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2/8

枯れ井戸を直しただけですが、村人に泣かれました

第2話です。

追放先の廃村で、ルカの仕事が初めて誰かの命に届きます。


井戸の底で、水音がした。


 ぽちゃん。


 乾き切った廃村には似合わない、あまりにも小さな音だった。

 だが、崩れかけた家の陰に立っていた少女には、それだけで十分だったらしい。


「……みず?」


 かすれた声が、もう一度そう言った。


 少女はひどく痩せていた。

 年は十歳前後だろうか。肩にかけている布は大人用の上着を切ったものらしく、細い腕が袖口から頼りなく出ている。頬はこけ、唇は白く乾いていた。


 俺は井戸の縁から手を離し、ゆっくりと振り返った。


「君は、この村の子か」


 少女は答えなかった。

 逃げるほどの力もないのか、それとも井戸の水音から目を離せないのか、壊れた扉の隙間に立ったまま、こちらを見ている。


 俺は荷物の中から革の水袋を取り出した。

 王都を出る時に買った安いものだ。中身はもう半分も残っていない。


「飲めるか」


 少女の喉が小さく動いた。

 けれど、すぐには近づいてこない。


 当然だ。

 見知らぬ男が、廃村の井戸を覗き込んでいる。

 警戒しないほうがおかしい。


「俺はルカ・オルメイン。王都から来た。君を傷つけるつもりはない」


 王立錬金術院から追放されてきた、とは言わなかった。

 子どもに説明するには長すぎるし、何より情けない。


 俺は水袋を地面に置き、数歩下がった。


「ここに置く。飲むなら、少しずつだ。一気に飲むと体に悪い」


 少女はしばらく迷っていた。

 それから、おそるおそる扉の陰から出てきた。


 裸足だった。

 足の裏は土で黒くなり、膝には古い傷がいくつもある。


 少女は水袋を拾うと、俺を見上げた。


「……いいの?」


「いい」


「おじいちゃんも、飲んでいい?」


「他にも人がいるのか」


 少女は小さくうなずいた。


「おじいちゃん、動けない。ずっと、井戸番だったから」


 井戸番。


 その言葉を聞いた瞬間、俺はもう一度、中央の井戸を見た。

 古代式の制御井。内壁に刻まれた魔法陣。赤線と青線。

 この村に井戸番がいたのなら、少なくとも昔は、ただの水汲み場ではなかった可能性が高い。


「名前は?」


「ミラ」


「ミラ。おじいさんのところへ案内してくれ。水袋は持っていていい」


 ミラは水袋を胸に抱え、また小さくうなずいた。


 案内された家は、井戸から二軒離れた場所にあった。

 屋根は半分落ち、壁には板が打ちつけられている。人が住める状態とは言いがたい。

 ただ、入口の周囲だけは掃かれていた。まだ誰かが生活しようとしている痕跡があった。


「おじいちゃん」


 ミラが中へ入る。


 俺も続いた。


 室内は暗かった。

 窓が板でふさがれているせいで、夕方の光もほとんど入らない。土間の奥に、藁を重ねただけの寝床がある。


 そこに、老人が横たわっていた。


 白い髪。落ちくぼんだ目。乾いた皮膚。

 生きてはいるが、かなり弱っている。


「おじいちゃん、水」


 ミラが水袋を差し出すと、老人は薄く目を開けた。


「……ミラ。どこで、それを」


「井戸から音がしたの。あの人が、水をくれた」


 老人の目が、俺に向いた。

 警戒と、疑いと、ほんのわずかな期待が混ざった目だった。


「旅の方か」


「ルカ・オルメインです。王都から旧リーベル村へ派遣されました」


「王都……」


 老人の表情が硬くなった。


 歓迎されていない。

 その反応だけで、王都がこの村に何をしたのか、少なくとも良いことではなかったのだとわかる。


「役人ではありません。錬金術院にいましたが、今はただの開拓補助員です」


「錬金術院、か」


 老人はかすかに笑った。

 笑いというより、乾いた息だった。


「十年前も来た。立派な白衣の連中が。井戸を覗いて、器具を下ろして、三日ほど調べてな。結論は、自然に枯れた、だった」


「自然に枯れたとは限りません」


 老人の目が細くなった。


「何を知っている」


「中央の井戸を見ました。あれは普通の井戸ではない。内壁に古代式の制御陣があります。水源が完全に死んだのではなく、魔力流路が詰まっている」


 老人はしばらく黙っていた。

 その沈黙の中で、ミラが水袋の口を開けようとした。


「待って」


 俺は手を伸ばし、止めた。


 ミラが怯えたように肩をすくめる。


「取り上げるわけじゃない。一気に飲ませると危ない。まず口を湿らせるだけだ」


 俺は布を水で濡らし、老人の唇に触れさせた。

 老人はゆっくりと水を吸った。

 次に、ほんの少しだけ口に含ませる。


 ミラにも同じように飲ませた。


 水袋の中身は、すぐに残り少なくなった。


 老人はかすれた声で言った。


「中央井戸が、詰まっていると言ったな」


「はい」


「直せるのか」


 その問いには、すぐ答えられなかった。


 直せる、と言い切りたい。

 だが、俺の【修正眼】は、原因を見せてくれるだけだ。

 実際に直すには道具がいる。時間がいる。材料もいる。


 王立錬金術院のような設備は、ここにはない。

 手元にあるのは、安物の魔石灯、欠けた定規、針金、小さな鑿、作業手袋。

 それだけだ。


 それでも、井戸は一度音を立てた。

 完全に死んではいない。


「応急修理ならできます」


 老人の喉が動いた。


「応急、か」


「今夜中に、飲める水を少し出す。完全復旧には三日ほど必要です。無理に流量を増やすと、内壁の制御陣が壊れます」


「三日……」


 老人の目に、急に力が戻った。


「ミラ。水番小屋へ行け。奥の棚に、古い井戸道具が残っている。使えるものがあるかもしれん」


「でも、おじいちゃん」


「わしは寝ているだけだ。行け」


 ミラは迷った後、うなずいた。


 俺は立ち上がる。


「俺も行きます。暗くなる前に道具を見たい」


 水番小屋は、中央井戸のすぐ近くにあった。

 半分崩れていたが、他の家よりは原形を保っている。


 ミラが扉を押すと、乾いた音を立てて開いた。


 中には、古い縄、錆びた滑車、ひび割れた桶、短い鉄棒、木杭、布切れ、折れた柄のついた鉤が置かれていた。

 十年放置された道具だ。大半は使えない。


 だが、大半であって、全部ではない。


 俺は【修正眼】を使った。


 視界の中に、赤線と黄線が浮かぶ。

 赤線が多いものは危険。黄線は限界。白線が残っていれば、まだ使える余地がある。


「この縄は駄目だ。途中で切れる」


 触れる前から、縄の中央に赤線が走っていた。

 少し引けば切れるだろう。


「こっちの滑車も駄目。軸が割れている」


「じゃあ、使えないの?」


「全部ではない」


 俺は奥の棚から、細い鎖を取り出した。

 錆びてはいるが、芯までは腐っていない。

 次に、ひび割れた桶の底を見た。

 側面は駄目だが、底板はまだ使える。


 革帯を切り、針金で補強し、桶の割れ目を布で仮塞ぎする。

 完全な桶ではない。水を長く運べるものでもない。

 だが、井戸底から一度水を汲み上げる程度なら持つ。


 ミラはその作業を、息をするのも忘れたように見ていた。


「お兄さん、井戸を直せる人なの?」


「直せる時もある」


「錬金術師?」


「元、錬金術院の品質管理官だ」


「ひんしつ?」


「壊れそうなところを見つける仕事だ」


 ミラは少し考えた。


「じゃあ、井戸のお医者さん?」


 俺は手を止めた。


 王都では、そんな言い方をされたことはなかった。

 計測係。雑用。誤差しか見えない無能。

 それが俺の呼び名だった。


「……そうかもしれない」


 ミラは初めて、ほんの少しだけ笑った。


 井戸へ戻る頃には、夕日はほとんど沈んでいた。

 空は暗い紫色に変わり、北の森から冷たい風が吹いている。


 俺は魔石灯を井戸の縁に固定し、内壁を照らした。


 赤線はさっきよりもはっきり見えた。

 上層の詰まりを少し剥がしたせいで、魔力の流れが動き始めたのだろう。

 その分、次に危険な箇所も見えやすくなっている。


「ミラ、井戸には近づきすぎるな。石が崩れるかもしれない」


「うん」


 俺は針金の先に布を巻き、古い鉤へ結びつけた。

 即席の掃除具だ。


 狙うのは、内壁の三箇所。

 青線が示す順番は明確だった。


 一つ目は、井戸の縁から三段下。

 二つ目は、その対面の斜め下。

 三つ目は、さらに奥にある欠けた刻印の端。


 全部を削る必要はない。

 詰まりの縁だけを剥がす。

 流れ道を作るだけでいい。


 俺は鉤を下ろした。


 かり、と白い結晶を擦る音がする。


 力を入れすぎるな。

 白い結晶だけを剥がせ。

 刻印には触るな。


 赤線の端に鉤をかける。

 剥離点はそこだ。


 ぱき。


 一つ目が剥がれた。


 井戸の奥で、低い震えが起きる。


 ミラが息を呑んだ。


「井戸が鳴ってる」


「流れが戻り始めている。まだ触るな」


 二つ目。


 今度は少し深い。

 腕を伸ばすだけでは届かない。

 俺は鎖を鉤に足し、角度を変えた。


 青線は見えている。

 だが、手元の動きと井戸の内側の動きにはずれがある。

 狙いを誤れば、内壁を傷つける。


 慎重に。

 ゆっくりと。


 ぱき。


 二つ目が落ちた。


 井戸の底で、また水音がした。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。


 さっきより、間隔が短い。


 ミラは両手を握りしめていた。


「出てる……」


「まだ飲める水じゃない。最初の水は捨てる」


「どうして?」


「十年分の汚れが混ざっている」


 子どもには酷な言い方だったかもしれない。

 だが、ここで焦って飲ませれば危険だ。


 三つ目は、欠けた刻印の端だった。


 ここが一番危ない。

 赤線の近くに黄線が走っている。

 黄線は限界を示す。これ以上強く触れば、刻印そのものが剥がれる。


 俺は一度手を止めた。


 やるべきか。

 ここで止めても、水は少し出る。

 だが、飲める量には足りない。老人と少女を今夜もたせるには、もう少し流量が必要だ。


 王都なら、ここで報告書を書いて、上の判断を待っただろう。

 危険あり。作業中止。再検査を推奨。


 だが、ここには院長はいない。

 判断を押しつける相手もいない。


 俺が決めるしかない。


「ミラ」


「なに?」


「少し離れて。もし石が鳴ったら、家の陰まで走れ」


「お兄さんは?」


「俺は井戸から離れる」


 嘘ではない。

 離れられれば、の話だが。


 俺は鉤の角度を変えた。


 黄線に触れない位置。

 赤線の端。

 白い結晶の浮いた箇所。


 そこへ、鉤の先を当てる。


 息を止める。


 ほんの少しだけ、手首を回す。


 ぱきん。


 三つ目の結晶が剥がれた。


 直後、井戸の内側で青白い光が走った。


 石組みの奥に刻まれていた古代式の制御陣が、一瞬だけ浮かび上がる。

 円環。水脈印。三本の流路。中央から北と南へ伸びる線。


 そのうち、中央の線だけが細く光っていた。


 そして、井戸の底から音がした。


 ぽちゃん。


 ぽちゃん。


 ぽちゃん。


 水滴ではなく、小さな流れの音になっていく。


 ミラが井戸へ駆け寄ろうとした。


「待て」


 俺は強めに言った。


 ミラはびくりと止まる。


「ごめん。でも、まだ危ない。俺が汲む」


 即席の桶を鎖に結び、井戸へ下ろした。

 底までは遠い。桶が何度か内壁に当たり、鈍い音を立てる。


 やがて、軽い水音がした。


 桶を引き上げる。


 重い。


 水が入っている。


 たったそれだけの事実が、腕に伝わってきた。


 俺は桶を井戸の縁まで引き上げた。

 中には、底が見える程度の水が入っていた。

 量は少ない。濁りもある。白い粒が浮いている。


「これは捨てる」


 ミラが悲しそうな顔をした。


「飲めないの?」


「今は飲まないほうがいい。次を汲む」


 俺はその水を井戸の外の乾いた土へ流した。

 土が黒く濡れる。

 ミラはその跡を、信じられないものを見るように見つめていた。


 二度目の桶を下ろす。


 今度は、さっきよりも水音がはっきりした。


 引き上げた水は、まだ完全に澄んではいない。

 だが、赤線はほとんど見えなかった。

 危険な毒性や腐敗の筋はない。白い粒も少ない。


 俺は小型魔石灯の光を当て、表面を確認した。


「飲める。少しずつなら」


 ミラの目が揺れた。


「本当に?」


「本当に」


 俺は金属の杯に水を注いだ。

 まず自分で一口飲む。


 冷たかった。


 井戸の底から戻ってきた水は、喉を通るとき、かすかに土と石の匂いがした。

 けれど、不快ではない。むしろ、長い間眠っていた水脈が、ようやく動き出したような味だった。


「大丈夫だ」


 俺は杯をミラに渡した。


 ミラは両手で杯を持った。

 水面をじっと見つめる。

 そして、ほんの少しだけ口をつけた。


 次の瞬間、彼女の目から涙がこぼれた。


「冷たい」


 ミラはそう言った。


「お水、冷たい」


 その言葉だけで、胸の奥が詰まった。


 王都では、俺の仕事に礼を言う者はいなかった。

 炉の異常を止めれば、研究を遅らせたと責められた。

 薬液の不良を指摘すれば、細かすぎると笑われた。

 結界石の劣化を報告すれば、予算を食うだけだと嫌がられた。


 だが、同じことをしただけだ。


 異常を見つけた。

 原因を調べた。

 直せる範囲を直した。


 それだけで、目の前の少女は泣いている。


「おじいちゃんにも」


「ああ」


 俺は二杯目を汲んだ。


 老人の家へ戻ると、ガイ老人は体を起こそうとしていた。

 ミラが慌てて駆け寄る。


「おじいちゃん、井戸のお水」


 老人は杯を見た。

 手が震えている。


「中央井戸の……水か」


「はい。まだ応急です。最初の水は捨てました。これは二度目に汲んだものです。少量ずつ飲んでください」


 俺は杯を差し出した。


 老人は両手で受け取った。

 しばらく水面を見つめ、それからゆっくりと口をつけた。


 一口。


 二口。


 老人の肩が震えた。


「……リーベルの水だ」


 かすれた声が漏れた。


「十年だ。十年、聞けなかった音だ」


 老人の目から涙が落ちた。


 ミラも泣いていた。

 二人とも、声を上げて泣くわけではない。

 ただ、杯を抱えて、静かに涙を流している。


 俺は立ったまま、どうしていいかわからなかった。


 礼を言われることに慣れていない。

 まして、泣かれることにはもっと慣れていない。


「応急修理です」


 俺は言った。


「まだ完全には戻っていません。今夜飲める量は限られます。明日から本格的に詰まりを取りますが、無理に流すと制御陣が壊れる。三日ほど、慎重に作業する必要があります」


 言い訳のように説明した。

 王都で身についた癖だった。

 成果を出しても、まず危険と制限を報告する。


 だが、ガイ老人は笑わなかった。


「三日で戻るのか」


「戻せる可能性が高いです。ただし、中央井戸だけです。北と南の井戸は、まだ見ていません」


「十分だ」


 老人は杯を胸に抱いた。


「今夜、水がある。それだけで十分だ」


 その言葉は、俺の胸に重く残った。


 王都では、十分という言葉を聞いたことがなかった。

 もっと成果を出せ。もっと早く。もっと大きく。もっと派手に。

 そして、事故が起きれば責任を押しつけられる。


 ここでは、一杯の水で十分と言われた。


 不思議な感覚だった。


「ルカさん」


 ガイ老人が俺を呼んだ。


「あなたは、本当に錬金術院から来たのか」


「はい」


「なら、あの連中とは違うのか」


 答えに詰まった。


 俺は王立錬金術院の人間だった。

 少なくとも昨日までは。

 あの組織で働き、あの組織の規則で測定し、あの組織の書式で報告書を書いていた。


 違うと言い切る資格があるのかは、わからない。


「違う、と言えるほど立派ではありません」


 俺は正直に答えた。


「ですが、この井戸の異常は見えています。見えた以上、放っておくつもりはありません」


 ガイ老人は、ゆっくりとうなずいた。


「それなら、話しておくことがある」


 ミラが老人の隣に座る。


 外では、夜風が壊れた屋根を鳴らしていた。

 俺は床に腰を下ろし、記録帳を開いた。


 ガイ老人は、静かに話し始めた。


「十年前、この村には三本の井戸があった。中央井戸、北森井戸、南畑井戸。どれも水がよく出た。中央井戸は飲み水、北森井戸は家畜と森番、南畑井戸は薬草畑に使っていた」


 俺は地図に印をつける。


「最初に変わったのは、中央井戸だった」


「水量が減った?」


「いや。音が変わった」


「音?」


 ガイ老人は目を閉じた。


「井戸番は、水の音を聞く。元気な井戸は、底で細く鳴る。雨の後は少し高く、冬は低い。だが、あの年の春、中央井戸の音が急に重くなった。まるで、どこかで水が引っ張られているような音だった」


 俺の手が止まった。


 水が引っ張られている。


 自然に枯れた井戸に対する表現としては、不自然だ。


「その後、青い光が消えた」


「青い光を見たんですか」


「井戸底に、昔からあった。わしの父も、その父も見ている。月のない夜でも、中央井戸の底には青い根のような光があった。水番は、それを井戸の命と呼んでいた」


 青い根。


 俺が井戸の底に見たものと同じだ。


「光が消えて、三日後に水量が落ちた。一月後には北森井戸が弱り、半年後には南畑井戸も駄目になった」


「王都の調査員は、その順番を知っていましたか」


「ああ。話した。だが、連中は記録に残さなかった」


 ガイ老人の声に、わずかな怒りが混ざる。


「井戸は古い。村は小さい。移住したほうが早い。そう言われた。村の若い者は出ていった。薬草畑も捨てられた。残ったのは、わしとミラくらいだ」


「ミラのご両親は」


 聞いた瞬間、ミラが下を向いた。


 失敗したと思った。

 だが、ガイ老人は静かに答えた。


「娘夫婦は、南の町へ水を買いに行って戻らなかった。盗賊か、魔物か、病か。わからん。ミラは、ここで待っている」


 室内が重く沈んだ。


 俺は記録帳に書きかけた文字を止めた。


 この村が枯れた、という言葉で片づけられたものの中には、人の生活がある。

 仕事がある。家族がある。待っている子どもがいる。


 王都の資料には、そんなことは書かれていなかった。


 旧リーベル村。

 十年前、水源枯渇により放棄。


 それだけだった。


「ガイさん」


「なんだ」


「明日、北森井戸と南畑井戸も見ます。ただ、中央井戸を完全に戻すのが先です。ここが基点になっている可能性がある」


「基点?」


「三本の井戸は、別々の水源ではないかもしれません。中央井戸から北と南へ流れを分ける構造になっているように見えました。中央の詰まりを取れば、他の井戸にも変化が出る可能性があります」


 ガイ老人は、長い息を吐いた。


「本当に、見えるのだな」


「はい」


「誤差が?」


 俺は苦笑した。


「そう言われていました」


「馬鹿な連中だ」


 老人は、はっきりとそう言った。


 俺は思わず顔を上げた。


「水番も同じだ。音が少し違う。石の湿り方が少し違う。桶に残る匂いが少し違う。そういう小さな違いで、井戸の具合を知る。違いが見える者を馬鹿にする村は、井戸を枯らす」


 その言葉は、王都の講堂で浴びた嘲笑よりもずっと強く胸に刺さった。


 違いが見える者を馬鹿にする村は、井戸を枯らす。


 なら、王都はどうなのだろう。


 俺の報告書を握り潰し、事故の責任を俺に押しつけ、誤差しか見えない無能と笑ったあの場所は。


 考えるのはやめた。


 今夜は、目の前の井戸を守るべきだ。


「もう一度、井戸を見てきます。水量が急に増えていないか確認したい」


「ミラ、手伝え」


 ガイ老人が言うと、ミラは立ち上がった。


「うん」


「いや、休んだほうがいい」


 俺が止めると、ミラは首を振った。


「井戸のお医者さんの助手、する」


 その言い方に、少しだけ笑ってしまった。


「じゃあ、助手。井戸には近づきすぎない。俺が言ったらすぐ離れる。水を飲むのは少しずつ。守れるか」


「守れる」


「なら、頼む」


 外に出ると、夜が村を覆っていた。

 壊れた家々の輪郭が黒く沈み、中央井戸だけが魔石灯の薄い光で照らされている。


 井戸の底からは、かすかな水音が続いていた。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。


 ゆっくりだが、止まっていない。


 俺は井戸の縁に手を置き、【修正眼】を使った。


 赤線はまだ多い。

 完全復旧にはほど遠い。

 だが、最初に見た時よりも青線がはっきりしていた。


 中央制御環。

 北森流路。

 南畑流路。

 そして、もう一本。


 地図にはない、西へ伸びる細い赤線が見えた。


「西……?」


 旧リーベル村の西には、低い丘陵しかないはずだ。

 少なくとも、村の地図には井戸も水路も記されていない。


 だが、赤線はそちらへ続いている。


 自然な詰まりではない。

 どこかへ流れを引かれた痕跡。


 ガイ老人の言葉がよみがえる。


 まるで、どこかで水が引っ張られているような音だった。


 俺は記録帳を開き、魔石灯の光で文字を書いた。


『旧リーベル村中央制御井、応急修理完了。水流の一部回復。内壁制御陣に白色結晶による閉塞あり。中央、北、南の三流路に加え、西方へ伸びる不明流路を確認』


 続けて、もう一行。


『水源枯渇は、自然現象とは考えにくい』


 書き終えたところで、隣に立つミラが井戸を覗き込まないように背伸びしていた。


「何を書いたの?」


「井戸の記録」


「おじいちゃんみたい」


「ガイさんも記録を?」


「うん。井戸の音を、毎日書いてた。王都の人が来た時、持っていかれたけど」


 俺の手が止まった。


「持っていかれた?」


「うん。調べるからって。でも、返してくれなかった」


 十年前。

 王都の調査員。

 井戸番の記録を回収。

 公式記録には自然枯渇。


 偶然で片づけるには、線がつながりすぎている。


 俺は井戸の奥を見た。


 青白い光が、底でかすかに揺れている。

 その光は弱いが、消えてはいない。


 この村は死んでいない。


 ただ、誰かに見捨てられ、誰かに記録を奪われ、誰かに枯れたことにされただけだ。


 王立錬金術院を追放された俺には、もう院長の印も、王都の机も、研究棟の測定器もない。


 だが、記録帳はある。

 この目もある。

 井戸の底には、水音がある。


「ミラ」


「なに?」


「この井戸は、三日で今よりずっと良くなる」


「ほんとう?」


「本当だ。ただし、約束してくれ。井戸の水は、俺が確認するまで勝手に飲まない。水量が戻っても、最初は不安定だ」


「わかった」


 ミラは真剣な顔でうなずいた。


「お兄さんは、村にいてくれる?」


 その問いに、すぐ答えられなかった。


 俺は命令でここへ来た。

 追放され、辺境開拓補助任務を押しつけられ、行き場がなかったから来た。


 自分の意思で選んだわけではない。


 だが、井戸は音を立てている。

 ミラは俺を見上げている。

 ガイ老人は、十年ぶりにリーベルの水を飲んだ。


 ここには、俺の検査結果を必要としている人がいる。


「少なくとも、井戸が直るまではいる」


 俺はそう答えた。


 ミラはそれで満足したらしく、胸の前で小さく拳を握った。


「じゃあ、わたし、助手する」


「ああ。頼む」


 井戸の底で、水音が続いている。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。


 廃村だった旧リーベル村に、十年ぶりの夜の水音が戻っていた。


 俺は記録帳を閉じ、井戸の縁に手を置いた。


 王都では、俺の仕事は邪魔だと言われた。

 ここでは、同じ仕事で人が泣いた。


 なら、もう一度だけ信じてみてもいいのかもしれない。


 誤差しか見えないこの目にも、できることがあるのだと。


次回、第3話「俺がいなくなった錬金術院で、最初の炉が止まったらしい」。

ルカを追放した王立錬金術院で、彼が毎日見つけていた“些細な誤差”が、事故として表に出始めます。


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