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3/4

俺がいなくなった錬金術院で、最初の炉が止まったらしい

第3話です。今回は王都側。

ルカが毎日見つけていた小さなズレが、彼の不在で初めて事故として表に出始めます。


旧リーベル村に十年ぶりの水音が戻った翌朝。


 王都の王立錬金術院では、いつも通りの朝が始まっていた。


 白衣の技官たちが廊下を行き交い、見習いたちが薬液瓶を運び、実験棟の奥では炉心の低い唸りが響いている。

 磨かれた大理石の床も、銀色の時計塔も、壁に並ぶ歴代錬金術師の肖像画も、何も変わっていない。


 ただ一つだけ、変わった場所があった。


 品質管理室の奥。

 窓際の小さな机。


 そこには、もうルカ・オルメインがいなかった。


 机の上は片づけられている。

 古い羽ペンも、欠けた定規も、小型魔石灯もない。

 壁に貼られていた手書きの検査予定表も、誰かが雑に剥がしたせいで、四隅だけが残っていた。


 だが、その空席を気にする者はほとんどいなかった。


「品質管理官代理、か」


 若い錬金術師ライナス・ケイルは、空いた机の前で処分書の写しをひらひらと振った。


 四日前の講堂で、ルカを笑った者の一人である。

 貴族の次男で、王立錬金術院に入って三年。派手な成果はまだないが、院長バルドの派閥に入るのだけは早かった。


 そのライナスが、当面の検査業務を任されることになった。


 理由は単純だった。

 本人ができると言ったからだ。


「計測係の仕事など、手順書通りに数字を読めば済む。あいつが大げさに騒ぎすぎていただけだ」


 ライナスは、周囲の見習いたちにそう言った。


 見習いたちは笑った。

 だが、その中で一人だけ、年配の主任技官ヘルムは笑わなかった。


「ライナス君。今日の第七小型炉の検査は慎重にやったほうがいい」


「第七小型炉?」


「昨日、炉心管を交換したばかりだ。ルカ君なら、交換直後は必ず二回測った」


「だから時間がかかっていたんでしょう」


 ライナスは手順書を閉じ、鼻で笑った。


「主任。あなたまで、あの計測係の真似をする必要はありませんよ。第七小型炉は王宮納品用の浄化石を焼くだけの炉です。大型浄化炉とは違う。炉心容量も小さい。危険はありません」


「小さい炉でも、詰まれば破裂する」


「詰まっていれば計器に出ます」


 ライナスは壁の測定器具を指差した。


「温度計。魔力圧計。循環針。薬液濃度計。全部そろっている。必要なのは目ではなく数字です。ルカのように、赤い線が見えるだの、流れが歪んでいるだの、曖昧なことを言う必要はない」


 ヘルムは眉を寄せた。


「ルカ君は、数字も見ていた」


「数字しか見られない者が、そう言うんです」


 ライナスはそれ以上聞かなかった。


 第七小型炉は、第三実験棟の隣にある第二炉室に置かれている。

 高さは人の背丈ほど。大型浄化炉と比べれば小さいが、王宮薬品庫へ納める浄化石を焼くには十分な火力を持つ。


 今日焼く予定の浄化石は三百個。

 王宮の貯水槽に投入される、定期納品分だった。


 小型炉の前には、見習い二人と技官三人が集まっている。

 炉心は交換済み。薬液槽は満たされ、魔石燃料も規定量。

 あとは検査を通して、点火するだけだった。


「では、検査を始める」


 ライナスは手順書を開いた。


 炉心温度、正常。

 薬液濃度、正常。

 魔石燃料純度、正常。

 外殻温度、正常。

 循環管の魔力圧、基準値内。


 紙の上に並ぶ数字は、どれも規定範囲に収まっていた。


 ただ一つ、第七循環弁の戻り圧だけが、基準値よりわずかに高い。


 誤差は、0.4。


 手順書の許容範囲には、こう書かれている。


『戻り圧の許容誤差、±0.5以内』


 つまり、問題なし。


 ライナスは検査表に丸をつけた。


 その横で、ヘルムが目を細める。


「戻り圧が高いな」


「許容範囲内です」


「交換直後で高く出るのは妙だ。普通は低く出る」


「手順書には、許容範囲内とあります」


「ルカ君なら止めていた」


 その名前が出た瞬間、ライナスの手が止まった。


「主任」


 声が冷たくなる。


「その名前を出すのはやめてください。彼は事故を起こして追放された人間です」


「事故を起こしたかどうかは、まだ」


「院長が決めたことです」


 ヘルムは口を閉じた。


 王立錬金術院では、正しいかどうかより、誰が決めたかのほうが重い。

 それを知らない技官はいない。


 ライナスは検査表の最後に自分の署名を書いた。


「第七小型炉、稼働許可。点火」


 見習いが点火用の魔石を炉心に差し込む。


 青い火が炉の奥で灯った。

 次に、低い唸りが起きる。

 薬液槽から透明な液が循環管へ流れ、浄化石の素体が炉内へ送られていく。


 最初の数分は、問題なかった。


 温度計は安定している。

 魔力圧計も基準内。

 薬液の流量も正常。


 ライナスは胸を張った。


「見たでしょう、主任。これが普通です。計測係一人がいなくなったくらいで、院が回らなくなるわけがない」


 ヘルムは答えなかった。


 彼は循環針だけを見ていた。


 針が、ほんのわずかに揺れている。


 右へ。

 戻る。

 また右へ。


 大きな異常ではない。

 他の技官なら見逃す程度の揺れだ。


 だが、ヘルムは知っていた。


 ルカ・オルメインは、こういう時、まず炉の音を聞いた。

 次に、手順書にはない位置の管を軽く叩き、針の揺れと音の遅れを比べた。

 そして、何もなければ何も言わない。


 何かあれば、赤い線を引いた。


「停止準備を」


 ヘルムが小声で言った。


「主任?」


「循環針が遅れている。戻り圧が高い原因は、弁ではなく管の奥かもしれん」


 ライナスは顔をしかめた。


「また曖昧なことを」


 その瞬間、炉の音が変わった。


 低い唸りの中に、濁った音が混じる。


 ごぼ、と液が詰まるような音。


 見習いの一人が顔を上げた。


「いま、変な音が」


「静かに。計器を見るんだ」


 ライナスが言った直後、魔力圧計の針が跳ねた。


 基準値上限。

 警告域。

 さらに上。


 赤い警告石が点灯する。


「圧力上昇!」


「薬液槽を閉じろ!」


 ヘルムが叫んだ。


 技官が弁に飛びつく。

 だが、弁は重かった。

 内部の圧力が逆流し、手動ではすぐに閉じられない。


「だから言っただろう、停止準備をしろと!」


「待ってください、まだ安全域に」


 ライナスの言葉は最後まで続かなかった。


 炉の側面で、銀色の小さな栓が弾けた。


 蒸気が噴き出す。

 次いで、炉全体ががくんと揺れた。


 火が落ちる。

 循環音が消える。

 薬液の流れが止まる。


 第二炉室に、耳が痛くなるほどの沈黙が落ちた。


 見習いの一人が、青ざめた顔で言った。


「炉が……止まりました」


 床に、白い粉が散っている。

 焼成中だった浄化石の素体が、炉内で割れたのだ。


 三百個。

 全滅だった。


 ライナスは、何が起きたのかすぐには理解できなかった。


 爆発はしていない。

 火災も起きていない。

 誰も怪我をしていない。


 ただ、炉が止まった。


 だからこそ、余計に理解できなかった。


「なぜ止まった……?」


 ヘルムは、炉の側面で弾けた銀色の栓を見た。


「安全栓が作動した」


「安全栓?」


「過圧を逃がして、炉心を強制停止する部品だ」


「そんなもの、手順書には」


「去年、ルカ君が追加を申請した。第七小型炉は戻り圧の逃げが遅いと、何度も報告していた」


 ライナスは言葉を失った。


 去年。

 ルカが。


 つまり、この炉はルカの追加した安全栓によって止まった。


 裏を返せば、安全栓がなければ止まらなかった。

 止まらなければ、圧力はさらに上がっていた。


 ヘルムは炉の外殻に触れ、すぐ手を離した。


「外殻温度が高い。炉心管の奥で薬液が焦げている。循環弁ではなく、その先の戻り管が詰まったな」


「詰まりなど、検査では」


「出ていた。戻り圧0.4だ」


「許容範囲内です!」


「数字だけならな」


 ヘルムの声には、怒りより疲れがあった。


「ルカ君なら、交換直後の戻り圧0.4を見て止めていた。許容範囲かどうかではない。昨日の数値と比べて、どう変わったかを見るんだ」


「昨日の数値は、どこに」


 ライナスは検査台帳を開いた。


 そこには数字が並んでいる。

 だが、昨日の欄には小さな印がついていた。


『個人記録帳十七番、戻り管の癖を参照』


 ライナスは眉を寄せる。


「個人記録帳……?」


 ヘルムは黙った。


 品質管理室で、ルカがいつも持ち歩いていた革表紙の帳面。

 正式な台帳には書ききれない炉の癖や、薬液の沈み方、管ごとの遅れを記していたもの。


 あれがなければ、数字の意味がわからない。


 その時、第二炉室の扉が乱暴に開いた。


「何の騒ぎだ」


 入ってきたのは、バルド・レイヴン院長だった。


 銀縁の白衣を揺らし、床に散った白い粉を見下ろす。

 次に、停止した第七小型炉を見た。


「炉を止めたのか」


 ライナスは慌てて姿勢を正した。


「院長、申し訳ありません。第七小型炉の安全栓が作動しまして」


「安全栓?」


 バルドの眉がわずかに動いた。


 彼も覚えていたのだろう。

 去年、ルカが何度も提出した申請書のことを。


 第七小型炉の戻り圧に遅れあり。

 過圧時の逃げ道が不足。

 安全栓の追加を推奨。


 バルドは最初、その申請を却下した。

 理由は、予算がかかるから。

 それでもルカは三度報告し、最後はヘルムが署名して、ようやく取り付けられた。


「なぜ、作動させた」


「自動作動です。戻り管の詰まりで魔力圧が上がりました」


 ヘルムが答える。


 バルドは不快そうに彼を見た。


「主任技官。君がいながら、小型炉一つ止められないのか」


「止まったから、この程度で済みました」


「口答えか」


「事実です。安全栓がなければ、炉心管が破裂していました」


 第二炉室が静まり返る。


 バルドは、床の白い粉を靴先で払った。


「王宮納品分は」


「全滅です」


 ライナスが小さく言った。


「三百個すべて、焼成不良です」


 バルドの顔色が変わった。


 王宮納品は、ただの取引ではない。

 王立錬金術院の信用そのものだ。

 定期納品に遅れれば、王宮薬品庫から問い合わせが来る。

 理由を求められれば、事故報告書を出さなければならない。


 そして王立錬金術院は、四日前にも大型浄化炉事故を起こしたばかりだった。


 短期間に二度。

 それは、偶然では済まされない。


「作り直せ」


 バルドは低い声で言った。


「今すぐだ。別の炉を使え」


「予備炉は第三実験棟側にありますが、先日の大型浄化炉事故で冷却管がまだ」


「では第四炉を使え」


「第四炉は霊薬用です。浄化石を焼けば薬液臭が残ります」


「なら洗浄しろ」


「一晩かかります」


 バルドのこめかみが動いた。


「言い訳ばかりだな」


 ヘルムは黙っていた。


 実際、言い訳ではなかった。

 ルカがいれば、予備炉の状態も、第四炉の洗浄手順も、どの程度までなら転用できるかも、すぐに言えただろう。


 彼は毎朝、必要以上に細かく記録していた。

 炉ごとの癖。管の遅れ。薬液の残り香。結界石の劣化。


 その時は、誰も読まなかった。


 今は、その誰も読まなかった記録が必要だった。


「ルカの台帳を持ってこい」


 バルドが命じた。


 ライナスが顔を上げる。


「公式台帳なら、ここに」


「それではない。あいつが持っていた革表紙の帳面だ」


 ヘルムが静かに言った。


「あれは私物です」


「業務中に記録したものだ。院に帰属する」


「なら、追放前に正式に差し押さえるべきでした」


 バルドの目が細くなる。


「主任技官。君はずいぶん、追放された計測係をかばうのだな」


「かばっているのではありません。今、必要なものを言っているだけです」


「必要なのは規律だ」


 バルドはライナスへ視線を向けた。


「品質管理室を調べろ。机、棚、廃棄箱、私物箱。ルカ・オルメインが残した記録をすべて回収する」


「はい」


「それと、旧リーベル村への派遣記録を確認しろ。馬車の到着予定もだ」


 ライナスは一瞬だけ目を丸くした。


「ルカを呼び戻すのですか」


「勘違いするな」


 バルドは冷たく言った。


「あの男を戻すのではない。あの男が持ち出した院の情報を回収するだけだ」


 誰も反論しなかった。


 だが、第二炉室にいた者の何人かは、同じことを考えていた。


 四日前まで、ルカ・オルメインは無能な計測係だった。

 邪魔者だった。

 誤差しか見えない男だった。


 その男の帳面を、院長が探している。


 品質管理室の捜索は、すぐに行われた。


 だが、結果は早かった。


 何も出なかった。


 机は空。

 引き出しも空。

 書棚には公式台帳しか残っていない。

 廃棄箱には、破れた封筒と古い布切れだけ。


 革表紙の記録帳は、どこにもなかった。


「持っていったようです」


 ライナスが報告すると、バルドはしばらく黙っていた。


 その沈黙が、かえって恐ろしかった。


「誰が許可した」


「私物として扱われたものかと」


「誰が、許可した」


 ライナスは答えられなかった。


 そもそも、ルカの私物をそこまで重要視していた者はいなかった。

 昨日までは。


 バルドは窓の外を見た。


 北門の先には、街道がある。

 そのさらに先に、旧リーベル村がある。


 水源が枯れ、住民に捨てられた辺境の廃村。

 ルカ・オルメインにはちょうどいい場所だと、バルド自身が言った場所。


「……使者を出す準備をしておけ」


 ライナスは息を呑んだ。


「今すぐですか」


「今すぐではない。王宮への納品遅延を処理してからだ」


 バルドは机を指で叩いた。


「まずは、この件を外に漏らすな。第七小型炉は定期点検中。浄化石は品質確認のため再焼成。そう報告する」


「ですが、王宮薬品庫には納品日が」


「私が調整する」


 そう言いながら、バルドの目は笑っていなかった。


 彼は理解していた。


 大型浄化炉事故の直後に、小型炉停止。

 しかも停止の原因は、ルカが以前から警告していた戻り圧の問題。


 これが表に出れば、処分の正当性が揺らぐ。


 ルカを追放したことが、早すぎる判断だったと見られる。


 それだけは避けなければならない。


「ライナス」


「はい」


「第七小型炉の事故原因は、作業員の手順不備だ。いいな」


 ライナスは一瞬、ヘルムを見た。


 ヘルムは何も言わない。

 ただ、停止した炉を見ている。


「……はい」


 ライナスは答えた。


 その声には、朝のような自信はなかった。


 昼過ぎ、王宮薬品庫から正式な問い合わせが届いた。


『本日納品予定の浄化石三百個について、納品時刻の確認を求める』


 バルドは返答書を作らせた。


『品質確認のため、納品を一日延期する』


 嘘ではない。

 品質確認が必要なのは事実だった。


 ただし、その理由が炉停止であることは書かなかった。


 その返答書を封じた後、バルドは品質管理室へ入った。


 ルカの机の前に立つ。


 空の机。

 剥がされた検査予定表。

 何も入っていない引き出し。


 そこに、かつて毎朝、ルカが座っていた。

 誰よりも早く出勤し、誰よりも遅くまで炉の音を聞き、誰も読まない報告書を書いていた。


 バルドは、その報告書を何度も利用した。


 危険な箇所だけ直し、提出者の名前を消し、自分の判断として王宮に報告した。

 それで成果になった。

 それで予算を取った。

 それで勲章を得た。


 だが、今は机が空だった。


「誤差しか見えない無能が」


 バルドは低く呟いた。


「最後まで、面倒を残していきおって」


 その言葉を聞く者はいなかった。


 夕方。


 第二炉室では、第七小型炉の分解検査が続いていた。


 炉心管の奥から、焦げた薬液の塊が見つかった。

 戻り管の内側に、薄い膜のように貼りついている。

 昨日の交換作業で入り込んだ微細な白色結晶が、薬液と反応して膜を作ったらしい。


 普通なら、最初の循環で流される程度の異物だった。


 しかし、第七小型炉には癖がある。

 戻り圧の逃げが遅く、一定の温度を超えると、薬液が管の奥でよどむ。


 その癖を、ルカは知っていた。


 ヘルムは公式台帳の余白を見た。


 そこには、小さな文字でこう書かれていた。


『第七小型炉、戻り圧0.3以上で再検査。交換直後は特に注意』


 署名はない。

 だが、字はルカのものだった。


 ヘルムはその一文を指でなぞった。


「……書いてあるじゃないか」


 小さすぎて、誰も読まなかった。

 細かすぎて、誰も気にしなかった。


 それでも、書いてあった。


 ヘルムは台帳を閉じ、停止した炉を見上げた。


 炉は静かだった。


 王立錬金術院では、炉が止まることなど珍しくない。

 整備不良。材料不良。術式の相性。作業員のミス。

 理由はいくらでもある。


 だが、今日の停止は違う。


 これは、ルカがいなくなって初めて見えた穴だった。


 夜になっても、錬金術院の灯りは消えなかった。


 第四炉の洗浄が始まり、浄化石の再焼成準備が行われる。

 見習いたちは眠そうな顔で薬液瓶を運び、ライナスは何度も手順書を読み返していた。


 その手順書の端には、ルカの細かな注記が残っている。


『第四炉で浄化石を焼く場合、霊薬残渣に注意。洗浄後、低温空焼き二回を推奨』


 ライナスは、その文字を見つめた。


 四日前なら、笑っていただろう。

 誤差しか見えない無能の細かすぎる注意書きだと。


 だが今は、笑えなかった。


「低温空焼き、二回」


 ライナスは小さく読み上げる。


 見習いが尋ねた。


「手順書には一回とありますが」


 ライナスは少し迷った。


 それから、苦い顔で言った。


「二回やる」


 見習いは驚いたように瞬きをした。


「ルカさんの注記、ですか」


「黙って作業しろ」


 ライナスはそう言ったが、否定はしなかった。


 同じ頃、院長室では、バルドが一通の命令書を書いていた。


『旧リーベル村派遣者ルカ・オルメインの私物について、王立錬金術院の業務情報を含む可能性があるため、確認および回収を命じる』


 文章は丁寧だった。

 だが、意味は明白だった。


 ルカの記録帳を取り戻せ。


 バルドは署名し、封蝋を押した。


 赤い蝋に、王立錬金術院の紋章が沈む。


 その時、院長室の窓の外で、第二炉室の排気塔が小さく震えた。


 バルドは顔を上げた。


 震えはすぐに収まった。

 警報も鳴らない。

 誰かが騒ぐ声も聞こえない。


 ただ、遠くで炉の音が一拍だけ乱れた。


 ルカがいれば、そこで立ち止まっただろう。

 音を聞き、圧力計を見て、どこかに赤い線を見つけたかもしれない。


 だが、今の王立錬金術院に、その赤線を見る者はいなかった。


 バルドは命令書を机の上に置き、窓から目を逸らした。


「ただの音だ」


 そう呟いて、彼は封筒を閉じた。


 王立錬金術院で最初の炉が止まった日。


 まだ誰も、それを始まりだとは思っていなかった。


次回、第4話「辺境騎士エルシア、廃村の水を疑う」。

旧リーベル村に巡回中の騎士が現れます。ルカの能力は、初めて王都でも村人でもない第三者の目で試されることになります。


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