表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/13

第九章 ~白紙の第五案~

『第五案』


黒い手帳の新しいページには、その三文字だけが記されていた。


その下は、白紙のままだった。


すでに四つの案がある。


第一案は、終端。


第四オルネも、戻り木に保存された過去三回分の人格も、すべて消去する。第五オルネを作らず、苦しみをここで完全に終わらせる方法。


第二案は、圧縮。


過去三回分の人格を現在の住民へ押し込み、九百三十六人分の記録を三百十二人の身体へまとめる。全記録は残るが、現在の人格が壊れる可能性が極めて高い。


第三案は、再構築。


第四オルネを一度終了し、住民を第五オルネへ移す。過去の記憶を整理して新しい人生を始める方法だが、過去の俺は同じ方法を三度選び、三度失敗している。


第四案は、選択複製。


生き続ける対象だけを複製し、新しいオルネへ移す。それ以外の者は現在の村と共に終わらせる方法。


ただし、誰を複製するかを決めるのは、本人ではない。


親。


村の代表者。


あるいは、第九管理人格。


四案の違いは明確だった。


同時に、根にある問題は同じだった。


人の人生を、本人以外の誰かが決める。


「二十三時間五十一分」


セフが黒い手帳の表示を確認した。


俺たちが立っているのは、戻り木の内部に広がる人格記録領域だった。


星のない暗闇の中へ、巨大な枝に似た道が伸びている。


第一オルネ。


第二オルネ。


第三オルネ。


現在の第四オルネ。


そして、複製官とエリウスによって作られつつある第五オルネ。


五本目の枝の先には、同じ形をした家が幾つも並び始めていた。


白い壁。


赤い屋根。


小さな畑。


木製の柵。


ルカが生まれた家。


初めて歩いた家。


熱を出した夜を過ごした家。


母親を失った後、父親と二人で生きると約束した家。


実際には一つしかなかったはずの家を、エリウスは記憶の数だけ複製しようとしている。


「第五案の内容は、まだ決まらないのですか」


エリウスが尋ねた。


彼の手には、俺のものとよく似た黒い手帳がある。


表紙に刻まれているのは、閉じた本ではない。同じ家が無数に並ぶ紋章だった。


「決めるための情報がない」


「時間もありません」


「だから、全員へ聞く」


「第四オルネの総意は、すでに決まっています」


「ルカには聞いていなかった」


エリウスの視線が揺れる。


「ほかにも、家族や周囲に合わせて、本当の願いを話していない人がいるかもしれない」


「三百十二名です」


リアが白い本を開き、人数と残り時間を記録する。


「一人につき三分でも、十五時間以上必要です」


「三分で人生の最後を決めるつもりはない」


「そういう意味ではありません」


「分かってる。でも、人数が多いからといって、まとめて扱うことはできない」


世界を管理する立場から見れば、三百十二人は一つの村なのかもしれない。


九百三十六人格は、戻り木に保存された情報量なのかもしれない。


だが、その中には三百十二の名前があり、一人につき三つの異なる人生がある。


同じ名前でも。


同じ顔でも。


生きた時間が違えば、望むものも違う。


「全員に聞く」


俺は第五案のページへ記録した。


『第五案作成のため、第四オルネ住民全員の意思を確認する』


文字が定着する。


続いて。


『対象人数――三百十二名』


『過去人格を含む場合――千二百四十八人格』


現在の住民だけではない。


戻り木に保存された者たちも、それぞれ考える意識を持っている可能性がある。


第五案を作るには、過去の人格についても確認しなければならない。


「千人以上へ聞くつもりですか」


エリウスは呆れたように言った。


「その間に第四オルネは終わります」


「この場所では、時間の流れが違う」


表示されている残り時間は、先ほどから一秒も減っていない。


「戻り木の外へ出て、確かめる」


ガルドが頷いた。


「ここで時間が止まっているとは限らん。外へ戻った瞬間、処理が進む可能性もある」


「エリウス」


俺は五本目の枝に立つ父親を見る。


「戻ってくるまで、第五オルネの構築を止めてくれ」


「断ります」


予想していた答えだった。


「娘が消える可能性がある以上、私は止まりません」


「ルカ本人が嫌だと言っても?」


「子供は、自分が何を失うか理解していません」


「理解していないことと、意思がないことは同じじゃない」


エリウスは何も答えなかった。


その背後では、複製官の白い仮面が俺たちを見下ろしている。


「第九管理人格の判断を継続観測します」


「見ているだけか」


「必要に応じ、選択肢を提供します」


「人間を四つの処理へ押し込むことを、選択肢とは呼ばない」


複製官は反論しなかった。


俺たちは戻り木の外へ出た。


外へ戻っても、太陽はほとんど動いていなかった。


内部では一時間近く話していた感覚がある。


しかし、黒い手帳の残り時間は三分しか減っていない。


『第四オルネ圧縮処理まで――二十三時間四十八分』


「内部では、外の約二十分の一の速度で時間が流れています」


セフが計算した。


「なら、聞き取りに使える」


ノエルは丘の下へ集まる村人たちを見た。


老人。


農夫。


薬師。


猟師。


子供。


三百十二人が、俺たちの帰りを待っている。


俺たちが戻ったことに気づいても、誰も声を上げなかった。


彼らが待っているのは、管理者による決定なのだろう。


消去するのか。


圧縮するのか。


新しい村を作るのか。


誰を複製するのか。


誰かが自分たちの代わりに決めてくれることを、長い間待ってきた。


「一人ずつ話を聞きたい」


俺が告げると、住民たちの間へ小さなどよめきが広がった。


エッダが前へ出る。


「必要ございません。私どもの意思は、すでにお伝えしております」


「ルカの意思は確認していなかった」


「ルカは、まだ子供です」


「子供なら、自分の未来を決める話から外していいのか」


エッダは答えなかった。


「ほかにも、聞かれていない人がいるかもしれない」


「村人全員で話し合いました」


「話し合いの中で、生きたいと言える雰囲気だったか?」


村全体の総意が、完全消去。


その中で一人だけ生きたいと言えば、苦しみを終わらせたい家族を裏切ることになる。


反対に、自分だけ終わりたいと言えば、生きたい家族を置いていくことになる。


命令されなくても、人は周囲の答えへ合わせる。


それを、本人の同意とは呼べない。


「俺は管理者として、命令を聞きに来たんじゃない」


三百十二人を見渡す。


「神崎悠真として、話を聞きたい」


今の俺は正しい答えを知らない。


過去の俺が何を失敗したのかも、すべては分からない。


それでも、誰かを処理する前に、その人の言葉を聞くことはできる。


広場へ机と椅子が運ばれた。


全員の話を俺一人で聞けば時間がかかるため、六人で分担する。


ガルドは、農夫、猟師、職人など、普段から身体を使う仕事をしている者。


ミレナは、病人、老人、身体に過去の傷が強く残っている者。


セフは、異なる人生の記憶が混ざり、自分が誰か分からなくなり始めている者。


リアは、村の記録係や、複数の名前を持つ者。


ノエルは、子供たち。


俺は全体を回り、最終的に本人が語った意思を黒い手帳へ残す。


聞き取りを始める前に、俺は全員へ伝えた。


「何を選んでも責めない」


生きたい。


終わりたい。


分からない。


家族と違う答えでもいい。


「ほかの人に合わせる必要はありません。今すぐ決められない場合は、決められないと話してください」


広場の後方で、誰かが小さく息を呑んだ。


最初に椅子へ座ったのは、村長のハルムだった。


六十八歳。


左手の指が一本なく、三つのオルネで負った異なる傷が一つの身体へ重なっている。


「私は、第一案を望みます」


「終端。完全消去か」


「はい」


声には迷いがなかった。


少なくとも、表面上は。


「理由を聞かせてくれ」


「過去三回分の死を覚えております」


第一オルネでは、火事。


第二では、妻の姿をした亡霊を追い、黒い霧の中へ入った。


第三では、第九管理人格YUMAによる消去処理。


異なる三度の人生と、異なる三度の死。


「第四の人生には、孫がおります」


広場の端に、八歳ほどの少年が立っていた。


ハルムと似た色の瞳。


祖父の話を聞き、不安そうに服の裾を握っている。


「孫も一緒に消えてほしい?」


ハルムの喉が動いた。


長い沈黙の後、掠れた声が返る。


「はい」


「なぜ?」


「私だけが消えれば、あの子は残されます」


「村全体を終わらせる必要は?」


「誰か一人でも保存を望めば、その者を核として、戻り木は新しいオルネを作ります」


「エリウスがルカのためにしているように?」


「はい」


ハルムは膝の上で、両手を強く握った。


「孫を五度目の苦しみへ送ることはできません」


「本当は、生きていてほしい?」


老人の顔が大きく歪んだ。


「その質問を、しないでいただきたい」


「答えなくていい」


「私は、完全消去を望んでおります」


嘘ではない。


俺は彼の言葉を記録した。


『ハルムは、第四オルネの完全消去を望んでいる』


『第五オルネの再構築によって、孫が同じ苦しみを経験することを防ぎたいと考えている』


文字の下へ、銀色の表示が加わる。


『感情情報に矛盾を確認』


「ハルム」


老人が顔を上げる。


「孫に生きてほしいと思うことと、孫を次の村へ送らないために消去を選ぶことは、どちらかが嘘なわけじゃない」


俺はもう一つ記録を加えた。


『ハルムは、孫の生存を望んでいる』


『同時に、孫が苦しみを繰り返す未来を拒否している』


『二つの願いは、本人の中で両立している』


ハルムは目を閉じ、長く息を吐いた。


答えを一つへ決められなかった自分を、責められると思っていたのかもしれない。


「次の方を」


俺が呼ぶと、三つの名札を持つ女性が椅子へ座った。


薬師のサナ。


机へ、三枚の木札を並べる。


『サナ』


『リィナ』


『アナト』


「私は、どの案を望むか分かりません」


村の代表者でありながら、完全消去を選びきれていない。


「第一の私は、夫を殺しました」


黒い雨が降った夜。


夫は、サナの知らない女性の名を呼び続けた。


サナを妻だと認識できなくなり、別の人生を生きていると思い込んだ。


恐怖と混乱の中で、サナは刃物を取った。


「第二では、夫に殺されました」


今度はサナ自身が黒い霧へ魅せられた。


彼女を止めようとした夫と揉み合いになり、首を絞められた。


「第三では、夫は生まれませんでした」


それでも、サナは存在しない夫を探した。


村にいる男へ、知り合いではないかと尋ねた。


名前も分からない誰かを思い出し、理由も分からず泣いた。


「現在の夫は?」


サナは広場の後方を見た。


片脚を引きずる男性が、心配そうに彼女を見ている。


「おります」


「愛している?」


サナは微笑んだ。


「どの夫を、と尋ねられれば答えられません」


「今の夫を」


「愛していると思います」


愛している、ではないと思う。


三つの人生の感情が混ざり、どの思いが現在の自分から生まれたものなのか、本人にも分からない。


「第一案を選べば、すべて終わります」


「生きたいとは思わない?」


「明日の圧縮が始まれば、私は四人になります」


サナ。


リィナ。


アナト。


現在のサナ。


「どの私が残るのか分かりません」


「四人すべてが残るかもしれない」


「それは、私なのでしょうか」


答えられなかった。


俺も、自分の中へ過去のYUMAが戻ったとき、今の神崎悠真でいられるのか分からない。


「私は死にたいのではありません」


サナは三枚の名札を握った。


「自分ではなくなることが、怖いのです」


記録する。


『サナは、死そのものを望んでいない』


『第二案によって、現在の人格が失われることを恐れている』


『現在の人格を維持できる方法があるなら、生存を望む可能性がある』


文字が現れた瞬間、丘の上の戻り木で黒い実が一つ光った。


「木が反応しました」


セフが立ち上がる。


光る実の内側に、四つの小さな影が見えた。


異なる年齢。


異なる服。


同じ顔をした四人の女性。


「圧縮される前は、別々に保存されている」


リアが白い本へ記録する。


「現在のサナを含め、四人格がまだ分離されています」


「だったら、混ぜなくていいんじゃないか」


ノエルが言った。


「保存容量が足りないのです」


セフは戻り木を見上げる。


「第一から第三までの九百三十六人格で上限へ達しています。第四オルネの三百十二人格を追加するため、過去と現在を圧縮しようとしている」


「保存する場所を増やせばいい」


「簡単に言わないでください」


「別の場所に入れる」


「どこへ?」


ノエルは、俺の黒い手帳を指した。


「そこ」


「無理だ」


俺は即座に否定した。


黒糖パン一つを残すために、日本で暮らしていた部屋の記憶を失った。


ノエル一人のために、母親だと思っていた人物の顔と声を失った。


九百三十六人格を一冊へ入れれば、俺の中に何が残るのか分からない。


「一冊じゃなくてもいい」


ノエルは引かなかった。


「白紙鳥のとき、記録を分けただろ」


分散記録。


一つの場所へ、すべてを保存しない方法。


「過去の人格を、現在の住民へ分けるのか?」


セフが尋ねる。


「本人の中へ戻したら、圧縮と同じだろ」


ノエルはサナと、彼女の夫を見る。


「過去のサナが何を考え、どんな人生を生きたのかを、別の記録にする。今のサナは今のサナのまま生きる」


「過去の人格を、物語として保存する?」


リアが尋ねる。


「本でも、誰かの記憶でもいい。混ぜない。でも、消さない」


「人格そのものは失われます」


エッダが指摘した。


「意識を記録へ変えるのであれば、死と同じではございませんか」


「今も意識があるのか?」


ノエルが黒い実を見る。


「第一のエッダは、今も中で考えてる?」


エッダは答えられなかった。


記録なのか。


眠っている人格なのか。


人生最後の日を繰り返している人間なのか。


それを確認せず、記録へ変えることはできない。


「直接聞いてみる」


俺は光っている実へ向かった。


サナの黒い実へ触れる。


表面は冷たく、石に近い。


《記録》を発動する。


『保存人格への接続を要求』


しばらく反応がなかった。


やがて。


『第九管理権限を確認』


『接続対象を選択してください』


第一オルネのサナ。


第二オルネのリィナ。


第三オルネのアナト。


第四オルネのサナ。


「第一のサナ」


名前を選ぶ。


視界が暗くなった。


次に目を開けたとき、俺は見知らぬ家の中に立っていた。


窓の外では、黒い雨が降っている。


目の前には、若いサナが座っていた。


手には、血のついた包丁。


床には夫が倒れている。


「誰?」


サナが包丁を俺へ向けた。


「神崎悠真」


「知らない」


「ここがどこか分かる?」


「私の家です」


迷いのない答え。


「雨が降っている。夫が死んだ。私はここにいる」


彼女にとって、第一オルネの最後の夜は終わっていない。


何十年。


あるいは何百年。


夫を殺した直後の瞬間へ閉じ込められている。


「ここは戻り木の中だ」


「木?」


「第一オルネは、すでに終わっている」


サナは床へ倒れた夫を見る。


「終わった?」


「あなたの人格は、木に保存されている」


「私は生きている」


「そう感じる?」


「見れば分かるでしょう!」


包丁の先が震える。


「雨が降っている。夫が死んだ。私はここにいる!」


「外には、第四オルネがある」


「何を言っているの?」


「あなたと似た人が、別の人生を生きている」


「私の偽物?」


「分からない。でも、その人も自分を本物だと思っている」


「なら、会わせて」


「会えば、二人とも自分が誰か分からなくなる可能性がある」


「それを決めるのは、あなた?」


サナが俺を睨んだ。


「管理者だから?」


「俺は管理者じゃない」


「私たちを消した人と同じ顔をしている」


過去のYUMAは、第一のサナとも会っている。


「俺には、その記憶がない」


「それなら、何をしに来たの」


「あなたを消すか、別の記録として残すか。本人の意思を聞きに来た」


「私は消えたくない」


即答だった。


「この場所で、同じ夜を繰り返しても?」


「死ぬよりはいい」


「夫を殺した瞬間だけを、永遠に?」


サナの顔が歪んだ。


「ほかの時間はないの?」


「今の俺に見えるのは、ここだけだ」


「なら、増やして」


「何を?」


「夫を殺す前の記憶」


彼女の声が小さくなる。


「今朝、一緒に食事をした」


窓の外の黒い雨が、一瞬だけ止まった。


食卓に、二皿のスープが現れる。


死んでいるはずの夫が椅子へ座り、サナと話している。


サナが笑った。


光景はすぐに消え、血のついた夜へ戻る。


「その記憶も、木にあるはず」


「あると思う」


「なら、私は夫を殺した女だけじゃない」


サナは包丁を床へ置いた。


「私の人生を、最後の一場面だけで決めないで」


胸へ刺さる言葉だった。


省略官は、人間を不要な部分として消す。


圧縮官は、複数の人生を一つへまとめる。


複製官は、同じものをいくつも作る。


どれも、人を扱いやすい一つの形へ変えようとする。


だが、人間は最後の行動だけではない。


最悪の瞬間だけでもない。


最も幸せだった一日だけでもない。


「何を望む?」


俺が尋ねる。


「生きたい」


「身体はない」


「分かっています」


初めて、現在の状況を理解したようだった。


「それでも、私が生きたことを残してほしい」


「記録として?」


「誰かが読める形で」


「それは、生きることとは違う」


「分かっています」


サナは倒れた夫の隣へ膝をついた。


「でも、この夜だけを繰り返すよりはいい」


「消えるのは怖い?」


「怖い」


「それでも?」


「私が夫を殺した女としてだけ残らないなら」


彼女は俺を見る。


「ほかの私へ混ぜられず、私の人生として残るなら、記録してください」


黒い手帳が手の中へ現れた。


『第一オルネ――サナ』


名前。


年齢。


仕事。


好きだった料理。


嫌いだった季節。


夫と出会った日。


結婚を決めた理由。


喧嘩した朝。


仲直りした夜。


黒い雨。


最後に犯した行為。


すべてを残すことはできない。


本人さえ忘れている日がある。


言葉にできない感情もある。


それでも、彼女が残したいと望んだものを、一つずつ聞いて記録した。


「最後に一つ」


「何?」


「誰に読んでほしい?」


サナは考えた。


「今の私に」


「直接記憶へ入れれば、混乱するかもしれない」


「入れないでください」


「それなら?」


「本にしてください」


過去の自分を知りたくない日は、閉じておく。


向き合いたいと思ったときだけ、自分で開く。


現在の人格へ混ぜず。


過去の人生を消しもしない。


「それなら、今の私は」


第一のサナが微笑んだ。


「私を受け入れるか、自分で選べます」


周囲が白く染まる。


現実へ戻る直前、サナが言った。


「記録係さん」


「何?」


「次は、本人に選ばせてあげて」


戻り木の前へ戻る。


右手には、薄い黒い本があった。


表紙には、一つの名前。


『第一オルネのサナ』


「ユーマさん!」


ミレナたちが駆け寄る。


「どれくらい中にいた?」


「一時間くらい」


「こちらでは、十秒です」


人格記録の内部では、戻り木の中よりも、さらに時間が遅い。


俺は現在のサナへ本を渡した。


「第一のあなたの記録だ」


サナの手が震えた。


「話したのですか」


「ああ」


「私と?」


「あなたではない。でも、あなたと無関係でもない」


「読むように言われましたか」


「読みたいときに読んでほしいと」


サナは本を開こうとした。


だが、途中で手を止める。


「今、読まなければなりませんか」


「決めるのはあなたです」


サナは本を胸へ抱いた。


「では、今は読みません」


戻り木の黒い実が、一つ小さくなった。


手帳へ表示が現れる。


『保存人格の外部記録化に成功』


『戻り木使用容量を解放』


『解放量――一』


第五案の白紙へ、初めて具体的な内容が追加された。


『第五案――個別外部記録』


『本人が希望した人格を、独立した記録媒体へ移行する』


『現在人格への圧縮を行わない』


『記録を閲覧する時期および方法は、受取人の意思へ委ねる』


「第一案のように消さない」


リアが言う。


「第二案のように、現在人格へ混ぜない」


セフが続ける。


「第三案のように、新しい村へ作り直さない」


ミレナがサナの本を見る。


ノエルが笑った。


「第四案みたいに、勝手に複製もしない」


四つの案のどれでもない。


本人が、どの形で残りたいかを選ぶ。


その選択を、別の人格や管理者が代わりに決めない。


「第五案だ」


俺は呟いた。


ようやく、名前だけだった案に、最初の内容が入った。


ただし、第一のサナが本を選んだからといって、全員が同じ選択をするとは限らない。


完全に消えたい人格。


現在の自分と統合したい人格。


身体を得て、もう一度生きたい人格。


まだ決められない人格。


すべての答えを、同じ本へ変えれば、それも新しい圧縮になる。


「九百三十六人へ、全員同じ質問をする必要がある」


俺が言うと、ノエルの笑顔が固まった。


「残り時間は?」


『第四オルネ圧縮処理まで――二十三時間三十一分』


人格一人への接続は、外側では十秒ほど。


九百三十六人なら、三時間以内。


肉体の時間では間に合う。


だが、接続する側の感覚では一人につき一時間近い。


俺一人なら、四十日。


「俺が全員と話す」


「駄目だ」


ガルドが即座に否定した。


「外では間に合う」


「お前の中では四十日だ」


「接続できるのは、俺だけかもしれない」


黒い手帳が反応した。


『記録主体の共有が可能です』


五人の名前が現れる。


ガルド。


ミレナ。


セフ。


リア。


ノエル。


「分担できる」


「一人百五十六人格」


セフが計算した。


「精神時間では、約六日半です」


「休憩しながらなら」


ミレナが言う。


「外の時間では間に合うかもしれません」


リアは黒い実を見上げた。


一つの実の中で、誰かが人生最後の日を繰り返している。


そこへ入り、話を聞き、本人が選んだ形へ記録する。


六日間。


「俺もやる」


ノエルが言った。


「お前は暫定固定状態だ」


「だから?」


「精神への負荷で何が起きるか分からない」


「全員同じだろ」


「お前が消える可能性がある」


ノエルが俺の胸を指で突いた。


「俺を守るために、また一人で何かを失うつもりか?」


「そういうつもりじゃない」


「同じだ」


ノエルは俺から目を逸らさなかった。


「分散するって決めた」


ガルドが俺の肩へ手を置く。


「記録も」


ミレナが頷く。


「痛みも」


セフが眼鏡を押し上げる。


「判断も」


リアが白い本を閉じた。


「責任も、です」


五人とも、怖くないわけではない。


それでも、一人へすべてを背負わせる方法を、もう選ばないと決めている。


「六人でやる」


俺は黒い手帳へ記録した。


『神崎悠真は、オルネ人格記録作業を単独で行わない』


『ガルド・バルガス、ミレナ・フォース、セフ・アルノー、リア・エルセイン、ノエル・ハースと分担する』


文章は六人へ分散された。


その直後、戻り木の小さな扉が開いた。


内部から、半透明の少女が歩いてくる。


「ルカ!」


エッダが駆け寄り、孫を抱きしめようとする。


老婆の両腕は、少女の身体を通り抜けた。


「おばあちゃん」


ルカの声は聞こえる。


表情も見える。


それでも、現在の第四オルネへ完全には戻れていない。


手には、父親が作った木彫りの馬。


「お父さんを止めて」


「ルカ」


俺は少女と同じ高さへ膝をついた。


「君は、どうしたい?」


生きたいのか。


終わりたいのか。


第五オルネへ行きたいのか。


答えを誘導しないよう、選択肢を並べずに尋ねた。


ルカは長い間、何も言わなかった。


やがて、泣きながら首を横へ振る。


「分からない」


その答えを、俺は正しいと思った。


「死にたくない。でも、一人では生きたくない」


「うん」


「お父さんを消したくない。でも、今のお父さんは怖い」


「うん」


「分からないままでは、駄目?」


「駄目じゃない」


俺は答えた。


「決められないことも、一つの意思として記録する」


『ルカ・ハーンは、生存と消滅のどちらも選択できない』


『父親と共にいたいと望んでいる』


『第四案によって、一人だけ永遠に複製されることは望んでいない』


『自分が何を望むか考える時間を求めている』


記録が完成した瞬間、戻り木が大きく揺れた。


五本目の枝で作られていた家々の動きが止まる。


ルカ本人の意思と、エリウスが選んだ第四案が衝突している。


黒い実の一つへ亀裂が入った。


エリウスの声が村全体へ響く。


「ルカの記録を取り消してください」


「断る」


「娘は混乱しています」


「混乱していることも、今のルカの一部だ」


「その記録がある限り、第五オルネの構築が進まない!」


「なら、第四案を止めろ」


「止めれば、ルカは消える!」


「その前に第五案を完成させる!」


「また、その言葉ですか!」


戻り木の幹が割れた。


内部から白い腕が何本も伸びる。


すべて、エリウスと同じ腕だった。


白い腕が枝へ広がり、黒い実を次々と掴む。


『第四案の対象を変更』


黒い手帳へ警告が現れる。


『複製対象――保存人格九百三十六』


「エリウス!」


「本として残すなど、死と同じです!」


黒い実が枝から引きちぎられる。


地面へ落ちる前に白い光となり、五本目の枝へ吸い込まれた。


一つ。


二つ。


十。


「全員を複製するつもりか!」


「誰一人、記録だけにはしない!」


第一オルネ。


第二オルネ。


第三オルネ。


九百三十六人すべてを身体として作り、第五オルネへ移そうとしている。


村には、同じ顔をした人間が三人ずつ現れる。


異なる年齢。


異なる家族。


異なる記憶。


互いに矛盾する関係。


「第五オルネは、完成した瞬間に崩壊します」


リアの顔が青ざめる。


「同じ人物が、異なる家族関係と所有関係を持った状態で同時に存在できません」


「構わない!」


エリウスが叫んだ。


「崩壊すれば、第六を作る!」


五本目の枝の先に、小さな芽が現れる。


芽は急速に成長し、六本目の枝となった。


「失敗すれば第七を!」


七本目。


「第八を!」


八本目。


「全員が幸せに生きられる村が完成するまで、何度でも作り直す!」


九本目の枝が暗い空へ伸びた。


失敗するたびに複製し、新しい世界を作り。


再び失敗すれば、さらに次を作る。


誰もが幸福になる正しい形へ到達するまで、永遠に繰り返す。


それは、過去のYUMAがオルネへ行ったことと同じだった。


「人格記録を始める!」


俺は戻り木の扉へ走った。


ガルド。


ミレナ。


セフ。


リア。


ノエル。


五人も並ぶ。


「今からですか!」


「実を取られる前に、本人へ聞く!」


黒い手帳を開き、五人へ一時記録権限を共有する。


『一時記録者を設定』


『記録対象を均等分配します』


戻り木に残る実が、六色の光へ分かれた。


一人百五十六人格。


「全員の答えを持ち帰る」


生きたい者。


消えたい者。


本として残りたい者。


現在の自分と統合したい者。


まだ決められない者。


一人ずつ聞く。


同じ名前でも、同じ答えを求めない。


戻り木の奥に、複製官の白い仮面が浮かんだ。


「矛盾する要求を、同一世界で実現することはできません」


「同時じゃなくてもいい」


「世界は一つです」


「答えまで一つである必要はない」


「世界の一貫性を失います」


「人間は、最初から一貫してない」


ノエルが笑った。


「俺なんて金が欲しいのに、入ったらすぐ使うぞ」


「それは矛盾ではなく無計画です」


リアが冷静に訂正する。


「意味は同じだろ」


「大きく異なります」


普段どおりの言い争い。


その声が、これから何日分もの人生へ入る俺たちを、今の世界へつなぎ止めている。


「行くぞ」


六人が、それぞれの黒い実へ触れた。


目を開ける。


雪が降っていた。


俺の知るオルネとは違う村。


白い屋根。


凍った川。


その向こうから、黒い雨が近づいている。


目の前には、一人の少年が立っていた。


十二歳ほど。


左手の指が一本ない。


第一オルネのハルム。


まだ村長ではない、少年だった頃の人格。


「あなたは、未来から来たの?」


「未来とは、少し違う」


「僕たちは死ぬ?」


嘘はつけない。


「この世界は、今日終わる」


少年は俯いた。


小さな肩が震えている。


「僕は、死にたくない」


現在のハルムは、第一案を望んでいる。


第一オルネのハルムは、生きたいと願った。


同じ名前。


同じ人物から続いている可能性のある人格。


それでも、生きた人生が違えば答えも違う。


「分かった」


俺は黒い手帳を開く。


「その願いを記録する」


少年が顔を上げた。


「記録したら、生きられる?」


「約束はできない」


「じゃあ、何のために書くの?」


黒い雨が迫る。


屋根を濡らし。


人々の記憶を混ぜ始める。


「君が生きたいと言ったことを」


俺は答えた。


「未来の君が、なかったことにしないために」


少年は泣いた。


怖いから。


悔しいから。


生きたいから。


そのすべてを記録する。


『第一オルネ――ハルム』


『十二歳』


『消滅を望んでいない』


『世界が終わると知った後も、生存を望んでいる』


第五案のページへ、最初の原則が加わった。


『第五案――第一原則』


『同一人物から派生した人格であっても、異なる人生における意思を一つへ統合しない』


生きたいハルム。


終わりたいハルム。


孫を残したいハルム。


孫を苦しませたくないハルム。


どれか一つだけが本心なのではない。


すべてが、その人間の答えだった。


一つの名前に、一つの願いしか許さない世界を作らない。


それが、四つの案にはなかった。


第五案の始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ