用と利害は別です」
商人らしい答えだった。
「ですが、存在しない人間が、実際に我々の荷車を修理した。その事実を無視するほど、私は愚かではないつもりです」
エリウスとルカは、二台目の荷車へ乗ることになった。
ルカの同行費用について、バルツは最後まで銀貨を要求した。
エリウスが革袋を探る。
中にあるのは僅かな銅貨だけだった。
「北部第七遺構へ到着した後、必ず働いて返します」
「荷車の修理代と相殺しましょう」
バルツは帳面を開いた。
「車軸の点検。綱の補修。白紙鳥から荷を守った行為」
数字を記入する。
「差し引き、銀貨二枚をこちらから支払います」
「私へ?」
「白枝会は、働いた人間へ対価を払います」
「世界へ登録されていなくても?」
「それは、世界や王国側の都合です」
バルツはエリウスを見る。
「私の荷車を修理したのは、あなたなのでしょう」
エリウスは、しばらく答えられなかった。
やがて深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
俺は、その言葉を手帳へ記録しなかった。
記録しなくても、バルツとエリウスの間に残ると思ったからだ。
夜が明けると、俺たちは名前の確認から一日を始めた。
白紙鳥との戦いの後、毎朝、互いの名前と関係を声へ出すと決めた。
これまでは、どこか冗談半分だった。
今日は、エリウスとルカも加わっている。
ガルドが全員を見回した。
「ガルド・バルガス」
「重戦士。〈灰色の雲雀〉の代表」
俺が続ける。
「猫が苦手」
ノエルが付け足した。
「必要か?」
「同じ名前の別人と区別するための重要な情報だ」
「後で話がある」
「暴力で記録を修正しようとするなよ」
次はミレナ。
「ミレナ・フォース。神官。治癒術師です」
セフが続ける。
「蜂蜜菓子を、人に見つからないよう食べます」
「もう、秘密ではないのですね」
ミレナが悲しそうに微笑んだ。
「本人が人格記録の中で話しただろ」
ノエルが言う。
「あのときは精神的に疲れていたのです」
「疲れてなくても食べてたぞ」
「ノエルさん」
柔らかな声だった。
それでも、ノエルは即座に口を閉じた。
セフ。
リア。
ノエル。
そして俺。
一人ずつ、名前、役割、癖、誰かとの思い出を確認していく。
エリウスの番。
「エリウス・ハーン」
本人が名乗る。
「オルネ出身」
ルカが続けた。
「私のお父さん」
バルツ。
「第二荷車の車軸を点検した人物」
ミゼン。
「綱の結び方が細かすぎる」
ノエル。
「馬に乗れない」
「それは、人物確認に必要でしょうか」
「ほかのエリウスと間違えないために必要だ」
「確認された事実だから消せない」
俺が答えると、エリウスは本気で困った顔をした。
最後にルカ。
「ルカ・ハーン。九歳」
エリウスが娘を見る。
「木彫りの馬を大切にしている」
「卵の黄身を残す」
「それは言わなくていい」
「野菜も残す」
「お父さん!」
「記録は正確にしなければ」
エリウスの口元へ、小さな笑みが浮かんだ。
全員がいる。
〈灰色の雲雀〉の五人。
リア。
エリウス。
ルカ。
補給隊のバルツ、エダン、ミゼン、ベック。
商人と護衛を含め、合計二十二人。
「出発する」
ガルドの合図で、荷車が動き始めた。
旧第九巡回路。
白い墓標の間を、北部第七遺構へ向かって進む。
黒い手帳には残り時間が表示されていた。
『北部第七遺構への推奨到着期限――残り二日十九時間』
『現在経路における到着予測――二日二時間』
予定どおりなら、十時間以上の余裕がある。
それでも安心はできなかった。
七校正官は、俺たちが北部第七遺構へ向かっていることを知っている。
最終化官は、白い扉で待っていると言った。
何も起きないはずがない。
異変は、出発から一時間ほどで始まった。
最初に気づいたのは、ルカだった。
「お父さん」
二台目の荷車。
幌の中から、怯えた声がする。
「どうした?」
「どこにいるの?」
「隣だ」
「見えない」
馬車が止まった。
俺たちは二台目へ集まる。
ルカは座席の端へ座り、両手を前へ伸ばしていた。
すぐ隣にはエリウスがいる。
父親は、娘の肩へ手を添えていた。
「ここにいる」
「分からない」
ルカの視線はエリウスの身体を通り越し、背後にある幌へ向いていた。
「ルカ」
エリウスが娘の頬へ触れる。
少女の表情が、僅かに緩んだ。
「手は分かる」
「顔は?」
「見えない」
エリウスの顔が透明になったわけではない。
俺には見えている。
黒髪。
茶色の瞳。
左の頬にある薄い傷。
ただ、視線を外した瞬間。
どのような顔だったのか、思い出せなくなった。
「エリウス・ハーン」
俺が名前を呼ぶ。
輪郭が明確になる。
目。
鼻。
口。
頬の傷。
「エリウス・ハーン」
もう一度呼ぶ。
その間は、確かに父親として認識できる。
だが、名前を呼ぶのをやめると、意識から存在が滑り落ちていく。
「隠蔽」
リアが呟いた。
黒い手帳にも警告が現れる。
『隠蔽処理を検出』
『対象――エリウス・ハーン』
「消去されているわけではありません」
セフが、修理した杖から細い魔力の糸を伸ばす。
糸はエリウスの身体を避け、人型の空間を作った。
「身体は存在します。空間も占有している。ただ、認識だけが阻害されています」
「名前を呼び続ければ見えるのか?」
ノエルが尋ねる。
「呼んでいる間はな」
ルカは父親の上着を掴み、何度も名前を呼んだ。
「お父さん」
そのたびに、エリウスの姿が濃くなる。
「隠蔽官は、原記録を持たない存在から狙っています」
リアが周囲を警戒する。
「世界の中で認識されにくい人物ほど、処理の効果が強いのでしょう」
「次はノエルか」
ガルドの左手が斧へ伸びる。
痺れの残る腕を、僅かに振って感覚を確かめた。
その直後。
黒い手帳へ新しい表示が現れた。
『認識阻害対象を拡大』
エリウスだけではない。
名簿。
二十二人分の名前。
一つの名前が、突然読めなくなった。
文字は書かれている。
インクも見える。
だが、読もうとすると視線が横へ滑る。
「誰の名前だ」
俺は名簿を指でなぞった。
ガルド。
ミレナ。
セフ。
リア。
ノエル。
俺。
エリウス。
ルカ。
バルツ。
エダン。
ミゼン。
一人ずつ確認する。
「一人足りない」
「誰が?」
ノエルが周囲を見た。
二台の荷車。
商人。
護衛。
全員いるように見える。
「朝は二十二人いた。今は二十一人しか数えられない」
「もう一度数えます」
ミレナも人数を数え始める。
途中で、同じ商人を二度数えた。
「二十一……?」
誰がいない。
あるいは。
そこにいるのに、誰にも認識されていない。
俺は目で探すことをやめた。
耳を澄ませる。
馬の呼吸。
車輪の軋み。
風。
衣擦れ。
「荷車の重さを確認してくれ」
ガルドが御者たちへ指示する。
一台目。
積荷と乗員。
二台目。
予定より、一人分重い。
「いる」
俺は言った。
「二台目に、見えない誰かが乗っている」
幌を開く。
ルカ。
エリウス。
商人が二人。
ほかには誰もいない。
しかし、後部の座席が僅かに沈んでいる。
「そこだ」
ノエルが指を差す。
視線を向けても、何も見えない。
目を逸らすと、誰かが座っている気配だけが分かる。
「名前へ意識を向けられません」
ミレナが言った。
「忘れたのではなく、思い出そうという判断自体を妨げられています」
「名前以外を記録する」
俺は黒い手帳を開いた。
『二台目の荷車、後部座席に人物がいる』
文字は現れた。
『当該人物は、本日の人数確認へ参加した』
『補給隊と関係がある』
しかし、それ以上は書けない。
本人を認識できないからだ。
「誰か、この座席の人について覚えていないか」
全員が首を傾げる。
その中で、ミゼンが足元の袋を見た。
馬へ与えるための燕麦が、普段より一袋多い。
「なぜ、三袋ある」
「予備ではありませんか?」
エダンが尋ねる。
「俺は、二頭分しか用意していない」
ミゼンは袋の紐を解いた。
中には燕麦と、使い込まれた短い鞭が入っていた。
柄へ小さく名前が刻まれている。
『ベック』
「ベック」
ミゼンが顔を上げた。
「ベックはどこだ」
十年来の相棒。
白紙鳥に関係を消されかけたとき、互いの名前を呼び合った御者。
俺たちも知っている。
しかし、今はどこにもいない。
違う。
座席が沈んでいる。
「ベック!」
ミゼンが叫んだ。
何もなかった座席へ、男の姿が現れた。
日に焼けた顔。
無精髭。
馬車の揺れで腰を痛めないよう、座布を二枚重ねている。
ベックは自分の喉を押さえ、苦しそうに息をしていた。
「ミゼン」
「ベック!」
ミゼンが相棒の腕を掴む。
触れられたことで、姿がさらに濃くなる。
「ずっと呼んでいた」
ベックが掠れた声で言う。
「誰も返事をしなかった」
「声は出ていたのか?」
「聞こえていたはずだ」
「聞こえなかったのではありません」
リアが答えた。
「聞く必要のある音として、認識できなかったのです」
ベックは最初からそこにいた。
声も出した。
身体も動かした。
それでも周囲の人間は、彼に関する情報を重要ではないものとして無視した。
「隠蔽とは、見えなくすることではない」
セフが低い声で言った。
「重要ではないと思わせる処理です」
存在している。
泣いている。
助けを求めている。
危険が迫っている。
それでも、意識を向ける必要はないと思わせる。
白い墓標の上へ、仮面が現れた。
額に刻まれた文字は、
『隠』
「認識対象を拡大するほど、保存負荷は増加します」
静かな声だった。
「誰かを見つければ、保存しなければならない。存在を認めれば、世界の中へ領域を割り当てなければならない」
「だから、見えなくするのか」
俺は仮面を見上げた。
「はい」
「省略して消すよりはましだと?」
「隠蔽によって、即時処理を延期できる場合があります」
オルネ村。
地図から消され、三重の森に囲まれ、誰にも発見されなかった領域。
「お前が、オルネを隠したのか」
「一部は」
「なぜ?」
「省略官による即時消去を回避するためです」
隠蔽官は、オルネを守っていた。
少なくとも、すぐに消されないよう隠した。
敵。
その一言だけで定義できる存在ではない。
「では、なぜエリウスやベックを隠した」
「第九接続者の認識能力を測定しています」
「測定?」
「あなたは、認識した存在を保存しようとします」
仮面の奥には顔がない。
それでも、こちらを観察していることは分かった。
「世界に存在する苦痛を、すべて認識した場合、現在人格を維持できると考えますか」
救済判断。
誰かが消える可能性を知っただけで、見捨てられなくなる感情。
今は六人と十五の関係へ分散している。
それでも、世界には鈎針通りやオルネ以外にも、消された人々がいる。
改変された人生。
隠された街。
名前を奪われた家族。
そのすべてを知れば、俺たち六人でも耐えられないかもしれない。
「人間は、見えている範囲だけを世界と呼びます」
隠蔽官が言った。
「それでいい」
ノエルが答える。
「今のあなたは、そう考えています」
「何が言いたい」
「記録者は、見えている範囲だけを記録することを許されません」
「すべてを記録しろと?」
「それは不可能です」
「不可能だから、そっちが不要な情報を決めて隠すのか」
「管理に不要な情報は、認識されるべきではありません」
「誰にとって不要なんだ」
「世界にとって」
「人間にとってじゃない」
「世界保存に、個人の感情は不要です」
過去のYUMAも、同じ結論へたどり着いたのかもしれない。
すべてを見て。
すべてへ心を動かせば。
何も決められなくなる。
だから個人を数字に変えた。
救済判断を自分から切り離した。
世界を管理し続けるために。
「全部を見るとは言わない」
俺は答えた。
「見えたものを、見なかったことにはしない」
「差異はありません」
「ある」
ガルドが斧を肩へ担ぐ。
「人間が認識できる範囲には限界がある。だが、目の前の相手を無視する理由にはならん」
「その結果、より多くの存在を失う場合もあります」
ガルドは、すぐには答えなかった。
感情だけで全員を助けると言わない。
結果を知らないまま、自分が正しいとも言わない。
「失敗することはあるだろう」
やがて答えた。
「だが、必要な情報を隠された状態で選ばされた結果を、判断とは呼ばない」
「意思決定に必要な情報を公開することは、第五案の原則でもあります」
セフが続ける。
「第五案は、第四オルネ領域にのみ適用されています」
「なら、いずれ適用範囲を広げる」
「規定逸脱値が上昇します」
「脅しか?」
「警告です」
隠蔽官の仮面が、北へ続く道を見た。
「北部第七遺構へ進めば、あなた方はさらに多くの情報を認識します」
「それが原記録か」
「それ以上です」
「何がある?」
「回答すれば、隠蔽ではなくなります」
ノエルが舌打ちした。
「面倒な奴だな」
「あなたに言われるとは想定していませんでした」
「今、反論した?」
仮面は無視した。
「第九接続者。一つだけ警告します」
「何だ」
「北部第七遺構の白い扉の先で、あなた自身の原記録を閲覧しないでください」
「なぜ?」
「閲覧した場合、現在人格――神崎悠真を維持できない可能性があります」
「過去のYUMAへ戻るのか?」
「それよりも危険です」
「何が起きる」
「あなたは」
仮面の輪郭が薄くなる。
「自分が神崎悠真であるという前提を、維持できなくなります」
仮面が消えた。
俺は、すぐには何も言えなかった。
旧第九巡回路で、現在人格は帰還者YUMAの登録情報と一致しないと表示された。
現在の俺が、何らかの人格分離によって生まれた可能性も示されている。
それでも俺は、神崎悠真という名前を選んだ。
仲間たちも、現在の俺をその名前で記録した。
原記録を読めば、それさえ維持できなくなる。
「気にするな」
ノエルが俺の背中を叩いた。
「無理だろ」
「じゃあ、少しだけ気にしろ」
「調整できるのか?」
「俺はできる」
「お前は何も考えてないだけだ」
「失礼だな。今夜の飯のことは考えてる」
軽口へ返そうとした、そのとき。
旧第九巡回路が消えた。
白い石畳は、確かに目の前にある。
墓標も、北へ延びる道も見える。
それなのに、どちらへ進めば北部第七遺構へ近づくのか分からない。
太陽がある。
影もある。
方角を示すものはすべて存在する。
しかし、北という言葉と目の前の方向を結びつけることができなかった。
「地図を!」
セフが叫ぶ。
リアが地図を広げる。
現在地。
北部第七遺構。
二つを結ぶ線。
すべて読める。
だが、地図をどちらへ向ければ現実の地形と重なるのか判断できない。
「方位磁針は?」
リアが小さな磁針を取り出す。
針は一定の方向を指していた。
それでも、その向きが北だと理解できない。
「方角の意味そのものが隠されています」
「どうやって進む」
ノエルが道を見る。
「偵察に出ても、戻ってこられないぞ」
「見える方向を頼るからだ」
俺は黒い手帳を開いた。
北部第七遺構までの距離。
『残り百八十六キロ』
「距離は表示される」
「方向は?」
『認識制限中』
方角を直接知ることはできない。
「距離が減る方向へ進む」
「少しずつ試すのか?」
ガルドが尋ねる。
「最初は歩いて確認する」
ノエルが白い道の一方向へ十歩進んだ。
距離を確認する。
二メートル増えている。
戻る。
別の方向。
変化なし。
三つ目。
僅かに減った。
「こっちだ」
「それを百八十キロ繰り返すのですか」
セフが顔をしかめる。
「ほかに案があるか?」
「距離の変化を、音へ変換します」
リアが提案した。
「数値そのものを見続けなくても、進行方向を判断できます」
セフは少し考え、杖を地面へ向けた。
「距離が減れば高い音。増えれば低い音。変化がなければ無音にする」
黒い手帳が持つ距離情報を、セフの術式へ接続する。
以前なら、俺の《記録》から他人の魔法へ情報を渡すことはできなかった。
しかし、分散記録者となった五人には、一部の記録を共有できる。
セフが一歩進む。
低い音。
逆へ進む。
高い音。
「進行方向を確認した」
ガルドが荷車を移動させる。
「全員、綱を持て」
人と人。
荷車と荷車。
一本の長い縄で全員をつなぐ。
方向感覚が隠されても、物理的な関係までは失われていない。
ガルドが隊列を管理する。
セフが距離を音に変える。
俺が数値を記録する。
ノエルが足元と周囲を確認する。
ミレナが馬と商人の状態を見る。
リアは全員の名前を読み上げ続けた。
「ガルド・バルガス」
「いる」
「ミレナ・フォース」
「はい」
「セフ・アルノー」
「います」
「ノエル・ハース」
「腹が減った」
「返事だけで結構です」
「いる」
「神崎悠真」
「いる」
「エリウス・ハーン」
「ここにいます」
「ルカ・ハーン」
「いるよ」
バルツ。
エダン。
ミゼン。
ベック。
商人と護衛。
一人ずつ、声を返していく。
方角が分からなくても。
誰と共に進んでいるのかは分かる。
道は何度も曲がった。
俺たちの目には、常に真っすぐな白い道にしか見えない。
それでも距離を示す音は変化する。
右。
左。
少し戻る。
見えない分岐を進む。
途中で、ノエルが突然立ち止まった。
「前に何かある」
「見えるのか?」
「見えない。でも、風がおかしい」
ノエルが小石を投げる。
石は白い道の上を跳ね、途中で消えた。
落下音は聞こえない。
数秒後。
はるか下から、小さな音が返ってきた。
崖。
目の前の道は、そのまま続いているように見える。
しかし実際には、途中で途切れていた。
「止まれ!」
ガルドが叫ぶ。
先頭の馬が崖へ足を踏み出す直前、ミゼンが手綱を引いた。
荷車が急停止する。
薬瓶同士がぶつかり、乾いた音を立てる。
「道があるようにしか見えません」
ミレナが青ざめた顔で前方を見た。
「隠しているのは、崖そのものじゃない」
崖は見えているはずだ。
谷の深さも。
切り立った断面も。
ただ、それを危険だと判断する認識が隠されている。
隠蔽官の声が、どこからともなく響く。
「見ることと、認識することは異なります」
「これが測定か?」
「はい」
「落ちたらどうする」
「危険を認識できない存在は、管理権限に適しません」
「それを殺そうとしたって言うんだよ!」
ノエルが叫ぶ。
「結果として死亡する可能性はありました」
「同じだ!」
「定義が異なります」
「言葉に付き合うな」
俺はノエルを止め、崖の縁へ近づいた。
北部第七遺構までの距離は、崖の向こう側へ進めば減る。
つまり、方角自体は合っている。
どこかに橋があるはずだ。
目では見えない。
あるいは、橋として認識できない。
俺は崖の縁へ座り、目を閉じた。
風。
谷を通る音。
土と石の匂い。
右側にだけ、風の流れが僅かに変わる場所がある。
手を伸ばす。
何もない空中で、指先が硬いものへ触れた。
「橋がある」
目には見えない。
それでも、触れれば石の感触がある。
崖の右側へ、細い橋が伸びていた。
「俺が先に渡って記録する」
橋へ足を置く。
透明な足場。
目を開ければ、何もない空中へ踏み出したように感じる。
視覚を捨て、靴の裏の感触だけを頼りに進む。
一歩。
橋幅は三メートルほど。
二歩。
素材は旧第九巡回路と同じ白い石。
十歩。
橋は緩やかに右へ曲がっている。
目を開けば、真っすぐ進みたくなる。
その先は谷だった。
「目を閉じろ!」
俺は後ろへ叫んだ。
「見える道を信じるな!」
「記録係が言うと、説得力があるな」
ノエルが笑った。
全員が目隠しをする。
商人たちは不安そうだった。
それでも、白紙鳥の事件を経験した彼らは、目に見えるものが正しいとは限らないと知っている。
先頭を歩く俺が、橋の形を言葉で伝える。
「三歩直進」
リアが後ろへ復唱する。
「少し右」
ガルドが綱の動きを管理する。
「次は五歩」
セフの音が、北部第七遺構へ近づいていることを知らせる。
ミレナは人々の呼吸と足音を確認する。
ノエルは橋の端を短剣の鞘で叩き続け、落下地点を音で知らせた。
見えない橋を、全員の情報によって形にする。
一人では渡れない。
誰か一人が間違えても、ほかの誰かが補う。
二台の荷車。
二十二人。
全員が谷を渡り終えた。
最後の車輪が橋から下りた瞬間、隠蔽処理が解ける。
振り返る。
橋は確かに存在していた。
白い石で造られ、大きく右へ曲がりながら谷を越えている。
俺たちが見ていた真っすぐな道は、崖の途中で途切れていた。
隠蔽官の仮面が、谷の上へ現れる。
「測定結果」
「単独認識――不適格」
「分散認識――暫定適格」
「褒められたのか?」
ノエルが尋ねる。
「恐らく違います」
リアが答えた。
「隠蔽官」
俺は仮面へ声をかける。
「お前は、本当に俺たちを止めたいのか?」
仮面は答えない。
「オルネを消去から隠した。今も、直接消すのではなく、認識できるか試した」
省略官。
圧縮官。
複製官。
最終化官。
全員が世界を保存しようとしている。
それでも、方法は異なる。
「七校正官は、同じ目的で動いているわけじゃないのか」
「私の目的は、認識による世界負荷を抑制することです」
「世界を守るため?」
「はい」
「人間を守るためではない?」
僅かな沈黙。
「両者が一致する場合もあります」
「一致しない場合は?」
「世界を優先します」
明確な答えだった。
味方ではない。
だが、単純な敵でもない。
「北部第七遺構へ行けば、何が見える」
「隠されていた記録です」
「原記録だけじゃないのか」
「あなたが現在の人格を維持するため、認識から除外されていた情報も含まれます」
「それを読めば、俺は消える?」
「消えるとは限りません」
「では?」
「現在人格が、自身の継続を望まなくなる可能性があります」
自分から、神崎悠真であることをやめる。
そう聞こえた。
「警告はした」
隠蔽官の輪郭が薄くなる。
「それでも進みますか」
「進む」
迷わず答えた。
「ならば、白い扉で再び観測します」
仮面は消えた。
その日の夜。
俺たちは谷を越えた場所で野営した。
隠蔽処理が完全に終了した保証はない。
朝だけでなく、夜にも全員の名前と、その日したことを確認した。
ベックは、姿を認識されなくなっている間、必死にミゼンへ悪口を言い続けていた。
「人は自分の悪口なら気づくと思ったんだ」
「気づかなかった」
「お前は普段から人の話を聞かない」
「隠蔽官と関係なくないか?」
バルツは、薬瓶を一本割ったエダンを長時間叱った。
エダンは、自分ではなく荷車の揺れが原因だと主張した。
ミゼンは馬へ、人間より豪華な食事を与えた。
エリウスはルカのために卵を焼いた。
真っ黒になった。
ルカは半分を残した。
残りはノエルが食べた。
「焦げたところも?」
リアが尋ねる。
「食べ物を無駄にするなって教わったからな」
「誰に教わったのですか」
ノエルは少し考えた。
「分からない」
その瞬間、全員が黙った。
忘れたのか。
最初から記憶に存在しないのか。
誰かの記録が隠蔽されているのか。
本人にも分からない。
俺は黒い手帳へ記録した。
『ノエル・ハースは、食べ物を無駄にしないよう、過去に誰かから教えられた』
『ただし、相手の名前と姿を思い出すことができない』
「思い出したら、書き足す」
俺が言うと、ノエルは頷いた。
すべてを今すぐ解決する必要はない。
分からないものを、無理に答えへ変えない。
空白のまま、後で書き加えられるように残す。
それも、オルネで学んだことだった。
翌日。
旧第九巡回路をさらに進んだ。
隠蔽官による妨害は、それ以上起きなかった。
道の両側に並ぶ白い墓標の数が、少しずつ減っていく。
どの世界の記録なのか。
誰がそこにいたのか。
俺たちには、まだ分からない。
やがて、白い墓標が完全に途切れた。
代わりに、地平線へ一本の白い塔が現れる。
塔は近づくほど大きくなる。
最初は細い柱に見えた。
やがて、山のような基部と、空を突く尖塔を持つ巨大な遺構だと分かる。
「北部第七遺構か」
ガルドが目を細める。
地図上では、まだ百キロ以上離れているはずだった。
旧第九巡回路が、通常の距離を折り畳んでいるのだろう。
管理者専用の経路。
半日ほど進むと、白い塔はさらに近づいた。
表面に窓も入口もない。
巨大な一本の石を削ったように見える。
そして、次の瞬間。
塔が消えた。
霧ではない。
雲に隠れたわけでもない。
一瞬前まで存在していたものが、視界から完全に失われた。
「また隠蔽か?」
ノエルが尋ねる。
黒い手帳を確認する。
『隠蔽処理は検出されていません』
「違う」
「では、遺構はどこへ?」
距離を表示する。
『北部第七遺構まで――残り〇』
「ゼロ?」
俺たちは、すでに到着している。
目の前にあるのは、何もない白い平原。
道はそこで途切れていた。
先頭の馬が前へ進もうとし、急に鼻先を上げて止まる。
何もない空間へ触れている。
俺が手を伸ばした。
冷たい。
硬い。
透明な壁が、目の前を覆っていた。
耳を澄ます。
壁の向こうから、音が聞こえる。
金属を叩く音。
遠くで流れる水。
複数の人間の足音。
そして、低く響く鐘。
すぐ目の前に、北部第七遺構がある。
それでも、見ることができない。
「隠蔽官でないなら、誰の処理ですか」
リアが透明な壁へ手を触れる。
黒い手帳が震えた。
『北部第七遺構――封鎖処理を確認』
『実行権限――最終化』
「最終化官」
現在の状態を確定し、外部から切り離している。
透明な壁へ、新しい条件が表示された。
『通過条件』
『現在世界に承認された存在であること』
ガルドが壁へ近づく。
身体が僅かに透け、そのまま向こう側へ通り抜けかけた。
ミレナ。
セフ。
リア。
バルツたちも同じだ。
現在世界へ正式に登録されている者は通過できる。
しかし、ノエルは壁に弾かれた。
エリウスも通れない。
ルカも、オルネ領域の暫定規定で認められただけで、外部では正式な存在として扱われていない。
そして、俺。
透明な壁へ手を当てても、何も起こらなかった。
『通過拒否』
『対象――神崎悠真』
『理由――承認された現在世界に、照合可能な起点記録が存在しません』
「俺たち四人だけ、入れない?」
ノエルが壁を叩く。
ガルドは身体を半分だけ壁の向こうへ入れた状態から戻ってきた。
「全員で入る」
「しかし、方法が」
リアは、目に見えない遺構を見上げる。
白い扉。
ノエルとエリウスの原記録。
オルネの原記録。
俺に関する記録。
すべてが、透明な壁一枚の向こうにある。
黒い手帳へ、新たな表示が現れた。
『臨時通過審査を開始しますか』
実行する。
そう念じると、透明な壁へ巨大な文字が浮かんだ。
『未承認存在――四名』
『ノエル・ハース』
『エリウス・ハーン』
『ルカ・ハーン』
『神崎悠真』
その下へ、通過のための条件が現れる。
『遺構内部に存在する、三件以上の観測記録による存在保証が必要です』
「中にいる人間が、俺たちの存在を証明しなければならない?」
「先発調査班が内部にいる可能性があります」
リアが言った。
「ですが、彼らが私たちを知っているとは限りません」
少なくとも、俺たちには北部第七遺構の内部に知り合いはいない。
「行き止まりか?」
ノエルが言う。
「まだだ」
黒い手帳の文章が続いている。
『保証記録候補を検索しますか』
検索する。
透明な壁の向こう。
三つの反応が表示された。
一つ目。
『北部第七遺構・先発調査班記録』
『エリウス・ハーンに関する欠損を保持』
エリウスの仲間たちは、彼を忘れていても、一人分の空白を記録として持っている。
二つ目。
『第八補助人格・残留記録』
『神崎悠真に対する移動指示を保持』
銀髪の女神。
あるいは、第八補助人格が残した記録。
そして三つ目。
名前が表示されるまで、長い時間がかかった。
『北部第七遺構・最深部』
『白い扉の内側』
『第九接続者に関する原観測記録』
さらに、
『保証記録名――神崎悠真』
空気が止まった。
ノエルが、手帳の表示と俺の顔を交互に見る。
「ユーマの名前だよな?」
「ああ」
「お前自身の記録じゃないのか?」
「俺の手帳の記録なら、遺構の内側には存在しない」
表示は消えない。
『保証記録名――神崎悠真』
その下へ、状態が追加される。
『状態――保存中』
『外部応答――可能』
生存とは書かれていない。
人間とも。
人格とも。
原記録とも書かれていない。
ただ、白い扉の向こうに、神崎悠真という名前を持つ何かが保存されている。
突然、透明な壁の向こうから、声が聞こえた。
俺と同じ声だった。
『臨時通過審査を受理』
続いて。
『神崎悠真を、保証対象として承認しません』
「なぜだ!」
俺が壁へ叫ぶ。
短い沈黙。
同じ声が答えた。
『その名前は、すでに使用されています』
透明な壁へ、一人分の手形が浮かび上がった。
内側から、俺と同じ大きさの手が、壁へ触れている。
『現在人格――神崎悠真』
『白い扉へ到達する前に、その名前を返却してください』




