第十章 ~忘れられる権利~
黒い雨が、第一オルネの屋根を濡らしていた。
窓の向こうでは、家族の名前を呼びながら走る男がいる。
しかし、口から出る名前は途中で別人のものへ変わり、最後には自分が誰を探していたのかさえ分からなくなっていた。
俺の前には、十二歳のハルムがいる。
現在の第四オルネでは六十八歳の村長となり、自分と孫を含む村人全員の完全消去を望んでいる男。
だが、第一オルネを生きる少年は、涙を流しながら言った。
「僕は、死にたくない」
同じ名前。
似た記憶の起点。
それでも、生きた人生が違えば、願いも変わる。
俺は黒い手帳へ二つの文章を並べた。
『第一オルネのハルムは、生存を望んでいる』
『第四オルネのハルムは、第五オルネの再構築を阻止するため、自身と村の完全消去を望んでいる』
その下へ、銀色の問いが現れる。
『両人格の意思を統合しますか』
「しない」
迷わず答えた。
『同一人物に、矛盾する意思が存在します』
「人間は、置かれた場所によって答えが変わる」
十二歳の少年と、六十八歳の老人では、経験したものが違う。
守りたい相手も。
知っている苦痛も。
背負っている責任も違う。
同じ人間から続く人格だったとしても、同じ答えを出す義務はない。
「二人とも別々に残す」
『第一オルネのハルムを、独立記録として外部化しますか』
「ああ」
黒い手帳から文字が浮かび上がり、一冊の薄い本へ形を変えた。
表紙に記された題名は、
『第一オルネのハルム』
少年は、恐る恐る本へ触れた。
「僕が、この中に入るの?」
「君が生きた記録を残す」
「僕は、どうなるの」
すぐには答えられなかった。
人格を外部記録へ変えれば、戻り木の中で同じ最期を繰り返している意識は終わる。
それを生き続けるとは言えない。
身体を得て目覚めるわけでもない。
ただ、完全に消えるわけでもなかった。
誰かが本を開けば、ハルムの声を知ることができる。
黒い雨が降った日に、死にたくないと願った少年がいたことを、未来のハルムも知ることができる。
「眠ることに近いと思う」
「また起きられる?」
「本を読んだ人の中で、君の人生は思い出される」
「それは、僕なの?」
「分からない」
嘘は言えなかった。
ハルムは俯き、床へ落ちる黒い雨の影を見つめた。
「怖い」
「そうだな」
「未来の僕は、怖くないの?」
「怖いと思う」
「それでも、死にたいと言ったの?」
「自分より大切な人ができたからだ」
ハルムは窓へ近づき、黒い雨が入らないよう木の板を閉めた。
「その人を助けるため?」
「ああ」
「僕も、いつかそうなる?」
「それも、今の俺には分からない」
「分からないことばかりだね」
「悪い」
少年は少し考えた後、黒い本を両腕で抱いた。
「未来の僕に渡して」
「何を伝えたい?」
「僕は生きたかったって」
黒い手帳へ、最後の文章を記す。
『第一オルネのハルムは、第四オルネの自分に、生きたいと願っていたことを知ってほしい』
記録が完成すると、部屋が白い光へ包まれた。
少年の身体が、少しずつ薄くなる。
「記録係さん」
消える直前、ハルムが俺を呼んだ。
「未来の僕が、死にたいと言っても」
「ああ」
「僕のことを、嘘にしないで」
「約束する」
少年の姿が消えた。
黒い雨も。
家も。
第一オルネも消える。
俺の手元には、一冊の本だけが残った。
『外部記録化――完了』
『第五案・処理済み人格――』
『未処理人格――九百三十五』
まだ、一人目だった。
次の人格へ接続しようとしたとき、胸の奥から声が聞こえた。
『ユーマ』
ノエルの声だった。
姿は見えない。
俺たちは、それぞれ別の人格記録へ入っている。
それでも、分散された《記録》を通じて、声だけは共有できるらしい。
「聞こえてる」
『本当に?』
「ああ」
『よかった。俺、ものすごく変な場所にいる』
「全員、似たような状態だと思う」
『それもそうか』
口調は普段と変わらない。
しかし、声の奥には、はっきりとした動揺があった。
「何があった」
短い沈黙。
『記録されたくないと言われた』
「誰に?」
ノエルが接続したのは、第二オルネの少女だった。
名前はエルナ。
十一歳。
第二オルネが滅びた夜、地下から黒い霧が湧いた。
霧の中で、エルナは母親の姿を見た。
本当の母親は、少女が生まれた直後に亡くなっている。
顔を覚えていない。
声も知らない。
それでも霧は、エルナが最も会いたいと願った母親を作り出した。
少女は差し出された手を握り、地下の奥へ歩いた。
そこで、何度も溺れた。
地下に水はなかった。
それでも人格記録の中で、エルナは呼吸のできない苦痛を繰り返している。
一度の死ではない。
何十年、何百年という時間を、母親へ手を伸ばしながら溺れ続けていた。
『本にしたら、誰かに読まれるんだろ』
「そうなる」
『読まれるたびに、あの子がいたことを誰かが思い出す』
「ああ」
『エルナは、それが嫌だと言ってる』
俺たちがしているのは、忘れられた存在を残すことだ。
名前を呼び。
人生を記録し。
誰にも知られないまま消えることを防ぐ。
それが正しいと思っていた。
だが、記録されること自体が苦しみになる人間もいる。
「ノエルは、何と答えた?」
『いつか、覚えていてほしいと思う日が来るかもしれないって言った』
「エルナは?」
『怒った』
当然だった。
未来の可能性を理由に、現在の願いを否定している。
過去のYUMAが、オルネへ行ったことと同じだ。
今度こそ救えるかもしれない。
次の人生では、苦しまないかもしれない。
その希望を理由に、今の苦痛を続けさせた。
『俺、間違えたか?』
ノエルは、誰にも覚えられず消える恐怖を知っている。
俺が記録しなければ、ノエル・ハースは最初から存在しなかったことになっていた。
だからこそ、自ら忘れられることを望む相手を、簡単には理解できないのだろう。
「エルナは、何を望んでる?」
『全部消してほしいと言ってる』
「名前も?」
『名前も』
「母親に会いたかったことも、霧の中で溺れたことも?」
『全部』
喉の奥が苦しくなった。
一人の人生を、自分たちの手で完全に消す。
その後には、本も、名前も、思い出も残らない。
「なら、記録しない」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。
それでも、俺が残したいからという理由で、本人へ永遠の記録を強いることはできない。
「ただし、もう一度だけ確認してくれ」
『説得するのか?』
「違う。消去した後は、誰にも取り戻せない。それを理解した上での選択か、確認する」
『答えが変わらなかったら?』
俺は一度、息を吸った。
「エルナを消去する」
ノエルの返事は、すぐには来なかった。
『分かった』
接続が途切れる。
黒い手帳へ、第五案の新しい条件が現れた。
『第五案――第二原則』
『保存人格は、記録されないことを選択できる』
『本人が不可逆性を理解し、明確に完全消去を望んだ場合、その意思を優先する』
忘れられない権利がある。
同時に、忘れられる権利もある。
誰もが、自分の人生を永遠に残したいと願っているわけではない。
俺たちは、人格記録の中で六日間を過ごした。
外のオルネでは、七時間ほどしか経過していない。
一人ずつ。
名前を聞き。
人生を聞き。
最後に、本人が何を望んでいるのかを確認した。
一冊の本になることを選んだ者。
完全な消去を望んだ者。
現在の自分へ、一部の記憶だけを渡したい者。
今の自分と直接話すことを希望した者。
誰にも開けられない箱の中で、眠り続けたい者。
結論を出さず、保留を求めた者。
同じオルネで生きていても、答えは一人ずつ異なっていた。
ガルドは、第一オルネの猟師と話した。
男は黒い雨で正気を失い、自分の息子を獣だと思って矢を放った。
「息子の記録だけを残してくれ」
猟師は頼んだ。
「俺のことは消してほしい」
ガルドは、すぐには同意しなかった。
「お前を消せば、息子が誰に愛されていたのかも分からなくなる」
「俺が殺した」
「殺す前に育てたのも、お前だ」
「罪を軽くするつもりか」
「違う」
ガルドは静かに答えた。
「最後の罪だけで、お前が生きたすべてを決めるなと言っている」
男が息子へ弓を教えた日。
初めて二人で獲物を仕留めた夜。
風邪を引いた息子を背負い、吹雪の中を治癒師の家まで走ったこと。
そして最後に、黒い雨の中で息子を殺したこと。
良い部分だけを残さない。
罪だけで人間を定義することもしない。
すべてを、一冊の記録へ残した。
『第五案――第三原則』
『人格記録を、本人または他者にとって都合のよい内容へ改変しない』
『罪、善意、後悔を含め、一つの人生として保存する』
ミレナは、第二オルネの神官と出会った。
その神官は、地下の霧の中で聞こえた声を神の啓示だと信じた。
村人たちを霧の奥へ導き、多くの人間を死なせた。
彼女は、自分の完全消去を望んだ。
罰を受けたいからではない。
「私の言葉が残れば、また誰かが信じるかもしれません」
自分が信じた誤った教えを、未来へ残さないためだった。
ミレナは尋ねた。
「あなたは、今もあの声を神の言葉だと思っていますか」
「いいえ」
「では、間違えたことを記録へ残せませんか」
「間違いを?」
「人は、自分が神の言葉だと信じたものさえ、誤ることがあると」
神官は長い間泣いた。
そして、自分の教えそのものではなく、なぜ信じ、どのように間違いへ気づいたのかを本へ残した。
正しかった言葉ではない。
間違いを認めた人間の記録だった。
セフは、第三オルネの研究者と出会った。
男は、人格を知識と記憶の集合だと考えていた。
「現在の私へ、すべてを統合してほしい」
研究者は迷わず言った。
「知識も、感情も、失敗も、現在の私へ渡してください」
「現在のあなたが拒否した場合は?」
セフが尋ねる。
「同じ私だ。拒否するはずがない」
「異なる人生を生きれば、異なる意思を持つ可能性があります」
「同一人格だぞ」
「同一人物から分かれたからといって、同じ答えを出すとは限りません」
以前のセフなら、記憶と知識を完全に統合すれば、より完全な人格になると考えたかもしれない。
しかし、今の彼は違った。
「統合には、双方の同意が必要です」
過去の人格。
現在の人格。
一方が望むだけでは混ぜない。
『第五案――第四原則』
『人格統合には、保存人格と現在人格、双方の明確な同意を必要とする』
『一方の意思による強制統合を禁止する』
リアは、第一オルネの記録官と出会った。
名はイーゼ・ラト。
白髪の女性で、村が黒い雨へ覆われる中、一人で住民名簿を書き続けていた。
「一人でも名前を残せば、次の世界で探せると思いました」
イーゼは言った。
「あなたと同じです」
リアが答えると、記録官は首を横へ振った。
「あなたのほうが、私より先を見ています」
「私は、あなたほど強くありません」
「書く者は、強くなくても構いません」
「では、何が必要なのですか」
「最後まで、席を立たないことです」
机の上には、三百十二人分の名簿があった。
ただし、一番下の欄だけが空白になっている。
「誰の名前ですか」
リアが尋ねると、イーゼは困ったように笑った。
「私です」
他人の名前を優先し、自分の名を書く前に第一オルネは終わった。
リアは名簿の最後へ、丁寧な文字で名前を記した。
『イーゼ・ラト』
その瞬間、記録官の部屋へ別の景色が重なった。
白い空間。
無数の光る文字。
中央には、一人の人物が立っている。
神崎悠真とよく似た輪郭。
だが、瞳には感情が見えない。
過去の第九管理人格YUMAと考えられる人物は、戻り木の構造図を見ながら告げた。
『これは再生装置ではありません』
『判断保留領域です』
リアは、その言葉を一字も違えないよう白い本へ記した。
戻り木の本来の役割。
それは、住民を何度も作り直すことではなかった。
世界が崩壊したとき。
消すのか。
別の場所へ移すのか。
記録へ変えるのか。
本人の意思を確認できない人格を、一時的に保留するための場所だった。
「では、なぜオルネは繰り返されたのですか」
リアが尋ねる。
過去のYUMAは答えない。
記録映像だからではない。
その問いに対する答えが、最初から残されていなかった。
ただし、構造図の端には別の筆跡で一文が書き足されていた。
『保留期間が規定値を超えた場合、保存人格を自動再構築する』
YUMAの文字ではない。
文章の横には、一つの印が刻まれていた。
『複』
複製官。
戻り木の機能は、後から書き換えられていた。
判断が決まるまで人を守る場所を、終わりなく人々を作り直す装置へ変えたのだ。
ノエルは、第二オルネのエルナと、もう一度話した。
「完全に消したら、誰も君のことを思い出せない」
「うん」
「名前も残らない」
「うん」
「お母さんに会いたかったことも?」
「残さないで」
「俺と今、話したことも?」
少女は少しだけ迷った。
それでも、最後には頷いた。
「全部」
ノエルは、黒い手帳を開いた。
人生を記録するためではない。
消去の意思が、本当にエルナ自身のものなのかを確認するため。
『第二オルネ――エルナ』
『完全消去を希望』
「怖い?」
ノエルが尋ねた。
「怖い」
「俺も、消えるのが怖かった」
「それなら、どうして消してくれるの?」
「君は、俺じゃないから」
ノエルは泣きながら笑った。
「俺が怖かったからって、君も同じことを怖がらなきゃいけない理由はない」
少女は初めて笑った。
「ありがとう」
「忘れるのに?」
「最後に、私へ聞いてくれたから」
ノエルは消去を実行した。
エルナという名前も。
母親へ会いたかった願いも。
霧の中で溺れ続けた苦痛も。
すべてが消えた。
本は残らない。
記録も残らない。
ノエルの中にさえ、少女の名前は残らなかった。
人格領域から戻ったノエルは、理由が分からないまま泣いていた。
胸の中に、誰かを失った形だけの空白がある。
それでも、俺たちは、その理由を記録しなかった。
彼女が、残さないことを望んだからだ。
人格記録の処理数が九百を超えた。
戻り木に実っていた黒い果実は、ほとんど姿を消していた。
人格は、それぞれが選んだ形へ変わっている。
本。
手紙。
石板。
声を閉じ込めた小瓶。
誰にも開けられない箱。
現在の人格との対話を待つ扉。
そして、何も残されなかった空白。
すべてを本へ統一しなかった。
本人が望んだ形で。
本人が残してよいと認めた範囲だけを保存した。
その頃、外の第四オルネでは、ルカが無数のエリウスに囲まれていた。
複製官が作り出した父親たち。
同じ顔。
同じ声。
同じ記憶。
全員がルカを見つめ、同じ言葉を繰り返している。
「お父さんが守る」
「第五オルネなら生きられる」
「怖くない」
「お父さんを信じなさい」
一人。
十人。
百人。
同じ父親たちに囲まれ、ルカは耳を塞いでいた。
どれが本物なのか分からない。
全員が、ルカの生まれた日を知っている。
初めて歩いた日も。
熱を出した夜も。
母親の最期の言葉も知っている。
記憶だけでは区別できない。
複製官の白い仮面が、少女を見下ろす。
「全個体が同一記録を保持しています」
「すべて、あなたの父親です」
「違う」
ルカは木彫りの馬を胸へ抱いた。
「記録上の差異はありません」
「違う!」
少女は、父親たちへ叫んだ。
「私は、第五オルネへ行きたくない!」
百人のエリウスが同時に答える。
「今は理解できないだけだ」
「大人になれば分かる」
「生きていれば考えが変わる」
「お父さんの判断が正しい」
全員が、同じ言葉でルカの意思を否定した。
ただ一人、最初に戻り木へ入り、第五オルネを作り始めた本来のエリウスだけは、何も言わなかった。
唇を噛み、娘を見つめている。
「お父さん」
ルカが、その一人を見た。
「私の話を聞いて」
エリウスの身体が震える。
「聞いたら」
掠れた声だった。
「第五オルネを作れなくなる」
「それでも聞いて」
複製された父親たちは、同じ言葉を繰り返している。
説得し。
守ろうとし。
自分が正しいと主張している。
本来のエリウスだけが、娘の言葉を聞いたことで変わろうとしていた。
「私は死にたくない」
ルカは言った。
「でも、ずっと同じ村で生きたくない」
「お父さんと一緒にいたい。でも、私の代わりに全部決めるお父さんは嫌い」
エリウスは目を閉じた。
「私は、どうすればいいか分からない」
「うん」
父親は、初めて自分の答えを押しつけずに言った。
「お父さんも、分からない」
複製されたエリウスたちの動きが止まった。
同じ記憶を持っている。
同じ父親として作られている。
それでも、今この瞬間、娘の言葉を聞いて答えを変えたのは一人だけだった。
黒い手帳へ、第五案の新しい条件が加わる。
『第五案――第五原則』
『人格の同一性は、過去の記録のみでは確定しない』
『現在の経験および選択によって、人格記録は更新される』
人間は、過去の情報を集めただけの存在ではない。
今、誰の言葉を聞いたか。
その言葉を受けて、何を考えたか。
次に何を選んだか。
そのたびに、過去の自分とは異なる人間になっていく。
九百三十五人目の処理が完了した。
残り一人。
俺たちは、戻り木の内部へ集まった。
人格領域の時間では六日。
誰もが疲れ切っていた。
ガルドは、子供を殺した猟師たちの後悔を記録した。
ミレナは、信仰によって人を救い、同じ信仰によって人を死なせた神官たちの言葉を聞いた。
セフは、自分の理論を証明するため、村を危険へさらした研究者たちと向き合った。
リアは、歴代の記録官が最後まで書けなかった名前を、一人ずつ名簿へ加えた。
ノエルは、自ら忘れられることを選んだ人々を見送った。
そして俺は、生きたいと願う人間と、消えたいと願う人間、その両方を記録した。
「これが最後か」
ノエルが、枝へ残された一つの黒い実を見上げる。
ほかの実より大きい。
人間の頭ほどの大きさがある。
表面には名前が記されていない。
「割り当てられた九百三十六人格は、すべて処理したはずです」
リアが白い本を確認する。
セフも黒い手帳に残された数を計算した。
外部化。
消去。
統合待ち。
対話保留。
すべてを合わせれば、未処理人格はゼロになる。
それでも、黒い実が一つ残っている。
俺は《記録》を使った。
『未登録保存情報』
「村人ではない」
さらに調べる。
『管理権限により、保存容量の計算から除外されています』
管理する側の情報。
俺と同じ。
だから、九百三十六という保存上限には含まれていなかった。
「誰が入っている」
接続を要求する。
黒い実が、心臓のように脈打った。
一度。
二度。
黒い表面に、銀色の文字が浮かび上がる。
『第九管理人格――分離記録』
続いて。
『項目――救済保留』
「救済保留?」
過去の第九管理人格YUMA。
多くの場所と人間を記録し、守るか、終わらせるかを判断していた存在。
その人格から、一つの判断だけが切り離され、戻り木へ保存されている。
誰も消したくない。
全員を救いたい。
今の方法で失敗しても、次の世界を作ればよい。
次も失敗したなら、さらに次を作ればよい。
全員を救える答えへたどり着くまで、終わらせてはならない。
その願いだけが、黒い実の中へ残されていた。
だから、過去のYUMAは優しかった。
だからこそ、オルネを三度苦しませた。
「これが、戻り木を止めているのですか」
リアが尋ねた。
「逆だ」
俺は実へ刻まれた記録を読む。
「これが、戻り木を止めなかった」
消す決断を拒み。
誰かが苦しんでいても、次こそ救えると信じ。
何度でも村を再構築した。
複製官は、戻り木の保留機能へ自動再構築を加えた。
だが、その命令を受け入れ、止めなかった根本の理由は、過去の俺自身にある。
『全人格の救済が完了するまで、処理終了を承認しない』
黒い実に刻まれた命令。
「これを外せば、戻り木は本来の判断保留領域へ戻る」
セフが言った。
「圧縮も、自動再構築も停止するはずです」
「第四オルネの皆さんは、現在の人格のまま残れるのですか」
ミレナが尋ねる。
手帳へ確認する。
『可能です』
第五案は成立する。
過去の人格を、それぞれ本人が望んだ形へ移す。
現在の第四オルネ住民は、今の身体と人格を維持する。
戻り木は本来の保留施設へ戻り、第五以降の村も作られない。
「なら、これも外部記録へ変えればいい」
ノエルが言った。
「簡単ではありません」
リアの声が硬くなる。
黒い実へ、新しい表示が現れた。
『当該情報は、第九管理人格の人格構成要素です』
誰も見捨てられない。
誰かが消えることを受け入れられない。
それは、今の俺にもある。
ノエルを救った。
マレイとリナを置き去りにできなかった。
エリウスの鞄を捨てなかった。
オルネ村の完全消去を、何も知らないまま選ぶことができなかった。
過去のYUMAから分離された判断は、今の神崎悠真にもつながっている。
『外部化による影響を表示しますか』
「表示してくれ」
『神崎悠真の救済判断が低下します』
「具体的には?」
『他者の消失に対する心理的抵抗が低下します』
『少数の消去によって多数を保存できる状況において、消去を選択しやすくなります』
誰かを切り捨てられるようになる。
世界全体を守るために、少数を迷わず消せるようになる。
管理者としては、そのほうが正しいのかもしれない。
一人を救うために世界全体を危険へさらす判断を、しなくて済む。
「外せば、オルネを救える」
ガルドが言った。
「だが、お前は変わる」
「外さなければ、第五案は完成しません」
セフが続ける。
第四オルネの住民は圧縮される。
エリウスと複製官は、第五、第六と新しい村を作り続ける。
最後の一人は、オルネの村人ではなかった。
俺自身だった。
第五案を完成させるために、世界が要求した最後の選択。
三百十二人の現在を救う代わりに。
神崎悠真から、誰も見捨てたくないと願う心を切り離す。
その結果として残る人間を。
今と同じ神崎悠真と呼べるのか。
俺には、分からなかった。




