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7/30

王都の薬品管理が崩れた日

第7話です。

リーベル村で水と薬草に価値が生まれ始めた頃、王立錬金術院では、ルカが毎日防いでいた小さな異常が薬品庫で表に出ます。

旧リーベル村で旅商人ドランが水を一口飲み、顔色を変えた頃。


 王都の王立錬金術院では、別の意味で顔色を変える者が増えていた。


 第二炉室で第七小型炉が停止してから、二日。

 王宮薬品庫へ納める予定だった浄化石三百個は、まだ納品できていない。


 最初は一日延期で済むはずだった。

 第四炉を洗浄し、低温空焼きを二回行い、ルカ・オルメインが手順書の端に残していた注記を守れば、焼き直しは可能だと判断された。


 少なくとも、主任技官ヘルムはそう判断した。


 だが、問題は炉だけではなかった。


「薬液庫第三区画の中和液を持ってこい。浄化石の表面洗浄をやり直す」


 第二炉室で、若い錬金術師ライナス・ケイルが見習いに指示を出した。


 彼の声は、前よりも少しだけ硬い。

 つい先日までなら、手順書を開いて数字を読み、許容範囲内だと胸を張っていた。

 だが、第七小型炉は止まった。

 しかも、原因はルカの小さな注記に書かれていた。


『第七小型炉、戻り圧0.3以上で再検査。交換直後は特に注意』


 手順書の余白に残されたその文字を、ライナスは何度も思い出していた。


 誤差しか見えない無能。

 そう笑った相手の注記を守らなければ、今度は第四炉まで止めるかもしれない。


 その事実が、彼の喉の奥に小さな棘のように刺さっている。


「ライナス君」


 ヘルムが薬液台帳を手に声をかけた。


「中和液は第三区画ではなく、第二区画の新しい瓶を使え」


「第三区画の瓶は未開封です」


「封蝋が古い。ルカ君は、第三区画の銀封瓶をいつも最後に確認していた」


 ライナスの眉が動いた。


「また、ルカですか」


「事故を避けるための話だ」


「手順書では、第三区画の中和液は使用可能となっています。封蝋にも破損はありません」


 ライナスは瓶の棚を指差した。


 薬液庫第三区画。

 そこには銀色の封蝋で密閉された瓶が並んでいる。

 中和液、安定薬、洗浄液、反応抑制剤。

 ラベルは整然と貼られ、瓶の位置も台帳通りだった。


 見た目だけなら、問題はない。


 だが、ヘルムは台帳をめくりながら言った。


「問題は、見た目ではない。第三区画は外壁側だ。冬場は冷える。昼になると実験棟の排熱で温度が上がる。寒暖差で封蝋に細い割れが入ることがある」


「割れがあれば、見ればわかります」


「大きな割れならな」


 ライナスは反論しかけたが、言葉を飲み込んだ。


 大きな割れなら見える。

 小さな割れは、見えない。


 そして、そういう小さな割れを見ていた男は、もういない。


「では、第二区画の瓶を使います」


 ライナスは不満を押し殺し、見習いへ指示を変えた。


 見習いが薬液庫へ向かう。

 しかし、すぐに戻ってきた。


「第二区画の中和液は、残量が足りません」


「足りない?」


「昨日の洗浄で使い切っています。補充予定は明日です」


 ライナスは舌打ちをこらえた。


 王宮への納品は今日中に再開しなければならない。

 これ以上遅れれば、王宮薬品庫から正式な理由書を求められる。


 理由書。


 そこには、第七小型炉が停止したことも、焼成予定の浄化石が全滅したことも書かなければならない。

 院長バルド・レイヴンが、それを許すとは思えなかった。


「第三区画の瓶を使う」


 ライナスは言った。


 ヘルムが顔を上げる。


「待て。せめて簡易検査を」


「します。色、粘度、魔力反応。三項目を確認します。それで異常がなければ使います」


「ルカ君なら、封蝋の縁と瓶底の沈殿も見た」


「主任」


 ライナスの声が低くなった。


「今ここにいる品質管理官代理は、私です」


 ヘルムは口を閉じた。


 その言葉は、以前ならライナスの自尊心を満たしただろう。

 だが今は、自分で言った言葉が重くのしかかる。


 品質管理官代理。


 ルカが七年間やっていた仕事を、今は自分がやっている。


 見習いが銀封瓶を薬液台へ運んだ。

 ラベルには『中和液・王宮納品用』とある。


 ライナスは瓶を持ち上げ、光に透かした。


 透明。

 濁りなし。

 色は規定通り。


 次に、細い棒で液をすくい、粘度を確認する。

 問題ない。


 小さな魔石板に一滴垂らす。

 反応光は薄い青。

 中和液として正常。


「異常なし」


 ライナスは検査表に丸をつけた。


 その時、ヘルムが瓶底を見た。


 瓶の底の縁に、ほんのわずかに白い筋がある。

 沈殿というには薄すぎる。

 光の反射と言われれば、それで終わる程度の筋だった。


「瓶を揺らすな」


 ヘルムが言った。


「え?」


 見習いの手が止まる。


 だが、遅かった。


 瓶は薬液台へ置かれる直前、わずかに傾いた。

 底の白い筋が、液の中へ溶ける。


 色は変わらない。

 匂いもない。

 魔石板の反応も、すぐには変わらない。


 ライナスは息を吐いた。


「主任。過敏になりすぎです」


「そうであればいいが」


 中和液は洗浄槽へ注がれた。


 第四炉で焼き直した浄化石の素体を、洗浄槽へ入れる。

 表面についた霊薬残渣を中和し、乾燥させれば、再焼成に回せるはずだった。


 最初の十個は問題なかった。


 十一個目。


 洗浄槽の表面に、小さな泡が浮いた。


 十二個目。


 泡が増える。


 十三個目を入れた瞬間、洗浄槽の水面が白く濁った。


「停止」


 ヘルムが即座に言った。


「まだ反応範囲内です」


 ライナスが返す。


「停止だ」


 今度は強かった。


 見習いが浄化石を入れる手を止める。


 次の瞬間、洗浄槽から薄い灰色の煙が上がった。


「槽を閉じろ!」


 ヘルムが叫ぶ。


 技官が蓋を引こうとした。

 だが、煙は早かった。

 洗浄槽の縁から漏れ、薬液台の上を這い、隣の安定薬瓶へ触れる。


 瓶の封蝋が、じゅ、と音を立てて溶けた。


「安定薬を下げろ!」


 ライナスが叫んだ。


 見習いが瓶をつかむ。

 その瞬間、瓶の中身が白く濁った。


 反応が移った。


 薬液庫で、警告石が赤く光る。


「薬液庫、汚染警報!」


 廊下から声が上がった。


 第二炉室にいた技官たちが一斉に動く。

 窓を閉める者。換気管を開く者。薬液台を隔離布で覆う者。

 ヘルムは見習いを後ろへ下がらせ、灰色の煙を吸わないよう布で口を覆わせた。


 ライナスは洗浄槽の前で固まっていた。


 彼の検査表には、異常なしの丸が並んでいる。

 色、正常。

 粘度、正常。

 魔力反応、正常。


 だが、薬品庫は汚染警報を鳴らしている。


「なぜだ……」


 かすれた声が漏れた。


「検査では、異常は」


「検査項目が足りなかったんだ」


 ヘルムは短く言った。


 その言葉は、誰かを責めるというより、自分たち全員へ向けられていた。


 薬液庫第三区画は、すぐに封鎖された。


 灰色の煙は大きな爆発にはならなかった。

 死者も出なかった。

 だが、問題はそれで済まない。


 第三区画の薬液瓶、四十七本。

 洗浄槽に入った浄化石素体、十三個。

 表面洗浄を待っていた素体、二百八十七個。

 隔離確認が終わるまで、すべて使用停止。


 王宮納品は、さらに遅れることになった。


 院長室へ報告が届いたのは、それから半刻後だった。


 バルド・レイヴンは報告書を読んだ後、しばらく黙っていた。


 机の上には、すでに別の報告書が積まれている。

 第七小型炉停止。

 第四炉への焼成切り替え。

 王宮納品延期。

 第二炉室の排気塔振動。


 そして今度は、薬品庫第三区画の汚染警報。


「薬液庫の管理者は誰だ」


 バルドの声は低かった。


 ライナスは院長室の前で、背筋を伸ばして立っている。


「本日の検査責任者は、私です」


「そうか」


 バルドは報告書を机に置いた。


「では、君の過失か」


 その言葉に、ライナスの顔から血の気が引いた。


「院長、私は手順書通りに三項目の簡易検査を行いました。色、粘度、魔力反応、すべて正常でした」


「だが、事故は起きた」


「薬液瓶の底に白色の筋がありました。主任技官ヘルムが指摘しましたが、その時点では沈殿とは判定できず」


「言い訳は不要だ」


 バルドは切り捨てた。


「昨日は小型炉。今日は薬品庫。次は何だ。王立錬金術院は、王宮へ何と説明すればよい」


 ライナスは口を開きかけ、閉じた。


 少し前なら、こう言っただろう。


 誤差しか見えない無能が、余計な警告を出すから混乱したのだと。


 しかし今日は違う。

 余計な警告を出す者がいなかった。

 その結果、薬品庫が封鎖された。


「ルカの……」


 ライナスは思わず呟いた。


 バルドの目が細くなる。


「何だ」


「ルカの注記が、薬品庫台帳にも残っているかもしれません。第三区画の銀封瓶について、彼なら何か」


「また、あの男か」


 バルドは苛立ったように指輪で机を叩いた。


「一人の計測係がいなくなった程度で、院の薬品管理が崩れるなど、あってはならん」


 その言葉は、事実ではなく願望だった。


 少なくとも、その場にいたヘルムにはそう聞こえた。


 ヘルムは薬品庫台帳を抱えて、静かに言った。


「院長。薬品庫第三区画の欄に、ルカ君の筆跡があります」


 バルドの視線が向く。


「読め」


 ヘルムは台帳を開いた。


 余白に、小さな文字が書かれている。


『第三区画銀封瓶、外壁側棚は寒暖差あり。封蝋縁に微細亀裂が出やすい。白色筋を確認した瓶は、揺らさず隔離。洗浄槽への直接投入禁止』


 院長室が静まり返った。


 ライナスの喉が鳴る。


 ヘルムは続けた。


「さらに、別の頁にもあります」


『王宮納品用中和液は、開封前に瓶底を魔石灯で確認。白色沈殿が線状の場合、液中拡散後に霊薬残渣と反応する可能性あり』


「……つまり」


 ライナスが低く言った。


「今日の事故も、書いてあった」


 誰も否定しなかった。


 ただし、その注記は公式手順書には転記されていない。

 ルカが書いた台帳の余白に残っていただけだ。


 なぜ転記されなかったのか。


 答えは、全員が知っていた。


 細かすぎる。

 手順を増やすな。

 研究の進行を遅らせるな。


 そう言って、誰も正式項目にしなかった。


 バルドは台帳を奪うように受け取った。


 細かな文字を読む。

 何度も読む。


 そこには、事故後に作った言い訳ではなく、以前から積み重ねられた観察があった。


 日付。

 瓶の棚番号。

 気温。

 薬液の変化。

 推奨される隔離手順。


 面倒で、細かく、成果としては見栄えのしない記録。


 だが、それがあれば、今日の薬品庫汚染は防げたかもしれない。


「この注記を、なぜ誰も確認していなかった」


 バルドは言った。


 その問いは、あまりにも遅かった。


 ヘルムは答えた。


「ルカ君の注記は、正式手順ではありませんでした」


「なぜ正式手順にしなかった」


 ヘルムは院長を見た。


 答えは明白だった。


 正式手順にするには、院長印が必要だったからだ。


 そして、ルカの報告書に院長印が押されることは、ほとんどなかった。


 バルドもそれを理解していたのだろう。

 彼は沈黙した。


 次に口を開いた時、声はさらに低くなっていた。


「旧リーベル村へ出した命令書の返事は」


「まだです。馬を飛ばしても、戻るには時間がかかります」


「遅い」


「辺境ですので」


「わかっている」


 バルドは台帳を閉じた。


「ルカ・オルメインの私物記録帳を必ず回収しろ。薬品庫、炉、結界石、魔力管。あの男が何を見ていたのか、すべて必要だ」


 ヘルムは静かに言った。


「院長。回収ではなく、本人に協力を求めるべきではありませんか」


 バルドの表情が凍った。


「何だと」


「現場の異常は、台帳の余白だけでは判断しきれません。ルカ君は、数字と音と目で総合して見ていた。記録があっても、本人でなければわからない部分があります」


「除名した人間を呼び戻せと言うのか」


「事故を防ぐためなら」


「黙れ」


 バルドの声が院長室に響いた。


 ライナスは肩を震わせた。

 ヘルムは黙ったが、目を逸らさなかった。


 バルドは机の上の報告書を一枚取った。

 そこには、薬品庫第三区画の封鎖状況が書かれている。


「この件は、薬液管理の不備として処理する。第七小型炉の停止とは別件だ。王宮へは、納品物の品質確認に追加時間が必要とだけ伝えろ」


「ですが、王宮薬品庫はすでに二度目の延期を」


 ライナスが言いかけたところで、扉が叩かれた。


 院長室の空気が止まる。


「入れ」


 入ってきたのは、王宮連絡係の若い書記官だった。

 手には、赤い封蝋の押された封書を持っている。


「王宮薬品局より、至急の通達です」


 バルドは封書を受け取った。


 封蝋を割る。

 中の羊皮紙を開く。


 読み進めるうちに、彼の顔から少しずつ色が消えた。


 ライナスは息を詰める。

 ヘルムも黙って見ていた。


 バルドは羊皮紙を机に置いた。


 そこには、こう書かれていた。


『王宮薬品局は、王立錬金術院における王宮納品用浄化石の納品遅延、ならびに薬液庫第三区画の汚染警報について、正式な説明を求める』


 さらに、その下。


『明朝、王宮より査察官を派遣する。関連する検査台帳、薬品庫管理記録、炉停止報告書をすべて提出すること』


 院長室に、重い沈黙が落ちた。


 提出する記録。


 そこには、ルカの細かな注記が残っている。

 第七小型炉の戻り圧。

 第三区画の銀封瓶。

 封蝋縁の微細亀裂。

 白色沈殿の危険。


 同時に、正式手順書へ反映されていなかった事実も残っている。


 なぜ反映されなかったのか。

 誰が判断したのか。

 誰が院長印を押さなかったのか。


 記録は、時に人を守る。

 だが、隠した者にとっては刃にもなる。


「院長」


 ライナスが、かすれた声で言った。


「どうしますか」


 バルドは返事をしなかった。


 窓の外では、王都の灯りが整然と並んでいる。

 魔石灯の青い光。浄水塔の白い光。王宮へ続く大通りの金色の光。


 そのすべてが、王立錬金術院の技術に支えられている。


 支えられているはずだった。


 だが、足元の薬品庫一つすら、今日は守れなかった。


 バルドは机の端を強く握った。


「台帳を整理しろ」


 ヘルムの目が細くなる。


「整理、とは」


「査察官に余計な誤解を与えないよう、必要なものだけを提出する」


「院長。それは」


「命令だ」


 バルドは低く言った。


 ヘルムは、ゆっくりと台帳を胸に抱えた。


「記録を消せば、次の事故を防げません」


「記録があるから、余計な疑いを招くのだ」


 その言葉を聞いた瞬間、ライナスはようやく理解した。


 ルカがなぜ追放されたのか。


 誤差を見つけたからではない。

 危険を報告したからでもない。


 記録を残したからだ。


 誰かが見逃したことを、なかったことにできなくなる記録を。


 王立錬金術院の薬品庫では、封鎖された第三区画の警告石が、まだ赤く光っていた。


 その赤い光は、ルカの目に見えていた赤線に少しだけ似ていた。


 しかし、今の王都に、それを正しく読める者はいなかった。

次回、第8話「壊れた結界を直したら、魔物の群れが勝手に帰りました」。

リーベル村では水と薬草の価値が人を呼び始めました。けれど、水の匂いに寄ってくるのは商人だけではありません。

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