壊れた結界を直したら、魔物の群れが勝手に帰りました
第8話です。
戻った水と芽吹いた薬草は、人だけでなく、森の魔物も呼び寄せます。
ドランの荷馬車が旧リーベル村を出ていったあと、村はしばらく妙に静かだった。
中央井戸の水音は続いている。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
南畑の白露草は、試験区の中で淡く光っている。
ネリアはその前に膝をつき、葉先についた白い露を見つめていた。
「採ってはいけないんですよね」
「いけません」
「触るのも」
「いけません」
「匂いを嗅ぐのは」
「近づきすぎなければ」
ネリアは真剣な顔でうなずいた。
薬草師見習いとしての好奇心が抑えきれないのだろう。だが、今の白露草はまだ安定していない。
南畑水路に流した水は、革袋二つ分だけだ。
それで一列の芽が出た。
喜ぶには十分な成果だが、畑全体を戻すには足りない。
俺は記録帳に、水音の間隔と南畑の土の湿り方を書き足した。
『中央井戸、水音安定。南畑試験区、白露草枯死なし。水量追加は保留。北森流路、未確認』
最後の一文を書いたところで、北の森から低い遠吠えが聞こえた。
ミラが顔を上げる。
「また、狼?」
昨日の夜明け前にも、北の森から狼の声は聞こえていた。
だが、あの時は村の中まで来なかった。
俺は耳を澄ませた。
遠吠えは一つではなかった。
低い声。高い声。短く切れる声。
互いに位置を確かめるように、森の奥からいくつも重なっている。
エルシアが南畑の端で立ち止まった。
「普通の狼ではありません」
彼女の右手は、腰の短剣に置かれている。
長剣はまだ使えない。先日、俺が見つけた鍔元の亀裂は、そのまま残っている。
応急で布を巻き直してはあるが、強く振れば折れる危険がある。
「魔狼ですか」
「少なくとも一体。いえ、群れかもしれません」
ネリアの顔が青くなる。
「群れって……この村、柵も門もほとんど壊れていますよね」
「はい」
「はい、じゃないです」
ネリアが泣きそうな声を出した。
俺は村の北側を見た。
倒れた柵。雑草に埋もれた道。北森井戸へ続くはずの細い道。
その先には、黒く濃い森が広がっている。
この村には、まともな防壁がない。
エルシア一人で群れを止めるのは難しい。
それに、彼女の主武器は使えない状態だ。
「ミラ、ガイさんの家へ」
俺が言うと、ミラは首を振った。
「助手は?」
「今回の助手の仕事は、ガイさんを起こして、家の戸を内側から押さえることだ」
「……それも助手?」
「重要な助手だ」
ミラは迷った顔をしたが、すぐにうなずいた。
「わかった。おじいちゃんに言ってくる」
「走りすぎるな。転ぶ」
「うん」
ミラが村の中央へ向かって走る。
ネリアも動こうとして、こちらを見た。
「私は」
「白露草の近くにいないでください。魔物が水や魔力の匂いに寄っているなら、南畑も危険です」
「でも、薬草が」
「薬草より命です」
言い切ると、ネリアは一瞬だけ口を閉じた。
それから、小さくうなずいた。
「……わかりました」
彼女は籠を抱え、ガイ老人の家のほうへ走った。
俺は中央井戸へ戻る。
井戸の縁に手を置き、【修正眼】を使った。
赤線は、まだ井戸の内側に多く残っている。
中央制御環。南畑流路。西へ伸びる不明流路。
そして、北森流路。
その北森流路の先に、今日初めてはっきりと見える赤線があった。
「北側に、別の異常がある」
俺が呟くと、エルシアが近づいてきた。
「井戸ですか」
「いいえ。井戸より浅い。地面に近い場所です」
「罠?」
「たぶん、結界杭です」
エルシアの眉が動く。
「旧リーベル村に結界杭が?」
「資料では見たことがありません。ただ、北森井戸が家畜と森番に使われていたなら、森側に獣避けの結界があってもおかしくない」
「それが壊れていると」
「壊れているだけなら、狼は素通りします」
俺は北の森を見た。
遠吠えが近づいている。
「今の赤線は、止まった結界ではありません。ずれた結界です」
「どう違うのですか」
「本来は魔物を避ける波長を出すはずだったものが、逆に魔力の匂いを森へ漏らしている。白露草と中央井戸の水が戻ったことで、弱い流れが北森側にも入った。その流れが、ずれた杭を鳴らしている」
自分で説明しながら、嫌な汗が出た。
つまり、この村は水を取り戻しただけではない。
水を取り戻したせいで、十年前から止まっていた古い設備も動き始めている。
そして、その設備の一部は壊れている。
「直せますか」
エルシアが尋ねる。
俺は即答しなかった。
見えるのは、北へ伸びる赤線だけだ。
実物を見ていない。
道具も少ない。
夜になれば視界は悪い。
それでも、魔狼の群れは待ってくれない。
「確認してから判断します」
「では、行きます」
「エルシアさんは村人を」
「魔狼が来る方向へ、あなた一人を行かせるわけにはいきません」
「主武器が使えない状態です」
「短剣でも時間は稼げます」
その声は淡々としていた。
無理をしている様子はない。
ただ、自分の役割を当然のように決めている。
王都で俺が見てきた上司たちとは違う。
この人は、危険を他人に押しつけて安全な場所に残る人間ではない。
「では、無理に斬らないでください。俺が逃げる時間を作るだけで十分です」
「あなたも、無理に直そうとしないでください」
「それは状況次第です」
「同じことを返します」
エルシアは短く言い、北側へ歩き出した。
村の北へ向かう道は、ほとんど草に飲まれていた。
かつては家畜が通った道なのだろう。足元に、古い石敷きの跡がある。
森へ近づくほど、空気が湿っていく。
中央井戸の周囲とは違う匂いがした。
土と苔と、古い獣の匂い。
その中に、細い金属音のようなものが混ざっていた。
きいん。
耳で聞こえる音ではない。
【修正眼】が、魔力の震えを音として認識しているのだと思う。
「ここだ」
俺は足を止めた。
倒れた柵のさらに外側。
草に埋もれた石柱が、三本立っていた。
高さは腰ほど。
表面には苔が生え、上部は欠けている。
ぱっと見れば、ただの境界石だ。
だが、俺には赤線が見えた。
三本の石柱の間を、細い赤線が結んでいる。
本来なら村の外へ向けて波を押し出すはずの線が、今は内側へねじれている。
「結界杭というより、結界柱ですね」
「使えますか」
「使えます。ただし、このままだと逆効果です」
俺は一番左の石柱に近づいた。
上部に古い刻印がある。
水脈印。獣避け印。北森印。
刻印の端に白い結晶がつき、その上から木の根が入り込んでいた。
根が石を押し、柱の角度を少しだけ変えている。
少しだけ。
王都なら、誰も気にしない程度の傾きだ。
だが、結界の向きには十分すぎる誤差だった。
「原因は」
「柱の角度です。左の柱が森側へ倒れ、中央の柱の刻印が根で押されています。右の柱は、まだ許容範囲です」
「直すには」
「左を少し起こす。中央の根を切る。右は触らない」
エルシアは短剣を抜いた。
「根は私が切ります」
「刻印に傷をつけないでください」
「細かいですね」
「その細かさで、たぶん村が助かります」
エルシアは返事をせず、中央の柱へ膝をついた。
短剣の刃を根の下へ差し込み、慎重に切り始める。
俺は左の柱を見た。
赤線。黄線。白線。
黄線は、柱の根元に走っている。
無理に起こせば、柱そのものが折れる。
完全にまっすぐ戻す必要はない。
本来の角度まで、指二本分ほど戻せばいい。
俺は地面の土を手で掘った。
乾いた表面の下は、思ったより湿っている。
中央井戸の流れが、北森側にも少しずつ戻っている証拠だ。
それが魔物を呼んだ。
だが、それが結界を動かす力にもなる。
遠吠えが、さらに近くなった。
草むらの奥で、枝が折れる音がした。
エルシアが顔を上げる。
「来ます」
森の影から、一体の魔狼が現れた。
普通の狼より大きい。
灰色の毛並みの額に、短い黒い角が生えている。
口元からは、白い息が漏れていた。
続いて、二体、三体。
全部で六体。
ミラやネリアがここにいなくてよかった。
「時間をください」
俺は左の柱に肩を当てた。
「どのくらい」
「柱が折れない程度に」
「答えになっていません」
「俺にもわかりません」
「正直すぎます」
エルシアは短剣を構え、前へ出た。
一体目の魔狼が低く唸る。
その目は、エルシアではなく村の奥を見ていた。
水の匂い。
白露草の魔力。
ずれた結界柱が漏らしている誘引の波。
あれは、村を餌場として認識している。
「くそ」
俺は柱を押した。
動かない。
十年分の土と根が、石柱を固めている。
肩に痛みが走る。
王都の実験室なら、器具がある。
支柱がある。滑車がある。作業員もいる。
ここにはない。
だから、今あるものでやるしかない。
「エルシアさん、中央の根は」
「切りました」
「その短剣の鞘をください」
「鞘?」
「てこの代わりにします。刃ではなく鞘です。折れても怒らないでください」
「怒りますが、今は貸します」
エルシアは短剣の鞘を外し、こちらへ投げた。
俺は鞘を柱の根元に差し込む。
木製だが、芯に薄い金具が入っている。
完全な工具ではないが、少し角度を作るには使える。
赤線の端を見ろ。
黄線を越えるな。
白線が見えるところまでで止めろ。
俺は鞘を押し下げ、同時に肩で柱を押した。
みし、と音がした。
「ルカさん」
エルシアの声が鋭くなる。
「大丈夫です。柱ではなく根です」
たぶん。
もう一度、押す。
左の柱が、わずかに動いた。
赤線の一部が薄くなる。
だが、まだ足りない。
前方で、魔狼が動いた。
一体が地面を蹴り、エルシアへ飛びかかる。
エルシアは短剣で受けず、半歩横へ避けた。
魔狼の爪が外套の端を裂く。
彼女は短剣の柄で魔狼の鼻先を叩き、距離を取った。
斬らない。
長引かせるための動きだ。
俺は柱を押し続ける。
肩が痛い。
手のひらが土で擦れる。
だが、赤線は薄くなっている。
「あと少し」
二体目の魔狼が、エルシアの横を抜けようとした。
エルシアが低く踏み込み、足で地面の石を蹴った。
石が魔狼の前脚に当たる。
魔狼が一瞬だけ体勢を崩した。
その隙に、彼女は短剣を逆手に持ち、地面へ打ち込むように振った。
刃先が土を裂き、魔狼の進路を遮る。
「今です」
エルシアが叫ぶ。
俺は最後に、柱を押した。
ごくん、と石が鳴った。
柱の角度が、青線の位置に重なる。
同時に、中央の柱から細い青白い光が走った。
三本の結界柱を結ぶ線が、赤から青へ変わる。
ねじれていた波が、村の外側へ押し出される。
風が変わった。
森から村へ流れていた湿った空気が、一瞬だけ押し返される。
魔狼たちが、同時に足を止めた。
一体が低く唸る。
別の一体が鼻を鳴らし、頭を振った。
俺には見えた。
結界が魔狼を焼いたわけではない。
斬ったわけでもない。
ただ、魔狼たちの感覚にとって、この先がひどく不快な場所になったのだ。
水の匂いが、消えた。
白露草の魔力が、森側へ漏れなくなった。
誘われていた道が閉じた。
群れの先頭が、一歩下がる。
次の一体も下がる。
そして、最初に現れた灰色の魔狼が、森へ向かって低く鳴いた。
群れは向きを変えた。
走って逃げるわけではない。
悔しがるわけでもない。
ただ、ここには入る理由がないと判断したように、静かに森の奥へ戻っていく。
最後の一体が草むらに消えた時、エルシアがようやく短剣を下ろした。
「……帰った」
俺も柱から肩を離した。
その瞬間、膝から力が抜ける。
エルシアが腕を掴んだ。
「倒れるなら、先に言ってください」
「倒れる予定はありませんでした」
「あなたの予定は信用できません」
そう言われても、反論できなかった。
俺は息を整えながら、三本の結界柱を見た。
青線は残っている。
だが、完全ではない。
中央の柱はまだ弱い。右の柱も、今は許容範囲だが根元に赤線が出始めている。
「応急修理です」
「またそれですか」
「完全に直すには、北森井戸を確認する必要があります。結界柱は北森流路から力を受けている。中央井戸だけの水流で動かし続けると、負荷が戻る」
「つまり、まだ安心はできない」
「はい。ただ、今夜の魔狼は戻らないと思います」
エルシアは森の奥を見た。
「なぜそう言えるのですか」
「誘う匂いが消えました。魔狼から見れば、ここは水と薬草の匂いがする餌場ではなく、嫌な波がある空き地になったはずです」
「よくわかりませんが、助かったということですね」
「たぶん」
「そこは断言してください」
「助かりました」
エルシアは短く息を吐いた。
それが笑いだったのか、疲れだったのかはわからない。
村の中央から、ミラの声がした。
「お兄さん!」
振り返ると、ミラがガイ老人の家の前からこちらを見ていた。
ネリアも隣にいる。二人とも無事だ。
「魔物は?」
「帰った」
俺が答えると、ミラは目を丸くした。
「倒したの?」
「倒していない」
「じゃあ、どうして?」
「帰りたくなるようにした」
ミラは少し考えた。
「魔物にも、嫌な場所があるんだ」
「あるらしい」
「お兄さん、井戸のお医者さんだけじゃなくて、村のお医者さんみたい」
「村は患者ではないと思う」
「でも、壊れてるところを直した」
その言葉に、俺は返事をしなかった。
井戸。
薬草畑。
結界柱。
旧リーベル村は、あちこち壊れている。
だが、完全に死んでいるわけではない。
壊れた場所を見つけ、順番を間違えず、無理をせず、少しずつ直せば、まだ動く。
それは井戸だけではなかった。
「ルカさん」
エルシアが俺を呼んだ。
「はい」
「私は、今日の件を辺境警備隊へ報告します」
「俺が不審者だという報告ですか」
「それもまだ消えていません」
「そうですか」
「ですが、それだけではありません」
エルシアは結界柱を見た。
「旧リーベル村には、壊れた井戸と薬草畑だけでなく、古い防衛設備も残っている。しかも、それを扱える者がいる。これは単なる廃村の巡回報告では済みません」
「大事になりますか」
「水と薬草があり、防衛設備まで動く村です。商人も来ました。魔物も来ました。次に来るのは、たぶん人です」
ドランの言葉がよみがえる。
この村、隠しておかないと奪われますよ。
俺は北の森を見る。
魔狼の気配は、もうない。
だが、森が静かになったからといって、安心できるわけではない。
水が戻った。
白露草が芽吹いた。
結界柱が動いた。
旧リーベル村は、少しずつ価値を取り戻している。
そして、価値が戻れば、それを欲しがる者も現れる。
俺は記録帳を開いた。
『北森境界、旧式結界柱三本を確認。左柱傾斜、中央柱根侵入により誘引波発生。応急修正により魔狼群れの侵入を回避。北森流路および北森井戸の確認を要する』
書き終えたところで、中央井戸の水音が聞こえた。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
その音は、昨日よりも少しだけ頼もしく聞こえた。
だが同時に、もう隠しきれない音でもあった。
廃村だった旧リーベル村は、水を取り戻した。
薬草を芽吹かせた。
魔物の群れを退けた。
それでも俺たちは、まだ村を直し始めたばかりだ。
次回、第9話「戻れと言われても、俺はもう村の井戸番なので」。
王都で事故が続く中、旧リーベル村に王立錬金術院からの使者がやって来ます。ルカが初めて、自分の意思で「戻らない」と答える回になります。




