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6/30

商人は水を見ただけで顔色を変えた

第6話です。

戻った水と芽吹いた薬草が、初めて商人の目に触れます。

旧リーベル村の南畑に出た小さな芽は、一晩たっても枯れなかった。


 夜明けの光が、崩れた石垣の隙間から差し込んでいる。

 試験区として石で囲った一列の中で、白露草と思われる芽は、昨日よりもわずかに背を伸ばしていた。


 葉先には、白い露のような光が残っている。

 朝露ではない。

 指先を近づけると、空気の中の魔力が細く集まり、葉の表面で冷えているのが見えた。


 赤線は、ない。


「耐えたか」


 俺は記録帳を開き、昨日の項目の下に書き足した。


『南畑試験区、夜間経過観察。白露草と思われる芽、枯死なし。葉先に白色魔力露を確認。赤線なし。ただし周辺土壌には未修正箇所多数』


 最後の一文は、少し強めに書いた。

 喜ぶには早い。

 畑全体が戻ったわけではない。南畑水路の一列に、中央井戸の水を革袋二つ分入れただけだ。


 この芽が今日の昼にしおれる可能性もある。

 明日には赤線が出るかもしれない。

 水を増やしすぎれば、中央井戸の制御陣に負荷がかかる。


 成果は出た。

 だが、安定はしていない。


「それ、昨日より光ってますよね」


 背後で、ネリア・セーヴェルが小さく言った。


 薬草師見習いの彼女は、昨日からほとんど南畑を離れていない。

 夜はガイ老人の家で少し眠ったらしいが、俺が試験区に来た時には、もう畑の端に座っていた。


「光っています。ただ、昨日と同じ条件ではありません。夜間の温度、井戸の水音、土の湿り方を確認しないと判断できません」


「普通は、薬草が生えたら喜ぶところです」


「喜んでから枯れたら困ります」


「……あなた、薬草師より慎重ですね」


「元品質管理官なので」


 ネリアは、納得したような、していないような顔をした。


 少し離れた場所では、ミラが両手を後ろに組んで白露草を見ている。

 昨日、勝手に触らないと約束させたので、今のところ守っているらしい。


「お兄さん、白露草は元気?」


「今のところは」


「今のところって、元気じゃないの?」


「元気かどうかを、今日一日かけて確認する」


「じゃあ、わたしも見る」


「見るだけだ。触らない。水も勝手にやらない」


「わかってる。助手だから」


 ミラは真剣な顔でうなずいた。

 その横で、エルシアが短く息を吐いた。


「助手が増えると、あなたは余計に眠らなくなりそうですね」


「今日は少し寝ました」


「井戸のそばで座ったまま意識を失っていた、という報告をガイさんから受けています」


「それは、少し寝たということでは」


「倒れたと言います」


 エルシアの口調は淡々としている。

 だが、昨日よりも少しだけ距離が近い。


 彼女はまだ俺を信用したわけではないと言った。

 その姿勢は変わっていない。

 ただ、旧リーベル村の水と白露草を守るために、村に残っている。


 監視対象としては、ありがたい相手だった。


「中央井戸は?」


「水量は少し増えています。ですが、まだ売れるほどではありません。村で使う分も慎重に管理する必要があります」


「売る、という言葉が出るのですね」


「昨日、ネリアさんが価値の話をしましたから」


 ネリアが気まずそうに視線を逸らした。


「だって、本当のことです。白露草も、リーベルの水も、王都なら高く売れます。特にその水は、薬草の下処理に使えば品質が上がるかもしれません」


「まだ確認していません」


「確認したら、もっと危ないですよ」


 ネリアは白露草の芽を見下ろした。


「価値があるってわかったものは、誰かが欲しがりますから」


 その言葉が終わる前に、村の入口のほうから車輪の音が聞こえた。


 ぎい、と乾いた軸の鳴る音。

 馬の蹄。

 荷物が木箱に当たる鈍い音。


 エルシアの表情が変わった。


「ミラ、ガイさんの家へ」


「でも」


「すぐに」


 ミラは白露草を名残惜しそうに見てから、走って村の中央へ戻っていった。


 エルシアは腰の剣には手を置かなかった。

 昨日、鍔元の亀裂を確認してから、彼女は長剣を抜かないようにしている。

 代わりに左腰の短剣へ指をかけた。


「商人の荷馬車に見えます」


「盗賊の可能性は?」


「盗賊なら、もっと静かに来ます」


 エルシアはそう言いながらも、足音を消して村の入口へ向かった。

 俺とネリアも後に続く。


 村の入口にいたのは、一頭立ての荷馬車だった。

 荷台には布袋、木箱、干し肉の束、油壺、針や糸を入れる小箱が積まれている。

 御者台に座っていたのは、丸い帽子をかぶった中年の男だった。


 男は俺たちを見ると、まずエルシアの紋章入り外套に目を留めた。

 次に、俺の作業着を見た。

 最後に、村の中央井戸のほうを見て、眉を上げた。


「旧リーベル村に、人が戻っているとは思いませんでした」


 男は両手を上げた。


「ドラン・マルク。旅商人です。塩、油、布、針、干し豆、干し肉、安い薬草粉。辺境向けの品を扱っています。怪しい者ではありません」


「怪しい者ほど、最初にそう言います」


 エルシアが静かに返した。


 ドランは肩をすくめた。


「その通りです、騎士様。ですので、荷台を検めていただいて構いません」


「どうしてこの村へ?」


「煙が見えました。廃村から煙が上がれば、盗賊か、流民か、あるいは面倒事です。避けるべきか確認するつもりで寄りました」


「確認だけですか」


「確認だけなら、荷馬車を近づけません」


 ドランは笑った。


「人がいるなら、商売になるかもしれない。商人ですから」


 その言い方に、悪意はなかった。

 だが、油断できる相手でもない。


 エルシアは荷台を調べ、武器らしいものがないことを確認した。

 小型の護身用ナイフはあったが、商人なら持っていて当然の範囲だという。


「滞在は短くしてください」


「承知しました。ところで」


 ドランは鼻をひくつかせた。


「水の匂いがしますね」


 ネリアが息を呑んだ。

 エルシアの視線が鋭くなる。


 俺は一歩前に出た。


「中央井戸の水です。ただし、まだ応急復旧中です。飲用量は限られています」


「井戸が戻ったのですか」


「一部だけです」


 ドランの顔から、商売用の笑みが消えた。


「見ても?」


「近づきすぎなければ」


 中央井戸へ案内すると、ドランはすぐに黙った。


 水音がしている。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。


 たったそれだけで、彼の目つきが変わった。

 商人の目だった。

 物の価値を量る目。


「十年枯れていたと聞いています」


「はい」


「それが、なぜ急に」


「詰まりを一部取りました」


「詰まり」


 ドランは井戸の縁へ手を伸ばしかけた。

 俺は止めた。


「触らないでください。内壁が不安定です」


「失礼」


 ドランは素直に手を引いた。


「飲めますか」


「確認済みの水なら、少量は」


 俺は蓋つきの小桶から水を杯に移した。

 今朝汲み、沈殿を見て、赤線が出ないことを確認しておいた分だ。


 ドランは杯を受け取ると、すぐには飲まなかった。

 懐から小さな灰色の石を取り出し、水面に近づける。


「水見石ですか」


 ネリアが言った。


「ええ。商人用の安物です。毒と腐り水くらいしか見られませんが」


 水見石は反応しなかった。

 ドランはそれを見てから、一口だけ飲んだ。


 次の瞬間、彼の顔色が変わった。


 青ざめたのではない。

 驚きで、血の気が引いた顔だった。


「……これは」


「何か異常が?」


 エルシアが尋ねる。


 ドランは杯を両手で持ったまま、ゆっくり俺を見た。


「異常です。悪い意味ではありません」


「どういうことですか」


「辺境の井戸水ではない。少なくとも、私が扱ってきた水の中では最上級です。王都の高級宿で出される浄化水でも、ここまで癖が少ないものは珍しい」


 ネリアが小さくうなずいた。


「薬草の下処理に使えると言ったでしょう」


「下処理どころではありません」


 ドランは杯の中を覗き込んだ。


「この水を安定して出せるなら、それだけで商売になります」


「安定していません」


 俺は即答した。


「中央井戸は応急復旧中です。水量は限られています。村人の飲み水が最優先です。商売用に出せる状態ではありません」


「普通なら、ここで少しぐらい売ってくれと言うところですが」


 ドランは杯を返した。


「今の言葉で、逆に価値が上がりました」


「なぜですか」


「危ないものを危ないと言える人間が管理しているからです」


 俺は少し黙った。


 王都では、危ないと言ったから追放された。

 ここでは、それが価値になるらしい。


「南畑も見たのですか」


 ドランの視線が、今度はネリアへ移る。


「薬草師見習いがこんな廃村にいる。となると、水だけではないでしょう」


 ネリアは迷ったように俺を見た。


 隠すべきか。

 見せるべきか。


 エルシアは何も言わない。

 判断を俺に任せている。


 俺は記録帳を閉じた。


「試験区だけです。商品ではありません」


「見せていただけるなら、その条件で見ます」


「触らない。採らない。値段をつけても、今は買えません」


「商人に値段をつけるな、は無理な相談です」


「では、口に出さないでください」


 ドランは一瞬だけきょとんとした。

 それから笑った。


「なるほど。あなた、商売には向いていませんね」


「自覚しています」


 南畑へ戻ると、ミラがガイ老人の家の陰からこちらを見ていた。

 エルシアが視線だけで制し、ミラはその場にとどまる。


 ドランは試験区の前で足を止めた。


 白露草の芽を見た瞬間、彼はまた黙った。


 今度は杯の時より長い沈黙だった。


「……ネリアさん、でしたね」


「はい」


「あなたの見立ては?」


「白露草。しかも、王都温室級の可能性があります。ただし、芽の段階です。まだ採取価値はありません」


「芽でこれなら、成葉は」


「わかりません。だから今は試験区です」


 俺が言うと、ドランは両手を上げた。


「わかりました。触りません。値段も口には出しません」


「顔には出ています」


 エルシアが言った。


 ドランは苦笑した。


「顔に出る程度には、価値があります」


 それから、彼は荷馬車へ戻り、薄い板と炭筆を取り出した。


「提案があります」


「買い取りはできません」


「今は買い取りません。代わりに、必要な物を売ります。塩、干し豆、油、布、縄、紙、空の小瓶。井戸と畑を守るなら必要でしょう」


「代金は銀貨三枚しかありません」


 王都から出る際に渡された金だ。

 俺の全財産でもある。


 ドランはうなずいた。


「銀貨三枚で、普通なら大した量は出せません。ですが、今回は信用を買います」


「信用?」


「三日後にまた来ます。その時、井戸が安定し、白露草が枯れていなければ、正式な取引を申し込みます。今日は、そのための道具を少し安く売る」


「見返りは?」


「最初に商談する権利」


 エルシアが目を細めた。


「独占契約ではありませんね」


「ええ、騎士様。そこまで欲をかくと刺されます。最初に話を聞く権利だけです」


「曖昧です」


 俺は言った。


「記録に残せない契約は避けたい」


 ドランは俺を見た。

 少し驚いた顔だった。


「商人相手に、それを言うのですか」


「記録がなければ、なかったことにされます」


 エルシアがわずかに目を伏せた。

 その言葉を、彼女は覚えていたのだろう。


 ドランはしばらく俺を見ていた。

 やがて、真面目な顔で板を差し出した。


「では書きましょう。ドラン・マルクは、旧リーベル村に対し、銀貨三枚分の生活物資と作業物資を通常価格より一割引きで販売する。見返りとして、三日後に水および薬草の取引について最初の商談機会を得る。ただし、買い取り権、独占権、村の所有権には関与しない」


「村の所有権?」


 俺が聞き返すと、ドランは炭筆を止めた。


「価値が出た村には、よく出てくる話です。水が戻った。薬草が生えた。なら、昔から自分のものだったと言い出す者が出る」


 ネリアの顔が曇った。

 エルシアの表情も硬くなる。


「この村は、放棄されたと聞いています」


「放棄された土地でも、価値が戻れば権利書が掘り返されます。商人はそういう揉め事を嫌うので、最初に書いておきます」


 ドランは板に文字を書き終え、俺に見せた。


「これでどうです」


「採取量、検査方法、危険時の取引停止も書いてください」


「危険時の取引停止?」


「井戸や畑に赤線が出た場合、取引を止めます」


「赤線というのは?」


「俺の能力です。危険なものは俺の眼には赤い線として映ります」


「なるほど。慎重なのはその能力の影響ですね」


 俺は否定も肯定もしなかった。


「俺だけが見るのでは不十分です。水なら沈殿、匂い、色、味、ミラやガイさんの体調変化。薬草なら葉色、露の量、土の湿り方、ネリアさんの確認。それらも記録します」


 ドランは炭筆を止めた。


「商品に、そこまで記録をつけるつもりですか」


「つけます」


「なぜ」


「後で危険だと言われた時、どこで何が起きたか確認するためです」


「逆に言えば、品質が安定している証明にもなる」


 ドランの目が、また商人の目に戻った。


「検査票つきの水と薬草、ですか」


「まだ商品ではありません」


「ええ。まだ、ですね」


 その言い方は軽かった。

 だが、ドランの顔は真剣だった。


 俺は自分の記録帳から紙を一枚切り取り、簡単な欄を作った。


『リーベル中央井戸・仮検査票』


 採取日時。

 採取場所。

 水音間隔。

 沈殿の有無。

 異臭の有無。

 赤線の有無。

 使用可能範囲。


 続けて、別の紙に書く。


『南畑試験区・仮検査票』


 観察日時。

 投入水量。

 土の湿り方。

 葉色。

 白露の量。

 薬草師確認。

 採取不可。


 ネリアがそれを覗き込み、目を丸くした。


「薬草師確認って、私の名前を書くんですか」


「証言者なので」


「またですか」


「またです」


 エルシアが横から言った。


「私も騎士として署名します。現時点で商人ドラン・マルクに危険物の販売は行われていない、と」


「助かります」


「監視記録です」


「それでも助かります」


 ドランは、俺たちのやり取りを見ていた。

 そして、小さく笑った。


「妙な村ですね」


「村と呼べるほど、人はいません」


「水があり、薬草があり、記録をつける者がいて、騎士が見張っている。十分、村の始まりです」


 俺は返す言葉を探したが、見つからなかった。


 結局、銀貨三枚で買ったのは、干し豆、塩、油、厚手の布、紙束、空の小瓶、縄、細い封印紐、そして簡単な工具だった。

 ドランは約束通り、一割ほど安くした。


 代わりに、三日後に戻ると記した板を二枚作り、一枚をこちらに、一枚を自分の荷台にしまった。


 水も白露草も、今日は売らなかった。

 ただ、ドランは帰る前に、中央井戸をもう一度見た。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。


 水音を聞いて、彼は深く息を吐いた。


「ルカさん」


「はい」


「商人としては、早く広めたいところです。水が戻った廃村。王都級の薬草。検査票つきの商品。どれも金になる」


「でしょうね」


「ですが、今日の段階で広めるのは危ない」


 ドランは、村の壊れた柵を見た。

 崩れた家々を見た。

 そして、ミラが隠れている家のほうを見ないようにした。


「この村には、まだ壁も人手もありません。金になる話だけが先に広まれば、守る前に奪われる」


 エルシアが短く言った。


「あなたは、それを警告しているのですか」


「商人は、取引相手が潰れると損をします」


「正直ですね」


「誠実と言っていただきたい」


 ドランは帽子をかぶり直し、荷馬車に乗った。


「三日後に来ます。それまで、水と薬草を守ってください。私も、この話はまだ広めません」


「信用していいのですか」


 俺が尋ねると、ドランは笑った。


「信用は、記録で作るのでしょう?」


 そう言って、彼は板に書いた契約文を軽く叩いた。


 荷馬車が村を出ていく。

 車輪の音が、乾いた道を遠ざかっていく。


 ミラが家の陰から出てきた。


「お兄さん、あの人、いい人?」


「まだわからない」


「悪い人?」


「それも、まだわからない」


 ミラは困った顔をした。


「じゃあ、どうするの?」


「記録する」


 俺は契約板と仮検査票を記録帳に挟んだ。


 今日わかったことは多い。

 リーベルの水は、商人の目でも高い価値を持つ。

 白露草は、外部の薬草師だけでなく、商人にも商機として見える。

 そして、価値があるものは人を呼ぶ。


 良い人間だけではない。

 悪い人間だけでもない。

 得をしたい人間が来る。


 それは水や薬草を直すより、ずっと厄介かもしれない。


 エルシアが俺の隣に立った。


「ドランの最後の警告は、正しいと思います」


「はい」


「水と薬草が戻れば、村は豊かになります。ですが、豊かになる前に、奪おうとする者も来ます」


「直すだけでは足りない、ということですね」


「守る必要があります」


 ネリアが白露草の試験区を見た。


「育てる必要もあります。これ、一日で枯らしたら薬草師として泣きます」


 ミラが胸を張った。


「わたし、助手する」


「じゃあ、助手」


 俺はミラに、小さな木札を渡した。


「ここに『触らない』と書いて、試験区の前に立ててくれ」


「字、書けない」


「なら、俺が書く。ミラは立てる」


「うん」


 俺は木札に文字を書いた。


『試験区。水やり禁止。採取禁止。ルカ確認前に触らない』


 それを見たドランなら、きっと笑うだろう。

 商売になりそうな薬草の前に、売るな、触るな、と書くのだから。


 だが、今はそれでいい。


 旧リーベル村は、まだ廃村に近い。

 中央井戸も完全には戻っていない。

 南畑には、一列だけ芽が出ただけだ。


 けれど今日、商人が水を飲んで顔色を変えた。

 白露草を見て、値段を口に出しかけた。

 この村の価値を、外の人間が初めて認めた。


 俺は記録帳を閉じ、中央井戸のほうを見た。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。


 水音は続いている。


 そして、その水音はもう、村の中だけに留まらなくなり始めていた。


 昼過ぎ、荷馬車の跡が村の入口から消えた頃、ドランが最後に残した言葉が耳に残っていた。


「この村、隠しておかないと奪われますよ」

次回、第7話「王都の薬品管理が崩れた日」。

リーベル村で水と薬草が価値を持ち始める一方、王立錬金術院ではルカ不在の穴がさらに広がっていきます。

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