第九章 ~白紙の第五案~
『第五案』
黒い手帳の新しいページには、その三文字だけが記されていた。
その下は、白紙のままだった。
すでに四つの案がある。
第一案は、終端。
第四オルネも、戻り木に保存された過去三回分の人格も、すべて消去する。第五オルネを作らず、苦しみをここで完全に終わらせる方法。
第二案は、圧縮。
過去三回分の人格を現在の住民へ押し込み、九百三十六人分の記録を三百十二人の身体へまとめる。全記録は残るが、現在の人格が壊れる可能性が極めて高い。
第三案は、再構築。
第四オルネを一度終了し、住民を第五オルネへ移す。過去の記憶を整理して新しい人生を始める方法だが、過去の俺は同じ方法を三度選び、三度失敗している。
第四案は、選択複製。
生き続ける対象だけを複製し、新しいオルネへ移す。それ以外の者は現在の村と共に終わらせる方法。
ただし、誰を複製するかを決めるのは、本人ではない。
親。
村の代表者。
あるいは、第九管理人格。
四案の違いは明確だった。
同時に、根にある問題は同じだった。
人の人生を、本人以外の誰かが決める。
「二十三時間五十一分」
セフが黒い手帳の表示を確認した。
俺たちが立っているのは、戻り木の内部に広がる人格記録領域だった。
星のない暗闇の中へ、巨大な枝に似た道が伸びている。
第一オルネ。
第二オルネ。
第三オルネ。
現在の第四オルネ。
そして、複製官とエリウスによって作られつつある第五オルネ。
五本目の枝の先には、同じ形をした家が幾つも並び始めていた。
白い壁。
赤い屋根。
小さな畑。
木製の柵。
ルカが生まれた家。
初めて歩いた家。
熱を出した夜を過ごした家。
母親を失った後、父親と二人で生きると約束した家。
実際には一つしかなかったはずの家を、エリウスは記憶の数だけ複製しようとしている。
「第五案の内容は、まだ決まらないのですか」
エリウスが尋ねた。
彼の手には、俺のものとよく似た黒い手帳がある。
表紙に刻まれているのは、閉じた本ではない。同じ家が無数に並ぶ紋章だった。
「決めるための情報がない」
「時間もありません」
「だから、全員へ聞く」
「第四オルネの総意は、すでに決まっています」
「ルカには聞いていなかった」
エリウスの視線が揺れる。
「ほかにも、家族や周囲に合わせて、本当の願いを話していない人がいるかもしれない」
「三百十二名です」
リアが白い本を開き、人数と残り時間を記録する。
「一人につき三分でも、十五時間以上必要です」
「三分で人生の最後を決めるつもりはない」
「そういう意味ではありません」
「分かってる。でも、人数が多いからといって、まとめて扱うことはできない」
世界を管理する立場から見れば、三百十二人は一つの村なのかもしれない。
九百三十六人格は、戻り木に保存された情報量なのかもしれない。
だが、その中には三百十二の名前があり、一人につき三つの異なる人生がある。
同じ名前でも。
同じ顔でも。
生きた時間が違えば、望むものも違う。
「全員に聞く」
俺は第五案のページへ記録した。
『第五案作成のため、第四オルネ住民全員の意思を確認する』
文字が定着する。
続いて。
『対象人数――三百十二名』
『過去人格を含む場合――千二百四十八人格』
現在の住民だけではない。
戻り木に保存された者たちも、それぞれ考える意識を持っている可能性がある。
第五案を作るには、過去の人格についても確認しなければならない。
「千人以上へ聞くつもりですか」
エリウスは呆れたように言った。
「その間に第四オルネは終わります」
「この場所では、時間の流れが違う」
表示されている残り時間は、先ほどから一秒も減っていない。
「戻り木の外へ出て、確かめる」
ガルドが頷いた。
「ここで時間が止まっているとは限らん。外へ戻った瞬間、処理が進む可能性もある」
「エリウス」
俺は五本目の枝に立つ父親を見る。
「戻ってくるまで、第五オルネの構築を止めてくれ」
「断ります」
予想していた答えだった。
「娘が消える可能性がある以上、私は止まりません」
「ルカ本人が嫌だと言っても?」
「子供は、自分が何を失うか理解していません」
「理解していないことと、意思がないことは同じじゃない」
エリウスは何も答えなかった。
その背後では、複製官の白い仮面が俺たちを見下ろしている。
「第九管理人格の判断を継続観測します」
「見ているだけか」
「必要に応じ、選択肢を提供します」
「人間を四つの処理へ押し込むことを、選択肢とは呼ばない」
複製官は反論しなかった。
俺たちは戻り木の外へ出た。
外へ戻っても、太陽はほとんど動いていなかった。
内部では一時間近く話していた感覚がある。
しかし、黒い手帳の残り時間は三分しか減っていない。
『第四オルネ圧縮処理まで――二十三時間四十八分』
「内部では、外の約二十分の一の速度で時間が流れています」
セフが計算した。
「なら、聞き取りに使える」
ノエルは丘の下へ集まる村人たちを見た。
老人。
農夫。
薬師。
猟師。
子供。
三百十二人が、俺たちの帰りを待っている。
俺たちが戻ったことに気づいても、誰も声を上げなかった。
彼らが待っているのは、管理者による決定なのだろう。
消去するのか。
圧縮するのか。
新しい村を作るのか。
誰を複製するのか。
誰かが自分たちの代わりに決めてくれることを、長い間待ってきた。
「一人ずつ話を聞きたい」
俺が告げると、住民たちの間へ小さなどよめきが広がった。
エッダが前へ出る。
「必要ございません。私どもの意思は、すでにお伝えしております」
「ルカの意思は確認していなかった」
「ルカは、まだ子供です」
「子供なら、自分の未来を決める話から外していいのか」
エッダは答えなかった。
「ほかにも、聞かれていない人がいるかもしれない」
「村人全員で話し合いました」
「話し合いの中で、生きたいと言える雰囲気だったか?」
村全体の総意が、完全消去。
その中で一人だけ生きたいと言えば、苦しみを終わらせたい家族を裏切ることになる。
反対に、自分だけ終わりたいと言えば、生きたい家族を置いていくことになる。
命令されなくても、人は周囲の答えへ合わせる。
それを、本人の同意とは呼べない。
「俺は管理者として、命令を聞きに来たんじゃない」
三百十二人を見渡す。
「神崎悠真として、話を聞きたい」
今の俺は正しい答えを知らない。
過去の俺が何を失敗したのかも、すべては分からない。
それでも、誰かを処理する前に、その人の言葉を聞くことはできる。
広場へ机と椅子が運ばれた。
全員の話を俺一人で聞けば時間がかかるため、六人で分担する。
ガルドは、農夫、猟師、職人など、普段から身体を使う仕事をしている者。
ミレナは、病人、老人、身体に過去の傷が強く残っている者。
セフは、異なる人生の記憶が混ざり、自分が誰か分からなくなり始めている者。
リアは、村の記録係や、複数の名前を持つ者。
ノエルは、子供たち。
俺は全体を回り、最終的に本人が語った意思を黒い手帳へ残す。
聞き取りを始める前に、俺は全員へ伝えた。
「何を選んでも責めない」
生きたい。
終わりたい。
分からない。
家族と違う答えでもいい。
「ほかの人に合わせる必要はありません。今すぐ決められない場合は、決められないと話してください」
広場の後方で、誰かが小さく息を呑んだ。
最初に椅子へ座ったのは、村長のハルムだった。
六十八歳。
左手の指が一本なく、三つのオルネで負った異なる傷が一つの身体へ重なっている。
「私は、第一案を望みます」
「終端。完全消去か」
「はい」
声には迷いがなかった。
少なくとも、表面上は。
「理由を聞かせてくれ」
「過去三回分の死を覚えております」
第一オルネでは、火事。
第二では、妻の姿をした亡霊を追い、黒い霧の中へ入った。
第三では、第九管理人格YUMAによる消去処理。
異なる三度の人生と、異なる三度の死。
「第四の人生には、孫がおります」
広場の端に、八歳ほどの少年が立っていた。
ハルムと似た色の瞳。
祖父の話を聞き、不安そうに服の裾を握っている。
「孫も一緒に消えてほしい?」
ハルムの喉が動いた。
長い沈黙の後、掠れた声が返る。
「はい」
「なぜ?」
「私だけが消えれば、あの子は残されます」
「村全体を終わらせる必要は?」
「誰か一人でも保存を望めば、その者を核として、戻り木は新しいオルネを作ります」
「エリウスがルカのためにしているように?」
「はい」
ハルムは膝の上で、両手を強く握った。
「孫を五度目の苦しみへ送ることはできません」
「本当は、生きていてほしい?」
老人の顔が大きく歪んだ。
「その質問を、しないでいただきたい」
「答えなくていい」
「私は、完全消去を望んでおります」
嘘ではない。
俺は彼の言葉を記録した。
『ハルムは、第四オルネの完全消去を望んでいる』
『第五オルネの再構築によって、孫が同じ苦しみを経験することを防ぎたいと考えている』
文字の下へ、銀色の表示が加わる。
『感情情報に矛盾を確認』
「ハルム」
老人が顔を上げる。
「孫に生きてほしいと思うことと、孫を次の村へ送らないために消去を選ぶことは、どちらかが嘘なわけじゃない」
俺はもう一つ記録を加えた。
『ハルムは、孫の生存を望んでいる』
『同時に、孫が苦しみを繰り返す未来を拒否している』
『二つの願いは、本人の中で両立している』
ハルムは目を閉じ、長く息を吐いた。
答えを一つへ決められなかった自分を、責められると思っていたのかもしれない。
「次の方を」
俺が呼ぶと、三つの名札を持つ女性が椅子へ座った。
薬師のサナ。
机へ、三枚の木札を並べる。
『サナ』
『リィナ』
『アナト』
「私は、どの案を望むか分かりません」
村の代表者でありながら、完全消去を選びきれていない。
「第一の私は、夫を殺しました」
黒い雨が降った夜。
夫は、サナの知らない女性の名を呼び続けた。
サナを妻だと認識できなくなり、別の人生を生きていると思い込んだ。
恐怖と混乱の中で、サナは刃物を取った。
「第二では、夫に殺されました」
今度はサナ自身が黒い霧へ魅せられた。
彼女を止めようとした夫と揉み合いになり、首を絞められた。
「第三では、夫は生まれませんでした」
それでも、サナは存在しない夫を探した。
村にいる男へ、知り合いではないかと尋ねた。
名前も分からない誰かを思い出し、理由も分からず泣いた。
「現在の夫は?」
サナは広場の後方を見た。
片脚を引きずる男性が、心配そうに彼女を見ている。
「おります」
「愛している?」
サナは微笑んだ。
「どの夫を、と尋ねられれば答えられません」
「今の夫を」
「愛していると思います」
愛している、ではないと思う。
三つの人生の感情が混ざり、どの思いが現在の自分から生まれたものなのか、本人にも分からない。
「第一案を選べば、すべて終わります」
「生きたいとは思わない?」
「明日の圧縮が始まれば、私は四人になります」
サナ。
リィナ。
アナト。
現在のサナ。
「どの私が残るのか分かりません」
「四人すべてが残るかもしれない」
「それは、私なのでしょうか」
答えられなかった。
俺も、自分の中へ過去のYUMAが戻ったとき、今の神崎悠真でいられるのか分からない。
「私は死にたいのではありません」
サナは三枚の名札を握った。
「自分ではなくなることが、怖いのです」
記録する。
『サナは、死そのものを望んでいない』
『第二案によって、現在の人格が失われることを恐れている』
『現在の人格を維持できる方法があるなら、生存を望む可能性がある』
文字が現れた瞬間、丘の上の戻り木で黒い実が一つ光った。
「木が反応しました」
セフが立ち上がる。
光る実の内側に、四つの小さな影が見えた。
異なる年齢。
異なる服。
同じ顔をした四人の女性。
「圧縮される前は、別々に保存されている」
リアが白い本へ記録する。
「現在のサナを含め、四人格がまだ分離されています」
「だったら、混ぜなくていいんじゃないか」
ノエルが言った。
「保存容量が足りないのです」
セフは戻り木を見上げる。
「第一から第三までの九百三十六人格で上限へ達しています。第四オルネの三百十二人格を追加するため、過去と現在を圧縮しようとしている」
「保存する場所を増やせばいい」
「簡単に言わないでください」
「別の場所に入れる」
「どこへ?」
ノエルは、俺の黒い手帳を指した。
「そこ」
「無理だ」
俺は即座に否定した。
黒糖パン一つを残すために、日本で暮らしていた部屋の記憶を失った。
ノエル一人のために、母親だと思っていた人物の顔と声を失った。
九百三十六人格を一冊へ入れれば、俺の中に何が残るのか分からない。
「一冊じゃなくてもいい」
ノエルは引かなかった。
「白紙鳥のとき、記録を分けただろ」
分散記録。
一つの場所へ、すべてを保存しない方法。
「過去の人格を、現在の住民へ分けるのか?」
セフが尋ねる。
「本人の中へ戻したら、圧縮と同じだろ」
ノエルはサナと、彼女の夫を見る。
「過去のサナが何を考え、どんな人生を生きたのかを、別の記録にする。今のサナは今のサナのまま生きる」
「過去の人格を、物語として保存する?」
リアが尋ねる。
「本でも、誰かの記憶でもいい。混ぜない。でも、消さない」
「人格そのものは失われます」
エッダが指摘した。
「意識を記録へ変えるのであれば、死と同じではございませんか」
「今も意識があるのか?」
ノエルが黒い実を見る。
「第一のエッダは、今も中で考えてる?」
エッダは答えられなかった。
記録なのか。
眠っている人格なのか。
人生最後の日を繰り返している人間なのか。
それを確認せず、記録へ変えることはできない。
「直接聞いてみる」
俺は光っている実へ向かった。
サナの黒い実へ触れる。
表面は冷たく、石に近い。
《記録》を発動する。
『保存人格への接続を要求』
しばらく反応がなかった。
やがて。
『第九管理権限を確認』
『接続対象を選択してください』
第一オルネのサナ。
第二オルネのリィナ。
第三オルネのアナト。
第四オルネのサナ。
「第一のサナ」
名前を選ぶ。
視界が暗くなった。
次に目を開けたとき、俺は見知らぬ家の中に立っていた。
窓の外では、黒い雨が降っている。
目の前には、若いサナが座っていた。
手には、血のついた包丁。
床には夫が倒れている。
「誰?」
サナが包丁を俺へ向けた。
「神崎悠真」
「知らない」
「ここがどこか分かる?」
「私の家です」
迷いのない答え。
「雨が降っている。夫が死んだ。私はここにいる」
彼女にとって、第一オルネの最後の夜は終わっていない。
何十年。
あるいは何百年。
夫を殺した直後の瞬間へ閉じ込められている。
「ここは戻り木の中だ」
「木?」
「第一オルネは、すでに終わっている」
サナは床へ倒れた夫を見る。
「終わった?」
「あなたの人格は、木に保存されている」
「私は生きている」
「そう感じる?」
「見れば分かるでしょう!」
包丁の先が震える。
「雨が降っている。夫が死んだ。私はここにいる!」
「外には、第四オルネがある」
「何を言っているの?」
「あなたと似た人が、別の人生を生きている」
「私の偽物?」
「分からない。でも、その人も自分を本物だと思っている」
「なら、会わせて」
「会えば、二人とも自分が誰か分からなくなる可能性がある」
「それを決めるのは、あなた?」
サナが俺を睨んだ。
「管理者だから?」
「俺は管理者じゃない」
「私たちを消した人と同じ顔をしている」
過去のYUMAは、第一のサナとも会っている。
「俺には、その記憶がない」
「それなら、何をしに来たの」
「あなたを消すか、別の記録として残すか。本人の意思を聞きに来た」
「私は消えたくない」
即答だった。
「この場所で、同じ夜を繰り返しても?」
「死ぬよりはいい」
「夫を殺した瞬間だけを、永遠に?」
サナの顔が歪んだ。
「ほかの時間はないの?」
「今の俺に見えるのは、ここだけだ」
「なら、増やして」
「何を?」
「夫を殺す前の記憶」
彼女の声が小さくなる。
「今朝、一緒に食事をした」
窓の外の黒い雨が、一瞬だけ止まった。
食卓に、二皿のスープが現れる。
死んでいるはずの夫が椅子へ座り、サナと話している。
サナが笑った。
光景はすぐに消え、血のついた夜へ戻る。
「その記憶も、木にあるはず」
「あると思う」
「なら、私は夫を殺した女だけじゃない」
サナは包丁を床へ置いた。
「私の人生を、最後の一場面だけで決めないで」
胸へ刺さる言葉だった。
省略官は、人間を不要な部分として消す。
圧縮官は、複数の人生を一つへまとめる。
複製官は、同じものをいくつも作る。
どれも、人を扱いやすい一つの形へ変えようとする。
だが、人間は最後の行動だけではない。
最悪の瞬間だけでもない。
最も幸せだった一日だけでもない。
「何を望む?」
俺が尋ねる。
「生きたい」
「身体はない」
「分かっています」
初めて、現在の状況を理解したようだった。
「それでも、私が生きたことを残してほしい」
「記録として?」
「誰かが読める形で」
「それは、生きることとは違う」
「分かっています」
サナは倒れた夫の隣へ膝をついた。
「でも、この夜だけを繰り返すよりはいい」
「消えるのは怖い?」
「怖い」
「それでも?」
「私が夫を殺した女としてだけ残らないなら」
彼女は俺を見る。
「ほかの私へ混ぜられず、私の人生として残るなら、記録してください」
黒い手帳が手の中へ現れた。
『第一オルネ――サナ』
名前。
年齢。
仕事。
好きだった料理。
嫌いだった季節。
夫と出会った日。
結婚を決めた理由。
喧嘩した朝。
仲直りした夜。
黒い雨。
最後に犯した行為。
すべてを残すことはできない。
本人さえ忘れている日がある。
言葉にできない感情もある。
それでも、彼女が残したいと望んだものを、一つずつ聞いて記録した。
「最後に一つ」
「何?」
「誰に読んでほしい?」
サナは考えた。
「今の私に」
「直接記憶へ入れれば、混乱するかもしれない」
「入れないでください」
「それなら?」
「本にしてください」
過去の自分を知りたくない日は、閉じておく。
向き合いたいと思ったときだけ、自分で開く。
現在の人格へ混ぜず。
過去の人生を消しもしない。
「それなら、今の私は」
第一のサナが微笑んだ。
「私を受け入れるか、自分で選べます」
周囲が白く染まる。
現実へ戻る直前、サナが言った。
「記録係さん」
「何?」
「次は、本人に選ばせてあげて」
戻り木の前へ戻る。
右手には、薄い黒い本があった。
表紙には、一つの名前。
『第一オルネのサナ』
「ユーマさん!」
ミレナたちが駆け寄る。
「どれくらい中にいた?」
「一時間くらい」
「こちらでは、十秒です」
人格記録の内部では、戻り木の中よりも、さらに時間が遅い。
俺は現在のサナへ本を渡した。
「第一のあなたの記録だ」
サナの手が震えた。
「話したのですか」
「ああ」
「私と?」
「あなたではない。でも、あなたと無関係でもない」
「読むように言われましたか」
「読みたいときに読んでほしいと」
サナは本を開こうとした。
だが、途中で手を止める。
「今、読まなければなりませんか」
「決めるのはあなたです」
サナは本を胸へ抱いた。
「では、今は読みません」
戻り木の黒い実が、一つ小さくなった。
手帳へ表示が現れる。
『保存人格の外部記録化に成功』
『戻り木使用容量を解放』
『解放量――一』
第五案の白紙へ、初めて具体的な内容が追加された。
『第五案――個別外部記録』
『本人が希望した人格を、独立した記録媒体へ移行する』
『現在人格への圧縮を行わない』
『記録を閲覧する時期および方法は、受取人の意思へ委ねる』
「第一案のように消さない」
リアが言う。
「第二案のように、現在人格へ混ぜない」
セフが続ける。
「第三案のように、新しい村へ作り直さない」
ミレナがサナの本を見る。
ノエルが笑った。
「第四案みたいに、勝手に複製もしない」
四つの案のどれでもない。
本人が、どの形で残りたいかを選ぶ。
その選択を、別の人格や管理者が代わりに決めない。
「第五案だ」
俺は呟いた。
ようやく、名前だけだった案に、最初の内容が入った。
ただし、第一のサナが本を選んだからといって、全員が同じ選択をするとは限らない。
完全に消えたい人格。
現在の自分と統合したい人格。
身体を得て、もう一度生きたい人格。
まだ決められない人格。
すべての答えを、同じ本へ変えれば、それも新しい圧縮になる。
「九百三十六人へ、全員同じ質問をする必要がある」
俺が言うと、ノエルの笑顔が固まった。
「残り時間は?」
『第四オルネ圧縮処理まで――二十三時間三十一分』
人格一人への接続は、外側では十秒ほど。
九百三十六人なら、三時間以内。
肉体の時間では間に合う。
だが、接続する側の感覚では一人につき一時間近い。
俺一人なら、四十日。
「俺が全員と話す」
「駄目だ」
ガルドが即座に否定した。
「外では間に合う」
「お前の中では四十日だ」
「接続できるのは、俺だけかもしれない」
黒い手帳が反応した。
『記録主体の共有が可能です』
五人の名前が現れる。
ガルド。
ミレナ。
セフ。
リア。
ノエル。
「分担できる」
「一人百五十六人格」
セフが計算した。
「精神時間では、約六日半です」
「休憩しながらなら」
ミレナが言う。
「外の時間では間に合うかもしれません」
リアは黒い実を見上げた。
一つの実の中で、誰かが人生最後の日を繰り返している。
そこへ入り、話を聞き、本人が選んだ形へ記録する。
六日間。
「俺もやる」
ノエルが言った。
「お前は暫定固定状態だ」
「だから?」
「精神への負荷で何が起きるか分からない」
「全員同じだろ」
「お前が消える可能性がある」
ノエルが俺の胸を指で突いた。
「俺を守るために、また一人で何かを失うつもりか?」
「そういうつもりじゃない」
「同じだ」
ノエルは俺から目を逸らさなかった。
「分散するって決めた」
ガルドが俺の肩へ手を置く。
「記録も」
ミレナが頷く。
「痛みも」
セフが眼鏡を押し上げる。
「判断も」
リアが白い本を閉じた。
「責任も、です」
五人とも、怖くないわけではない。
それでも、一人へすべてを背負わせる方法を、もう選ばないと決めている。
「六人でやる」
俺は黒い手帳へ記録した。
『神崎悠真は、オルネ人格記録作業を単独で行わない』
『ガルド・バルガス、ミレナ・フォース、セフ・アルノー、リア・エルセイン、ノエル・ハースと分担する』
文章は六人へ分散された。
その直後、戻り木の小さな扉が開いた。
内部から、半透明の少女が歩いてくる。
「ルカ!」
エッダが駆け寄り、孫を抱きしめようとする。
老婆の両腕は、少女の身体を通り抜けた。
「おばあちゃん」
ルカの声は聞こえる。
表情も見える。
それでも、現在の第四オルネへ完全には戻れていない。
手には、父親が作った木彫りの馬。
「お父さんを止めて」
「ルカ」
俺は少女と同じ高さへ膝をついた。
「君は、どうしたい?」
生きたいのか。
終わりたいのか。
第五オルネへ行きたいのか。
答えを誘導しないよう、選択肢を並べずに尋ねた。
ルカは長い間、何も言わなかった。
やがて、泣きながら首を横へ振る。
「分からない」
その答えを、俺は正しいと思った。
「死にたくない。でも、一人では生きたくない」
「うん」
「お父さんを消したくない。でも、今のお父さんは怖い」
「うん」
「分からないままでは、駄目?」
「駄目じゃない」
俺は答えた。
「決められないことも、一つの意思として記録する」
『ルカ・ハーンは、生存と消滅のどちらも選択できない』
『父親と共にいたいと望んでいる』
『第四案によって、一人だけ永遠に複製されることは望んでいない』
『自分が何を望むか考える時間を求めている』
記録が完成した瞬間、戻り木が大きく揺れた。
五本目の枝で作られていた家々の動きが止まる。
ルカ本人の意思と、エリウスが選んだ第四案が衝突している。
黒い実の一つへ亀裂が入った。
エリウスの声が村全体へ響く。
「ルカの記録を取り消してください」
「断る」
「娘は混乱しています」
「混乱していることも、今のルカの一部だ」
「その記録がある限り、第五オルネの構築が進まない!」
「なら、第四案を止めろ」
「止めれば、ルカは消える!」
「その前に第五案を完成させる!」
「また、その言葉ですか!」
戻り木の幹が割れた。
内部から白い腕が何本も伸びる。
すべて、エリウスと同じ腕だった。
白い腕が枝へ広がり、黒い実を次々と掴む。
『第四案の対象を変更』
黒い手帳へ警告が現れる。
『複製対象――保存人格九百三十六』
「エリウス!」
「本として残すなど、死と同じです!」
黒い実が枝から引きちぎられる。
地面へ落ちる前に白い光となり、五本目の枝へ吸い込まれた。
一つ。
二つ。
十。
「全員を複製するつもりか!」
「誰一人、記録だけにはしない!」
第一オルネ。
第二オルネ。
第三オルネ。
九百三十六人すべてを身体として作り、第五オルネへ移そうとしている。
村には、同じ顔をした人間が三人ずつ現れる。
異なる年齢。
異なる家族。
異なる記憶。
互いに矛盾する関係。
「第五オルネは、完成した瞬間に崩壊します」
リアの顔が青ざめる。
「同じ人物が、異なる家族関係と所有関係を持った状態で同時に存在できません」
「構わない!」
エリウスが叫んだ。
「崩壊すれば、第六を作る!」
五本目の枝の先に、小さな芽が現れる。
芽は急速に成長し、六本目の枝となった。
「失敗すれば第七を!」
七本目。
「第八を!」
八本目。
「全員が幸せに生きられる村が完成するまで、何度でも作り直す!」
九本目の枝が暗い空へ伸びた。
失敗するたびに複製し、新しい世界を作り。
再び失敗すれば、さらに次を作る。
誰もが幸福になる正しい形へ到達するまで、永遠に繰り返す。
それは、過去のYUMAがオルネへ行ったことと同じだった。
「人格記録を始める!」
俺は戻り木の扉へ走った。
ガルド。
ミレナ。
セフ。
リア。
ノエル。
五人も並ぶ。
「今からですか!」
「実を取られる前に、本人へ聞く!」
黒い手帳を開き、五人へ一時記録権限を共有する。
『一時記録者を設定』
『記録対象を均等分配します』
戻り木に残る実が、六色の光へ分かれた。
一人百五十六人格。
「全員の答えを持ち帰る」
生きたい者。
消えたい者。
本として残りたい者。
現在の自分と統合したい者。
まだ決められない者。
一人ずつ聞く。
同じ名前でも、同じ答えを求めない。
戻り木の奥に、複製官の白い仮面が浮かんだ。
「矛盾する要求を、同一世界で実現することはできません」
「同時じゃなくてもいい」
「世界は一つです」
「答えまで一つである必要はない」
「世界の一貫性を失います」
「人間は、最初から一貫してない」
ノエルが笑った。
「俺なんて金が欲しいのに、入ったらすぐ使うぞ」
「それは矛盾ではなく無計画です」
リアが冷静に訂正する。
「意味は同じだろ」
「大きく異なります」
普段どおりの言い争い。
その声が、これから何日分もの人生へ入る俺たちを、今の世界へつなぎ止めている。
「行くぞ」
六人が、それぞれの黒い実へ触れた。
目を開ける。
雪が降っていた。
俺の知るオルネとは違う村。
白い屋根。
凍った川。
その向こうから、黒い雨が近づいている。
目の前には、一人の少年が立っていた。
十二歳ほど。
左手の指が一本ない。
第一オルネのハルム。
まだ村長ではない、少年だった頃の人格。
「あなたは、未来から来たの?」
「未来とは、少し違う」
「僕たちは死ぬ?」
嘘はつけない。
「この世界は、今日終わる」
少年は俯いた。
小さな肩が震えている。
「僕は、死にたくない」
現在のハルムは、第一案を望んでいる。
第一オルネのハルムは、生きたいと願った。
同じ名前。
同じ人物から続いている可能性のある人格。
それでも、生きた人生が違えば答えも違う。
「分かった」
俺は黒い手帳を開く。
「その願いを記録する」
少年が顔を上げた。
「記録したら、生きられる?」
「約束はできない」
「じゃあ、何のために書くの?」
黒い雨が迫る。
屋根を濡らし。
人々の記憶を混ぜ始める。
「君が生きたいと言ったことを」
俺は答えた。
「未来の君が、なかったことにしないために」
少年は泣いた。
怖いから。
悔しいから。
生きたいから。
そのすべてを記録する。
『第一オルネ――ハルム』
『十二歳』
『消滅を望んでいない』
『世界が終わると知った後も、生存を望んでいる』
第五案のページへ、最初の原則が加わった。
『第五案――第一原則』
『同一人物から派生した人格であっても、異なる人生における意思を一つへ統合しない』
生きたいハルム。
終わりたいハルム。
孫を残したいハルム。
孫を苦しませたくないハルム。
どれか一つだけが本心なのではない。
すべてが、その人間の答えだった。
一つの名前に、一つの願いしか許さない世界を作らない。
それが、四つの案にはなかった。
第五案の始まりだった。




